DIARY:夕焼け少年漂流記

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2013.06.11

第19号 Peach成田線の就航発表

 Peach航空の記者会見を考えることになった。私は、記者会見や商品発表会を考えるときに、二つのことを考えている。
 一つは、お客様が二層に分かれている、つまり、最初のお客様は新聞や雑誌やテレビなどで取材をしている人々で、次のお客様は彼らが各々の切り口で写真や文章をお披露目する、当然その読者である。
 二つ目に意識していることは、なるべく自由で秘密を持たないということ。わざわざ遠路はるばる話を聞きにきてくれるお客様には、なるべく楽しんでもらい、裏のない話をし、納得をして帰ってもらう、というのが常識であり、仁義ではないかと思う。さらに、付け加えていうと、記者の方々も四方八方毎日のようにノートとカメラを持って飛び歩いているのだから、大変であろうし、おそらく日々の仕事も飽きているに違いない。だからこそ、記者会見というものは、新鮮であり、彼らが驚かなければ意味がない。

 今回は、梅雨の雨空がくっきりとわれ、小雨の間に日差しが降り注ぐ芝の増上寺で記者会見が行われた。主人公は、Peach航空の井上社長であり、私にとって一番のお客様は、100社近く集まったマスメディアの皆さんであった。
 その日の夜から、NHKさんのテレビをはじめ、テレビ東京の「ワールドビジネスサテライト」、さらには、航空関係の専門誌にいたるまで、ざっと20億円近い(テレビの秒数や記事のスペースを広告費換算する)露出があったと聞いた。増上寺という場所を選んだ井上社長の自由でやんちゃで挑戦的で力強い経営者の判断の結果とも言える。






2013.06.07

第18号 三遊亭歌之介師匠

 TMI総合法律事務所の田中先生のお誘いで、三遊亭歌之介師匠の落語会に顔を出した。
 この会の趣旨は、鹿児島県出身である三遊亭歌之介師匠の落語をつまみに、鹿児島県の出身者が集うというものである。中には、J-WAVEの小笠原会長をはじめ、懐かしい面々が集まった。
 一般的に、鹿児島訛り(鹿児島弁)は、早口で薩摩藩がつくった独特のイントネーションがあるだけに、政治家から経済人、さらには芸能界やスポーツ界でも活躍している人は多種多様、いつもの標準語を使うのは中々難しい。つまり、鹿児島県出身の噺家そのものが私にとっては、新鮮なイメージがあった。

 赤坂のS亭の和室で畳を重ねた演台の上で師匠は南国特有の開放的な、しかも、たくさんのネタを広域的に立て続けに連発をしながら、それこそ1時間半ほど私たちを和ませてくれた。
 経済ものあり、政治ものあり、歴史物あり、ちょっとした下ねたあり。全篇にわたりある種の知性と品位が伴っていたのが鹿児島県人の私としても、誇りに思った。
 と同時に師匠である立川談志の弟子にたいする教育の素晴らしさも、そこに集まった経営者各位が学ぶ者が多かったのではないかと思う。

  
 ということで、ぜひとも美楽で執筆をして頂くことを願いつつ・・・




2013.05.23

第17号 平成25 年度遠洋練習航海

 平成25年度遠洋練習航海の出陣式に招待された。
 実は、朝からどきどきしていた。これだけ日本が不安定で、不安な状態の国家になるとは思っていなかったし、実は“忍び寄る国際関係の負”がいつの間にやらニュースの主人公になっている現状がいてもたってもいられない。
 国家経済の破綻と同時に、簡単に言えば、アメリカや欧米の先進国からの厳しい締め付け、さらには中国をはじめとする後進国の侵略のにおい。さらには、それらと対応するための人材不足。

 普段は滅多に目にしない光景だが、所謂純白の制服に身をまとっている青年たちは、皆、成人式を終えたばかりの若者である。彼らはこれから数ヶ月の間、地球のあちらこちらに寄港しながら、国際情勢を学び、外国人とふれ合い、きっと海洋国家日本の位置づけをイメージする大切な旅に出る。
 会場には、北村防衛大臣をはじめ、安全保障条約で結ばれているアメリカやその他の国の歴々が代わる代わる祝辞を述べていた。その間、約1時間半、自衛官たちは、1センチも体を揺らすことなく、出陣の志を固めていた。

 昭和20年5月、父のすぐ上の兄(私の叔父)がマラッカ海峡で亡くなったと聞いた。亡くなった祖母の話によると、海軍士官学校エリートで、おそらく彼はその3ヶ月後に終戦(敗戦)を迎えるとは思ってはいなかったように思う。
 海で働く人々は、陸に働く人々に比べ、自分の価値観が強固で、限られた情報の中で、現状を把握し、分析する能力が優れているように思う。風と星と波と太陽で、時刻と場所を浮き彫りにするその能力は、日頃の些細な目の前の出来事に右往左往して振り回されている私のような陸人と比べ、有能になるのは、当たり前のことである。

 360度、身を翻し、海上自衛隊の若者たちが未来の日本に向かって、船に乗り込んでいく。





2013.05.20

第16号 月刊「美楽」6月号

「七色の真珠」
 蜘蛛は無意識のうちに、本能的に食を捕るための網を仕掛ける。私たちも無意識のうちに、この網のことを“蜘蛛の巣”というようになった。
 一方、青い空を目指していたとんぼやハエや小さな昆虫たちは、この蜘蛛の美しくて、巧妙な罠に引っかかる。この構図は、美辞麗句を並べ立てる政治家と、たいした思想や心情もなく、その政治家を支持する人々のようである。
 
 蜘蛛の巣の面積が大きければ大きいほど、それに捕まる生物の数も増大する。





2013.05.01

第15号 百念撰集のご案内

 月刊「美楽」は、今までの連載中の原稿を束ね、「百念撰集」として一冊にまとめ、改めて著者の考えを発信し、読者に届ける事業を始めています。
 今回は、西辻一真氏の「自産自消ができる国へ」の連載を出版いたしましたので、ご案内申し上げます。
 TPP問題や今後、日本がどのように農業事業を行わなければならないのか、増え続ける耕作放棄地を活用する方法など、提案し、警鐘を鳴らしておりますので、ぜひご一読ください。




2013.04.22

第14号 月刊「美楽」2013年5月号

「股のぞき」

 目の前にある日常を、鵜呑みにしていることすら気にならなくなるのが大人の悲しさである。
 あの頃は、いつも変化を求め、日常を裏返しに見たり、常識を疑ってみたり、いつも新しい何かを探していた。
 それは、言い換えれば生命力の一端であり、年齢や性別とは無関係である。

 今、日本人に必要なのは、腰を前かがみにし、股から新しい世界をのぞくことである。






2013.04.19

第13号 カメラマン古賀さんの写真展

 カメラマン古賀さんの写真展にいった。
 TBSでおなじみの居酒屋を訪問する番組で、居酒屋の経営者に興味を持ちながら、居酒屋のメニューを紹介するそのインタビューの内容が、人間味にあふれている。
 従って、一般の雑誌やテレビの特集でメニューや価格ばかりがテーマになっているよりは、インタビュアーのパーソナリティに重点を置かれた番組である。
 番組終了時にいつもほろ酔い加減になる古賀さんのコメントは、人情味にあふれている。

 そんなカメラマンがカンボジアの貧民層の子供をテーマにしたり、また、高野山をテーマに長期間山に籠ったりするエネスルギーが、どこから湧いてくるのか不思議である。





2013.04.10

第12号 ギター☆マンinスイートベイジル

 3回目のギター☆マンが六本木のスイートベイジルで行われた。友人の上田正樹さんをボーカルでお迎えすることもあり、ピーチエアラインの井上社長をはじめ、何人かのお客様をお迎えした。
 
 圧巻だったのは、右腕を骨折して残った左手だけでギターを弾いた山本恭司さんとそれを見合わせながらボーカルをとった上田正樹さんのステージであった。ほとんどの観客はこう思ったと思う。

 「70年代のミュージシャンは、今でも生きているし、あの歴史的な音楽ゾーンはしばらく出てこない」





2013.03.20

第11号 月刊「美楽」2013-4月号

「入学式の朝」

 ちょっとした好奇心と胸騒ぎ、それから何となく不安をかき消すように、新品のランドセルに無頓着に入れこんだ。
牡丹雪のような桜の花弁が家の中に舞い込んで、畳の上で滲んでいる。
 
 あの頃も、そして今でも人生は粉雪のようだと感じている。人は、天に生まれて、地にしみ込んでいくもの。





2013.03.18

第10号 ラジオ収録

 FM調布で初めての公開録画があるというので、久しぶりにラジオ番組の出演をお受けした。以前、日本放送の朝の番組をパーソナリティの高島秀武さんと一緒に何年間か出演していたこもあって、マイクの前の自分が懐かしい。

 美楽という雑誌をつくり、発刊し、人よりは病的に神経質に日本語や言葉の意味に拘っているだけに、テレビやラジオの出演に関しては、基本的に断るつもりでいた。しかし、美楽の執筆者である神山先生のご紹介でもあり、またこの番組のプロデューサーでもある峯卓人、沙木実理さんがとてもよい人物なので、ほわほわと、のこのこと調布まで出かけていった。
 もう一つの理由として、公開番組というのは、言って見ればライブの演奏会のようなもので、聴き手の顔が見える。つまり、マイクを通して、電波を通して、流れ出た僕の声が宛先のない手紙のように世の中に出て行く、この不気味さや無責任さが少しはなくなる気もするから・・・・。

 学生時代、小金井市や三鷹市や小平市や国立市、そしてこの調布市は、僕が完全に掌握しているエリアであった、というと大げさであるが、毎朝のように午前4時から午前7時まで軽トラックをかり出して古新聞を集めては、授業料を稼いでいた時代があった。今の時代でいうと、さしづめ環境保全とでも言うのであろうが、ようはちり紙交換(当時は、”チリコウ”と呼ばれていた)を副業にしていた。
 
 「気分はいつもブルースカイ」というタイトルの番組であるが、僕にとってはこの三多摩で暮らした時代は生き方を見つけられずにいたグレーの時代であったように思う。

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