DIARY:夕焼け少年漂流記

 

2002.09.26

9月26日(木)銀座という街は、男にとって本能を触発される仕掛けがいっぱいの舞台に似ている。

 大道具としての無数の煌びやかなネオンに興奮させられ、わが身を忘れ、1分で10メートルも動かない渋滞に気持ちは焦り、花や蝶の女性軍の香水と白いうなじや少し解れた人生論に同情し、それに何と言っても“銀座という歴史”が内ポケットの札束の金銭感覚を無防備にする。


 小道具といったら切りがない。男の競争意欲を煽るようにレイアウトされたクラブのソファー、無制限に高くセットされたワインの定価・・・・まさかメニューの下の方の一番安いのは頼みづらくなっている、ママや従業員たちのシナリオの様に精緻に作りこまれた誉め言葉、御伊達。さらに、8時から12時の4時間という短い営業時間。黒服と言われる男性スタッフの視線と噂。


 この街で、平静心を保ちながら、気持ちよく酒や女性と戯れるのには最低でも3年は掛る。


 以前、自宅のリビングルームで飲む様にリラックスするためには、「暖簾をくぐる段階から無意識でなければならない。」という訓示を読んだ事がある。確かドイツ文学の翻訳者で、横綱審議委員会の委員長もお勤めになられた高橋義孝先生ではなかったろうか?


 今晩は8丁目の日航ホテルの隣の「七面草」で食事をして、問い面にある行きつけのSに出かけた。去年オープンしたばかりで、老舗の「グレ」や、「麻衣子」、などといったオーナー・ママが30年近いノウハウと、人脈(固定客)、に培われた落ち着いた雰囲気はなく、スタッフも女性もただばたばたと客を回転させるのが精一杯の様子。まるで六本木のキャバクラで飲んでいるような慌ただしさだ。


 僕自身あまり銀座で不愉快な気分になったことも無いのだが、店中の客のストレスがカウンターのあたりまで充満してきて、おまけに入れ替わり立ち代り横に座る女性からの根掘り葉掘りの質問に答えるのが億劫になって席を立った。


昔は、サービス業の勉強に若い新人を連れ歩いたり、或るいわ人生の先輩として男論をママに教わったりしたものだが・・・・・・・。なんだか寂しいくらい薄っぺらな店が増えてきた。


今や銀座は舞台というより浪費家のコロッセウム(格闘場)と言い直したほうがいいかもしれない。




2002.09.24

9月24日(火)連休明け。心地よい綿雲が、ふらりふらりと秋の空を泳いでいる。日差しがやさしいせいか、街を行く人の気持ちも何処か丸く感じられる。

 車のクラクションがいつもより少ないのはきっと秋風が清清しいからだ。日比谷通りの百日紅が無邪気に花を咲かせている、まるで通学途中の女子高生がお喋りをしているように。


 昼の12時過ぎに窓辺で、深呼吸をしていると、過ぎた筈の夏の装いをした30過ぎの女性が目に留まった。青い幅広のつばの帽子を深く被って、まだ水の張ってある青いプールの横の通路を足早に玄関に向かっている。50メートルは離れているのに、首のあたりに日焼けした水着の線が細くはっきり見える。秋なのに不思議と夏の太陽を浴びているこの女性を、ボォーと見つめている。


 見えるはずのないものが見える。聞こえないはずの声が聞こえる。これは、思い込みだろうか、それともいよいよ白昼夢でも見ているのだろうか?


 数字がらみの仕事と空想的な作詞作業が、右脳の中で混じり始め軽い分裂を起こし始めているのだろうか?それとも処理しなければならないことが多すぎるのか?今週も視点の定まらない週になりそうだ。
 

 車で御茶ノ水に向かう。ハナツクバネの赤褐色の花びらが皇居沿いの外堀通りを行列のように咲き乱れている。春から秋にかけて花つきも良く、白く長く無限無数に咲いているせいか、誰も此花に目をとめる人は居ない。いつの日もそよぐ風に名前がないように、ハナツクバネも日常的になりすぎて自己主張が下手な植物なのだ。
 人間と同じで、あまりたくさんの才能を持ち合わせたり、財に恵まれすぎたりすると返って結実するのが難しいことになる。此花は、別名ハナゾノツクバネ(花園)ともいわれ、ほとんどの人が別名の通り、たくさんの白い花を目にしているが、悲しいことに、誰にも名は知られていないようだ。
この切ない、忍耐強い”秘密の花園”の季節が終わりに近ずくと、待っていたように冷たい冬が東京に訪れる。



2002.09.22

9月22日(祝日・月)恥ずかしながら、最近東京の地下鉄網の便利さに感激している。

 車の鍵を「七面草」に置き忘れてしまい、おまけにもう一台のロリンザーもエンジンが不調でヤナセに入院中。気障に聞こえるかもしれないし、世間知らずと馬鹿にされるかもしれないがこの3日間、久し振りに電車であちこちに移動している。先日は、練馬の江古田駅から新しく出来た大江戸線に乗って大門駅まで30分。車での移動のような渋滞のいらいらもなく、時間通りにしかも、快適に到着。地下鉄だから余所見も出来ないしゆっくりスケジュール帳を確認していると即着いた。この速さは意外だったし、大門駅からどのあたりの地上に顔を出せるのか不慣れなだけにちょっとしたスリルと冒険もあった。


 連休の最終日の今日は、三田駅から青物横丁、大井町から田町までJRに乗った。やはり電車の速さに驚いた。ということは、普段の車での移動はいつの間にか時間遅れのストレスとの戦いになっていたのだろう。無意識のうちに、東京のラッシュに脅えていたのかも知れない。


 先週の週末は、散財した。何が原因かわからないが木曜日は橘君と、金曜日
は銀座で、土曜日は富里で・・・・。取り付かれたものを払うように発散し、消費し、消耗した。


 翌日本屋で「斉藤一人のツキを呼ぶ言葉」を買った。反省の意味もあって。「商人魂」と「客魂」があって、商人魂の創造性は寝ている間に醸成されるそうだ。要は、明確な意識さえあれば人間の頭脳は自動的に意識の方向に作動し、寝ている間にアイデアや企画を練りだすということらしい。マーフィの法則より泥臭い現場よりの成功ノウハウを感じる。


 安藤君との音楽制作の作業が進んでいる。今までは、8割くらいのところまでは一人で作詞、作曲を行ってきたが、やはり曲作りは仲間と一緒の協同での作業のほうが楽しいし、能率もいいようだ。しかし、困ったことに。歌いたいイメージがばらけているため詩が書けない。メロディーはまとまってきたのだが、主人公の姿も、自分のポジションも決まらない。何処にいるかも判別できなければ、季節も時間帯もライフスタイルも定まらない。もちろんこの曲で何を言いたいのかも判然としない。


 20数年前、ぶらぶら生活していた大学生のころ、JR中央線の東小金井駅を下りると、よくホームを下りる階段からぼんやりと月を眺めていた。武蔵野平野独特の森や林を抜けてきた湿度のない秋の風がアーミー服の襟元を冷やし、これから冬に向かう予感のする季節、僕は訳もなく何かの不安を抱いたまま焦っていた。


 目的のない時間は、あとから考えるとエネルギーやそれを蓄える容器を製作する期間でもある。青春時代から使っていた古いバケツから、ついに水がぼれ出し、新しい容器を作る時期が来ているのを感じる。ちょっと、人より遅い気もするが。




2002.09.12

9月12日(木)結論がどんどん出る日と、なにも結論が出ない日があるようだ。しかもそれは自分のその日の性格とコンディションが影響している場合もある。

 今日は、結論を出さなければならない、一歩手前の案件が団子のように並んだ一日だった。心さえ一度そう決めてしまえば楽になるのに・・・・・・・。睡眠不足と作詞活動を始めたせいか、右脳が頭全体を支配してしまいボーットした状態で何の判断も出来ずに一日がすぎてしまった。



 結論を長引かせるのは慎重派にとって、一見堅牢な保留、一旦気楽で安心な状況を作ることになるのだが、実はこの習慣や性格の欠点は、時間をロスするだけでなく、いつの間にか結論を出すべき対象のペースで物事を判断しているケースが多くなりがちである。こうなると、本来正解だった結論が微妙に違ってきたり、正しいはずの結論もタイミングが合わなくなったりしてくる。やはり物によっては思い切った早目のジャッジが幸運を呼んだり、チャンスを手に出来たり、当方のペースで物事が進み、かえって対象にも良い結果になったり、思わぬ幸福を招くこともある。

ここで素早い判断をする際必要不可欠になってくるのが“読み”である。“つぎのつぎの一手”をイメージする事である。物事を進める上で大切なのは、対象(仕事であろうが、人物であろうが)との反応をキャッチボールの玉の様に的確に想像すること。さらに体調と環境がそんなに悪くなければ勇気を持って勝負に出ることである。後は、運次第。スピードが守りを固め、たとえリスクを犯しても意外と博打にはならない。絶えず、主導権を対象に渡さないようにするには、自分の“読み”を信じて物事を進めることが重要である。



「夕焼け小学校の校訓」が400に届こうとしている。父の原稿がそろそろ書籍にしてもいいくらいの分量になってきた。ピンピン工房の伊藤女史に出版プロデューサーになって頂き、年内にまとまればと思っている。

 友人の中谷彰浩君は、毎週のように書籍を刊行し、まるで1人出版社状態のよう、本人も発行点数のギネスを狙っていると以前言っていた。リクルート時代の親友藤原和博君は、最近「リクルートの奇跡」というビジネス書を発行し彼らしいシャープな切り口がマスコミの話題になっている。

 名古屋時代の安藤君と久々に新しいCDの制作体制に入った。そろそろ僕も貯めていたものをまとめる時期になってきた。



 ますます、優先順位が判断の基準になっている。




2002.09.09

9月9日(月)久しぶりに京都を訪ねた。盆地特有の釜で蒸したような残暑が街全体を被い、サウナで着替えたばかりのワイシャツがもう汗を吸っている。

西本願寺は、法然、親鸞をはじめとした創業者のエネルギーを未だに継承し、日本の歴史の随所に宗教を越えたドラマを演じてきた。建物のところどころにはこの宗教という空気的メディアが発散した痕跡が残り、絵画から柱の隅々には時代の権力者の指紋が息をしている。今回、NHKエンタープライズとラリスの松岡さんの提案で“あるPR”プロジェクトを進行中。これが実施可能になれば日本の世界的立場が大きく変わり、今の日本人の生活や物の考え方にも多少の変化が起こるはずだ。

21世紀の始まりにふさわしい判断が、多々提案されているにもかかわらず政治から経済、文化、宗教に至るまで実行段階に入れずに間誤付いたままで停滞している。それが、企業はもちろん庶民の生活をも混乱させ、迷走させ、加害者と被害者を増加させる。こうして未来への不透明な恐怖感はやがて隣人との信頼関係にひびを入れ、正しかったものや、まともだったものを喪失する。正直者が馬鹿を見る獰猛な支配の論理が優先される。



帰りの新幹線が静岡を通り過ぎるころ、レールを雨が濡らし始めた。雨の粒子が意外と長い時間窓に貼りついている。「のぞみ」はその雨雲を一気に追い越して東京に向かっている。

本願寺の唐門は、豊臣秀吉の贅沢を象徴しているが、あのシーサーのような置物は沖縄と同じように守り神の一つなのだろうか?秀吉は権力を守るためになぜ宗教と組んだのだろうか?南能舞台の庭の石は、音響板の役割をしていたのだが、当時の床を打つ音は今でも同じ音がするだろうか?国境を越えた浄土真宗は世界の人々にどんな風に解釈されているのだろうか?



僕もやがて神様を信じるようになるのだろうか?

もしそうなるとしたら何が切掛けになるのだろうか?

答えは、もう出ているのかもしれない。




2002.09.05

9月5日(木)汐留の開発の一角にあるしゃれたマンションを勉学のために訪問した。

工事中のためヘルメットを被り、煉瓦で出来たローマの住宅風の建物の中に入った。何十人もの工事労働者でエレベーターは満員状態、かれらの日焼けした埃まみれの背中を見ていて、あの日福岡ドームを始めて訪れた緊張感と期待にみちた疲労感を思いだしていた。

 1993年の冬、リクルートの選ばれたスタッフとともに福岡に飛んだ。オープン前の福岡ドームの何か手助けをするための取材であった。その時,われわれを出迎えてくれたのは中内正ツインドーム社長。まだ、何が始まるのかも予感できない巨大な建造物の中をヘルメットを被り何時間も歩き回った。それから2年間、僕は福岡と東京の2重生活を始めた。この時から、僕の人生も少し変化を始めた。

東側の窓からわずかに東京湾が見える。反対の窓には東京タワーという抜群のロケーション。室内も緑とレンガ色をベースにした粋な配色。周辺の高層ビル群が安っぽくかえって粗雑な感じを受ける。電通、日本テレビ、松下電器、などの企業が乱立するこの埋立地は、都会の新しい廃墟になるのか、それとも人が山ほど賑わうマーケットを形成した名所になるのか?こんな疑問が浮かんでしまうのも、この先行きの見えない最悪の経済に帰結する。民の自由で思い切った挑戦が国家の力となることが出来るのはいつの日だろう?

 ホテルの窓からさっき訪問した開発区域のビルが見え、どの高層ビルも頂上に赤く点滅したクレーンが動いている。少し日が落ちるのが早くなった。シャワーを浴びて、ベッドに横になった。昨日有山 茜先生に誕生日から健康、適職、相性、運命のリズムなど何ページにも及ぶデータの分析をしてもらった。“僕の未来”を読んでいる・・・・・・見えるようで見えない人生がみえる。一瞬の錯覚であろうが、未来と現在が分かったような気分がして面白い。なるべく時間をかけて、ゆっくりと完成させる仕事が僕には向いているそうだ。1日だけの仕事、一生かけてやる仕事、どの道を選択したにせよ不可能を可能にするのは自分の力であろう。

 腕時計が6時半を指している。「髪を切りに行こう」と思った。

土橋の床屋のMさんは、「毎晩のように人生が動いている女性の運をセットするのが、楽しくてねぇ」そう言って、笑った。

冷えた車の中で、冷たい飲み物を飲みすぎたせいか、少し下腹部が痛い。占いは、肝臓と呼吸器系が弱いと記してあった。



友人の経営コンサルタントの石川君が紹介している座右の銘が肝にしみる

遠きをはかる者は富み
近くをはかる者は貧す
それ遠きをはかる者は百年のために
杉苗を植う。
まして春まきて秋実る物においておや
故に富有なり。
近くをはかる者は
春植えて秋実る物をも尚通しとして植えず
唯眼前の利に迷うてまかずして取り
植えずして刈り取る事のみ眼につく。
故に貧窮す。

二宮尊徳