DIARY:夕焼け少年漂流記

 

2003.01.31

1月31日(金)PM5時、多摩川のほとりで夕焼けを背景にアルバムの仮撮影。といってもオート・シャッターを駆使して、あらかじめ決めておいた地点に猛スピードで駆け寄り、レンズの中に納まる作業。

 授業を終えて川沿いを散歩している中学生に妙な目で見られた。晩御飯の前に犬を散歩しているおばさんも、興味本位で僕を見ている。しかし、本当にきれいな茜色の夕焼けなのだ。上手く自分の姿がシルエットが納まればアルバムのジャケットに使用できるかもしれない。


 東名高速のムコウに富士山が見える。港区の自宅から見える富士山よりも大きく見えるのは近くに高いビルが存在しないからだ。(写真参照)


 銀座に戻る道が、混んでいる。月末の金曜日。三軒茶屋から六本木を抜けて芝公園まで1時間もかかった。いつも年の始めの1月は、他の月より早く過ぎていく。


 そう言えば、今年になって気が付いたことがある。どうやら僕は”福の神”になったようなのだ。がらがらに空いたクラブや、たった一人のカウンター・バー、おまけに行きつけのサウナの中まで、僕が席に座ってものの数分で人が来る。それも団体の客が必ずドヤドヤ入ってくる。偶然と言ってしまえばそれまでなのだが、この非科学的な現象は、今日になっても続いている。

 何か“安い磁石”のように、自分が思えてならない。人も物も情報も、おまけにスーツの毛玉までことごとく、どんどんいろんなものが集まってくる。

 玉石混交の自分の周辺を見つめる眼を、より磨きなさい・・・・・・そう暗示されているのだろうか?


 明日から、2003年2つ目の月が始まる。




2003.01.27

1月27日(月)昼の12時30分。部屋にうなぎが着いた。東京プリンスで始めて「うな重」を注文してみた。ホテル生活はシンプルでとても便利だが、このホテルにないものは歯医者と、サウナとうな重。

 この3つさえそろえば完璧だ。先週から雑誌や街角のあちこちで「鰻重」の写真を見る機会が多く。今日の昼飯はどうしても「うな重」にと決めていた。お客様と、少し小骨が感じられる「うな重」を食べながら「記憶」(新曲)について色々な意見を聞いていた。2時間も繰り返して曲を何度も聴いた。ELT(エブリ・リトル・シング)のバラードのアルバムを参考にもう少しサビをいじくってみようと考えた。


 午後3時過ぎの新幹線で名古屋に向かった。ここのところ通過することが多かった“青春時代の名古屋”で、停泊して友人と会う・・・・・考えてみれば昨年来から続いている“思い出の確認”が今の僕の生きるエネルギーを支えている。今回は、学生時代に一緒に暮らしていた杉浦 誠氏(当時も今もゴアという愛称で呼ばれてる)や、長屋さん、上手くいけば加藤文敏君とも再会できそうだ。


 予約しておいた広小路の「ヒルトン」の24階の広い部屋から久しぶりに名古屋の町並みを見下ろしている。駅の周辺に幾つかの高層ビルがたったものの薄く広く扇状に、のんびりと横たわった街のおおよその空気感は昔とさほど変わらない。若い時代にこの街を卒業して東京に向かったのは、豊かであるがゆえに、未来への集中力が感じられない落ち着いた都市に不安を感じたからだったのか?今、ようやく当時の不安定な心持が分析できるような気がする。


 最上階にあるレストランで長屋氏と昔話に花を咲かせている。あれから30年が経過した。灰色に近い白と透明に近い黒のモノトーンだった記憶の曖昧な部分が表情や指先を通して少しづつ色を帯びてくる。こんな経験も初めてだ。
 30年前の写真のところどころに色がつき始めた頃、レストランのバンドがビージーズの曲を演奏し始めた。思い出を訪ねる道のりにはいつも必ず音楽が流れている。


 夜が更けて安藤君がゴアを引き連れて迎えに来た。山本屋の「味噌煮込みうどん」を3人で食べようと街に出た。東京より冷え込むはずの街は、雨上がりのせいか妙に暖かだった。


 今夜、徹夜に近い状態で行うミックス・ダウンで織り上げるのは、「今」の自分を探す自分と、「過去」にすがる自分を認める自分を「記憶」をとおして曲にするという贅沢で楽しい作業になりそうだ。


2003.01.22

1月22日(水)信号待ちをしていたら、突然大きな鈍い音がして一瞬、ほんの7秒ほど我を失った。高速道路の橋桁が倒れてきたか、車の下のマンホールが爆発したか・・・・と思った。

 気が付くと、買ったばかりのジャガーの窓やドアーが完全に電動ロックされ、車の中に閉じ込められてしまった。首を軽く回してみる、肩を左右に動かしてみる、恐る恐る足を腿から少しだけ上げてみる。手首をぶらぶらと揺らしてみる。幸いにも何処も現在のところは痛まない。

 窓の外に、追突してきた運転手の顔があった。左の窓の向こうから、警察官の心配そうな声が聞こえた。

「大丈夫ですか?体は大丈夫ですか」

(かなり激しい速度で追突されたな・・・・・)初めてそう思った。

 道路の中央で車が大破したようなので、とにかく車から脱出しようと思ったが、窓も扉もうんともすんとも動かない。天井を見るとタバコの煙を出そうと思ってわずかに開けていた屋根のサンルーフから朝の冷たい空気が入り込んでいた。仕方なく強引に窓をスライドさせて、芋虫のように身を乗り出し、車体から這い出して脱出。ボンネットをクッションにして道に転がった。


 我ながら、随分丈夫に生まれたものだと思った。車の後部(ボンネット部分)は完全に姿かたちを変えていた。天井はプレスされたようにひっしゃがり、尾灯は粉々に砕け散って道の上に散乱していた。それほどの事故なのに、僕は生きている。

「良かったですね。大きな車だったら死んでますよ」

(そう言われても、こちらで追突をしてくる車両を選んでる訳じゃないよ?)


 不況の影響で、リストラされまいと不眠不休、徹夜で仕事をする人が増えている。道路の上では居眠り運転の運転手が増えている。気が焦っているのか一時停止をしないばかりか、信号すら気にしない無法者が普段でもやたら目に付く。携帯電話でメールを打ちながら川に落ちた車もいたそうだ。
経済にゆとりがないせいで、社会がギクシャクし、軽はずみな犯罪が急増している。
 知識はあるが知恵のない人間が、個人的な要求が受け入れられないからと人を傷つける。取り締まる方も、一番当てになるのは警察犬ぐらいのもので、取るに足らない犯罪は、時間が無駄だとばかりに相手にしない。


 しばらくの間、車を運転するのが怖いばかりか、道を歩くのでさえ危険な様な気がする。


2003.01.14

1月14日(火)あちこちで在庫切れのモンクレアの白いダウンベストを、BEAMSで発見、大騒ぎで購入、部屋で広げて見たが確かに本物はいい

 中に入っている水鳥の良質の羽が、このところ急に冷えこんだ東京の寒気から鉄壁に身を守ってくれるだろう。


 本物といえば、この連休を利用して久しぶりに並木通りを歩いてみた。「ブランド・ショップ」が早くも冬物のバーゲンを始めていた。現在のデフレ景気では、商品にいつ見切りをつけるのかが難しい判断であろう。まだ寒さが続きそうだ・・・・・もう少し今の定価でいけるだろう・・・・・などと女々しく迷っていると必ず売れ残る。このような日和見主観的な経営者の店舗営業には、マーケットの動きの素早さが計算されていないばかりでなく、お隣のコンペチターの動向がまったく不在。店頭のポスターの貼り方にもどこか優柔不断な弱気が覗いている。


 今のデフレ時代の消費者は、“裏の裏を読んで、買い物をするのを”楽しんでいる。売る側が苦しみながら売価を割り始めた頃に、どこの店が一番弱っているのかをしっかり見極めたうえで、さらに相手のマージンを想定しながら購入する。関西のよう客の様に面と向かって「おじさん、もっとまかるやろ・・・。」
などと健康的に表面からやり取りするのでなく、死を待つ蟻のように静かにウィンドゥの前で値札が赤くなるのを待つのが東京の客なのだ。


 銀座通りを4丁目にむかい久しぶりに「天賞堂」に時計を見に行った。この上品で風格に溢れた店は創業123年(1879年)になる。ブレゲ、パティック、ブランパンなどのブランドが並んだショーケースを見ていると、いつになったらこの国の消費者の“外国カブレ”は納まるのだろうと考え込んでしまった。
政府が円安政策を打ち出すことで輸入品が高騰しても“カタカナ生まれ、カタカナ育ちの魅力”は永遠に続くのであろう。この舶来びいきは外国の政治家ファンから、音楽(芸術)、食い物、保険制度、金融システムにまで及んでいる。


 「天賞堂」が昨年発表したNEWモデルは複雑な機能といい、精密なフォルムといい、美しいデザインといい、日本人の商品開発力の凄さを感じる。


 昼食に鮨を摘まもうと足を築地に向けた。日産本社のショールームに新型のスカイラインとフェアレディZが飾ってある。この商品も戦後の日本人の技術力を結集したようで、誇らしい時代の代表選手だ。しかし・・・・・・そう言えばこの会社の代表もカタカナの外国産であった。


2003.01.01

2003年1月1日(水)いつものように、毎年のことながら“歳の変わり目”の1週間は年末年始のイベントが入り乱れ、東奔西走しているうちに新しい年が明ける。

 そして大晦日は眠れない。埼玉アリーナでアントニオ・猪木さんの「猪木ボンバイエ」を最前列で観戦、その後、初詣のラッシュを警戒しながら有楽町まで車を走らせ友人の三瓶氏のプロデュースする「ゴールデン・ライオン」(これは本当に凄い中国サーカスの業師の集まり)のカウントダウン。芝の増上寺で人ごみをチェックし、紅白唄合戦を終えたばかりで、盛岡の安比スキー場でコンサートをお願いしている、さだまさし氏に“よろしく電話”。沖縄のリンケン氏に“どうですか?電話”を入れて・・・・・・・それから名古屋の安藤君に新曲2曲のミックスの状況確認・・・・・・。


 気が付いたら冷え冷えの大陸性寒気団があっという間に目の前を雪景色にしていた。数年ぶりにひらひら舞い落ちる初雪が東京の正月を白くすると何か胸騒ぎとともに、この星の異常事態を思わせる。


 この時期は昔から苦手で、非常識なことなのだろうが、子供の頃から一度も“新しい年”という実感を持ったことがない。年間のうちで普通の人の気分と一番かけ離れた寂しい1週間になる。
 僕にとって“新しい心”“気分一新”を生み出す機会は、門松を飾った元旦の朝よりは、毎朝の散歩で深呼吸をした瞬間に入り込む草のにおいや、サウナで水風呂に浸かってシュワっとくる感覚の奥に生まれる肉体的な刺激を覚える瞬間である。従って、キザな話かもしれないが気分の鮮度からすると「毎日が、お正月」ということになるのだ。


 マスコミに勤めていた父の代から東家はこういう祭礼行事にドライであったが(無関心ではないのだが)、そんな僕にも、鹿児島に帰って祖父の家に親族が集まって襟を正して書初めをしたり、池の掃除をしたり、雑煮をつついたり、小学生の頃、お年玉を楽しみにしていた記憶が仄かに残っている。しかしその頃でさえ、(子供心になんで、みんなこんなに“メデタイのかなぁ”と疑問を持ちつつ)親戚の子供たちからも一人置き去りにされてしまうのである。


 マスメディアを駆使して、誰かが日本人の精神市場をコントロールし、消費マインドを操るように考えたカレンダーに引きずられ、日本列島が無理やり“お正月ゲーム”をやらされているという欺瞞的な感じすらしてしまう。


 こんな“寂しがりやの偏屈なへそ曲がり”にとって、さらに厄介なのは行き付けの店や、茶飲み友達が東京から居なくなってしまうことである。(みんな普通にお正月を過ごしてるんだなぁ)。今年も、銀座組は当然としても、酒飲みの友人までもがスキーや海外旅行に出かけ、しかもスポーツジムは休業、・・・・・新聞も来ない、TV番組は昨年収録した偽造品ということで、疎外された気持ちのままの退屈な年明けになった。


 混雑する時間を避けて増上寺に出かけた。今朝の積もらなかった雪に濡れた石段を登り本堂で、手を合わせた。健康のことも、景気のことも、交通安全の事も、すべて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

「今年は、みんな君に、まかせたよ」

こんな風に、仏様に祈ってしまった。新年早々、頼まれごとをされた仏様も、さぞ迷惑そうに苦笑をしているだろう。