DIARY:夕焼け少年漂流記

 

2001.01.27

こんな記憶は30年ぶり、1日に2回、母の創る食事を食べた。

こんな記憶は30年ぶり、1日に2回、母の創る食事を食べた。鹿児島の”めし”は何かうまい。シラス台地が育んだ水のせいか、武士と農民の味の葛藤がその微妙な塩気を作り出したのか、はたまた胃が体中にひろがって、校庭から食卓に駆け込んだ少年時代の記憶が中年の舌を懐かしくさせているのか・・・。夕方食べた、薩摩の黒豚のしゃぶしゃぶは思わず父の分までたいらげてしまった。

鹿児島カントリーで、薄暮プレー。9ホール風の中で、父のセットを借り手て43。まあまあの出来。東京の羽田は何年ぶりの雪で、飛行機は全便欠航。こんなことは、過去の僕の記憶の中でも珍しい。関西空港に降りて、笹岡社長と一杯やるか、福岡に飛んで小園君とラーメンを食うか、名古屋の小牧空港から”味噌カツ”担いで新幹線で帰京するか、頭の中で友人と、名産物の大葛藤。要は、ラジオの気象情報を聞きながらまだ見ぬ東京の”雪嵐”を不思議な気持ちで想像していた。鹿児島は近くて、やはり遠い街遠い街なんだぁ・・・。



2001.01.26

最終便で鹿児島へ。

最終便で鹿児島へ。サン・ロイヤルHにCI.。13階のラウンジのカウンターごしに窓の向こうの桜島を探した。隣では、加世田から吉見君と、元さんがいつもの穏やかな表情でビールを飲んでいる。天文館にでようと、タクシーに乗り込むと窓から南国の冬の風が心地よい。

「鳥を食べよう」という話になって、宮崎の地鶏で有名な「丸万」でもも1羽分たいらげた。300グラムはあるなぁ。天文館の路地は範囲が狭いわりに複雑猥雑。区画は整理されているのに店の場所は分かりずらい。多分、高層ビルがなく、5階6階の小さなビルがひしめいているからに違いない。

飛び込みで入った「マリー099・226・3317」には、”父の痕跡”がここにもあった。西島さんというママがわざわざ挨拶に・・・父とはかれがマスコミ時代から30年もの付き合いだったそうで。

翌日、ホテルの風呂で正面の桜島にうっとり。父が創ったホテルなので自宅の風呂に入って、たくさんの客を招待しているようだ。塩泉濃度の温泉で、一枚ガラスの向こうには桜島が窓の90パーセントを覆うように張り付いている。目の回りの疲れがゆっくりと遠のいていくのを感じながら、錦江湾の右手に広がる大隈半島を眺めている。今から、母の朝食にありつける。



2001.01.24

冬らしい日々が続いている。

冬らしい日々が続いている。愛車のベンツV280はスペイン製造らしく、走行距離15、000kなのに、ハンドルがギシギシいい始め、加えてバッテリー・ランプが点きっぱなしだ。冬は苦手の”国”だから?SLの方は、倉庫に冬眠中、春になったらルーフを開けて解放する予定。ということで、車のエンジンをつけたまま駐車し、片方の鍵でロック。ゴルフ道具やら、喪服やらでロッカーにしているため故障すると大変な事になる。やはり日本車が一番気を使わないという当たり前の結論。女もそんなものかもしれない。

”生まれてくるのは難解で、・・・生きていくのは苦痛だし、・・・かといって死ぬのはもっと厄介だ”

なんて句を聴いた事があるがたんたんと生きていくのが大変に難しい。日本のあちらこちらで滅びるものと、生まれるものの同時多発現象。だからなおさら変化を感じない。秋山先生(気能法)が新年会でそう言っていた。感じすぎると、考えすぎて、迷いすぎては、自分の場所が見えなくなる・・・・そんな”砂丘の旅人”たちが増えている。

そう言えば、昨晩久しぶりに松永 真理氏(I・モードのプロデューサー)と食事。リクルートの凄さ、愉快さ、歴史感などで数時間に及ぶ大企画会議。途中から藤原 和博君も合流、くわえて、橘 茂昌氏の4人。母校の思い出を話しながら、僕はこの4人でロック・バンドを作ったらいいなどと考えていた。

迷わなかった時代の”よき日々”をツマミにして。



2001.01.20

深夜にかけて雪。

深夜にかけて雪。目黒の宮本邸でアントニオ猪木氏やら、長沢氏やら、大友氏らとパーティ。リビングにプールがある豪邸の披露も兼ねての会で、加えてジャイアンツの鹿取コーチのアメリカ壮行会でもある。流行のオープン形式のキッチンで宮本氏が肉を焼き、気ままに猪木氏と泳いでいたら表は、大雪になった。ステファニーの一家氏と僕だけが背広で飛び込んこんだので、帰りの空気が冷たい。

それにしても、宮本氏の商才には感嘆。

最近、年明けから飛ばしたせいか疲れが出てきた。東京プリンスの駐車場には積もりたての白い雪がもう解け始めている。弱くなったガス焜炉のように、点火用のマッチを使わないと詩が書けない。だんだんいわゆるロマンチックな心情風景が、造りずらくなっている。



2001.01.14

4度、カメリア・ヒルズ・カントリーはマイナス2度。

4度、カメリア・ヒルズ・カントリーはマイナス2度。長沢純氏、ステファニー化粧品・一家社長、キャッツ・大友社長、今年の初打ち。木更津まで、アクアラインを使って小一時間。東京湾の挟んで風向きはまともに北風。寒さの為、集中力が自足しない、いくつかバーディのチャンス、それもことごとく1メートル程度のパットが入らない。

 E・ゲートの和泉社長が新年の挨拶で来社。衛星DTVに賭けているという。所詮、ビジネスの勝利は3つ。

@ いいものを安く、販売する。

A ブランド力で売る。

B 商品情報の徹底   と教えてくれた。

 Y倉庫のK君と、ゼロ・ワン企画の件で頻繁に会合。お弁当のキャラクター戦略についての“格闘技版”商品化。コムサの田村代表、DパンのY常務とのスキーム、それに才能爆発クリエイターの寿嬢、元女子プロレスのリング・アナウンサーの沖田君…・楽しみな事になってきた。

 先週から、橘君との銀座放浪のため睡眠時間が極貧。3時間ペース。冬の芝ゴルフの空は済みきっている。駐車場の車も今晩は少ない。1週間が1日の様に早く過ぎていく。今年は、何が起きるか判らない…・・なんて新年気分が少しは残っている。



2001.01.08

昨晩、今世紀始めての雪。2cm程度のミゾレ雪。東京プリンスでてんぷら。

昨晩、今世紀始めての雪。2cm程度のミゾレ雪。東京プリンスでてんぷら。雪と、てんぷらは何故かお似合いなのである。

開高 健先生が、何かのエッセイで「知者は、海を愛し、賢者は山を愛する」と書いていた。解る様でなかなか深い例えである。「賑やかな鬱。淋しげな躁。」二つの相反の真中で、どちらか一つをチョイスするのは難しい。

 芝のサウナが3月一杯で閉鎖される。ゴルフ場も8月末でクローズ。2005年にオープンする芝プリンスホテルの工事がいよいよ始まるそうだ。東尾監督、加藤茶、目黒さん(80歳の画商)、稲葉さん(寿司)、杉山会長〈旅行〉、新谷氏(寺)九連山さん(金融)、朝霞さん、みんな一体何処に行くのかなぁ。世代を超えて、裸で世間話をしてきた言ってみれば“灼熱の暇つぶし仲間”は、ボクの日常の一角を形成していたのに。屋外に気軽に駐車して、風呂の後に満月や、星を仰げるあのホットした瞬間が、どれだけ大切だったことか。残念なニュースだ。



2001.01.01

2001年元旦、青く澄みきった空を見ていると、IT時代とは一体なんだろうと考える。

2001年元旦、青く澄みきった空を見ていると、IT時代とは一体なんだろうと考える。今年は、全体の構造を探求してみよう。僕の今ある全てについて。 

時代の遅れを取り戻そうと、懸命になってIT関連の人脈をもがく様にひろげ、新しい会社を起こし、書籍や雑誌を読み漁り、少ないながらの現在のインフラとそれらの“新しい予兆”をミックスさせた。そんな2000年が新聞のコピー同様まさしく“ドッグ・イヤー”として僕の中を過ぎて行った。しかし、このわずか1年を振り返って見ると、このITと言う波は果たしてどんな経過を経てこの国を変えていくのか、この先にこの日本と言う国家はどんな変貌を遂げるのか誰も計り知れない。

 秀才だった父の兄は海軍士官学校に進学し、エリートという軍事的評価を勲章に戦艦「陸奥」とともに南方洋で戦死したと聞いた。あれは中学生の頃だった様に記憶している。今ボクがあるのは、その第2次世界大戦で粉々に散ったこの国が、自然現象の如く立ち直った甚く簡単な復興の成長過程の中での“甘え”と“欧米化”と“興廃”の産物の様にも思える。

 ヤカンが沸点に達し、暴発した。再び、国民はヤカンに水を満たし火を炒れた。それほどの苦労もなく水は100度に達した。ここから、コーヒーにするか、お茶にするか…・・それがボクたちの責任と生き甲斐なのかもしれない。だって、ゼロからの出発、白紙の画用紙、種のない畑、何の規則もルールも無かったのだから。