2024.04.12
月刊「美楽」2024年5月号 発刊しました
やわらかな春風に心華やぐ季節となりましたが、お変わりございませんか。芝公園の桜は、少しずつ葉桜となってきました。
さて、皆さんは、健康診断や人間ドックに、定期的に受診していますか。厚生労働省の「国民生活基礎調査」によると、20歳以上で過去1年間に健康診断や人間ドックを受けたことがある人は、男性が74%、女性が65・6%とやや少ない印象。また、厚労省「定期健康診断結果報告」では、会社が年一回実施する健康診断で異常の所見があった人の割合は年々上昇しており、2020年は58・5%の人が何かしらの異常が見つかっているそうです。
今号では、健康診断よりさらに詳しく体のことを調べ、自覚症状ない病気の早期発見を目的とした「人間ドック」についてです。健康診断と人間ドックは何が違うのか?どんな種類の検査があるのか?中部国際医療センター健康管理センターの秋松伸岳さんにお話をお聞きしました。
まだ朝晩は冷え込みますので、お身体には十分お気を付けください。
2023.06.12
月刊「美楽」2023年7月号 発刊しました
今回の医療特集は“太陽”と紫外線についてです。
太陽の光には、人間の体にとっていい面と悪い面があります。いい面では、体内時計を調整したり、体内のビタミンDの合成を補助したりして、骨粗しょう症予防に役立ちます。
太陽の光の浴び方が不十分だと、乳がん、大腸がん、高血圧、メタボリックシンドロームのリスクを高めるほか、メンタルヘルスに影響するという指摘もある一方、浴び過ぎると、肌の老化や皮膚がんのリスクが高まります。いい面、悪い面を知った上で、上手に太陽の光と付き合っていくことがこれからの季節で大事になってきます。
梅雨が過ぎれば、本格的な夏がやってきます。容赦なく降り注ぐ太陽の光にどう対策を講じるべきか?なぜ無防備に太陽の光を浴びてはだめなのか?メディカルプラザ江戸川皮膚科の松本千夏先生に取材しました。
7月号は、「美楽」では珍しく公官庁の新しい広告を下記の2ページにて掲載しております。
税務職員募集〜税のスペシャリスト(P12)
警視庁警察行政職員採用広告(P80)
どうぞ併せてご確認ください。
2023.05.22
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」6・7月号が発刊しました!
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」6・7月号が発刊しました。
全国のカーコンビニ倶楽部等でお手に取ることが出来ます。
車の情報や新しいキャンペーン内容のご紹介など
読み応えのある一冊となっています。
是非お楽しみください!
2023.05.10
月刊「美楽」2023年6月号 発刊しました
今月の医療特集は「緑内障」についてです。
「緑内障」は、目と脳をつなぐ視神経が障害され、徐々に視野障害が広がってくる病気です。 厚生労働省によると、発症は年齢とともに増加し、40歳以上の約20人に1人は「緑内障」といわれています。近年では20代や30代の若い人の間でも「若年性緑内障」の発症が増えており、けっして珍しい病気ではありません。
日本において中途失明原因の上位に位置する病気であるにも関わらず、緑内障がどういう病気か、正しく認識していない人がまだまだ多いのが現状です。進行すれば失った視力は取り戻せない病気ではあるものの、進行を食い止める治療法をすれば、ちゃんと視力を維持することができるのです。そのために知っておくべきことは何か?たじみ岩瀬眼科の岩瀬愛子院長にお話を伺いました。
6月号では、新しい広告を掲載しております。
警視庁警察官採用広告(P51)
新しい著者に、
安井 謙二氏(山手クリニック 副院長)(P19)
をお招きしました。
どうぞ併せてご確認ください。
2023.04.10
月刊「美楽」2023年5月号 発刊しました
これからの季節、素足になる機会が増えます。あなたの爪は、正常ですか。爪が黄色く濁っていたり、厚くなっていたり、変形したりしていないでしょうか? 手の指ほど足の爪は他人と比較することがないですので、自分では「問題ない」と思っていても、そうでない可能性もあります。
「たかが爪、されど爪。正しい情報で、爪のセルフチェックとセルフケアを」と言うのは、一般社団法人足育研究会代表でもある、埼玉県済生会川口総合病院皮膚科主任部長・東京医科歯科大学臨床准教授の高山かおる先生です。「爪と水虫」について、取材をしました。
5月号では、新しい広告を掲載しております。
ワンらいす(P20)
潟Xマイル&トゥース(P42)
林家木りんファンクラブ(P60)
新しい著者に、
原田 燎(株式会社スマイル&ドトゥースCEO)をお招きしました。
2023.04.05
「お客様の期待と信頼〜We are Tokyo MK」が発刊しました!
東京MKタクシー25周年記念冊子「お客様の期待と信頼〜We are Tokyo MK」が発刊しました!
2023.03.20
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」4・5月号が発刊しました!
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」4・5月号が発刊しました。
全国のカーコンビニ倶楽部等でお手に取ることが出来ます。
車の情報や新しいキャンペーン内容のご紹介など
読み応えのある一冊となっています。
是非お楽しみください!
2023.03.10
月刊「美楽」2023年4月号 発刊しました
日本気象協会によりますと、2023年のスギ花粉飛散のピークは、金沢、東京、仙台では3月下旬くらいまで続き、地域によっては過去10年間で最も多くなると予想されています。また、スギ花粉のピークが終わると、ヒノキ花粉が飛び始め、ピークを迎えます。
花粉症の症状は、くしゃみ、鼻水、鼻詰まり。目のかゆみ、充血、涙目、咳、喉の痒みやいがらっぽさ、肌荒れ、耳の穴の痒みなどが挙げられます。対策の基本は「吸わない」「付着させない」「屋内に持ち込まない」。症状に合った薬を服用することも、花粉症シーズンを快適に過ごすために重要です。
基本的な対策や薬の使用に加え、知っておくと役立つ空気洗浄機使い方や注意点は?総合空調メーカー「ダイキン工業株式会社」広報担当の由井明日香さんに、空気のプロの立場からのアドバイスを聞きました。
4月号では、新しい広告を掲載しております。
HW ELECTRO(P8-9)
(株)アミュザント(P20)
新しい著者に、
星野奈緒さん(女優、モデル、フードドリンクセレクター)
をお招きしました。
2023.02.10
月刊「美楽」2023年3月号 発刊しました
コロナ禍で帯状疱疹が増えています。ある都内の皮膚科クリニック院長は、「患者数を調査した国内のデータはないですが」と前置きした上で、「実感として、コロナ流行以降、帯状疱疹の患者さんを診る回数が増えた。ほかの医療機関からも同様の話を聞いている」と話しています。
帯状疱疹が増えている理由として、「コロナのストレスによる免疫力低下」「コロナワクチンやコロナ感染で免疫システムがダメージを受けた」を挙げあれます。
この帯状疱疹は、ウイルスの活性を抑える帯状疱疹ワクチン接種で発症や重症化のリスクを下げることができるほか、つらい片頭痛や群発頭痛の発症予防にもなると指摘する東京女子医大脳神経外科頭痛外来客員教授の清水俊彦医師(汐留シティセンターセントラルクリニック頭痛外来担当)に取材しました。
3月号に、以下の新しい広告を掲載しております。
第23回 カーコンビニ俱楽部 愛車人カップ告知広告(P66)
ジャパンエナジー梶i表3)
どうぞ併せてご確認ください。
2023.01.20
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」2・3月号が発刊しました!
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」2・3月号が発刊しました。
全国のカーコンビニ倶楽部等でお手に取ることが出来ます。
車の情報や新しいキャンペーン内容のご紹介など
読み応えのある一冊となっています。
是非お楽しみください!
2023.01.10
月刊「美楽」2023年2月号 発刊しました
謹んで新春をお祝い申し上げます。
旧年中は大変お世話になり、ありがとうございました。本年も変わりなくお付き合いいただけますよう、よろしくお願い申し上げます。
今月の医療特集は、「腸活」と「自律神経」についてです。
ストレスが多い現代社会は、自律神経が乱れがち。特に気温が低くなるこの季節はその傾向が強く、不調も生じやすいです。病院で検査を受けても「異常なし」と言われた場合、自律神経を整える生活を心がけることで、不調が解消される可能性は大いにあります。それに役立つのが、「腸活」です。
乱れやすい自律神経を整えるために始めたいセルフケア法を自律神経研究の第一人者で、『医者が教える 善玉菌が腸まで届くスープ』(新星出版社)、『腸活にいいこと超大全』(宝島社)など多数の著書がある、順天堂大学医学部・大学院医学研究科教授の小林弘幸先生にお話しを伺いました。
2月号では、新しい広告を掲載しております。
令和4年分確定申告告知広告(P2)
HW ELECTRO(P6)
新しい著者に、
佐々木裕さん(佐々木クリニック泌尿器科芝大門 院長)をお招きしました。
併せてご確認ください。
2022.12.10
月刊「美楽」2023年1月号 発刊しました
舞い散る枯れ葉や冷たい風に、本格的な冬の訪れを感じます。師走に入り、今年も残りわずかとなりました。
さて、今号の医療特集は「痔」についてです。「3人寄れば、痔主が1人」といわれるように、痔は日本人にとって非常に身近な病気の一つです。少し古い調査になりますが、外用薬を専門とする製薬会社「マルホ株式会社」が2010年11〜12月に「3年以内に痔の症状があった15〜79歳女性300人」を対象に行った調査では、「この3年間に、痔は何回なりましたか?」に対し、6割以上の人が4回以上経験し、10回以上も35.3%いました。
一方で、「病院や医院に行きましたか?」に対しては、「受診なし」と答えた人は76.3%。「恥ずかしい」という気持ちが先立ち、受診を躊躇する人も多くいますが、治療が遅れ、こじらせれば、治るまでに時間がかかり、生活の質(QOL)も下がります。
痔について知っておきたいことを、赤坂見附マリーゴールドクリニック院長の山口トキコ医師にお話を聞きました。
新年号では、新しい広告を掲載しております。
HW ELECTRO様(P6)
日本トリム様(P18)
イーグル様(P64)
銀座みやこクリニック様(P70)
併せてご確認ください。
2022.11.21
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」年末・年始号が発刊しました!
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」年末・年始号が発刊しました。
全国のカーコンビニ倶楽部等でお手に取ることが出来ます。
車の情報や新しいキャンペーン内容のご紹介など
読み応えのある一冊となっています。
是非お楽しみください!
2022.11.10
月刊「美楽」2022年12月号 発刊しました
あと数カ月すれば、新型コロナウイルスとともに3年を過ごしたことになります。感染力の強い株への変異はあるものの、ワクチン接種が進み、また重症化リスクの高い疾患を持っている人以外ではコロナに感染しても症状がないかごく軽症で済むケースが多いことから、徐々に「コロナ以前の生活」に近づきつつです。
一方、基本的な感染防止策は継続されています。マスクのおかげでインフルエンザの流行が抑えられているというメリットもありますが、マスクを外して素顔を見せることに抵抗を感じる人が、中高生など若い世代で増えました。そうした中、マスク生活で頭痛に悩む人が急増しています。
頭痛に悩む患者が全国各地から診察に訪れる東京女子医科大学脳神経外科頭痛外来の清水俊彦客員教授が、「マスクの影響で、頭痛患者が増えている」と指摘しました。今月の医療特集では、その理由、対策などについて、清水医師に詳しくお話を伺いました。
2022.10.11
月刊「美楽」2022年11月号 発刊しました
金木犀の甘く爽やかな香りが漂いはじめました。秋を感じます。
今回の医療特集は、「コロナ後遺症」についてです。
現在、コロナ感染者数は減少しておりますが、コロナ罹患者の中では後遺症に苦しむ方が増加しております。
海外での45の報告(9751例)の系統的レビューでは、コロナの診断後2カ月、または退院などの後1カ月を経過した患者の72.5%の方が何らかの症状を訴えています。 症状の内容はさまざまで、複数の症状を有する人も多く、オミクロン株の後遺症としてよくある症状としては、倦怠感、咳など。オミクロン株に限らなければ、発熱、味覚障害、嗅覚障害、呼吸困難、胸の痛み、痺れ、抑うつ、脱毛などがあるようです。
コロナ後遺症に対して知っておくべきことは?もとは西洋医学一辺倒だっ
た医師が、「正しい西洋医学の治療でも不調が改善しない人はなぜだろう」という疑問から東洋医学を学び、漢方薬を治療に取り入れるようになった新見正則医院(東京・千代田区)の新見正則院長にお話をお聞きしました。
2022.09.20
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」10・11月号が発刊しました!
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」10・11月号が発刊しました。
全国のカーコンビニ倶楽部等でお手に取ることが出来ます。
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2022.09.12
月刊「美楽」2022年10月号 発刊しました!
いくぶん残暑も和らぎ、しのぎ良い日が多くなりました。今回の医療特集は、「虫刺され」についてです。
虫刺されは、主に蚊、ブユ、ダニのように血を吸うタイプの虫や、ハチのように刺すタイプの虫、ムカデのようにかむタイプの虫、有毒毛を持つ毛虫のようなタイプの虫によるものがあります。「かゆみ」「赤み」「腫 れ」「水膨れ」などの一般的な症状が狭い範囲にみられる程度であれば「軽度の虫刺され」といえますが、ハチやムカデなどに刺された場合には、アナフィラキシーショックと呼ばれる血圧低下や意識障害など、命に関わる重篤な症状が現れることもあるので注意が必要です。
秋は、キャンプや登山など、自然と触れ合う機会も多い中で、知っておきたい「虫除け対策」や「虫刺されによる症状」「刺された後の対処法」などについて、「新宿駅前クリニック皮膚科内科泌尿器科」の蓮池林太郎院長に教えていただきました。
暑さ寒さも彼岸までと申します。秋の味覚を楽しみつつ残暑を乗り切りましょう。
2022.08.10
月刊「美楽」2022年9月号 発刊しました!
堪え難い暑さが続くなか、今回の医療特集は近年急増している「アニサキス」による食中毒についてです。胃が痛くて病院に行くと、十二指腸潰瘍と診断されたが、処方された薬が効かず、痛みがひどいことから、病院で胃カメラ検査を受けた結果、胃の中にアニサキスがいたということも多いようです。
アニサキスは、魚介類の寄生虫の一種です。増えている理由は、その存在が広く知られるようになったことに加え、輸送技術が発達し、魚を生で輸送できるようになったことが大きいそうです。生で魚を輸送できる、すなわちアニサキスも生きたまま運ばれてしまうようになりました。
アニサキスやその他の寄生虫について、日本感染症学会専門医で、特に寄生虫症の臨床と研究、海外渡航者の健康管理などに長年関わってきた「グローバルヘルスケアクリニック」院長の水野泰孝先生にお話をお伺いしました。
2022.07.20
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」8・9月号が発刊しました!
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」8・9月号が発刊しました。
全国のカーコンビニ倶楽部等でお手に取ることが出来ます。
車の情報や新しいキャンペーン内容のご紹介など
読み応えのある一冊となっています。
是非お楽しみください!
2022.07.10
月刊「美楽」2022年8月号 発刊しました!
まぶしい陽射しをさえぎるために、陰を探し、渡りながら、外を歩く日が続きます。
さて、今回の医療特集は、今年1月に発行した最新の「ICD-11版(国際疾病分類第11版)」に、ゲーム障害とともに、追記された「燃え尽き症候群」についてです。
燃え尽き症候群が厄介なのは、「なんだかやる気が出ない」「単なる疲れだろうか」と、本人はもちろん、周囲も深刻に捉えないことだそうです。しかし介入のタイミングが遅くなれば、うつ病などのメンタル疾患へ移行してしまう恐れもあります。
燃え尽き症候群とはどういう状態なのか?どんな人がなりやすく、どういう対策を講じればいいのか?自身も燃え尽き症候群に陥った経験を持ち、産業医として燃え尽き症候群からうつ病に至った人に多く接している「リバランス」代表の池井佑丞氏にお話を聞きました。
今号では、2名の新しい著書にご執筆をいただいております。
・飯島潤さん(米粉のペットフードについて/P23)
・岩田かおりさん(子どもの教育について/P51)
2022.06.10
月刊「美楽」2022年7月号 発刊しました!
季節が逆もどりしたような梅雨寒が続きます。今回の医療特集では、またまた登場の「眼」についてです。
テレワークを導入する企業が増え、会議などはオンライン。朝から晩までパソコンの前に座り、画面と向き合っているという人は多いのではないでしょうか。子供たちも同じです。パソコンやタブレットなどの画面を見る時間が長時間化し、視力低下が問題となっています。
視力低下とは、単なる「遠くの見え方が悪くなる」だけが問題なのではありません。目の重大病発症のリスクを高めることもわかっています。
眼の健康YouTube「眼科医平松類チャンネル」を運営し、『眼科医だけが知っている 一生視力を失わない50の習慣』(SBクリエイティブ)など目に関する著書が多数ある二本松眼科病院・平松類副院長(昭和大学兼任講師)に話をお伺いしました。
長雨の季節ですが、気持ちだけは爽やかにいきましょう。
2022.05.20
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」6・7月号が発刊しました!
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」6・7月号が発刊しました。
全国のカーコンビニ倶楽部等でお手に取ることが出来ます。
車の情報や新しいキャンペーン内容のご紹介など
読み応えのある一冊となっています。
是非お楽しみください!
2022.05.10
月刊「美楽」2022年6月号 発刊しました!
吹き抜ける風がなんとも心地よく感じる今日このごろ、いかがお過ご
しでしょうか。
今月の医療特集では、既に「夏日」を観測するような日もあり
ましたが、早めの「熱中症対策」についてのご提案です。
人間の体は、暑い日が続くと次第に暑さに慣れ、暑さに強くなりま
す。この暑さに慣れていくことを“暑熱順化”といいます。暑熱順化が
できると、低い体温でも汗をかきやすくなって汗の量が増え、皮膚の血
流が増加し、熱が逃げやすくなり、体温の上昇を防ぐことができます。
しかし5月のように、「ときたま夏日」という状況では、まだ暑熱順化
できていないので、体の熱をうまく外に逃がせず、熱中症になりやすく
なるようです。暑熱順化できるまでは数日から数週間かかるといわれて
いるので、本格的な夏日を迎える前、まさに今から、熱中症対策をして
いきませんか。
今回は、食の面からどう対策を講じるべきかを、東京慈恵会医科大学
付属病院栄養部管理栄養士の赤石定典さんにお話を聞いた。
2022.04.10
月刊「美楽」2022年5月号 発刊しました!
各地からの花便りもにぎやかなこのごろ、お健やかにお過ごしのことと
思います。
今回、表紙をみて、驚かれた方も多いと思います。弊誌では初めての試
みとなりましたが、今こそ、やらなければならないと思い、ウクライナの
国旗としました。長期化しそうなこの戦争は、いずれ終わりを迎えるでし
ょう。しかし戦争が終わった後も、破壊された街の爪痕、人々の心の傷、
そこで暮らしていた人の人生を全て変えてしまった影響は数百年続くの
ではないでしょうか。それが戦争の本当の怖さだとも感じます。
一日も早く収束してほしいと願いながら、その後の世界についても目を
向けていかなくてはなりません。
さて、医療特集では、ありふれた病気ではありますが、間違った認識を
持たれがちな「水虫」についてです。水虫の重症患者の治療にも当たって
いる埼玉医科大学総合医療センター皮膚科診療科長の福田知雄医師にお
話を伺いました。
2022.03.22
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」4・5月号が発刊しました!
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」4・5月号が発刊しました。
全国のカーコンビニ倶楽部等でお手に取ることが出来ます。
車の情報や新しいキャンペーン内容のご紹介など
読み応えのある一冊となっています。
是非お楽しみください!
2022.03.10
月刊「美楽」2022年4月号 発刊しました!
日ごとに暖かさを感じられるようになりました。連日のロシアによる
ウクライナへの軍事侵攻の報道に、怒りと悲しみ、そして、その周りに
張り付いた焦燥感と無力感に責め立てられ、落ち着かない日々です。
さて、オミクロン株がピークを過ぎた中、花粉症の季節がやってきま
した。日本気象協会によると、スギ花粉飛散のピークは3月下旬頃まで
だそうです。この本誌が発売された今、ピークが過ぎ去ったように思い
ますが、それはスギ花粉の話。スギ花粉のピークが終わると、ヒノキ花
粉が飛び始めます。ヒノキ花粉は、大阪、名古屋、東京で4月上旬から中
旬に飛散のピークを迎えるのではないかと予想されています。
花粉症対策、コロナ対策双方に気が抜けない中、知っておくべきこと
を奥田記念花粉症学等学術顕彰財団理事長、日本医科大学大学院医学研
究科頭頸部感覚器科学分野教授の大久保公裕先生にお話をお伺いしまし
た。
2022.02.10
月刊「美楽」2022年3月号 発刊しました!
オミクロン株の感染拡大の勢いは止まりません。先行してオミクロンが一気に広がった米国などの例を見ると、近いうちにピークアウトを迎えそうですが、それまでは、感染拡大防止に努め、厳しい日常生活に耐えなければならない日が続くことでしょう。
デルタ株などとは違い、オミクロン株の感染者の多くは軽症とはいえ、軽症で済んだとしても、当然ながら、日々の生活に支障が出るため、感染しないに越したことはありません。
オミクロン株は風邪症状と非常に似通っていることから、風邪や花粉症だと思って生活をしている間に、周囲に感染させてしまうことも多いと聞きます。今の時点で知っておくべきことを、東京・あきる野市の「米山医院」でコロナのワクチン接種も行う医師で作家の米山公啓先生にお話を伺いました。
3月号では、新しい広告を掲載しております。
中野塗装様(P42)
カーコンビニ倶楽部 愛車人カップ(P72)
併せてご覧ください!
2022.01.20
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」2・3月号が発刊しました!
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」2・3月号が発刊しました。
全国のカーコンビニ倶楽部等でお手に取ることが出来ます。
車の情報や新しいキャンペーン内容のご紹介など
読み応えのある一冊となっています。
是非お楽しみください!
2022.01.11
月刊「美楽」2022年2月号 発刊しました!
初春の候、新春のお喜びを申し上げます。
平素は格別のご厚情を賜り、厚く感謝いたしております。
超高齢化社会という背景もありますが、日本は世界の中で認知症患者の割合が極めて多い国だということを知っていますか。経済協力開発機構(OECD)に加盟している先進国35カ国の中で、日本の人口における認知症患者の割合はトップで、今後も、日本での認知症有病率は上昇していくことが予想されています。
ご存知の通り、認知症を「治す薬」はまだ登場していません。現在使われているのは、進行を遅らせる薬であり、それも効果があるのは限られた時間。認知症を回避したければ、発症リスクを下げられると言われていることを徹底的に行うしかないようです。その中で、認知症対策として注目されているのが「食事」。
何を知っておくべきか?国立長寿医療研究センターもの忘れセンター副センター長の佐治直樹医師にお話を伺いました。
新年号では、新しい広告を掲載しております。
TRVA動物医療センター(P20)
新しい著者は、
中村篤史さん(獣医・TRVA夜間救急動物医療センター 院長)
車 浮代さん(江戸料理文化研究所 代表/時代小説家)
皆さまにとって、本年が幸多き年でありますように、祈念申し上げます。
2021.11.19
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」年末・年始号が発刊しました!
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」年末・年始号が発刊しました。
全国のカーコンビニ倶楽部等でお手に取ることが出来ます。
車の情報や新しいキャンペーン内容のご紹介など
読み応えのある一冊となっています。
是非お楽しみください!
2021.11.10
月刊「美楽」2021年12月号 発刊しました!
コロナ太りが問題視されていますが、皆さんはいかがでしょうか。コロナ太りだけでなく、活動量の減少による体力低下も問題となっています。そこで、今回は効率の良い運動方法について特集をいたしました。
今までは、最大酸素摂取量は、低い強度の運動を長時間行うことで増加すると考えられていましたが、近年では高強度トレーニングが効果的だということがわかりました。
ご存じの方もいると思いますが、欧米のアスリートの間では知らない人がいないほど有名なトレーニング法「タバタトレーニング」。必要な時間はたったの4分間。
タバタトレーニングの科学的メカニズムを証明した立命館大学スポーツ健康科学部田畑泉教授に話をお聞きしました。
今号では、新しい広告を掲載しております。
国税庁:税を考える週間(P8)
ベイビーフローラ(P50)
新しい著者は、楓ゆきさん(元宝塚歌劇団月組 95期生)
併せてご覧いただけますと幸いです。
2021.10.11
月刊「美楽」2021年11月号 発刊しました!
緊急事態宣言も解除され、新型コロナウイルスの新規感染者はかなりのスピードで減ってきています。このまま感染拡大が止まり、終息に向かえばいいのですが、ワクチン接種が進んでいる欧米諸国を見ても、なかなかそうはいかないように感じます。現在は自宅療養者が減少傾向にありますが、第6波がきたら、どうなるか分かりません。
「備えあれば憂いなし」ではないですが、自分が、あるいは家族がコロナに感染し、自宅療養をしなければならない場合の対策を、今一度確認してみませんか。
自宅療養の方法について、国際医療福祉大学熱海病院検査科部長の〆谷直人先生にお話を伺いました。
今号では、新しい広告を掲載しております。
ながせデンタルクリニック様(P42)
株式会社ブラン様(P74)
併せてご覧いただけますと幸いです。
2021.09.21
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」10・11月号が発刊しました!
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」10・11月号が発刊しました。
全国のカーコンビニ倶楽部等でお手に取ることが出来ます。
車の情報や新しいキャンペーン内容のご紹介など
読み応えのある一冊となっています。
是非お楽しみください!
2021.09.10
月刊「美楽」2021年10月号 発刊しました!
日本では、ワクチン接種をした人の割合が50%を超えてきました。
接種経験者が増えるのに従って、より聞こえてくるようになったのが、ワクチン接種後の副反応の様子です。「腕が痛くて上がらなくなった」「翌日どころか翌々日も仕事に ならなかった」「熱が出てつらかった」「頭痛がひどくて起き上がれなかった」など、さまざまな副反応の報告が上がっています。
実際のワクチン接種後の副反応はどういうものなのか?対応はどうすればいいのか?健康被害が起こった時はどうすればいいのか?知っておくべき正しい情報を、東京都あきるの市でワクチン接種を行っている「米山医院」院長の米山公啓先生に話を聞ききました。
今号では、新しい広告を様々なクリエイターにご協力をいただき、掲載しております。
株式会社ゴンドラ様(P32)の広告は、二宮未央さん、
タイムワールド様(P36)の広告は、藤井緑さん
マイファーム様(P66)の広告は、大里梨緒さん、
併せてご覧いただけますと幸いです。
近く台風の被害に見舞われませんよう、皆様の安全を心から祈っております。
2021.08.10
月刊「美楽」2021年9月号 発刊しました!
コロナウイルスが猛威を振るう中、感染後の後遺症で苦しむ方も多くなってきました。後遺症については、症状も多岐にわたっておりますが、その中でも強い倦怠感が継続している方が多いそうです。
今回ご紹介するのは、コロナの後遺症の一つである慢性疲労症候群に対して成果を出している頸部への局所物理療法。この治療法を開発し、実施している松井病院、東京脳神経センター(TNC) 理事長の松井孝嘉医師へ話を伺いました。
夏の疲れも出てくる頃です。ご無理などなさいませぬよう、ご自愛ください。
2021.07.20
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」8・9月号が発刊しました!
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」8・9月号が発刊しました。
全国のカーコンビニ倶楽部等でお手に取ることが出来ます。
車の情報や新しいキャンペーン内容のご紹介など
読み応えのある一冊となっています。
是非お楽しみください!
2021.07.12
月刊「美楽」2021年8月号 発刊しました!
新型コロナウイルスの感染状況が拡大し、東京には4回目の「緊急事態宣言」が発令されました。酷暑の中、マスク生活もまだまだ続きそうです。
この長時間のマスク着けっぱなしによって、肌荒れや耳の痛みを訴える声が、数多く上がっていました。そして長期化する現在、深刻な悩みとして急増しているのは、マスクの着けっぱなしによる頭痛です。
マスクを外しての生活がしばらくは不可能な中で、マスクの長時間使用による頭痛にどう対策を講じればいいのか? そもそもなぜマスクによって頭痛が生じやすくなるのか? 弊誌でもご執筆をいただいている頭痛治療の第一人者、清水俊彦医師(東京女子医科大学脳神経外科頭痛外来 客員教授・汐留シティセンターセントラルクリニック頭痛外来担当)に話をお伺いしました。
人のいない場所では出来るだけマスクを外し、暑い暑い夏を乗り切りましょう。
敬
2021.06.10
月刊「美楽」2021年7月号 発刊しました!
走り梅雨のぐずついた天候から、梅雨入りがすぐそこまできているのを感じます。
今回の医療特集は、新型コロナウイルスの後遺症の第二弾です。コロナに感染、回復後に、筋痛性脳脊髄炎(ME)/慢性疲労症候群(CFS)に似た症状を訴える人が多いとして注目を集めています。ME/CFSとは、半年以上にわたって強い疲労感が続き、日常生活を送るのが困難になる病気です。まだまだ後遺症に関しては、未知の部分が多いですが、今回は、治療・研究の第一人者である国立精神・神経医療研究センター神経研究所免疫研究部部長の山村隆医師にお話をお伺いしました。
長雨の季節ですので、お体には十分お気をつけください。
2021.05.30
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」6・7月号が発刊しました!
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」6・7月号が発刊しました。
全国のカーコンビニ倶楽部等でお手に取ることが出来ます。
車の情報や新しいキャンペーン内容のご紹介など
読み応えのある一冊となっています。
是非お楽しみください!
2021.05.10
月刊「美楽」2021年6月号 発刊しました!
木々の緑が日にまぶしすぎる季節がやってきました。
今号の医療特集は、日本でもようやく始まった新型コロナウイルスのワクチン接種についてです。
一部の地域では高齢者の優先接種が始まったとはいえ、最優先の医療従事者ですらまだ全員が接種できていない状況。コロナ患者を受け入れる施設でも接種が遅れており、自宅療養中のコロナ感染患者を診るクリニックでは「5月末になるようだ」(都内クリニック院長)という声もあります。
2度の接種を終えるのは世界の先進国に比べてはるかに遅れそうですが、来たるべき時に備え、ワクチンに対する知識は持っておきたい。国際医療福祉大学熱海病院でワクチン接種の指導医を務め、すでに米ファイザー社のワクチン接種を2回とも終えている同院臨床検査科検査部長の〆谷直人先生に、現段階で分かっているお話をお伺いしました。
夏に向け、体調を整えていきましょう!
2021.04.12
月刊「美楽」2021年5月号 発刊しました!
やわらかな春風に心華やぐ季節となりました。
今号の医療特集は、深刻化している新型コロナウイルスの後遺症についてです。症状は多岐にわたり、倦怠感、頭痛、呼吸困難、嗅覚や味覚の異常、食欲不振、気分の落ち込み、思考力の低下など。後遺症のある・なし、また後遺症の重症度は、コロナの重症度とは関係なく、コロナに感染したが症状がほぼ出なかった人でも、後遺症に苦しむケースが少なくないそうです。
コロナ対策では、まずは感染しないこと。感染しても重症化しないよう免疫力を保つこと。さらには、後遺症に注意することが重要です。今号では、コロナの後遺症が指摘される以前から後遺症の専門外来を開き、対面・オンラインの双方で多数の後遺症患者を診ている東京・渋谷区の「ヒラハタクリニック」、平畑光一院長に話をお伺いしました。
2021.03.26
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」4・5月号が発刊しました!
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」4・5月号が発刊しました。
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是非お楽しみください!
2021.03.10
月刊「美楽」2021年4月号 発刊しました!
桃の節句も過ぎ、ようやく春らしくなってきました。
今号の医療特集は、コロナと漢方薬についてです。
千葉県東葛地域において準総合病院として中核的役割を果たす東邦鎌谷病院(病床数160床)は、隠れ新型コロナウイルス患者がいたにもかかわらず、クラスターが発生しなかった稀有な病院です。コロナに感染してもまったくおかしくない状況の中、PCR検査の結果は、1人も感染者なし。実は濃厚接触者を含める医療スタッフは全員、コロナ対策として荊芥連翹湯(けいがいれんぎょうとう)という漢方薬を服用しており、それが功を奏したのではないかと見られています。
荊芥連翹湯に着目し、いち早く医療スタッフに服用を勧めた東邦鎌谷病院内科の柳一夫医師にお話を聞きました。
春から活がすばらしいものになりますように、お祈り申し上げます。
2021.02.10
月刊「美楽」2021年3月号 発刊しました!
梅の便りが聞かれるころとなりました。
今号の医療特集は、マスクが手放せない日々の中、今年も迎えた花粉症シーズンについてです。
日本気象協会が発表した「2021年春の花粉飛散予測」(12月9日の第2報)によると、スギ花粉は早いところでは2月上旬から飛び始め、全国的には、飛び始めは例年並み。飛散量は、広い範囲で例年より少ないが、前シーズンとの比較では、九州から関東は飛散量が非常に多いところもあるとされているようです。
コロナ禍での花粉症対策で知っておくべきことは何か?数多くのメディアにご出演をされております、日本呼吸器学会専門医・指導医であり、日本アレルギー学会専門医・指導医でもある池袋大谷クリニック院長の大谷義夫院長にお話をお伺いしました。
2021.01.20
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」2・3月号が発刊しました!
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」2・3月号が発刊しました。
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是非お楽しみください!
2021.01.07
月刊「美楽」2021年2月号 発刊しました!
謹んで新春をお祝い申し上げます。
旧年中は大変お世話になり、ありがとうございました。本年も変わりなくお付き合いいただけますよう、よろしくお願い申し上げます。
さて、今号の医療特集は「口腔ケア」の重要性についてです。
口の中だけの問題ではなく、全身に影響を及ぼすことが近年わかってきました。例えば、がん。歯周病の治療が適切に行われていない状態は、すべてのがんのリスクを高めるそうです。心筋梗塞や脳血管障害との関係も指摘されています。
口腔ケアは、自分で行うケア、歯科医が行うケアの両輪がそろっていないと成立しません。症状がなくても、最低半年に1回は歯科医院でのチェックが必要です。
口腔ケアの重要性を、鶴見大学歯学部探索歯学講座 花田信弘教授にお聞きしました。
次号からは、新型コロナウイルスについて、再度、医療特集を続けてまいります。
2020.12.10
月刊「美楽」2021年1月号 発刊しました!
冬晴れが心地よい師走の候、みなさまいかがお過ごしでしょうか。
今月の医療特集は、感染拡大がとどまるところを知らない新型コロナウイルスの第三波についてです。
読者の中には、増えつつあった会食の機会を「やっぱり減らさなくては」と思い始めた人もいるのではないだろうか? 4月、5月の時のように、外出や外食を控え、本当にステイホームを徹底したほうがいいのか?
東京慈恵会医科大学附属病院外科学講座教授、統括責任者、対コロナ院長特別補佐で、安倍内閣の未来投資会議メンバーとして対コロナ大木提言を行った大木隆生医師は、日本で流行が顕在化する前から最新情報を集め、積極的に発信していました。今回は、そんな大木医師に今の日本の現状についてお話を伺いました。
師走を迎え、本年も多くの感謝や反省をして振り返る時期となりました。
本年もありがとうございました。どうぞよいお年をお迎えください。
2020.11.20
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」年末・年始号が発刊しました!
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」年末・年始号が発刊しました。
全国のカーコンビニ倶楽部等でお手に取ることが出来ます。
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是非お楽しみください!
2020.11.10
月刊「美楽」2020年12月号 発刊しました!
早いもので、もう年末号(12月号)をお届けすることとなりました。
今月の医療特集は、「コロナ禍のインフルエンザ」についてです。
今シーズンはインフルエンザ流行のスタートが緩やかだそうです。その理由
として挙げられるのは、海外渡航の世界的減少、新型コロナウイルス感染症対
策として行われているマスク着用、手洗い、手や指の消毒の徹底、3密を避け
る、ソーシャルディスタンスを確保している結果ではないでしょうか。
となると、今シーズンはインフルエンザの流行はみられない可能性がある!?
インフルエンザワクチン接種など、今年は予定しなくても大丈夫なのか? 九段
下駅前ココクリニックの石井聡院長に、インフルエンザシーズンの過ごし方に
ついてお話をお伺いしました。
日ごとに寒さもつのってまいります。
どうぞあたたかくして、お過ごしください。
2020.10.12
月刊「美楽」2020年11月号 発刊しました!
変則的な秋を終え、食欲の秋、スポーツの秋、読書の秋が始まりました。皆さんは、どんな秋をお過ごしでしょうか。
一般的に食中毒は気温も湿度も高い「真夏に多い」と思いがちですが、実は年間で一番発生件数の多い時期は秋です。新型コロナウイルスの影響で、生活様式はさまざまな面で大きく変化し、「外食が減り、自炊するようになった」という声をよく聞きます。
毎食ごとに食事を作るのは大変なので、まとめて作る、テイクアウトを積極的に活用する機会も多いと思いますが、食中毒原因菌には、十分に注意していただきたいです。
どういう対策を講じればいいのか、注意する点など、管理栄養士・横浜創英大学名誉教授の則岡孝子さんにお聞きしました。
2020.09.18
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」10・11月号が発刊しました!
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」10・11月号が発刊しました。
全国のカーコンビニ倶楽部等でお手に取ることが出来ます。
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是非お楽しみください!
2020.09.10
月刊「美楽」2020年10月号 発刊しました!
皆さん、一日にどのぐらい携帯電話やパソコンの画面を見ていますか。在宅勤務の方も多くなり、使用時間が増えた人も多いのではないでしょうか。
目の疲れや、そこからくる日常的な不快感で生活の質が著しく下がるのはもちろんのこと、眼精疲労や「ドライアイ」を放置すると、角膜びらんや遷延性角膜上皮欠損といった角膜の損傷を招くことがあります。
2年間、昼夜関係なくスマホ画面の明るさを最大にしてスマホを見続けた25歳の台湾人女性が、目の痛みと充血で眼科を受診したところ、左右の視力の低下ばかりか、角膜に無数の傷がついていることがわかり、それは「電子レンジで焦げた状態になるほどのダメージ」だったという海外ニュースがネット上で話題になったこともありました。
さらには近年、うつ病との関連も指摘されています。順天堂大学眼科の研究班が、独自開発のドライアイのレベルなどを測定するスマホ用アプリをダウンロードした日本人ユーザーを対象に、ドライアイの重症化と抑うつ関連の症状を解析したところ、ドライアイの自覚症状が重症化するほど抑うつ症状を併発し、自覚症状が悪化するにつれ抑うつ症状も悪化傾向を示すとの結果が出ております。
眼精疲労やドライアイについて、どういうことを知っておくべきか? 順天堂大学医学部附属静岡病院眼科・先任准教授土至田宏先生に話を聞いた。
2020.08.11
月刊「美楽」2020年9月号 発刊しました
外出自粛やリモートワークで在宅時間が増えたことによって、「便秘」に悩んでいる、という声が聞こえてきます。
便秘というと「女性にありがちなもの」という印象が強いですが、実は男女問わず、便秘に悩んでいる人は多く、年齢が上がるほど増加し、65歳以上の便秘に悩む人は男女問わずかなりの数に上るそう。
食事量が少ない、体内の水分量が少ない、活動量が少ない、加齢で消化器の機能が低下している、など様々な理由が挙げられます。
かつては「たかが便秘」という風潮が一般の人だけでなく医師の間でもあったようですが、現在は便秘が日々の不快感をもたらすだけでなく、便秘のある人は、ない人よりも寿命が短いことも疫学調査で分かっています。
「夏になると、普段から便秘がちでない人も便秘になりやすい」と指摘するのは、今回、お話をお伺いした便秘治療で知られる松生クリニック(東京・立川市)の松生恒夫院長。夏便秘対策には、食事の方法が鍵となります。ぜひご覧ください。
2020.07.20
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」8・9月号が発刊しました
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」8・9月号が発刊しました。
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2020.07.10
月刊「美楽」2020年8月号 発刊しました
コシノジュンコ(出身:大阪府岸和田市)
デザイナーというカタカナでは表現できないほど、彼女の図柄は人間そのものの形に付合する。
女性の美は、やがて母の美となり、社会の美となりうる。
つまり、彼女は思想家でもあるような気がする。
2020.06.10
月刊「美楽」2020年6・7月号 発刊しました
市川海老蔵 (出身地:東京都)
二百数十年をかけた文化を背負い、海老蔵はある種の挑戦
という名の戦いを続けているのであろうか。
時に、共鳴され、時に批判されるのが役を演ずるものの宿
命である。
しかし、それを重ねることで、プライドが生まれ、歴史が
塗り替えられる。
2020.05.20
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」6・7月号が発刊しました
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」6・7月号が発刊しました。
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是非お楽しみください!
2020.04.20
月刊「美楽」2020年5月号 発刊しました
笑福亭鶴瓶(出身地:大阪府大阪市)
世の中がどこか不景気な不安な様相である。
人々はこんな時、笑いと笑顔を求める。
映画やスポーツなど、どんなコンテンツよりも、鶴瓶さんの笑顔が今、一番求められている。
2020.03.20
月刊「美楽」2020年4月号 発刊しました
伊集院 静 (出身地:山口県防府市)
彼が病で倒れたと聞いて、残念な思いをした日本の男たちも多いであろう。
酒と賭博と恋愛の名人で、最近こじんまりと、まとまった作家が多い中で、ある種の“ 憧れの星” である。
早期回復を祈るばかりである。
2020.03.20
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」4・5月号が発刊しました
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」4・5月号が発刊しました。
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2020.02.20
月刊「美楽」2020年3月号 発刊しました
『瀬戸 大也』(出身地:埼玉県入間郡毛呂山町)
四方を海に囲まれた日本で、守るべき種目は水泳だ。
「前畑、頑張れ!」「フジヤマのトビウオ」など、日の丸のプライドを保ち続けたアスリートたちが名を残してきた。
瀬戸大也選手も、やがて歴史にその名を刻むことになる。
2020.01.20
月刊「美楽」2020年2月号 発刊しました
『桃田 賢斗』(出身地:香川県三豊市)
これほどまでに世界一を確実にしたアスリートは、かつていなかったように思う。
バドミントンは体格差を感じさせないスポーツであり、俊敏さが要求される。日本人のもっとも得意分野と言えるのではないか。
その象徴的なアスリートが桃田賢斗選手である。
2020.01.20
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」2・3月号が発刊しました。
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」10・11月号が発刊しました。
全国のカーコンビニ倶楽部等でお手に取ることが出来ます。
車の情報や新しいキャンペーン内容のご紹介など
読み応えのある一冊となっています。
是非お楽しみください
2019.12.20
月刊「美楽」2020年1月号 発刊しました
リーチマイケル(出身地:ニュージーランド/クライストチャーチ)
ラグビーワールドカップが開催されたことで、何千万人もの日本人がこのスポーツに興味を覚え、なれ親しむことができるようになった。
その立役者が、リーチマイケル選手。
彼が果たした役割の大きさは、閉鎖的な日本人の心をひらいたことだ。
2019.11.20
月刊「美楽」2019年12月号 発刊しました
グレタ・トゥーンベリ(出身地:スウェーデン・ストックホルム)
地球が彼女のスピーチに感動して泣いた。
彼女は果たして100歳まで生きれるだろうかと、地球上の人々は不安になった。
私たちは、人間の作法として、或いは大人の礼儀として、子供たちの声に耳を傾けなければならない。と、同時に、グレタさんのような人材を、育てなければならない義務もある。
2019.11.18
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」年末・年始号が発刊しました。
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」年末・年始号が発刊しました。
全国のカーコンビニ倶楽部等でお手に取ることが出来ます。
車の情報や新しいキャンペーン内容のご紹介など
読み応えのある一冊となっています。
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2019.10.21
月刊「美楽」2019年11月号 発刊しました
八村塁(出身地:富山県)
今世紀に入ってから、世界のスポーツの変化をリードしているのは、日本人ではないかと思う。大谷選手が野球を席巻し、井上選手が世界のボクシングをリードし、ラグビーは世界の頂点を目指している。八村選手もやがて、世界のバスケットボール市場を牽引していくのは間違いない。
つまり、日本はいつの間にかスポーツ王国になっている。
2019.10.10
月刊美楽「臨時増刊号」『愛車人』を発刊しました
月刊美楽「臨時増刊号」『愛車人』を発刊しました。
2019.09.20
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」10・11月号が発刊しました。
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」10・11月号が発刊しました。
全国のカーコンビニ倶楽部等でお手に取ることが出来ます。
車の情報や新しいキャンペーン内容のご紹介など
読み応えのある一冊となっています。
是非お楽しみください。
2019.09.20
月刊「美楽」2019年10月号 発刊しました
渋野日向子(出身地:岡山県岡山市)
偉大な実績が生まれる瞬間は、意外なほど自然な現象のように見える。
42年ぶりに女子ゴルフのメジャーを獲得したのは、まだ20歳の渋野日向子選手だった。
肩に力が入らず、にこにこ笑いながら、マイペースでゴルフをした結果、女子プロゴルフ業界を変えようとしている。
2019.08.20
月刊「美楽」2019年9月号 発刊しました
サニブラウン・ハキーム選手(出身地:福岡県北九州市)
10秒の壁と言われた男子100メートルは、いよいよ9秒台の争いとなった。サニブラウン選手をはじめ、東京オリンピックまで後1年。
わずかであるが、0・3秒を縮めることができれば、金メダルに届く。つまり、歴史に残る選手となる。
2019.07.20
月刊「美楽」2019年8月号 発刊しました
久保建英(出身地:神奈川県川崎市)
要は、ミレニアム世代なのだ。女子プロゴルフ黄金世代、プロ野球の大谷選手など、どの選手をとっても、2000年以降に実力を蓄えて、今、花を咲かせている。久保建英選手も今や、世界を視野に入れている。
2019.07.20
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」8・9月号が発刊しました
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」8・9月号が発刊しました。
全国のカーコンビニ倶楽部等でお手に取ることが出来ます。
車の情報や新しいキャンペーン内容のご紹介など
読み応えのある一冊となっています。
是非お楽しみください。
2019.07.15
「食べる人」2019年7月号Vol9 発刊しました
「食べる人」2019年7月号Vol9 発刊しました。
2019.06.20
月刊「美楽」2019年7月号 発刊しました
「紀平 梨花」(出身地:兵庫県西宮市)
氷の上を花のように踊る少女に、日本中の期待が集まっている。技術を磨けば磨くほど、リスクが発生するスポーツに、私たちは他のスポーツにない感動を覚える。
それは、数分間の演技なのだが、どこか人生に似ている。
2019.05.20
月刊「美楽」2019年6月号 発刊しました
『貴景勝』(出身:兵庫県)
久しぶりのアンコ型の力士の登場に、日本中が沸いている。しかも、175センチという小兵である。そして、所属していた部屋がトラブルに見舞われた。加えて、生粋の日本人である。
令和時代を迎え、初の横綱になることを、皆が応援している。
2019.05.20
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」6・7月号が発刊しました
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」6・7月号が発刊しました。
全国のカーコンビニ倶楽部等でお手に取ることが出来ます。
車の情報や新しいキャンペーン内容のご紹介など
読み応えのある一冊となっています。
是非お楽しみください。
2019.04.22
月刊「美楽」2019年5月号 発刊しました
イチロー(出身地:愛知県西春日井郡)
巨星が大きな永遠の太陽に変わった。
イチロー選手の実績は、歴史の暦が入れ替わるたびに、どんどん大きくなる。
現役時代、意外なほど地味であった反動が、彼の起こした偉大な業績を数字が裏づけている。
おそらく、100年に一人とはイチロー選手のことなのではないだろうか。
2019.03.20
月刊「美楽」2019年4月号 発刊しました
小林 陵侑(出身地:岩手県八幡平市)
ワールドカップにおけるスキーのジャンプの優勝記録をわずか1年で塗り替えようとしている。しかも小林君は、まだ20歳そこそこの、言わば滑り出しである。
海外での評価も高く、ファンも多いことから彼のホームグランドは地球上の雪が降る全ての街なのではないだろうか。
小林陵侑君は、“雪の結晶”そのものである。
2019.03.20
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」4・5月号が発刊しました
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」4・5月号が発刊しました。
全国のカーコンビニ倶楽部等でお手に取ることが出来ます。
車のメンテナンスや新しいキャンペーン内容のご紹介など
読み応えのある一冊となっています。
是非お楽しみください。
2019.02.20
月刊「美楽」2019年3月号 発刊しました
白井健三(出身地:神奈川県)
一体全体、人間はどこまで動物に近づけるのであろうか。
白井君の肉体がウサギのようであり、猫のようであり、鳥のようでもある。飛ぶ、ひねる、回る、どれも、動物たちの能力を超えているようにも感じる。
彼の体操を見るたびに、私たちが動物だということを思い起こさせてくれる。
2019.01.21
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」2・3月号が発刊しました
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」2・3月号が発刊しました。
全国のカーコンビニ倶楽部等でお手に取ることが出来ます。
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読み応えのある一冊となっています。
是非お楽しみください。
2019.01.21
月刊「美楽」2019年2月号 発刊しました
本庶 佑(出身地:京都府京都市)
羽織袴でノーベル賞授賞式を臨んだ本庶先生のことを、心強く思った日本人は数知れない。
そこには、どこか日本人の魂や誠実さと共に、武士道にも似た誇りが感じられる。
本庶先生がノーベル医学生理学賞の賞金を、すべて若い人向けの研究資金に寄付した潔い日本人のあり方を世界にアピールした。
2018.12.20
月刊「美楽」2019年新年号 発刊しました
池江璃花子(出身地:東京都江戸川区)
1936年、ベルリンオリンピックで前畑秀子選手が活躍したことで、「水泳ニッポン」の印象を世界にアピールしてから半世紀以上過ぎている。
今、池江選手、他、「水泳ニッポン」の時代がやってきた。
東京オリンピックはもちろんのこと、彼女を追う選手も複数存在するだけに、21世紀は再び「水泳ニッポン」の幕開けである。
2018.11.20
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」年末・年始号が発刊しました
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」年末・年始号が発刊しました。
全国のカーコンビニ倶楽部等でお手に取ることが出来ます。
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2018.11.20
月刊「美楽」2018年12月号 発刊しました
井上 尚弥(出身地:神奈川県座間市)
100年に一度の選手、という評価は、スポーツ界でよく言われる話である。野球のイチロー選手や大谷選手、競馬の武豊騎手、水泳の池江璃花子選手、アイススケートの羽生結弦選手など。
しかし、ボクシング界の井上選手ほど、その言葉に相応しい選手はいないのかもしれない。実質的に4階級のベルトを獲得しただけでなく、将来的には、6階級、あるいは7階級、といったチャンピオンになる期待すら持ちたくなる。
2018.10.22
月刊「美楽」2018年11月号 発刊しました
池上彰(長野県松本市)
マーケティングで一番必要なのは、いかに飽和させないで市場のニーズを拡大していくことである。
池上彰氏ほど、マスメディアへの露出が多く、飽和感を感じない人材はいない。知識の引き出しが広く、それを伝えるための会話力も優れている。
彼自身が、人間というものをよく勉強しているからに違いない。
2018.09.20
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」10・11月号が発刊しました
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」8・9月号が発刊しました。
全国のカーコンビニ倶楽部等でお手に取ることが出来ます。
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2018.09.20
月刊「美楽」2018年10月号 発刊しました
尾畠 春夫(出身地:大分県日出町)
尾畠さんは、私たちに3つの提案を投げかけてくれた。
1つ目は、人生後半の生き方の提案。資産がなくても、豊かな人生が送れるということ。
2つ目は、ボランティアの在り方。その活動を通して、自らの人間の証を得るということ。
3つ目は、健康の素晴らしさ。
今、最も日本に必要な基本を彼は教えてくれた。
2018.08.21
「食べる人」2018年8月号Vol8 発刊しました
「食べる人」2018年8月号Vol8 発刊しました。
2018.08.20
月刊「美楽」2018年9月号 発刊しました
山本 寛斎(出身地:神奈川県横浜市)
この人ほど苦難の人生をエネルギーに変える人はいないのではないか。
文字通り美しき完全燃焼の人生のデザイナーである。
父親が原因で複雑な家庭に育ち、大学進学のため、上京。横浜で洋裁教室をしていた実母と再会し、服飾デザイナーへの転進。あのデヴィッド・ボウイのステージ衣装には才気が溢れていた。
糸の一本一本に彼の強い運気が織込められているようで、雨の日は寛斎の洋服を着るようにしている。
2018.07.20
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」8・9月号が発刊しました
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」8・9月号が発刊しました。
全国のカーコンビニ倶楽部等でお手に取ることが出来ます。
車のメンテナンスや新しいキャンペーン内容のご紹介など
読み応えのある一冊となっています。
是非お楽しみください。
2018.07.20
月刊「美楽」2018年8月号 発刊しました
ドナルド・トランプ(出身地:アメリカ合衆国ニューヨーク市)
アメリカファーストを標語し、保護主義を基本にした単独行為を繰り返して、あちらこちらに火種をまいている大統領であるが、なぜか今のところは失業率も改善し、GDPも上がり始めている。彼だけでなく、世界のあちらこちらで行政のトップに権力が集中し始めているのは、どこか1930年代の世界の状況に似ている。
民衆が個人のことに精一杯で、国家の一員であることを放棄すると、やがて世界は悲惨なことになる。
2018.06.20
月刊「美楽」2018年7月号 発刊しました
加藤一二三(出身地:福岡県嘉麻市)
加藤先生を拝見していると、どこかホッとする人が多いのではないだろうか。将棋での戦では、真剣勝負で真面目そのもの。しかし、将棋盤から離れると、世間知らずな純朴な少年に見える。
考えてみると、駒で磨かれた感性は、誰よりも社会を読み、人間を読んでいるに違いない。
2018.05.22
月刊「美楽」2018年6月号 発刊しました
孫正義(出身地:佐賀県鳥栖市)
一昔前、孫さんがまだ通信の分野で活躍する前、東北のゴルフ場で一緒にプレーをさせていただいた。プレースタイルは極めて、ステディで、決して挑戦的なゴルフではなかったような気がするが、ここぞ!というときには、勝負強さを発揮していた。
成功者の特徴は、緊張と緩和のバランスが取れていることである。
通信からエネルギー、次のショットは他の競技でも見られるかもしれない。
2018.05.21
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」6・7月号が発刊しました
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」6・7月号が発刊しました。
全国のカーコンビニ倶楽部等でお手に取ることが出来ます。
車のメンテナンスや個人間売買の実例など
読み応えのある一冊となっています。
是非お楽しみください。
2018.04.20
月刊「美楽」2018年5月号 発刊しました
大坂 なおみ(出身地:大阪府大阪市)
明治維新から1945年までの80年間、敗戦から2000年までの60年間、そして、2000年から現在まで、この時間の流れをグローバリズム的に3つに分ける。特に2000年以降の日本人の活躍は、スポーツ界において著しく華やかだ。野球やゴルフ、さらには水泳やボクシング、そしてここにきてテニスの大坂なおみ選手である。
体格のよさもさることながら、インタビューなどを聞いていると、彼女に明治の血が流れているのを感じる。
スポーツ維新がやってきた。
2018.03.20
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」4・5月号が発刊しました
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」4・5月号が発刊しました。
全国のカーコンビニ倶楽部等でお手に取ることが出来ます。
車のメンテナンスや個人間売買の実例など
読み応えのある一冊となっています。
是非お楽しみください。
2018.03.20
月刊「美楽」2018年4月号 発刊しました
辻井伸行(出身地:東京都豊島区)
肉体と言うのは不思議なもので、よく言われるのは心臓だけが置換がきかないのだそうだ。
音楽家にはレイチャールズ、ホセ・フェリシアーノやスティーヴィー・ワンダーなど、盲目の天才的なアーティストが存在し、活躍してきた。
変な言い方をすると神様に叱られそうだが、我々は日常的に如何に無駄な視覚情報に振り回されているか、そして集中心を無くして生きているかと言うことになる。
光のない世界の中で、汚れのない無数の色彩を感じながら紡ぎ出す音霊は、何故こんなに美しいのだろう。
2018.02.20
月刊「美楽」2018年3月号 発刊しました
安藤 忠雄(出身地:大阪府大阪市)
人が命を持つ限り何かを残したいと思うのが本能だと思う。子孫を残す、思想を残す。
建築家とは、ピラミッドや万里の長城など無限の命をもつ作品を残すことができる羨ましい職業だ。安藤先生は様々な作品を通して、“人はシンプルであるべきだ”という情念のような「哲学」を骨格にしているように感じる。
人間の想像力は、無駄を排することでより研磨される。
2018.01.25
「食べる人」2018年1月号Vol7 発刊しました
「食べる人」2018年1月号Vol7 発刊しました。
2018.01.22
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」2・3月号が発刊しました
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」2・3月号が発刊しました。
全国のカーコンビニ倶楽部等でお手に取ることが出来ます。
車のメンテナンスや個人間売買の実例など
読み応えのある一冊となっています。
是非お楽しみください。
2018.01.22
月刊「美楽」2018年2月号 発刊しました
高梨沙羅(出身地:北海道上川郡)
毎年正月になると岩手県にあるスキー場で年を越していた。雪質の良いスキー場で、夜明け近くになるとオリンピックにも出場したコーチと共に初滑りを楽しんだ。
「スキーはできれば恐怖感のない年齢から始めた方がいい人生ですね…」。
知識や情報が入ると骨や筋肉が本能的に肉体を萎縮させてしまう。特にスキーのジャンプは、思い切りという判断力がそのまま結果に結びついてしまう。
ジャンパー達よ、メダルや日の丸など意識しないで空を舞え!
2017.12.20
月刊「美楽」2018年1月号 発刊しました
カズオ・イシグロ(出身地:長崎県長崎市)
もしすべての人間がクローンだとしても、1つの生命であり、だからこそ存在する意味や意義や目的があるのではないか。
10年ほど前、まだカズオ・イシグロの名前は知らなかった。
ただ印象的だったのは彼が、長崎県の生まれであるということ。
5歳になった彼は、ロンドンにわたり英語を基本にし、日本人の姿をしながら彼自身の存在価値を思い世の中に求めた。
私たちも、たまには思い出の中に自分の原点を探す必要が出てきているのではなかろうか。
今回のノーベル賞受賞は私たちの誇りであり、と同時に私たちに今の時間の過ごし方で、自分を失うこともあると警鐘している。
2017.11.20
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」年末・年始号が発刊しました
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」年末・年始号が
発刊しました。
全国のカーコンビニ倶楽部等でお手に取ることが出来ます。
車のメンテナンスや個人間売買の実例など
読み応えのある一冊となっています。
是非お楽しみください。
2017.11.20
月刊「美楽」2017年12月号 発刊しました
春風亭昇太(出身地:静岡県静岡市)
新宿のゴールデン街に入り浸り、組織人になり切れないストレスを、夜が明けるまで酒で中和させていたことがあった。
その頃、マシンガンのように回転する頭の速さと、限られた切れ味の言葉で、カウンターの客を巻き込んでいたのが立川談志師匠であった。
落語家の難しさは存在感の表現である。
時代を読みながら先に走らず、かといって古典的なものも取り入れながらのバランス感覚が必要である。
春風亭昇太さんは、テレビや映画、さらにはインターネットなどを取り入れながら、日夜私たち人間の心の柱を表現しようとしている。
2017.10.25
「MK MESSAGE KEEPER」11月号発刊しました
「MK MESSAGE KEEPER」11月号発刊しました。
2017.10.20
月刊「美楽」2017年11月号 発刊しました
三浦 知良(出身地:静岡県静岡市)
少年時代の苦労や努力、それに伴って培われた価値観が人生100年にわたりエネルギーになる。三浦和良のサッカー人生そのものだ。
今や世界のサッカーファンで、彼の名前を知らない人はいない。ブラジル時代にカズを育てた知人から、当時のユニフォームをもらったことがある。アルファベットのサインの中に、小さなひらがなで「かず」と書いてあった。
「大和魂」。
最近聞かなくなった言葉を思い出した。
2017.10.03
まきばの花道 パッケージデザイン
まきばの花道
2017.09.30
月刊美楽選集『美味求道―パンのある幸せな食卓を―』を発刊しました
月刊美楽選集『美味求道―パンのある幸せな食卓を―』を発刊しました。
2017.09.25
「MK MESSAGE KEEPER」10月号発刊しました
「MK MESSAGE KEEPER」10月号発刊しました。
2017.09.20
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」10・11月号が発刊しました
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」10・11月号が
発刊しました。
全国のカーコンビニ倶楽部等でお手に取ることが出来ます。
車のメンテナンスや個人間売買の実例など
読み応えのある一冊となっています。
是非お楽しみください。
2017.09.20
月刊「美楽」2017年10月号 発刊しました
道場 六三郎(出身地:石川県加賀市)
先日、シドニーで和食を広報するイベントがあり、久しぶりに道場先生と酒井シェフとランチをする機会があった。
料理人は様々な食材の良さを生かしながら、舌と胃袋を喜ばせる。そこには無数の想像力と科学的な知識とセンスが必要だ。
道場先生が宙を仰ぎながら、麻婆豆腐を食べている。
何か新しい公式を組み合わせていたのだろうか。
2017.09.01
北海道「生命の詩」 パッケージデザイン
北海道「生命の詩」
2017.08.25
「MK MESSAGE KEEPER」9月号発刊しました
「MK MESSAGE KEEPER」9月号発刊しました。
2017.08.21
月刊「美楽」2017年9月号 発刊しました
張本智和(出身地:宮城県仙台市)
東京オリンピックが近づいている。しかもメダルを狙う人材は10代のまだ幼い顔をした少年少女たちになる可能性が高い。
彼らは、国際試合になれ、優秀なコーチや管理された食事、さらに豊かな環境の中で育った。
張本くんはもちろんのこと、昔で言うとすえ恐ろしい選手達と言うことになる。
2017.07.25
「MK MESSAGE KEEPER」8月号発刊しました
「MK MESSAGE KEEPER」8月号発刊しました.
2017.07.20
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」8・9月号が発刊しました
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」8・9月号が
発刊しました。
全国のカーコンビニ倶楽部等でお手に取ることが出来ます。
車のメンテナンスや個人間売買の実例など
読み応えのある一冊となっています。
是非お楽しみください。
2017.07.20
月刊「美楽」2017年8月号 発刊しました
渡辺 貞夫(出身地:栃木県宇都宮市)
学生時代に渡辺貞夫さんのテレビコマーシャルを観て憧れていた。『カリフォルニア・シャワー』の一番記憶に残るフレーズがあまりにも新鮮だった。
それから十数年の後、渡辺さんとゴルフをするほどの親しい間柄になった。はなひげの優しいおじさんであるが、ゴルフをしている時のその眼光も少年のように鋭く澄んでいる。
人間は好きなことを仕事にし、人生を送ると、一生少年でいられるのかもしれない。
2017.06.28
「食べる人」2017年7月号Vol6 発刊しました
「食べる人」2017年7月号Vol6 発刊しました。
2017.06.26
「MK MESSAGE KEEPER」7月号発刊しました
「MK MESSAGE KEEPER」7月号発刊しました。
2017.06.20
月刊「美楽」2017年7月号 発刊しました
藤井聡太(出身地:愛知県瀬戸市)
少年5歳の夏、藤井棋士は祖母からもらった将棋セットにとびついた。その頃の彼は迷路作りと「木登り」にも夢中だったらしい。
プロデビュー以来なんと23連勝中である。
この天才棋士はとにかく「好きな事にとことん熱中する」。
好きなコトに真っ直ぐな人は強い。
2017.05.25
「MK MESSAGE KEEPER」6月号発刊しました
「MK MESSAGE KEEPER」6月号発刊しました。
2017.05.22
月刊「美楽」2017年6月号 発刊しました
松本零士(出身地:福岡県久留米市)
少年時代に読んだ漫画は、野球や格闘技や学園ものが多かった。
松本先生の漫画のテーマは驚くほど壮大で、人類が宇宙に生きると言うもの。
その中で人間のあるべき姿や地球のあるべき状態を、子供心に感じさせてくれた。
科学者であり教育者であり、教会の牧師さんのようなそんな役割を果たしてくれた。
2017.05.22
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」6・7月号が発刊しました
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」6・7月号が
発刊しました。
全国のカーコンビニ倶楽部等でお手に取ることが出来ます。
車のメンテナンスや個人間売買の実例など
読み応えのある一冊となっています。
是非お楽しみください。
2017.04.25
「MK MESSAGE KEEPER」5月号発刊しました
「MK MESSAGE KEEPER」5月号発刊しました。
2017.04.20
月刊「美楽」2017年5月号 発刊しました
佐渡裕(出身地:京都府京都市)
友人のさだまさしさんと、佐渡裕さんが東京国際フォーラムで「風に立つライオン基金」のコンサートを開催した。
久しぶりに楽屋でご挨拶したが、大柄で優しく、やはりどこか上品な風格を感じた。国際的な活躍の中、被災地のコンサートや子供達のためのコンサートなど、佐渡さんの故郷は音楽のあるところ全て。
つまり、地球なのである。
2017.03.25
「MK MESSAGE KEEPER」4月号発刊しました
「MK MESSAGE KEEPER」4月号発刊しました。
2017.03.21
月刊「美楽」2017年4月号 発刊しました
畑正憲(愛称ムツゴロウさん 出身地:福岡県福岡市)
学生時代にムツゴロウブームというのがあって、当時一緒に暮らしていた友人とムツゴロウ王国に就職しようかと考えたことがあった。
二十数年経って、ムツゴロウ先生が東京の近郊でムツゴロウ動物王国を作り、その手伝いに出かけた。相変わらずの超人ぶりで、歯もなく、肺もなく、しかし、爽快で健康だった。
動物を愛する気持ちが、寿命を延ばしている気がする。
2017.03.21
月刊美楽選集「写脳」+「脳写」を発行しました
月刊美楽選集「写脳」+「脳写」を発行しました!
「写脳」と「脳写」を合本したものになります。
2017.03.21
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」4・5月号が発刊しました
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」4・5月号が
発刊しました。
全国のカーコンビニ倶楽部等でお手に取ることが出来ます。
車のメンテナンスや個人間売買の実例など
読み応えのある一冊となっています。
是非お楽しみください。
2017.02.27
「MK MESSAGE KEEPER」 3月号発刊しました
「MK MESSAGE KEEPER」3月号発刊しました。
2017.02.20
月刊「美楽」2017年3月号 発刊しました
稀勢の里寛(出身地:茨城県牛久市)
思えば、相撲のグローバル化とは言うものの、19年振りの日本の横綱である。しかも、30歳のどちらかというと、遅咲き。スピード出世の力士たちが、新しい相撲界を作ろうとしている中で、がつんと足腰の強い努力型の横綱誕生である。
師匠の隆の里を失い、それが発奮材料となった。スポーツ界のアンチスピード、アンチデータの象徴である。
2017.01.26
月刊美楽選集『脳写〜脳裏に浮かぶ“映像”たち』を発行しました
月刊美楽選集『脳写〜脳裏に浮かぶ“映像”たち』を発行しました!
「美楽」で掲載した広告を、一冊の本にしました。
2017.01.25
「MK MESSAGE KEEPER」 2月号発刊しました
「MK MESSAGE KEEPER」2月号発刊しました。
2017.01.25
「食べる人」2017年1月号Vol5 発刊しました
「食べる人」2017年1月号 Vol5 発刊しました!
2017.01.20
愛車人2・3月号発刊しました
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」2・3月号が
発刊しました。
全国のカーコンビニ倶楽部等でお手に取ることが出来ます。
車のメンテナンスや個人間売買の実例など
読み応えのある一冊となっています。
是非お楽しみください。
2017.01.20
月刊「美楽」2017年2月号 発刊しました
萩本欽一(出身地:東京都)
あの若々しいドタバタコントでデビューした萩本欽一さんは、日本で初めてコメディアンから文化人になった人ではないだろうか。相棒の坂上二郎さんとともに、人気の絶頂期を迎えてから天才的芸人としての位置を誰にも譲ったことはない。
庶民派で親しみやすさがあり、芸能活動のほか茨木ゴールデンゴールズを結成したり、競走馬の馬主でもあり、最近では、駒澤大学仏教学部に在籍して、勉強に励んでいる。
浅草育ちの芸人は、どこかたくましく、どこか人情味がある。
2016.12.26
「MK MESSAGE KEEPER」 1月号発刊しました
「MK MESSAGE KEEPER」 1月号発刊しました。
2016.12.20
月刊「美楽」2017年1月号 発刊しました
小池百合子(出身地:兵庫県芦屋市)
友人の紹介で以前、彼女と武道館にロックコンサートへ行ったことがある。彼女の音楽に対する見識の高さに驚かされたのだが、何より記憶に残っているのは、背筋を伸ばして舞台を楽しむその姿勢の良さである。
時は流れ、幾つかの政党に席を置きながら、今、日本を代表する知事として政治家そのもののあり方を問い直しているように思える。
日本の政治に、ロック音楽のようなパワーが戻りつつある。
2016.12.07
さだまさしさんコンサート会場
さだまさしさんコンサート会場
2016.12.01
月刊美楽選集『脳写〜脳裏で遊ぶ言葉たち』を発行しました
月刊美楽選集『脳写〜脳裏で遊ぶ言葉たち』を発行しました。
2016.11.25
「MK MESSAGE KEEPER」 12月号発刊しました
「MK MESSAGE KEEPER」 12月号発刊しました。
2016.11.21
月刊「美楽」2016年12月号 発刊しました
黒田博樹(出身地:大阪府大阪市)
以前、ソフトバンクホークスがダイエーだった時代に、球団の仕組みをプロデュースしたことがあった。特に、興味を持ったのが、選手の年俸制。投手や打者の実績をどう給与に反映するか、そんなことばかり考えていた。
黒田選手は、大リーグで20億もの年俸を断り、その最後の野球人生を育ての親でもある広島カープに捧げた。
野球というスポーツを再びロマンという男の生き様にしたのである。
2016.11.21
愛車人年末・新年号発刊しました
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」年末・新年号が
発刊しました。
全国のカーコンビニ倶楽部等でお手に取ることが出来ます。
車のメンテナンスや個人間売買の実例など
読み応えのある一冊となっています。
是非お楽しみください。
2016.10.25
「MK MESSAGE KEEPER」 11月号発刊しました
「MK MESSAGE KEEPER」 11月号発刊しました。
2016.10.20
月刊「美楽」2016年11月号 発刊しました
田原総一郎(出身地:滋賀県)
以前勤めていた会社の上司は、ほとんどマスメディアに顔を出す事はなかったが、最後に出演したのは田原先生の朝の番組であった。
事実を究明するために、徹底的に取材し、真実を突き止めるスタイル、強引な姿勢は我々にとっても薫風のように逞しく、そして、爽やか。
しかもその姿勢は、60年間貫いているかのように思う。
2016.09.26
「MK MESSAGE KEEPER」 10月号発刊しました
「MK MESSAGE KEEPER」 10月号発刊しました。
2016.09.21
神宮外苑・絵画館
神宮外苑のご案内で絵画館の二階にある明治天皇の人生を描いた画廊を訪れた。
関東大震災や、東京大空襲を逃れ、その偉大な建築物は、真夏にも関わらず、どこか冷え冷えとして、襟を正しながら、一枚一枚の絵を丹念に拝見した。
やはりこの国は、天皇制と言うもので存在している。つまり、一人一人の国民が、幸せという土台を目指さなければならない・・・・のだ。
2016.09.20
愛車人10・11月号発刊しました
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」10・11月号が
発刊しました。
全国のカーコンビニ倶楽部等でお手に取ることが出来ます。
車のメンテナンスや個人間売買の実例など
読み応えのある一冊となっています。
是非お楽しみください。
2016.09.20
月刊「美楽」2016年10月号 発刊しました
フジコ・ヘミング(出身地:ベルリン)
17年前に、『フジコ〜あるピアニストの軌跡〜』がNHKのドキュメント番組で放送され、その後、クラシック界では珍しく百万枚以上のCDを売り上げ、人気アーティストになった。
もともと、ロシア系スウェーデン人の父親から芸術の才能を受け継いでいるのだろうが、母親がピアニストだった影響と、長らく無国籍であったその根本的な生命のエネルギーが鍵盤に乗り移っているように思う。
ヨーロッパに留学し、聴力を失いながらもコンサート活動を続けたが帰国。やはり母の国の日本での活躍が、彼女にとっても誇りなのではあるまいか。
2016.09.06
日刊アマゴルフ2016 Presented by パイプドHD広告 制作しました
日刊アマゴルフ2016 Presented by パイプドHD広告 をプロデュースしています。
2016.09.01
株式会社札幌大成 広告制作しました
月刊「美楽」スポンサーの株式会社札幌大成 広告制作しました。
2016.08.25
「MK MESSAGE KEEPER」 9月号発刊しました
「MK MESSAGE KEEPER」 9月号発刊しました。
2016.08.22
月刊「美楽」2016年9月号 発刊しました
立花 隆(出身地:長崎県長崎市)
「知の巨人」のニックネームを持つ立花隆先生は、学生時代に、私が以前勤めていた会社でアルバイトをしていたと聞いてから、尊敬するだけでなく、どこか親近感を覚えている。
昨年亡くなった日刊ゲンダイの川鍋社長とも縁があり、当然ながら戦後の日本が生んだ最強のジャーナリストであり、文筆家でもある。「田中角栄研究」、「日本共産党の研究」をはじめ、一貫してその著作には人間の生と死が底辺に流れている。
最近テレビで拝見したが、以前にもまして、優しい目になっておられるように感じた。
2016.08.22
神宮花火大会2016
台風の来襲が9.10.11号とまとめて3本。
そういえば、以前も似たような記憶がある。
国立競技場で、梅雨の間とは知りながら、「三大テノール」をプロデュースしたことがあり、その時は、約7万人近いお客様に1枚、7万円というチケットを買っていただいたこともあり、梅雨の雲の動きに体の全神経を持っていかれた。
今年の花火大会も数日前から、気象予報図とオフィスのベランダから見る雲の動きばかりを追っていた。当日の朝、目覚めると、予想を上まわる土砂降り。
しかしながら、日本近郊の太平洋の海水の温度が上がっているため、雲が大きな煎餅のように塊、お陰で、時速25キロと自転車並に早い。
午前11時に、日刊スポーツのスタッフに電話をし、花火大会の決行をお願いした。数十万人の都民の期待をのせて、やがて青空は曇り空に変わり、それでも後ろ髪を引かれるように、通り雨が何度も何度も花火を見る観客席を濡らした。
花火の前に幾つかのコンサートが開催され、アーティストは、びしょ濡れになり、楽屋に駆け込む。スタンドのお客様も雨をしのぐために、席を離れて花火が打ち上がるのを待っていた。19時過ぎに、一度花火が上がると、神宮の空は美しい絨毯のようになった。上空を覆っていた雲も、その模様の中に吸い込まれていった。
2016.08.06
築地祭り( 築地本願寺 )
築地市場の移転が近い。この話が、利権や策謀と権力の横暴が匂い、様々に無理と無駄の象徴の様に思えるのは、これまたキチンとした情報開示つまり、決定までのプロセスが、曖昧で、納得できる説明が行われていないからだ。友人のすしざんまいの木村さんも、この移転のモヤモヤの中で、不愉快な思いをした。
都知事が小池さんに交代し、この築地あたりの問題にもメスを入れて欲しいと思う。
8時を過ぎても32度もある熱帯夜。幾万人の人が築地祭りに、押し寄せた。
鮎のしお焼きを、見ているうちに、東京都民が、串焼きにされて、大きな時代の流れに焦げ付いて炙られて、もがいている様に思えてきた。
2016.07.25
「MK MESSAGE KEEPER」 8月号発刊しました
「MK MESSAGE KEEPER」 8月号発刊しました。
2016.07.20
愛車人8・9月号発刊しました
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」8・9月号が
発刊しました。
全国のカーコンビニ倶楽部等でお手に取ることが出来ます。
車のメンテナンスや個人間売買の実例など
読み応えのある一冊となっています。
是非お楽しみください。
2016.07.20
月刊「美楽」2016年8月号 発刊しました
日野原重明(出身地:山口県山口市)
日野原重明先生は、来年で106歳になる。
高齢社会の日本にとって、聖路加国際病院名誉院長というよりは、元気でバリバリやる人間のお手本である。
睡眠時間は平均4時間半という生活であったが、96歳から徹夜をやめて、睡眠を5時間に増やしたそうだ。
以前、友人の食事の席に同席することがあったが、やはりたっぷりな野菜とお肉を召し上がっていた。その時に感じたのは、長生きするためにはとにかく多忙であることが条件なのだと思った。
2016.06.20
「食べる人」2016年6月号Vol4 発刊しました
「食べる人」2016年6月号Vol4 発刊しました!
2016.06.20
月刊「美楽」2016年7月号 発刊しました
羽生 善治(出身地:埼玉県)
1996年2月、将棋界で初の7タイトル独占を達成した数十年に一人の天才である。その活躍の場は広く書籍の出版から始まり、国際チェス連盟のブランドマスター、テレビコマーシャルの登場、さらには羽生さんをモデルにしたと言われる漫画の作品『月下の棋士』の主人公など幅広い。
その自然体で駒を指し、人生を生きる姿は、将来も楽しみなプロ棋士である。羽生マジックと言われるその勝負のあり方は、対戦棋士と共に腕を磨くというこれまた芯の強さを持っている。
一般棋戦の通算優勝回数は44回となり大山康晴名人と並んだ。
2016.06.13
GGGギャラリーを訪ねてみた
昼ご飯を食べに、銀座に入ると、リクルート8丁目のG8ギャラリーに顔を出し、7丁目のGGG(ギンザ・グラフィック・ギャラリー)に立ち寄り、その近辺の時計屋を何軒か訪れることにしている。
すると、不思議なことに、左脳から右脳に向かって、脳みそが空間移動し、妄想と空想とが肥大化し、いい気分になる。
GGGギャラリーでは、1980年代からのポスター展をやっており、日本のグラフィックアートの流れがよく分かる。特に、1990年代以前の作品は、作家の想像力も逞しく、クライアントに気を使うこともなく、自由な雰囲気が出ていて頼もしい。
2016.06.06
富士山マラソン2016
富士山マラソン2016
2016.05.25
月刊「美楽」2016年6月号 発刊しました
草間彌生(芸術家)長野県生まれ
長野県松本市生まれの彼女は、幼少の頃から幻聴と幻視に悩まされていたらしい。そのある種の恐怖感や違和感から逃れるために、水玉をモチーフにすることで魔除けのようにその疾病から解放されていたようだ。
もともと圧倒的な発想力と色感と常識から距離を置いた独創性が備わっていたに違いないが、個性のない国になってしまった日本においては、その存在感と必要度が増すばかりである。
日本ばかりか地球においても、最もクリエイティブな人物なのである。
2016.05.13
食べる人 英語版:中国語版
食べる人の外国人観光客用の別冊を企画、制作した。
やがては、3000万人、4000万人と来日されるであろう外国人の旅行者は、私にとっては迷惑な存在なのだ。何も日本へ観光に来るのなら、どやどやとルールもしらないで日本語も勉強しないで偉そうに道の真ん中を歩いてほしくないと思っている。
基本的には歴史や伝統がそれぞれの国にあるから、それほどの民度の差は感じられないが、やはり厚かましさは日本にとって相当な迷惑なものだ。それを注意しない日本の政府や日本人も弱々しいのであるが、インバウンドとか言って、彼らの財布に頼るこの情けなさはたまたないものだ。悲しい気分になる。
彼らは教育しなければならない。しかも彼らの大半はラーメン屋に入る。ばんからの草野社長とラーメンを食べながら、日本を勉強してもらおう、ということになった。
2016.05.05
隈研吾の東大カフェ
先日、友人のFさんの誕生日で、隈研吾さんに久しぶりにご挨拶をしたが、その数日後に東京オリンピック2020、新国立競技場の設計と建築を任されることになった。
とにかく、隈先生ほど飄々と頭脳を使い、淡々とセンスを披露し、無意識のように自らの美楽を図面に盛り込む人もいない。
僕にとっては、木の葉を形付ける風のようなデザイナーなのである。
2016.04.25
すしざんまい木村さんのサイン会
木村さんの本を企画プロデュースしたこともあり、八重洲ブックセンターのサイン会兼講演会の席で話を聞いている。
夜な夜な銀座でお酒を飲みながら、人生論を交わす木村さん。
ランチタイムにすしざんまいの将来像を語る木村さん。
さらには、あちこちのイベント会場に忙しく出席する木村さん。
木村清という存在は、どこにいても中心点になる。
その風貌もさることながら、築地市場で鍛えた声のせいなのか…何れにしても、スポットライトの真下が似合う男なのだ。
朝が近づく銀座の並木通りで、木村さんを見送る。
その後ろ姿には、夜を徹して語り尽くしても語りつくせないと、意外なエネルギーが燃えている。
2016.03.20
月刊「美楽」2016年4月号 発刊しました
「隈研吾」(出身:横浜)
もう30年近くも年賀状と暑中見舞いの手紙を隈先生に頂いている。この3文字の名前を見ると、その筆跡や筆圧すらも30年前から変わっていないように思う。決して、揺れたり、ブレたり、簡単には時代に同調しない人なのだと思う。
先日、友人の誕生パーティで久々にお目にかかった。国立競技場の設計という歴史に残る事業が決まったばかりなのに、昔と同じように「よう、元気?」と言われた。
この人の設計思想は、何世紀先になっても永遠の真実として残る気がする。
2016.02.20
月刊「美楽」2016年3月号 発刊しました
『黒柳 徹子』 (出身地:東京都)
以前、黒柳徹子さんとお目にかかり、ある住宅雑誌のCMを制作した。絵コンテやシナリオをほんの数秒で把握したと思いきや、黒柳流のパフォーマンスで30秒というCMの表現時間をはるかに超えたインパクトの演技をしていただいた。
今に至っても、そのファッションとヘアスタイルは普遍であるだけでなく、声もほとんど変わりはない。さらに、我々が本当に知りたいことを取材する能力は、業界でも群を抜いている。
人間そのものを報道する。我が国最高のキャスターである。
2016.01.22
月刊「美楽」2016年2月号 発刊しました
「木村清」(出身:千葉県)
木村さんは寿司屋のチェーン店のオーナーであるが、僕にとっては最近滅多に見ることのなくなった完全燃焼型の事業家であり、経営者であり、男である。
これほど、生命力を出し惜しみすることなく、日本を豊かにしようと考えている人はいないのではないか。
マグロと言う魚をメディアにして、この先行き不安な日本の「大きな灯台」の役割を担っていただいている。
2016.01.21
愛車人2月号発刊しました。
カーコンビニ倶楽部が発刊する月刊「愛車人」2月号が
発刊しました。
全国のカーコンビニ倶楽部等でお手に取ることが出来ます。
車のメンテナンスや個人間売買の実例など
読み応えのある一冊となっています。
是非お楽しみください。
2016.01.21
Peaching2月号発刊しました。
Peaching2月号が発刊しました。
ピーチ航空の就航空港の搭乗口等にてお手に取ることが出来ます。
是非お楽しみください!
2016.01.19
大相撲・初場所
大相撲を観戦するには、砂かぶりと呼ばれる席を置いて他にない。懇意にさせていただいている弁護士の先生から、今場所も観戦チケットをいただいた。
人間の神経には、自律神経があり、興奮し血流を早くし戦いを目指す交感神経と、癒しと安らぎとゆとりをもたらす副交感神経があり、30センチ先の力士の背中を見ていると、桃色になったり、青白くなったりとこの2つの神経が交互に繰り返す。
毛細血管が充血して、交感神経が高まったところで、土俵に上がる。何回か塩をまいて、副交感神経が働き始めたあたりで技術と精神が充実し、さらに相手の隙も見えてくる。
人生もこの二つの神経に大きく影響されているように思えるのだ。
2016.01.07
沖縄の元気な若者
沖縄の元気な若者がホテルの庭の手入れをしている。
沖縄は日本で一番失業率が高いと言われている。特に、20代、30代の若者の失業率は、10%に近づいている。
日本も同じで、労働者の3人に1人は、人材派遣会社を通して、仕事をしている。言って見れば、いつでも職を変えられる自由なライフスタイルと政府は考えているらしいが、明日なき不安定な労働者。
賃金が正社員と比べて、安いだけでなく、身分の保障もなければ、何より人生設計もしづらい。親の面倒を見ることが難しいだけでなく、結婚することもできなければ、病気にもなれない。
朝の太陽を浴びて、庭師を志す若者は、決して派手な生活に憧れているわけではないが、豊かな青春を送っているように思えた。
南国の花々に囲まれて、燦々と太陽を浴び、海鳴りの音を聞きながら一日を終える。その繰り返しの中で、喜怒哀楽という感情を、心のインフラで蓄積している。都会の娯楽という名のインフラの中で、体温を下げている若者たちは、花の名前も知らない。
2015.12.31
大晦日、麻布十番の更科蕎麦
大晦日の夜、久しぶりに格闘技の仕事が入ったので、楽屋に年越しそばを届けようと、朝から麻布十番の更科蕎麦に出向いた。
まだ準備中である。
この店は、大晦日の夕方から満席になることは毎年お馴染みのことなので、近所の高校生の手を借りて、数百人分の自宅で年を迎えるためのお土産用の年越しそばを即売をしている。
それにしても、最近は正月気分がなくなって、大晦日一日で年を送り、元旦一日で年を始める。
そんなテンポになってきた気がする。
2015.12.25
桜島神がかり
桜島の空が一日として同じ色や形であったことはない。
司馬遼太郎先生が書いている。
「この島に、指紋を残した人はいない」
しかし、この神がかった空をきっと若い日の父が見ていた気がするのは、なぜだろう。
2015.12.21
月刊「美楽」2016年1月号 発刊しました
羽生 結弦(出身:宮城県仙台市)
戦後、日本人の顔立ちや体型が変わったと言われるが、羽生選手はまさにその典型である。
8頭身とも10頭身とも思われるその肢体から3回転あるいは4回転ジャンプを惜しげも無く繰り返す。
彼の今年のテーマは“和”。日本の伝統的な見直しでもあり、世界へのアピールのようにも思われる。
氷の上のスポーツが、北欧やロシアや北米大陸を圧倒的に凌駕し、この小さな島国の誇りとなっている。
2015.12.15
銀座8丁目のクレパス
銀座8丁目の行きつけのとんかつ屋に向かっている。
夜徘徊することが多いので、明るい間に裏道を発見しようとビルの谷間に迷い込んだ。ここに住むネズミたちが楽に通り抜けることができる細い道から、青い空が間延びしたホステスさんの帯のように見えた。
ここは銀座のビルの氷河地帯。
このクレパスにはまり込んですっかり体を挟まれて、人生を挟まれて、這い上がることができなくなった友人のことを思い出している。
2015.12.01
おみくじインバウンド
2020年になると、おそらく3000万人をゆうに超えると思う外国人観光客。彼らは北海道の水源から(中国人)、100円ショップ(スペイン人)、ついに神社のおみくじまでお買い物をしてくれる。
日本にある神社の数は、約3万程度と思われるが、日本市場初めてのこの多国籍化現象には、驚くばかりである。
ただでさえ足りない通訳が神社にいるはずもなく、ついにこんなおみくじ自販機が現れた。10年後には・・・巫女ロボットがインバウンド市場を担うことになる。
2015.11.24
Peaching12月号発刊しました。
Peaching12月号が発刊しました。
ピーチ航空の各就航空港の搭乗カウンター等でお手に取ることが出来ます。
是非ご覧ください!
2015.11.24
愛車人12月号発刊しました。
愛車人12月号が発刊致しました。
全国のカーコンビニ倶楽部加盟店等でお手に取ることが出来ます。
是非ご覧ください!
2015.11.02
浜松町貿易センター開発中2
羽田空港から都心に向かう道路が、天王洲の手前で新宿方面行きの新しい首都高が開通したおかげで、やや車の量が少なくった。
国土交通省が蜘蛛の糸のように首都高を作り始めたのが昭和39年。つまり今からちょうど50年前にあたる。都心の皇居を中心に放射線状に伸びた道路が通勤ラッシュの時間には全て渋滞し、ましてや連休になるとその先にある東名・関越・東北・常磐などの地方に伸びる道路で大渋滞が起きる。
一方で、蜘蛛の糸でいうと横の目にあたる環状線が開通し始めたことで例えば東名高速から東北自動車道に首都高速を使わないで接続できるようになった。逆に言うと、東北からきた車は東京を通過しないで埼玉から長野に抜けられる。
半世紀経って、この高速道路の蜘蛛の糸目がしっかりと結ばれてきた感じがする。
浜松町貿易センターが完成するのは2028年。その頃の都心は、リニアモーターカーの開通を含め、相当に人の流れが変わる。浜松町も今より人がまばらになっている気がしないでもない。
新しい貿易センターに病院や老人や教育施設や映画館などの集客施設がたくさんできるといいのだが。
2015.10.26
Peaching11月号発刊しました。
10月20日にPeaching11月号が発刊されました。
全国のピーチ航空の就航空港や都内ホテルやレストラン等でお手に取ることが出来ます。
是非ご覧ください。
2015.10.26
愛車人11月号発刊しました。
10月20日にカーコンビニ倶楽部の発行する愛車人11月号が発刊されました。全国のカーコンビニ倶楽部でお手に取ることが出来ます。
是非ご覧くださいませ。
2015.10.20
月刊「美楽」2015-11月号 発刊しました
「桂 歌丸」
笑点の司会者で有名な桂歌丸さんは、横浜・真金町の妓楼で生まれ、女の化粧姿を見て育った。そして、古典落語独特の江戸言葉は使わず、美しい日本語で語ることをモットーとしている。戦後、ラジオから流れる落語に影響され、落語の道に入り、70年近くたった。カナダをはじめ、アメリカで英語の字幕付き講演などで落語の世界への普及も努めている。
どこかの会社で英語を社用語としているばかな時代とあって、落語を通して、日本と日本人を考えていてくれているまるで日の丸のような存在だと思う。
2015.10.11
オアフ島のクラゲ
オアフ島のクラゲが例年より早く、しかも異常繁殖している。ワイキキのあたりは、厚化粧をした女郎のようなものでこの島の本当の姿はなかなか見せてくれない。
車で久しぶりに北部のマカハ地区にいる友人の酒屋の主人に会いに行った。日系三世で、剛健な筋肉質の巨人だからこそ、この危険地帯で酒屋を営めている。
島の北西部の海岸は、台風の影響でどんよりとして波が強く荒れていた。地元のサーファーには、命をかけるにはもってこいのビックウウェーブが押し寄せている。
「実は、サーフポイントは増えているんですが、クラゲも急に増えましてね。それも、電気クラゲのでかいやつ」
毛深い太い指で、炭酸水を飲みながら、話してくれた。
波を見に行こうという話になって、2人で雨まじりの砂浜を歩いていると、以前はほとんど目にしなかったクラゲに注意の看板が目に付いた。
台風24号。日本には珍しい台風で、カリブ海のあたりで発生した雨雲がハワイ諸島の上を通り抜け、日付変更線あたりでその力を増し、直径1400キロもの大きな雨雲の塊になり、日本に向かったそうだ。
2015.09.24
月刊「美楽」2015-10月号 発刊しました
又吉 直樹(大阪府寝屋川市)
『火花』で又吉直樹さんが芥川賞を受賞して、再び日本の文学史における芥川賞なるものの存在にスポットライトが浴びている。第2回選考時に当時、選考委員の一人の佐藤春夫に太宰治が受賞を懇願する手紙が見つかり、「私を見殺しにしないでください」と、泣き綴られていたという。
フィギュアスケートの選考や体操の選考などは、いわゆる判定を選ばれた人に委ねられているのである。その基準は曖昧ですっきりしないものが多い。
まして、東京オリンピックの佐野氏のデザインほど不透明で不健全なものはない。
賞が税金に関わってくるだけに、誰にも理解しうる開かれた場であってほしい、と皆が思っている。
2015.09.18
Peaching10月号発刊しました。
本日9月18日にPeachingが発刊致しました。
ピーチ航空の就航空港や都内ホテル等でお手に取ることができます。
是非御手にとってくださいませ。
2015.08.21
愛車人創刊マイナス1号発刊しました。
いつも愛車と共にでご存じのカーコンビニ倶楽部さんが発刊する
月刊誌『愛車人創刊マイナス1号』が発刊されました!
車に関する情報の他、カーコンビニ倶楽部の林社長の対談や周遊スポットの紹介等、見どころのある一冊になっています。
全国のカーコンビニ倶楽部や都内ホテル等でお手に取ることが出来ます。
是非ご覧ください。
2015.08.20
Peaching9月号発刊しました。
本日8/20にPeaching9月号が発刊されました。
今月は羽田空港就航を記念して特別に
一橋大学の米倉誠一郎教授にイノベーションについて、そしてPeach航空について4頁にわたり語ってもらいました。
是非ご覧ください。
全国のPeach就航空港や都内ホテル等でお手に取ることが出来ます。
2015.08.20
月刊「美楽」2015-9月号 発刊しました
三宅 一生(広島県広島市)
1945年、7歳のときに被爆した三宅先生は、「破壊されてしまうものではなく、創造的で美しさや喜びをもたらすもの」を考え続け、被服デザインの道に入られた。
布と身体のコラボレーションというべきスタイルが着る人の体型を選ばず、さらに皮膚の色をも飛び越えてしまうほどの代表作『プリーツ・プリーズ』などの誕生に繋がっている。
スティーブ・ジョブスのトレードマークである紺のタートルネックがどれほど21世紀の人類に影響を及ぼしたか、ということを考えると、三宅先生の影響力は服飾業界を超越し、IT業界を巻きこんで、地球上すべての人に影響を与え続けているといっても過言ではない。
2015.08.07
40℃
40℃。気象庁の友人のA氏に電話をしたら、どうもしばらく東京はこんな天候で四季を繰り返すようだと。しばらくというのは、なんと100年。
つまり、地球温暖化による海水温度の上昇で、雲の流れがすっかり変わってしまっただけでなく、例えば、東京で言えばヒートアイランドといわれる都市化による高温度化に対応できる仕組みができていない。
聞くところによると、ベンツをはじめとした輸入車の仕様は、どうも東南アジアやインド向けと同じになっているようだし、加えて、アルゼンチンの熱帯雨林に住む蟻や、さらには南シナ海で泳いでいる熱帯魚まで北上して、すっかり我が家を日本にしている。
政府はサマータイム導入や、省エネスーツでその場しのぎの涼しさを求めているようだが、この暑さはやがて日本経済にGDPの下降という大きなダメージを与えるであろう。
私の試算では、個人のGDPで7%。つまり、21兆円もの損害をもたらす猛暑なのだ。
2015.07.28
2015全英オープン
全英オープンの開催地は、七年に一度ごとに巡回している。
今年は、セント・アンドリュースで開催される、ということで、21年ぶりにエジンバラに滞在している。
以前宿泊していたスコッツマンホテルも、変わらない。
最寄りのエジンバラ駅のレンガの色も変わらない。
セント・アンドリュースに向かう電車の色も人々の込み具合も、さらには出発時刻の好い加減さも変わらない。
つまり、変化の多すぎる日本に住んで、生きて、だからこそなおさら、変わらないことが新鮮なのかもしれない。
2015.07.22
Peaching8月号発刊しました。
Peach航空就航地の各搭乗カウンターや、都内のホテル、六本木バニティにてお手に取ることが出来ます。
2015.07.21
月刊「美楽」2015-8月号 発刊しました
大林 宣彦
大林監督は、戦後日本の映像の歴史に、ときには映画、ときにはテレビCM、もちろんテレビドラマと、あらゆるところに足跡を残している。
みなさんご存知のチャールズ・ブロンソンの「マンダム」のCMでは、初めてハリウッドスターを起用した。6歳のときに、35ミリフィルムでアニメーションを作ったという伝説があるが、まさに時をかける映像作家である。
代表作にもなっている『尾道三部作』を見ると、彼がいかに尾道の風景を愛したかが・・・身に染みる。
2015.06.30
月刊「美楽」2015-7月号
山本五十六(新潟県長岡市)
アベノミクスがまるでカンフル剤のように日本経済に刺激を与えている。しかし、本質的には、あるいは近未来的には、日本経済が立ち直る余地はない。国を株式会社と見立てたときに、膨大な借入れ残高と労働力の低下とさらには、従業員の医療や年金など、呆然とするほど倒産寸前なのである。さらに、議論を深めることもなく、我が国の平和憲法は、揺らぎ始めている。
敗戦70年目を迎える。あのときも、エネルギーに苦しみ、国際戦略の大きな過ちがあった。アメリカとの戦争のように、誤解されているが、米国と中国の戦略に巻き込まれた結末の分かった戦争であった。
銀座の裏の木挽町に、山本五十六先生と縁のある料亭がある。戦地から何枚か手紙が送られてきた。几帳面な文字で書かれたその手紙には、「やがて東京が焼け野原になる、疎開を急ぎなさい」と書いてある。人は、問題が重要で、複雑に絡めば絡むほど、どうも萎縮して動けなくなるようだ。
今の日本は、先を見て課題を整理する能力が足りないように思う。
2015.06.24
Peaching7月号発刊しました。
6月22日にPeaching7月号が発刊されました!
Peach就航空港カウンターや都内のホテル等でお手に取ることが出来ます。
とうぞお手にとってご覧ください。
2015.06.05
照屋リンケンさん
照屋リンケンさんのギターを聴いている。
リンケンバンドを率いる沖縄の音楽は、この20年で日本の音楽シーンの中に定着した。普段は、照屋家の伝統を引き継ぎ、三線を披露しているのだが、ギターの腕もなかなかのもので、つま弾く音の端々に、やはり沖縄の音階が心地よく流れている。
ギターの音に合わせてハミングすると、私の体にも南風が流れてくる。
20年振りになるだろうか。二人して、ギターを合奏している。
やはり現役の強みだろうか。リンケンさんのつま弾く音の方が生きている。
2015.05.20
月刊「美楽」2015-6月号
大江健三郎(出身:愛媛県)
悲しいことに出版不況である。
日本人と活字や言葉の距離が日に日に離れて行く気がする。3400万人ともいわれる団塊世代が大江健三郎を枕元の蔵書にしていた頃からほぼ半世紀が過ぎた。 ノーベル賞を受賞したことで日本よりむしろ海外での評価や親近感の方が固まっているとも聞いた。
今、再び大江先生の作品『壊れものとしての人間』(講談社、1970年)を読み返し、日本が途方もない将来を迎えるのではないかと危惧している。
2015.04.27
月刊「美楽」2015-5月号
吉永小百合(出身地:東京)
吉永小百合さんほど“スター”の資格を感じる人はいない。母国日本を愛し、愛を貫き通し、それでいて立ち振る舞いは美しき常識人である。
女性のバイタリティのあり方を誤解している女性に、吉永さんの爪の垢を煎じてほしいと思うことがある。
2015.04.02
『羅針盤のない島』古庄幸一著
「国家とは、一体何だろう。
ある一定の期間、特定の集団がその土地に住み領土とし、生活を営み、
文化を築き上げた場所のことをいう」
と言った人がいる。
もし日本が国家だとすると、二千年以上の長きにわたり、
そこで延べ数億人の同一人種が同一の言語で交配を繰り返しながら、
脈々と暮らしてきた。
とすると、これほど国家という規定に明確な土地はないのではあるまいか。
しかしながら、この国家の基盤である経済はいまや破綻に近い状態で
しかも、そこに住む人材もさほど優れた教育を受けておらず、
さらには急速に普及するIT革命や目の前の人口減少という難題の中で、
日本人であることを失いかけている今日である。
古庄さんは、紛れもなく日本人の心の持ち主である。
その肉体は二千年前から流れている血液と、
職業を通して吸収された強靭な骨格と、
幼少のころに育まれたと思われる繊細さと知恵で構成されている。
月刊「美楽」に執筆を頂いてから、連載の本数は三十本を越える。
その文字の数は、およそ五万文字以上。
まだまだ連載の期間も本数も多いとも、長いとも言えないのであるが、
美楽『百念選集』として、別冊を作らせて頂くことにした。
ご本人の意向はさておいて、読者という名前の社会の要請があまりにも多く、強いからである。
来年で、日本が第二次世界大戦に敗戦してから、七十年になる。
この間、欲望の満たし方は西洋化し、その過程で喪った民族の歴史や文化や精神は、限りがない。
「ローマは一日にしてならず」ではないが、
「国家は無意識のうちに消滅する」。
※あとがきより
2015.03.30
Fine Tuning♪ 撮影:指揮者・原田慶太郎氏
黒い円盤が回転し、針を落とし、うっすらと音が流れ始める。聴く側と演じる側は一対一の相対関係の中で、同化していく。
幕が上がり、指揮者がタクトに命を吹き込むと、演じる側と聴く側は、溶解しまた同化する。
スピーカーと耳の間の空気が揺れるのとは異なる風のようなものが、会場に僅かに流れているのは、ライブ(実演)である。
冷え冷えとした宮殿で奏でられたクラシックと、冷暖房の効いた音響機器を調えた現在のコンサートホールで聴く音の違いは、検証は出来ないものの、明白である。
しかし、聴き手のこころの振動は、変動してはいないはずである。
2015.03.25
『食べる人』ばんからラーメン 創刊準備
ラーメン業界というよりは、日本の料理業界の中でもっとも期待している花研のばんからラーメンチェーン店の会員メディア(食べる人クラブ)の創刊準備をしている。
なんとなく、沖縄問題から集団的自衛権まで平和憲法の考え方が揺らぎ始めている。そんな中で、いわゆる国境なき料理屋さんとでも言おうか。ラーメン業界の海外進出は、頼もしいばかりで心の底から応援しなくてはならないと考えている。
ばんからチェーン店の社長の草野さんは、何と言っても苦労人で、そこからくるキャリアにもよるのだろうが、判断が早く、想像力に富み、おそらく未来は料理業界に留まっている気がしない。
翻って、日本も他国も料理を縦横無尽に受け入れ、フランス料理からイタリア料理、さらには南米のチリやひいてはアフリカの料理屋まで百花繚乱である。
「食べ物に国境はない」
しかし、食が原因で人は戦争を始める。ばんからラーメンは、考えてみれば外務省の仕事を担いながら、日夜その背脂スープの味を追求しているのである。
2015.03.25
月刊「美楽」2015-4月号
「瀬戸内寂聴」(出身地:徳島県徳島市)
人は、与えられた生命を十分に燃焼し、その才能を発揮し、振り替えたときにできた足跡を線で引いたものを人生とするなら、瀬戸内先生ほどの艶やかな色に彩られた道はないと思う。
二十数年前に嵯峨野の寂庵を訪れて以来、その多岐に渡る活動一つ一つが、私の人生の指南であった。座右の銘は「生きることは愛すること」。この意味も昨今、人から地球、地球から「無」へと昇華しているようにも思える。
2015.03.20
Peaching2015年4月号
Peaching2015年4月号
2015.03.13
父の百人一首
私の祖母にあたる 東きわ は、長寿で102歳まで明け方にニワトリを追っていた。1876年生まれの彼女は、3人の男子と2人の女子を育て上げ、そのうち2人の男子は第二次世界大戦で、海軍士官学校卒の叩き上げとして、マニラへ向かう艦隊の先陣でアメリカ軍の空襲を受け、命を落とした。
たった一人残った父は、東家が途絶えないように海外へ留学し、終戦後、帰国し、家を継いだ。きわは、明治時代の教師だったこともあり、とりわけ末弟の父には厳しい教育を施したらしく、中でも筆の修行に関しては、夜を徹して教えていたらしい。
父が30年ほど前に、百人一首を描き上げた。何日かけたかは定かでないが、2年ほどかかったとのこと。
芝パークホテルの青木さんのお力添えで、その作品を館内の和食店「花山椒」の壁に張り付けて貰った。足の悪い母が上京したときに、父の作品を喜んでくれるか、それとも「花山椒」の焼き魚に気がいくか分からない。
2015.02.09
Fine Tuning♪ 撮影:指揮者・原田慶太郎氏
歌い手が聴衆と同化した瞬間に、会場は静まり返った。
すべての呼吸が止まり、瞬きする音すら聞こえない。
まるで、動きの止まったモノクロームのフォトグラフのような瞬間が静止している。
傑作を生むのは、作曲家でもなければ、聴衆でもなければ、音楽でもない。
音というものが昇華して、何かのはずみにすべての「あたり」を融合するのだ。
やがて、生も死も存在しない、永遠というサムシングが聞こえるような気がした。
(月刊「美楽」2015年3月号より)
2015.01.29
浜松町貿易センター開発中
浜松町貿易センタービル開発中の写真である。アベノミクスであろうがなかろうが、浜松町は昭和30年代(1960年代)から明らかに東京だけでなく、日本の玄関である。羽田空港を利用して海外から来る旅客者の数は、昨年で約700〜800万人ともいわれ、浜松町はそのモノレールの始終駅でもある。その上に聳えるのが、貿易センタービルである。
みなと区だよりによると、すべての工事が完成するのが2028年。二つの高層ビルが立ち上がり、それにより周辺地域の開発も一気に進むらしい。
増上寺の屋根をすべり抜けるようにして、富士山からの霊風があたり一体に渦をまいて裏通りにある小さな喫茶店から東芝やNECなどの大企業まで、大いにこの工事現場の恩恵を受けることになる。
工事現場の写真を定期的にレポートしたいと思う。
2015.01.26
汐留の動物園
汐留のパークホテル東京の25階のフロント脇のレストランは、今日本で一番楽しい動物園である。林総支配人の遊び心と人を喜ばせるセンスには驚かされる。
今回のテーマは「冬の動物園展」と題して、レストランのダイニングテーブルの横や、壁際やコーナーに、鳥や動物のつくりものアートが飾り付けている。
そもそもこのフロアは、空に抜けるように高く、普通でも心地よくミルクティーを飲めるのだが、その解放された空間に装飾をするという発想が何とも喜ばしい。そんな林総支配人から物腰やわらかく、
「少し遊んでいってくださいよ」
と、部屋のパンフレットを差し出した。いくつかの部屋にはどうも中世の清の時代の漢字をベースにした部屋に仕上がっているらしく、壁には巨大な屏風や書が掛けられているようだ。
東京オリンピックが開催されると、汐留エリアは間違いなく数十万人の観客を迎え入れられることになる。ただ寝て、休んで、食べる、だけのビジネスホテルも悪くないのだが、何度も訪ねてみたくなる大人の娯楽空間として、アートをテーマとしたこんなホテルも東京という街の評価を高めてくれる。
※平成26年3月末現在の旅館業の営業許可施設数は、7万9,519施設であり、前年度より893施設の減少となっている。(厚生労働省/衛生行政報告例より)
2015.01.16
相撲観戦
相撲観戦。親しくさせて頂いている弁護士のT先生から砂被りのチケットを頂いた。横綱・白鵬は、以前「美楽」に執筆して頂いたこともあり、声をかけるわけにもいかないのは承知の上だが、その勇姿を久しぶりに観戦した。
今、相撲界は逸ノ城、遠藤、照ノ富士という若手人気力士が誕生したことで、白鵬対ニューウェーブという構造になり、久しぶりの賑わいを見せ始めている。年寄と呼ばれるOB力士たちが育成する若手力士が、44ある各部屋に蕾のごとく華を咲かせようとしている。
彼らは、やがて十両にもなると年収は出張手当やらボーナスなどいれると、1千数百万円にもなる。世のサラリーマンから比べると、結構な高額所得者となる。
【美楽の提案】
コンテンツビジネスとして、食品業界や飲食ビジネスを協会で考えてみてはいかがだろうか。例えば、安いちゃんこ鍋のチェーン店などなど・・・。
2015.01.07
マイファームの西辻さんの米
マイファームの西辻さんが運営する棚田畑で今年も米がとれた。
前回の美楽米も好評だったので、今回も2トンほどのお米を1キロずつ小袋に入れて、父の香典返しとして、お配りした。このお米は、棚田米で傾斜がきつい、しかも耕作面積も小さい、兵庫県養父市の段々畑で収穫された。
日本における棚田は、どちらかというと地形的に急な山地が多い。西日本が多く、一方で東海地方や関東地方など大きな平野があるところはあまり目にしないような気もする。
棚田は、階段状になっているため、排水能力が高い。よって、ワサビなどの付加価値の高い商品を栽培している畑もなる。
今年のお中元は、「美楽ワサビ」でも作ってみようかと考えている。
2014.12.22
月刊「美楽」2015-1月号
美輪 明宏(長崎県出身)
昨年の紅白の美輪先生の存在感は、一体なんだったのだろう・・・と考える。
最近妙にテレビ出演が多く、タレント扱いされているようであるが、もし大衆芸術という言葉があるのであれば、我々観衆が美しさと強さ、弱さ、儚さを同時に感受できる最後の才能である。
「ヨイトマケの唄」を聴きながら、今の日本を嘆けかわしく思った人も多いと思う。
2014.12.15
カーコンビニ倶楽部の『愛車主義2015』
カーコンビニ倶楽部の林社長に依頼されて、『愛車主義2015』が出来上がった。この本は、今年で3年目になるが、いわゆる林さんの名刺代わりになるようなイヤー・ブック(年度版)となる。
日本にあるチェーン店化した店舗数は、コンビニエンスストアの5万5千店舗を筆頭に、ラーメン店、居酒屋から美容室、歯医者なども取り入れると、約10万店を超えようとしている。皆さんが街を歩くと、約400メートルに一つの店舗がどこかのチェーン店に入っている計算となっている。
カーコンビニ倶楽部は、その中で飲食店や一般の消費型のチェーンと異なり、社会的使命を一層帯びているチェーン店である。なぜならば、この800店あまりのチェーン店は、地球環境から高齢社会、さらには福祉に至るまで、新しい日本の方向を担う義務と責任を持っている。
10年後になると、日本の車は水素自動車と電気自動車と旧来のエネルギー自動車と混合された社会になる。国民の医療費は、およそ70兆円を超え、車椅子に乗っている人が700万人を超える。
京都議定書から40年を過ぎようとしているあたりでは、地球全体のCO2規制が強化され、その中で八つ当たりを食らうのは間違いなく日本である。そうした中で、カーコンビニ倶楽部が環境適用車を扱ったり、車椅子をリースしたり、という風に業様を変化させながら成長していくことを考えると、心が躍るのである。
かの有名なピーター・ドラッカーは、「社会革命とは技術とサービスによる変革が庶民の生活を変えることである」、と書いてある。
2014.12.12
浜離宮の運河
浜離宮の運河の片隅の腐りかけた木製のベンチに座っている。
日本にまだ少しはエネルギーが残っている頃、1985年あたりのクリスマスにこのあたりを訪れたことがある。
あの頃は、“ウォーターフロント”ブームというのがあって、シャレた飲み屋やブティック、さらには今でいうIT企業の走りのような会社が東京湾の芝浦辺りを中心に、続々と移りはじめていた。
来年2015年で、言って見れば“ウォーターフロント”ブーム30周年を迎える。すべての人が携帯電話を持ち、東京湾に大きな橋が4つもかかり、ゆりかもめが離れ島を結び、霞ヶ関と新宿と池袋にしかなかった高層ビルが、都内だけでものべ200本近く建った。
諸行無常である。
今あるものは、確実に無くなる。海ですら無くなるのであるから、街やそこに住む人々が今のままであるはずがないし・・・・。
2014.11.20
月刊「美楽」2014-12月
ダルビッシュ有
あの炎天下の甲子園で、五万人もの観衆をわかし、日本中に勇姿を見せつけたダルビッシュが、いまや世界一の投手となって、世界中の野球ファンを魅了している。
相撲やバスケットやテニスとは異なり、ここのところの野球界は、アマチュアとプロ、日本と世界という壁がなくなりつつある。今、テレビの前で彼の活躍を見ている高校生が、五年後に大リーグのエースとして、マウンドを踏む時代がきている。やはり、鉄は熱いうちに打たれるもの。
2014.11.10
まさに夕焼け。
まさに夕焼け。
圧倒的な色彩に、創造することさえできない。
2014.10.30
肝付高夫氏のこと
肝付高夫氏が亡くなられた。
彼は、私にとっていくつかの役割を演じてくれた。幼い頃は、茫洋とした島風のようで、どこか桜島のようでもあった。
少年の日々は、権威であり、法律であり、もの言わぬ辞書であった。
その後、飛び越えなければならない川となり、川を渡ったあとは無二の友であった。その晩年は、博識の弟のような存在であり、また無数の枯れ葉をまとった銀杏の大木でもあった。
私は未だに父という言葉の意味が分からずにいる。
2014年10月30日 午前1時35分
2014.10.20
月刊「美楽」2014-11月号
北野武(出身地:東京都)
以前勤めていた会社の裏通りに文壇バーとして有名な「M」があった。毎晩そこに顔を出し、吉行淳之介先生や、遠藤周作先生などの文学界の巨匠と席を並べてお酒を頂いていた。
ある夜に、ツービートを解散したばかりの北野武さんが御出でになられた。今からもう30年近くになる。北野さんの活躍をテレビで拝見して思い出すのは、あの頃の「M」の時代である。まだクリエイターという言葉もなかった時代のことで、しかし創作者のエネルギーが漲っていた時代であった。
2014.09.27
江副さんの記念碑
江副さんの記念碑は、安比高原の入り口に建てられた。
台風と台風の随に、秋晴れを感じさせる午後に、除幕式が行われた。まだ東北新幹線も走っていない頃に、この地に研修センターを兼ねたホテルとゴルフ場とスキー場を計画した。そのスケール感は、一体なんだったんだろうと、考えている。
安比には、まだまだ無数の自然が息づいている。
ゴルフ場にあるせせらぎには、山椒魚がいる。幻の魚といわれている岩魚も、数多く見かける。高原ではあるが、夏になるとカブトムシやクワガタが肩に止まったりもする。
記念碑の向こうに、雲一つない夕焼けが空の色を赤く塗り替えている。黒い無数の点が、不意に記念碑を通り過ぎた。赤とんぼの群れである。そのうちの一匹が、記念碑の上に止まって、僕と目と目があった。
ひょっとして・・・・・・・・・・
今でも、明け方に携帯電話がなると、
「安比にいきませんか」
と、誘われる夢を見る。
2014.09.24
台湾
台湾の歴史は明治維新以降の日本の歴史のキーマンであるにも関わらず、あまり取り上げられていないのは不思議なくらいである。鉄砲や宗教の伝来、歴史的事実に関わった島でもあり、琉球王朝との関わりから無論、毛沢東と蒋介石の関係、そして第二次世界大戦におけるジオポリティックス。さらに、今日現在の地政学的意味合いなど、実はハワイなどにのこのこ出掛けるより、日本人はもっと台湾にお金を落とすべきなのである。
先日お目にかかった劉さんは、台湾のホテル「THE LALU」のオーナー筋である。築地の金田中の裏にセンスのよい仏小料理屋を開いている。彼女から月刊「美楽」の広告の申し込みを頂き、全日空のT氏と年内に青島に行くことになった。
因に、青島は第二次大戦中、日本人の占領下におかれた海岸の美しい街で、そこに新しいホテルがオープンするという。学生以外に青島に映画の撮影で訪れたことがあって、そこの建物の中に無断で入り込み、逮捕された記憶がある。どうも、青島の裁判所でその日の午後、誰かの処刑が執り行われる予定であったらしい。
2014.09.18
芝大神宮「だらだら祭り」
新聞やテレビで高齢社会の特集が五月雨に企画されている。国民医療費の増加から老人の孤独死まで様々であるが、最近目につくのがお墓の改装である。
日本全国で数百万ともいわれる寺や霊園、個別に管理されている墓の維持や管理ができなくなっているということである。そこで、とくに戦後都市に集中した労働者が出身地やふるさとのお墓参りもできなくなるどころか、放置されてしまい、やがて無縁仏となってしまうのである。
私たちは、何十億分の1かは知らないが、偶然と奇跡の産物によって、この世に「命」を授かっている。
下着もなかった時代の先祖は、それこそ気象の変化や地震、様々な病気や戦争などの「死」を避け、命をつなげてきた。よって、簡単にインターネットでお墓参りをするという訳にもいかないのだ。
私の家は、先祖代々神道である。かといって、神様を信じないわけではないが、神社の祭りとなると少年時代から胸が騒いでしまう。たこ焼きやお好み焼きや金魚すくいもほとんど興味の対象ではなく、鳥居をくぐった瞬間に子供ながらに身がしゃんとなるのが好きだった。
今年もちょうちんをぶら下げてもらった。
2014.09.12
デザインハブ 第47回企画展「本・ ことば・デザイン」展
第47回企画展「本・ ことば・デザイン」展
僕にとっては、すべての存在はメディアである。という考え方が身に付いて離れない。
以前、コンビニエンスの弁当や食材を、山ほど企画した時代があったが、そのときもコンビニエンスのトイレの壁から床から、天井にはじまり、おしぼり袋や割り箸の裏側などなど・・・ぜひ有効利用しましょうと、提案したことがある。
この発想は、ある意味病気に近いもので、目を閉じない限り、ほとんどすべてのものはメディアに見える。人間としてのものの見方が変わってきてしまう、言わば”貧乏揺すり”のようである。
という意味で、最大のメディアは竜安寺の石庭に置いてある石のようなメディアのあり方が、私にとってはメディアの美学の最終系のように考えられるのである。
月刊「美楽」の言わば”世の中の石ころのようなメディア”になればと考えている。
2014.08.20
月刊「美楽」2014-9月号
キャロライン・ケネディ
キャロライン女史の姿を最初に私たちが見たのは、1963年の彼女の父の告別式の映像で、心を打たれた人も多いと思う。オバマ大統領の対アジア戦略の切り札として、日本大使館に訪れてから、被災地での救援活動から米軍基地の問題まで幅広く主案を発揮している。
私も彼女の一ファンであるが、それは彼女の政治活動についての関心ではなく、10代の頃、彼女の1枚の絵を買ったことからである。その絵がアメリカに対する向学心に火をつけてくれた感謝の気持ちからである。
2014.08.10
江戸川乱歩と金魚
アートアクアリウム2014 ―江戸・金魚の涼―が開かれている。
金魚というと、夏の風物詩でもあったが、最近とんと見かけなくなったのは金魚売りである。
数年前、大手コンビニエンスチェーン店で、当時としてはかなりメディアが大騒ぎ(生き物を売るということ)したが、やどかりを販売してもらったことがある。弁当を買いに来たお客さんが、何匹かやどかりを買って帰るということが画期的な企画であったが、なにより100%マニュアルされた店頭で、生き物を扱ってもらうということが面白かった。
江戸川乱歩の鯉をテーマにした映画作品のプロデュースを依頼されている。鯉は、金魚とは違い、ハードボイルドでミステリアスなせいか、小説や映画のテーマになりやすい。一方金魚は、視覚的にも精神的にもきらびやかではあるが、どちらかというと景色の中の花びらのようでもある。よって、このような写真にして美しいものは金魚ということになる。
2014.07.22
月刊「美楽」2014-8月号
小澤征爾
今月、スイス・ジェネーブで小澤征爾先生の3年ぶりの海外公演が行われた。
78歳になる先生は、若手音楽家の育成を目的に「小澤征爾音楽塾」を開催し、年に一度お披露目コンサートをしている。カラヤンや、バーンスタインや、それこそ世界の名立たる指揮者と共に、先生のタクトを楽しみにしている人が世界中に何億人いるだろうか。
一昔前、「サイトウ・キネン・フェスティバル」をお手伝いさせてもらったが、一番印象的だったのはどの演奏家よりも音楽を楽しんでいる先生であった。
「どう動く」。
動くということは、心の形を表す一番のエネルギー。
2014.07.17
ルネを食べよう!
ルネのおにぎりやパンを、サークルKサンクスの北海道・東北エリアで発売することになった。
考えてみれば、あの天才プロレスラー・橋本真也さんのカツ丼弁当から始まって、水戸黄門や、高橋尚子さんなどの所謂、キャラクター弁当はのべ5000万人の方くらいに食べて頂いたであろうか。
ルネというキャラクターは、戦後の日本を代表するイラストレーター内藤ルネ氏の手によるものである。黒柳徹子さんや藤原紀香さんのファッションのイメージ作りは、このルネが原点になっていると言われている。
時代は繰り返されるというが、そういえば街角を歩く女性の中にも、ルネ風のヘアスタイルやファッションの人が増えているように感じる。それは、懐かしき日本への憧れではなく、新しいファッションとして、取り入れているところが少し残念ではあるが。
2014.07.15
金粉ののった梅
梅干しほど知名度の高い食品はない。
しかも、薬効もあるし、よくよくそれを見つめると美しい。
友人から紹介されたぷらむ工房の『ダイヤモンド梅』を頂いた。
今まで食べたどんな梅干しとも違い、果実を連想させる甘味と、口の中で溶解する瞬間の贅沢な味わいは上等な生クリームのようにも思える。
月刊「美楽」で日本を象徴するような食べ物を紹介していこうと、この秋から別冊とサイトを制作しようと思っている。
2014.06.25
きみさらすカントリークラブ 6番ホール161ヤード
カップの中から長い柄の攩網(たもあみ)がでてきて、7番アイアンで高いドローボールが、グリーンに落ちた瞬間、白い球を救い上げるとそれを拾い上げて、地球の中に引きずり込んだ。
因に、パー5を一打で入れることを「コンドル」と言うらしい。
2014.06.20
PeachingとPeach-jinを併せてNew Peaching
ピーチアビエーションの井上社長と、野村さんの希望と理念を足して2で割らないで、3にした・・・といった感じだろうか。
それに、見たことのない広報誌の感覚を取り入れて、さらに、読者のみなさんが新鮮な感動を覚えていただける・・・・・『Peaching』7月号創刊。
2014.06.11
これはラーメン? そう、お菓子
「これはラーメン?・・・ではないですよ」
と、ゴルフダイジェストの遠藤さんがお土産を届けに来てくれた。
どんぶりスープに浮かぶ麺だけを見ていると、まさに、イミテーションの芸術作品ともいえる。これがもし蝋を溶かして作られたものなら、ただのショーケースの中にあるサンプルである。
恐る恐るスプーンで、スープをすくってみると舌の上にのせてみた。
甘い!
2014.05.22
ポール・マッカートニーの国立競技場
国立競技場の周辺は、ひっそりと静まり返っていた。
昨年の秋に続いて、言ってしまえば立て続けに来日することが決まっただけに、「またくるのか」と思った人が相当数いるに違いないし、どこか胸騒ぎを覚えた人もいたのではあるまいか。
案の定、関係者の話では、日本公演の前のブラジル公演でポールは体に変調をきたし、高齢であるだけに無理がきかず、国立競技場での野外ライブは中止となった。公演中止の広報が遅れたため、会場の周辺は何千人もの人で溢れかえり、楽しみにしていたお祭りが突然の雨で中止になったような煮え切らない虚しさが立ちこめている。
国立競技場が、東京オリンピックの関係で建て直しが決まり、取り壊しが始まろうとしている。
ポール・マッカートニーの公演中止の理由は不明確の中で、ファンの悲しみを誘っているのであるが、一方で莫大な税金を使う新国立競技場の建設費用は、明確にして欲しいものだ。
2014.05.20
月刊「美楽」201-6月号
「アルベルト・ザッケローニ監督」
ワールドカップが国と国の威信をかけて戦う大会といっても南米や欧州とは異なり、まだまだピンとこないのが日本人である。
国技と言われる相撲ですら、十年間モンゴルをはじめとした外国人横綱にその座を奪われても、大した悔しさもなければ、柔道や和弓と行った我が国伝統のスポーツが今ひとつ盛り上がらなくても、問題意識すらない。スポーツに国境はないといってしまえばそれまでだが、要はテレビがオンエアする競技しか支持されないのだ。
なでしこジャパンがワールドカップを制したのも今や過去の話。今回のワールドカップも、弱々しいアベノミクスが一瞬のカンフル剤になったとしても、根本的なパワーの源にはならない気がする。
2014.04.24
美楽せんべいを試作した
日本には、一年間をほぼ5日ごとに分ける72候という季節がある。春夏秋冬に分けて、四季と言われているが、短い中にもそれぞれに美しい72の季節がある。それでは細かすぎるということもなかろうが、かたや一年を24候の季節として24節季と表現するパターンもある。
会社に来て頂くお客様にいつもはどらやきをお渡ししている。そこそこ日持ちもするし、和菓子なので体にも良い。
4月の第5週は、「牡丹華咲く」節句である。
本来、この時期のお土産は、わらび餅か、花見団子でなければならない。が、しかし、毎週お土産を買ってもいられないので、この美楽せんべいは、猛暑が始まる7月から秋にかけてお持ち帰って頂こうと思っている。
浜離宮の蓮の花が満開になる池のほとりで、“さくっ”と召し上がっていただくのが良いかもしれない。
2014.04.20
月刊「美楽」2014-5月号
「ワールドカップが始まる」
世界32カ国が参加する2014年 FIFAワールドカップ(第20回)の開幕が近づいている。
期待される日本代表選別された選手のうち十数人が海外のクラブチームに所属するという顔ぶれになるだろう。
ゴルフでも、野球でもテニスでも、海外に出れば出るほどそのスポーツの本質に触れ、そして本物の選手と戦うことで日本での評価軸とは異なり、選手たちは自分の実力を再認識することになる。そこで、もっとも大切なのは、細かい技術や立ち振る舞いではなく、子供の頃から気づき上げられた国際的選手との精神力の差なのである。
2014.04.18
新人女子プロゴルファーの倉田珠里亜さん
倉田珠里亜さんは、果たして強いのだろうか?
ゴルフ・トーナメントプロデューサーの戸張捷さんから彼女を紹介してもらったとき、その疑問はほどなく解消した。
日本でゴルフをプレーする女性の数は、約40万人程度と言われているが、その中でいわゆる女子プロとして、ゴルフを職業とする女性は約1000人。メディアに登場し、話題にのる女子プロは、戦後70年を数えたとしても、おそらく30人から40人に満たない。全米女子オープンを制した樋口久子さんや、世界の賞金王に輝いた岡本綾子さんをはじめ、一流のプロには最小公約数的な必要条件がある。それは、ゴルフ以外見えなくなるという集中力というよりは、必要のないありとあらゆるものを排除する能力と、人生に対するある意味でのふてぶてしさが大切なのだ。
今、話題に上っている宮里選手や横峯選手・・・が“女子プロの伝説”というトロフィーに名前を刻むかどうかは、別として、記憶に残る選手になるには、まだまだ努力が足りないような気がする。
男子プロも女子プロもトーナメントの賞金で生活していけるのは、ごく僅か20名程度であろう。試合にでると、宿泊費も交通費もキャディへの手当も、さらには、トーナメントへの参加料金、無論、道具費など、年間経費が2000万円程度かかるため、プロにはどうしてもスポンサーが必要なのである。もちろんスポンサーはお金を出して口を出さないのが好ましい。さらには、その選手の成長を長い間見守る器量も必要である。
カーコンの林さんは、倉田珠里亜選手にとってもっとも相応しいスポンサーではないかと思う。近い将来、カーコンの店頭で、倉田珠里亜選手の「祝・初優勝」というのぼりが、はためく日がくることを願っている。
2014.04.07
日刊ゲンダイの裏の桜
この時期になると、東京のあちらこちらというよりも、ほぼどこの空き地にも桜の花が咲く。
桜の花びらが開花するのは、その年の元旦の温度から累積し、ある一定の温度を越えると自動的に且つ機械的に開花すると唱えている学者がいる。その科学的根拠は別にして、人もまるで桜の花びらのように、一斉にその成果を競い合う事で傷つけあっている傾向がこのところ甚だしく目立つ。
花見によく集うのは、ソメイヨシノである。しかしこの桜には少し問題点がある。山桜は、ほぼ3日から7日で一斉に開花し、一斉に花をつけ、顔を見合わせたようにほぼ同時に落下する。ここまでは良いのだが・・・これを人間の命に例え、さらには誤った武士道と交じり、まるで美しく散るのが生き様のように唱える政治家や、軍人や、宗教家がいる。
私はその意味で、ソメイヨシノはあまり好きではない。山桜のように、しぶとく、散漫に、時にはしおらしく、浪々と好き勝手に咲くのが本来の命のあり方ではないかと思う。
人は、群がることで影響しあい、失う物の方が意外と多いのではなかろうか。
2014.03.20
月刊「美楽」2014年4月号
「松山英樹」(愛媛県)
スポーツの世界では、ある一定の周期でスター選手が誕生する。ゴルフにおいては、尾崎将司に憧れて、丸山茂樹が誕生し、丸山茂樹に憧れて池田勇太が誕生し、タイガー・ウッズに憧れて、石川遼が誕生した。
この周期はどうも12年から15年の周期で、10歳前後の少年が24、5歳のスターを目標にして日々練習に、励むからであろう。
松山英樹に期待するのは、彼に憧れる何万人もの強いゴルファーの誕生である。
2014.03.19
増上寺に続くあるお店の軒先で
増上寺に続くあるお店の軒先で、閉店セールをやっていた。リーマンショック以来、売上の低迷に喘いでいる商店の数は、数十万とも言われるが、一方で、好立地好条件の場所で空き室となった店舗を数週間から場合によっては、2、3日の短期契約で貸し出される物件も増えている。
JR浜松町駅は一日の乗降客数が17万人ともいわれ、ここから増上寺に続く参道は、昼夜を問わず人が途絶えることはない。一時客足が途絶えたものの、台湾や韓国、さらにはマレーシアを中心とした東南アジアからとみられる観光客が続々とこの道を通っている。
軒先に趣味の悪いライオンのリュックサックを売っているのは、ひょっとすると『ライオンキング』を観に行った外国人観光客を当て込んでいるのだろうか。この2、3年で20種類くらいの店舗が入れ替わった中で、この雑貨屋さんの圧倒的な魅力は、いわゆる短冊ポスターを有効的に張っているところである。その数ざっと30枚。短冊ポスターには、ただ一言「ありがとうございました」と書いてある。
おそらく外国人観光客が知っている言葉は、この「ありがとう」ではないだろうか。以前、NYに冬物のバーゲンを目当てに出掛けたときに、54番街のやはり雑貨店で「thank you」というポスターをショッピングウインドゥ上に張ってある雑貨店があった。僕はそこで、奮発して1960年代の古い腕時計を購入したのであるが、考えてみれば、商売の基本は既に顧客と商取引が成立したあとのイメージで物を売ることなのではなかろうか。
とすれば、軒先にあるこのいかがわしいライオンのリュックサックも、今日中になくなる気がする。
2014.02.21
月刊『Peaching』2014年3月号
2014年3月号の『Peaching』の表紙は、Peachの冒険心と革新性と、何より乗って頂くお客様の安堵感を表現できるように、こんな感じ。
本来、企業の広報誌はなるべく手前味噌にならないように一般誌の顔を装うのが普通である。しかし、井上社長と話をしていると、とにかくすべてをオープンにし、元気なスタッフをどんどん表に送り出したいという広報マインドがある。
因に『Peaching』は、やや女性よりの編集方針をとっており、来月、発行する『Peach-jin』は、ビジネスマンを中心とした男性向きに編集をしている。
2014.02.20
月刊「美楽」2014年3月号
さだまさしさんは、霧の中で満開の咲いた桜のような人だ。
見えているようで、その美しい姿は、見えにくい。詩人というよりは、あらゆるものから感じ取った心の中を映像化して詩にしたり、文学にしたり、映画にしたり、言葉に変えたりする。
儚く、散りそうな、消えていきそうな、命の瞬間を一瞬にして捉える写真機のようでもある。
出逢えて良かったと思う。私の人生の崇高な樹液のようである。
2014.02.10
麻布十番の塩屋
ハワイ産の塩を日本中で普及する仕事を依頼されている。
人類はかつて塩で戦争をし、塩で国家を反映させ、塩で健康を維持し、塩で病に倒れ、塩で悪魔を祓い、塩で厄をつくり、塩で料理を作った。塩の役割は、無制限である。
日本は海に囲まれた島である。それだけに、塩に不自由することはなかったが、科学方式で塩は作れるようになってから、どうも天然自然の塩とは縁遠くなってきている。モンゴルの塩から、ペルーの塩まで、塩は世界中に数千種類あると言われている。塩の役割も数千種類あるように思う。
2014.02.03
東京都知事選
東京都知事選挙が突然行われている。任期の途中で、しかも、金銭トラブルで知事を降りるという、根本的な事件の拝命や究明されていない状態の中での選挙である。
いずれの候補者も準備不足で、スローガンもマニフェストも熟していないみかんのよう。
常々思うのだが、立候補者ご本人が数字に弱いのか、それとも有権者をばかにしているのか、とにかく数字やデータが全くない。東京都の税収、東京都の予算、それらが項目別にどう使われているのか、都庁の職員15万人がどう動いているのか・・・いずれにしても、具体的な数値目標がないと意味がない。
選挙戦の途中で、厳寒の東京に大雪が降った。ここぞとばかりに、冷たい風の中で、頑張る姿勢を見せている各候補者は、東京都民の本当の願いが理解出来ていないように思う。投票率を低くしているのは、浮世離れした都民でもあるが、候補者の曖昧な主張でもある。
2014.01.27
第4号 徳川将軍家霊廟
徳川将軍家霊廟が増上寺で拝観できる。
いわゆる、徳川幕府は、泰平260年と言われているが、その間、15人のトップで維持された。高齢社会を迎えた我が国であるが、僅か8歳でなくなった7代目将軍家継を筆頭に、40歳から50歳で生涯をとじている。
今でいう働き盛りで、この世を終えているわけであるが、その中でも、現在であっても長寿の将軍が二人いる。ご存知の通り、1代目の徳川家康・75歳と徳川幕府の最後を担った15代目の慶喜・77歳である。
世襲制を重んじてきた徳川幕府の1代目と15代目が奇跡的に長寿なのは、どこか不思議な気がしてならない。
都知事選が行われているが、月刊「美楽」がお世話になっている候補の細川護煕氏の76歳。徳川家康と同級生であるが、まだまだ頼もしい存在である。
2014.01.14
第3号 愛車主義2014
月刊「美楽」で、連載して頂いているカーコンビニ倶楽部代表の林さんの原稿を束ねて、別冊化し、『愛車主義2014』を制作した。
林さんはこの中で、車社会と人間社会に対しての様々な課題を探し、色々な角度からその解決策を提案している。考えてみれば、まるで水道の水のように、空気のように、いつの間にか車は人間の生活の中に入り込み、時には有効に、また交通事故のように人間にとって負荷になるときもある。
よく言われるように、人間の作り出すものはいつもプラスになるとは限らない。その周辺に携わる人の道徳観と知性によって、あるいは愛情によって、すべての道具はその価値を発揮するのである。
この『愛車主義2014』にはそんな林イズムが描かれている。
2014.01.10
第2号 日刊ゲンダイ新春号
日刊ゲンダイの新春号で、Peach航空の取材をしてもらった。
縁とは面白いもので、取材班をまとめてくれるライターは、なんと美楽でお世話になっている和田さん。
「安」「早」「理」で圧倒的に、他のLCC各社を引き離して、人気一番のピーチであるが、取材内容も一泊二日で、安くて、正確で、合理的な台湾ツアーである。
井上社長は、この飛行機のことを空のバスと自らおっしゃっているが、まさに目的を定めた観光ツアーにはピーチはうってつけである。
ゴルフ、釣り、美術館、博物館、マッサージ、エステなどは、目的が絞り込まれているだけに、バスに乗る気分でピーチ航空を利用する人が多い。中には、故郷に病身の父親を3年振りにお見舞いに行った大学生もいると聞いている。つまり、高齢社会の日本で、東京や大阪という言って見れば仕事場から故郷に帰る介護という側面も大きく持っている。
ピーチが1月18日にいよいよ高雄に飛ぶ。
驚かないでください。片道料金は、118円である。
2014.01.03
第1号 芝大神宮へ新年の挨拶
芝大門の信号は第一京浜が走っているので、この参道は第一京浜から数十メートル直結していることになる。通常の神社は、神様を休めるために鬱蒼とした濃い緑に囲まれているのだが、芝大神宮は居酒屋や焼き肉屋、そば屋などの飲食店に囲まれているため、よほどセルフコントロールのきいた神様がやどっている。
そういえば、参道は神様が歩く道でもあるのだが、よって必ず玉砂利が敷かれている。石畳から100段近い階段を昇り、拝殿を拝む事になる。水舎利で手を清めようと思ったら、正月で沢山の人がいるため、そのまま拝殿に向かい、賽銭箱の前で目を閉じた。
今年もたくさんの日本人が神社を訪れますように。
たくさんの日本人が、自分一人で生きられないことを悟りますように。
2013.12.20
第41号 月刊「美楽」2014-1月号
『坂東玉三郎』
玉三郎氏ほど、ストイックで勤勉な芸能者は見当たらない気がする。佐渡島の鬼太鼓(おんでこ)との共演の仕事を手伝わせてもたったことがあるが、この芸術家に完成という言葉もなければ、満足という言葉もなければ、ましてや妥協という言葉も存在しない。同世代を生きるものとして、フロントランナーというよりは、“永遠にたどり着けないゴール”のような存在である。
芸の修練もせずに、ぶらぶら街を出歩いたり、マスコミに登場するのを楽しんでいる役者とは格違いどころか、別の世界で輝いているのである。
2013.12.15
第40号 エムケイマガジン2013年12月号
エムケイマガジン2013年12月号
2013.12.05
第39号 大原美術館
大原美術館に顔を出した。
岐阜羽島に行く途中と言うと変なのだが、月に1回お邪魔する深層水マハロの打ち合わせに行く際に、新幹線の二時間ほど余分に乗り、岡山駅から倉敷に足を運んだ。
ご存じのとおり、倉敷紡績の経営者だった大原孫三郎が友人の児島虎次郎の審美眼に、西洋の印象派の絵を集めるように依頼した。19世紀後半から20世紀前半までに、パリやブリュッセルの画廊を歩き回り、現在では誰もが、名画といわれる名画の数々をこの倉敷に持ち込んだ。
飛行機もなかった時代に、児島は大原に何通もの筆をしたため、その都度、購入資金を送らせては、今となっては奇跡に近い美術品の数々を集めた。
晩年、画家としても東京美術学校(現在の東京芸術大学)でも代表される腕前の児島は、この美術館の裏手の山にアトリエを建ててもらった。スポンサーと芸術家が一対になって、美術館というさらに大きな作品を描いたともいえる。
1932年、アメリカのリットン調査団が、この倉敷を訪れ、大原美術館の名画の数々に度肝を抜かれたといわれている。そのせいかどうか、第二次世界大戦にとって、倉敷に空襲がなかったと言われている。日本の明治時代にパリのモンパルナスにモディリアーニや、ピカソ、マチス、モネ、マネなどの芸術家が住み、夜な夜なお互いの作品を批評し、賞賛し、罵倒したといわれている。その中に、日本を代表する藤田嗣治も才能のある人気者として君臨していたことを考えると、芸術に国境はないとこれほど痛感した日もなかった。
足早に新幹線の駅に向かい、後ろ髪をひかれながら、もう少し留まりたいと思った。
2013.11.20
第38回 月刊「美楽」2013-12月号
『井上慎一氏』
同世代の経営者として、今、僕の中で一番輝いているのは、ピーチ航空の井上慎一社長。事務所にお越し頂くときは、いつも大きなトランクと10キロはあろうと思われるアタッシュケースを持って、移動されているようだ。歯切れの良い言葉に、どこか人情味がある。聞き上手で寛大。鋭敏な眼光は、ピーチ航空の将来だけでなく、日本の未来を読んでいるようだ。
井上さんのフットワークは、明日の日本の外交を支えている。
経営者が革新すれば、企業は前進し、やがて社会のイノベーションとなる。
2013.11.19
第37回 ポール・マッカートニーの声
ポール・マッカートニーの声に関しては、何人もの評論家が分析し、賛美を送っている。
十数年前に、福岡ドームの公演をプロデュースしたとき、いわゆる彼の話し声を聞く機会があったのだが、その声が歌声に変わると、振幅数も変わり、少し太くなることで何とも言えない優しい音質に変わる気がする。
よく音楽は、国境や宗教や性別や年齢はすべてを越えて、人々を結びつけると言うのだが、正確に言うと、あらゆる人間の心の中の部屋にビザなしで入り込んでいく特種なメディアなのではないかと考える。
ひとたび、ポール・マッカートニーが歌い始めると、その声は誰の心の中にも優しく入り込み、そこでそれぞれのドラマを作り出し、感情を揺さぶり、時として永遠に根を生やす。
東京ドームに集まった数万人の人々を見ていると、それぞれに根付いたポールの歌が、それぞれに違う色の花になって、まるでお花畑のように見える。芸術家とは、そういう意味では心に種をまくという神様から与えられた人なのかもしれない。
2013.11.18
第36号 平成25年度 自衛隊音楽まつり
自衛隊音楽まつりが日本武道館で行われた。
月刊「美楽」の執筆者でもある古庄さんのお陰で、随分海上自衛隊に対する僕自身の知識や愛着度もあがったし、考えてみればどこかで戦争や軍隊に対する誤解や偏見を持ってしまっていたようである。
生まれたときから一見、平和な日本の中で物質的な豊かさばかりを追い求めてきた日本国民も、この数年ようやく今までの数十年間が幻覚なのではなかったかと感じ始めている。
物心ついたときに、日本の学生たちは意味もなく戦争反対の平和主義に溺れた。例え、世界のあちらこちらで民族の独立紛争が起きようが、宗教戦争が起きようが、食料危機が起きようが、言って見れば日本人は、気に留めることもしなかった。
敗戦という手形の変わりに、アメリカの経済的な捕虜となり、欧米の精神的な属国となって、高度経済成長という借り入れで、この国は支えられてきた。
海上自衛隊5万人、航空自衛隊5万人、陸上自衛隊20万人。彼らは、日本有数の国際人であり、文化人であり、知識人である。日本の置かれた国際的な立場や、日本のすべき役割や、日本が残すべきものなど、そういったこの国の強みや弱みを毎日のように学んでいる。言うなれば、日本という規律が失われた国家の最後の歯止めとなる組織のように思えてくる。
日本人が一人一人何かに立ち向かい、何かと戦わなければならない日が来ている。
2013.10.24
第36号 「美楽」飛脚くん15歳 高校1年
「美楽」飛脚くん15歳 高校1年。
日本の将来は、決して明るくもないし、恵まれてもいないし、そんなことはもうすべての国民は承知の上だと思う。
がしかし、次世代を背負って走る人材も少なくはない。この飛脚くんは、今様に言う建築とデザインを勉強している少年である。好きなものは、寿司のつぶ貝。台風27号の激しい雨のなか、月刊「美楽」のスポンサー見本誌を彼の足で運んでもらうことにした。
何でもかんでも、早ければ良いというものでもないし、軽ければ伝わるというものでもない。日本という国は、軽くて早いものを追い求めすぎたのではないか。不動産の契約書や、株券や、紙幣や、ただでさえ薄っぺらなものが、さらに、数字となって舞い戻り、国民はただ茫然とその喧噪を眺めているだけである。
ちなみに、毎月20日に飛脚くんは、東京の街を走る!
2013.10.23
第35号 カーコンカップ東日本大会開催
台風27号と28号のはざまを縫って、千葉県木更津市のきみさらずゴルフリンクスに160人ものゴルフ好きが集合した。
このコースは、ピート・ダイ設計の難コースで、フェアウェイのうねりやグリーンまわりのバンカーの深さや当然、グリーンのアンジェレーションを考えると、一般プレーヤーのコンペにはふさわしくないのだが・・・。
プロのトーナメントでも、結局最後はパターの勝負である。つまり、グリーンを比較的簡単にすることで、このトーナメントの進行がスムーズに行われるように工夫した。台風による小雨と強風とを意識したにもかかわらず、天気は秋晴れ。14番のティーグランドからは、スカイツリーがおぼろげに見える。この快晴微風の中で、前代未聞のことが起こった。表彰式の司会をお願いしたゴルフトーナメントプロデューサーの戸張捷さんも驚かれていた。なんと、二人もホールインワンが出たのだ。しかも・・・である。そのうちの女性の一人は、最初の1打が入ってしまったのである。
和気あいあいとした表彰式は、戸張さんの司会により、あたかもプロの表彰式のような雰囲気にかわり、この大会のプロデューサーでもあるカーコンビニ倶楽部の林社長も参加者全員の満足度にほっとされていたように感じた。
企業はイベントスポンサーになることを冠スポンサーというのだが、このイベントのようにスポンサーのあたたかい血を感じるイベントがいい。テレビで、視聴率の高い何万人も集客したイベントも度々行ってきたが、記憶に残るイベントは、意外と数が少ないのだ。
2013.10.21
第34号 月刊「美楽」2013-11月号
『イチロー』
鈴木一朗選手をカタカナ三文字でイチローと名付けたのは、(故)仰木監督であるが、今日のイチローのステイタスを予測できた人は、イチロー自身しかいなかったのであろうか。
以前、彼をシンボルにした携帯電話をプロデュースしたことがあるが、そのときにはまだ大リーグで首位打者をとり、世界で一番の安打製造機としてまだ先の見えない頃でもあった。
日本人の持つ忍耐力と緻密さと持続力と自分に対する誠実さは、今やその逆をいくアメリカ人の精神的支柱にもなりはじめている。加えて、彼ほど、美しく、高齢化していくスポーツ選手は見当たらない。
2013.09.26
第33号 上田正樹氏別冊『「蒼心情歌」』発売
上田正樹別冊「蒼心情歌」を発売した。そんな意味を含めて、上田正樹さんに親睦会を含めた実演会(ライブコンサート)をお願いした。
とにもかくにも、上田さんの声は、ライブで聞くとその会場の空気が彼の声に合わせて波のように揺れるのを感じる。
カーコンビニ倶楽部の林社長や、バリューゴルフの水口社長は、上田さんのマイクの目の前にお座り頂いただけに、お酒も料理も、タバコ一本も吸わずに、聴き入っていた。
年に数回行われる月刊「美楽」の実演会は、ネットワーク社会を埋めるために今後も続けたいと思っている。
2013.09.20
第32号 月刊「美楽」2013年10月号
『宮崎駿』
宮崎先生とは、もう十数年前にトトロの試写会でお目にかかったことがある。
僕は、作品や主役を差し置いて、自分を露出したがる監督やプロデューサーがみっともないと思っている。試写会の会場の片隅に、そっと座り、心なしか目を潤ませていたのは、観客の1人として、鑑賞していたのではないかと感じた。
すべての芸術作品は、完成した瞬間から作り手の手を離れ、作り手とは別の生命体として動き始める。
2013.09.18
第31号 Peach-Jin制作中
Peach-Jin制作中!
世界の交通革命とも言われる航空業界の低価格化、つまりローコスト革命が進行中である。
これのもたらす結果は、中々予測不可能なもので、少なくとも地球人の大陸移動やそれに伴う宗教の普及、言語の必要性の増大、国家レベルでの国際人の育成、さらには経済的交流など、いずれにしても、地球がどんどんどんどん小さくなっていくのであろうか。
Peachは、その中でももっとも期待される会社で、現在の輸送客数はすでに300万人を越え、2014年には500万人をも突破する勢いである。
2000年に、現在の携帯電話が1000万人を越えて僅か10年で1億2000万台を突破し、いまや地球上のコミュニケーションインフラとして、その産業の地位を確立した。
これと同様に、現在700万人と言われているLCCの利用客数は、オリンピックの頃には、ゆうに3000万人を越えると思われる。『Peach-jin』というこのメディアも、社会的役割と影響力も必然的に大きなものとなるであろう。
2013.09.12
第30号 芝大神宮のだらだら祭り
芝大神宮のだらだら祭りは、古来からその祀は長期間続くことから、「だらだら祭り」と言われているらしい。
月刊「美楽」を置いて頂いているカロライナという喫茶店の紹介もあって、氏子でもないのに、この祭りに提灯を出させて頂くことになった。
この神社は、1005年から鎮座している由緒正しき神社で、足利尊氏、豊臣秀吉、さらには徳川家康から始まり、明治天皇はここを休憩所として使い、その後、東京大空襲で消失したにも関わらず、本殿を再建し、今に続いている。
本殿に向かう階段を中半上ったところで、深く青く聳える東京タワーが本殿の背後に見える。
近所に薩摩屋敷があったこともあり、浜松町が僕のふるさとになる気がした。
2013.09.06
第29号 MKマガジン-2013年9月号
MKマガジン-2013年9月号
2013.09.03
第28号 上田正樹「美楽」実演会
上田正樹さんの実演会(いわゆる、ライブコンサート)は、美楽の6回目の実演会となる。
上田さんの声ほど、生で聞いてもらいたい歌手はいない。涙がとけ込んだようなかすれた声。その場の情感に合わせて歌い回すメロディ。言って見れば、同じ歌など二度と聞けない上田さんの実演である。
今回は、現在二人で制作している「壊れゆく日本の歌たちへ」というアルバムの中から、永六輔さんの「遠くへ行きたい」をはじめ、昭和30年代に流行したまだ日本語や詩や言葉がきちんと使われていた時代の歌を歌ってもらう。
上田さんには、月刊「美楽」に毎月執筆して頂いており、このコンサートではその原稿を1冊にまとめたものを「蒼心情歌」をご来場の皆様にお土産にして頂こうと思っている。
「蒼心情歌」には、上田さんがなぜ歌を歌うのか、また、歌いたい歌は何なのか、そんなことが書いてあり、普段滅多に自分のことを話さない上田さんの気持ちのあり方がよく書いてある。
2013.08.30
第27回 ポール・マッカートニー来日 11月18、19、21日東京ドーム
ポール・マッカートニーが、11月18、19、21日東京ドームに来日する。
思い出すのは、1994年の福岡ドームのコンサートである。当時、ダイエーの故・中内功会長の鶴の一声、開業したばかりの福岡ドームの名前を世界に広げたいということで、マイケル・ジャクソンを皮切りに、ポール・マッカートニー、サイモン・ガーファンクル、マドンナ、さらには、ホイットニー・ヒューストンなどの地球規模で活躍するアーティストを招聘した。
ポール・マッカートニーが来日するという話を聞いて、真っ先に思い浮かべたのは、中内会長とキョードー東京の故・嵐田会長の顔である。二人とも違った仕事ではあるが、戦後の日本に元気と勇気の花を咲かせた。僕にとっては、英雄である。
あの日、福岡ドームの周辺には、何万人ものマイケルファンがスタジアムの周辺に輪を描くように並んでいた。
リハーサルを終えて、客入れの前の静寂の中で、無数のスポットが点滅する巨大なステージの上に二人をご案内した。これから始まるステージは、福岡ドームのまさに世界への第一歩という予感に満ちていた。
それから20年近くの日々が過ぎ、もしできることなら、中内さんと嵐田さんと一緒にポール・マッカートニーの最終公演に出掛けたいものだが、マイケルも含めて、あの日の英雄は、もういない。
・・・・・・・・・・・・・・・。イエスタデイ。
2013.08.25
第26回 MKマガジン-創刊
MKタクシーの車内で配布する月刊誌を作りはじめた。
MKタクシーには、月刊「美楽」が創刊して以来、大変お世話になっていて、今では全国のMKタクシーの中に「美楽」を乗せて頂いている。
1日1台のタクシーに十数人の乗客を乗せているということもあって、例えば東京MKでは1日4000人から5000人、年間で100万人以上のお客様を運んでいることになる。
この規模になると、既にメディアとしても、大きな媒体力を持ち、その意味でこのMKマガジンは、社会的にも大きな意義があると思う。
東京オリンピックが開催されたり、今後、日本が世界的にも観光立国となる上で、タクシーの役割はただ目的地にお客様をお運びするだけでなく、重要な役割を持つ発信者として位置づけられるであろう。
2013.08.20
第25回 月刊美楽2013年9月号
白鵬氏
月刊美楽に連載して頂いたお礼に、横綱になったばかりの白鵬氏に一席お付き合い頂いた。筋肉をつけて頂こうと思い、鉄板焼きにご招待した。そこそこの肉を10キロほど用意しておいたが、横綱は意外と小食でほんの数百グラムを頬張っただけで、残りの肉は、若い付き人が軽くたいらげた。
ワインで少し打ち解けた横綱は流暢な日本語で、相撲の世界の姉弟関係や人情や義理などのあり方を話しながら、ゆっくり天を見上げた。
故郷のウランバートルの事を、思い出したのだろうか。
2013.08.10
第24号 上田正樹さんのオリックススタジアムライブ
上田正樹さんのオリックススタジアムライブを猛暑の中、プロデュース。
かねてより野球と音楽、相撲と食事会、サッカーとコンサートなど、大きなコンテンツ同士が合体(コラボレーション)してみるのも面白いと思っていた。
例えば、アメリカのボクシングの世界タイトルマッチは、ラスベガスのホテルで、豪華なディナーを食したあとで、血なまぐさい男の戦いを見る・・・なんて。
三万人ちかい野球ファンが、試合を見終えた後、今度は一服して夕焼けの中で音楽を聴く。この流れの中に不自然さはなく、かえって気持ちは高揚するのではないかと。
数千人の中で、上田正樹さんの声が外野の壁や、スコアボードや、ドームの屋根に跳ね返り、響いている。ここは、大阪。「悲しい色やねん」が別な意味を持って、ピッチャーズマウンドのあたりから弾けていく。
2013.08.01
第23号 Speachesという音楽家たち
Speachesという音楽家たちと何かしようとしている。
音楽は、子供の頃から言ってみればおもちゃのように僕のそばにあったし、好きや嫌いという次元ではなく、まるで御菜のように色々なアーティストや曲を聞いてきた。
それにしても、所詮たまごのからの中の黄身が、変わる程度のアレンジしか感じないという気持ちは、ずっと続いている。その意味で、車や家電などの方が、実は音楽よりはるかに、革命的に進化しているように感じる。
なぜ譜面があるのだろか。もっと面白い楽器や音は、ないのだろうか。もっと斬新な言葉はないのだろうか。見たことのないような音楽家の構成はないのだろうか。そんなことばかり考えている。
Speachesを紹介したI氏は、航空業界のイノベーションを果たしている。彼の希望に叶うためにも、かなり変わったプロデュースをしようと思っている。
今の音楽家たちは、未だにベートーヴェンを超えられない。
2013.07.10
第22号 ルネがPeachに接吻した!
昭和30年代の中頃、脚光を浴びた内藤ルネ氏(没)のイラストのモデルでもあるルネと、ピーチ航空が10月27日の成田就航キャンペーンの共同記者会見を開催した。どことなく不安材料の多い現在の日本において、ピーチ航空は誰もが知っている挑戦的な会社で、バイタリティに溢れている。ある意味で、これはピーチ現象とも呼ばれるもので、昭和30年代の高度経済成長のときの日本の元気を未だに内在しているかのようだ。
従って、内藤氏のイラストの力強さや自由奔放さが、今のピーチ航空とぴたりとはまっているのだ。10月の初旬からルネのイラストがピーチの機体にラッピングして空を駆け抜ける。
2013.07.01
第21号 Peaching創刊準備号
ピーチの広報誌の制作・監修をさせて頂いている。この仕事が、すこぶるためになり、勉強になり、刺激になり、楽しい。
というのも、井上社長の発想が実に大胆で、おおらかで、発展的で、幻想的で、とても並の経営者の常識をはるかに超えているからだ。ということで、本来の創刊号は、9月を予定しているのだが、それまで創刊準備号なるものを制作することとなった。準備号は、全部で3号あり、大人向け、女性向け、そして、広報誌とは思えないほどクールなものと、3種類つくることとなった。
ピーチの帰港地である関西空港をはじめ、札幌、仙台、広島、福岡、長崎、鹿児島、沖縄、石垣、香港、ソウル、台湾の空港カウンターで配布している。
僕がプルデュースする以上、この世になかったようなメディアを創造したい。
2013.06.20
第20号 月刊「美楽」2013-7月号
山中教授
山中伸弥氏のノーベル賞は、日本国民にとって、誇りや自信を取り戻す。言って見れば、強烈な点滴となった。そして、私たちはその結果だけに注目しがちだが、プロセスに隠された意志の強さと努力、スタッフとの協力体制も並大抵のものではないのであろう。
私たちはこの十年、簡単に物事の評価を決めつけるようになってしまったが、プロセスにも少し目をやらねばならないのであろう。
2013.06.11
第19号 Peach成田線の就航発表
Peach航空の記者会見を考えることになった。私は、記者会見や商品発表会を考えるときに、二つのことを考えている。
一つは、お客様が二層に分かれている、つまり、最初のお客様は新聞や雑誌やテレビなどで取材をしている人々で、次のお客様は彼らが各々の切り口で写真や文章をお披露目する、当然その読者である。
二つ目に意識していることは、なるべく自由で秘密を持たないということ。わざわざ遠路はるばる話を聞きにきてくれるお客様には、なるべく楽しんでもらい、裏のない話をし、納得をして帰ってもらう、というのが常識であり、仁義ではないかと思う。さらに、付け加えていうと、記者の方々も四方八方毎日のようにノートとカメラを持って飛び歩いているのだから、大変であろうし、おそらく日々の仕事も飽きているに違いない。だからこそ、記者会見というものは、新鮮であり、彼らが驚かなければ意味がない。
今回は、梅雨の雨空がくっきりとわれ、小雨の間に日差しが降り注ぐ芝の増上寺で記者会見が行われた。主人公は、Peach航空の井上社長であり、私にとって一番のお客様は、100社近く集まったマスメディアの皆さんであった。
その日の夜から、NHKさんのテレビをはじめ、テレビ東京の「ワールドビジネスサテライト」、さらには、航空関係の専門誌にいたるまで、ざっと20億円近い(テレビの秒数や記事のスペースを広告費換算する)露出があったと聞いた。増上寺という場所を選んだ井上社長の自由でやんちゃで挑戦的で力強い経営者の判断の結果とも言える。
2013.06.07
第18号 三遊亭歌之介師匠
TMI総合法律事務所の田中先生のお誘いで、三遊亭歌之介師匠の落語会に顔を出した。
この会の趣旨は、鹿児島県出身である三遊亭歌之介師匠の落語をつまみに、鹿児島県の出身者が集うというものである。中には、J-WAVEの小笠原会長をはじめ、懐かしい面々が集まった。
一般的に、鹿児島訛り(鹿児島弁)は、早口で薩摩藩がつくった独特のイントネーションがあるだけに、政治家から経済人、さらには芸能界やスポーツ界でも活躍している人は多種多様、いつもの標準語を使うのは中々難しい。つまり、鹿児島県出身の噺家そのものが私にとっては、新鮮なイメージがあった。
赤坂のS亭の和室で畳を重ねた演台の上で師匠は南国特有の開放的な、しかも、たくさんのネタを広域的に立て続けに連発をしながら、それこそ1時間半ほど私たちを和ませてくれた。
経済ものあり、政治ものあり、歴史物あり、ちょっとした下ねたあり。全篇にわたりある種の知性と品位が伴っていたのが鹿児島県人の私としても、誇りに思った。
と同時に師匠である立川談志の弟子にたいする教育の素晴らしさも、そこに集まった経営者各位が学ぶ者が多かったのではないかと思う。
ということで、ぜひとも美楽で執筆をして頂くことを願いつつ・・・
2013.05.23
第17号 平成25 年度遠洋練習航海
平成25年度遠洋練習航海の出陣式に招待された。
実は、朝からどきどきしていた。これだけ日本が不安定で、不安な状態の国家になるとは思っていなかったし、実は“忍び寄る国際関係の負”がいつの間にやらニュースの主人公になっている現状がいてもたってもいられない。
国家経済の破綻と同時に、簡単に言えば、アメリカや欧米の先進国からの厳しい締め付け、さらには中国をはじめとする後進国の侵略のにおい。さらには、それらと対応するための人材不足。
普段は滅多に目にしない光景だが、所謂純白の制服に身をまとっている青年たちは、皆、成人式を終えたばかりの若者である。彼らはこれから数ヶ月の間、地球のあちらこちらに寄港しながら、国際情勢を学び、外国人とふれ合い、きっと海洋国家日本の位置づけをイメージする大切な旅に出る。
会場には、北村防衛大臣をはじめ、安全保障条約で結ばれているアメリカやその他の国の歴々が代わる代わる祝辞を述べていた。その間、約1時間半、自衛官たちは、1センチも体を揺らすことなく、出陣の志を固めていた。
昭和20年5月、父のすぐ上の兄(私の叔父)がマラッカ海峡で亡くなったと聞いた。亡くなった祖母の話によると、海軍士官学校エリートで、おそらく彼はその3ヶ月後に終戦(敗戦)を迎えるとは思ってはいなかったように思う。
海で働く人々は、陸に働く人々に比べ、自分の価値観が強固で、限られた情報の中で、現状を把握し、分析する能力が優れているように思う。風と星と波と太陽で、時刻と場所を浮き彫りにするその能力は、日頃の些細な目の前の出来事に右往左往して振り回されている私のような陸人と比べ、有能になるのは、当たり前のことである。
360度、身を翻し、海上自衛隊の若者たちが未来の日本に向かって、船に乗り込んでいく。
2013.05.20
第16号 月刊「美楽」6月号
「七色の真珠」
蜘蛛は無意識のうちに、本能的に食を捕るための網を仕掛ける。私たちも無意識のうちに、この網のことを“蜘蛛の巣”というようになった。
一方、青い空を目指していたとんぼやハエや小さな昆虫たちは、この蜘蛛の美しくて、巧妙な罠に引っかかる。この構図は、美辞麗句を並べ立てる政治家と、たいした思想や心情もなく、その政治家を支持する人々のようである。
蜘蛛の巣の面積が大きければ大きいほど、それに捕まる生物の数も増大する。
2013.05.01
第15号 百念撰集のご案内
月刊「美楽」は、今までの連載中の原稿を束ね、「百念撰集」として一冊にまとめ、改めて著者の考えを発信し、読者に届ける事業を始めています。
今回は、西辻一真氏の「自産自消ができる国へ」の連載を出版いたしましたので、ご案内申し上げます。
TPP問題や今後、日本がどのように農業事業を行わなければならないのか、増え続ける耕作放棄地を活用する方法など、提案し、警鐘を鳴らしておりますので、ぜひご一読ください。
2013.04.22
第14号 月刊「美楽」2013年5月号
「股のぞき」
目の前にある日常を、鵜呑みにしていることすら気にならなくなるのが大人の悲しさである。
あの頃は、いつも変化を求め、日常を裏返しに見たり、常識を疑ってみたり、いつも新しい何かを探していた。
それは、言い換えれば生命力の一端であり、年齢や性別とは無関係である。
今、日本人に必要なのは、腰を前かがみにし、股から新しい世界をのぞくことである。
2013.04.19
第13号 カメラマン古賀さんの写真展
カメラマン古賀さんの写真展にいった。
TBSでおなじみの居酒屋を訪問する番組で、居酒屋の経営者に興味を持ちながら、居酒屋のメニューを紹介するそのインタビューの内容が、人間味にあふれている。
従って、一般の雑誌やテレビの特集でメニューや価格ばかりがテーマになっているよりは、インタビュアーのパーソナリティに重点を置かれた番組である。
番組終了時にいつもほろ酔い加減になる古賀さんのコメントは、人情味にあふれている。
そんなカメラマンがカンボジアの貧民層の子供をテーマにしたり、また、高野山をテーマに長期間山に籠ったりするエネスルギーが、どこから湧いてくるのか不思議である。
2013.04.10
第12号 ギター☆マンinスイートベイジル
3回目のギター☆マンが六本木のスイートベイジルで行われた。友人の上田正樹さんをボーカルでお迎えすることもあり、ピーチエアラインの井上社長をはじめ、何人かのお客様をお迎えした。
圧巻だったのは、右腕を骨折して残った左手だけでギターを弾いた山本恭司さんとそれを見合わせながらボーカルをとった上田正樹さんのステージであった。ほとんどの観客はこう思ったと思う。
「70年代のミュージシャンは、今でも生きているし、あの歴史的な音楽ゾーンはしばらく出てこない」
2013.03.20
第11号 月刊「美楽」2013-4月号
「入学式の朝」
ちょっとした好奇心と胸騒ぎ、それから何となく不安をかき消すように、新品のランドセルに無頓着に入れこんだ。
牡丹雪のような桜の花弁が家の中に舞い込んで、畳の上で滲んでいる。
あの頃も、そして今でも人生は粉雪のようだと感じている。人は、天に生まれて、地にしみ込んでいくもの。
2013.03.18
第10号 ラジオ収録
FM調布で初めての公開録画があるというので、久しぶりにラジオ番組の出演をお受けした。以前、日本放送の朝の番組をパーソナリティの高島秀武さんと一緒に何年間か出演していたこもあって、マイクの前の自分が懐かしい。
美楽という雑誌をつくり、発刊し、人よりは病的に神経質に日本語や言葉の意味に拘っているだけに、テレビやラジオの出演に関しては、基本的に断るつもりでいた。しかし、美楽の執筆者である神山先生のご紹介でもあり、またこの番組のプロデューサーでもある峯卓人、沙木実理さんがとてもよい人物なので、ほわほわと、のこのこと調布まで出かけていった。
もう一つの理由として、公開番組というのは、言って見ればライブの演奏会のようなもので、聴き手の顔が見える。つまり、マイクを通して、電波を通して、流れ出た僕の声が宛先のない手紙のように世の中に出て行く、この不気味さや無責任さが少しはなくなる気もするから・・・・。
学生時代、小金井市や三鷹市や小平市や国立市、そしてこの調布市は、僕が完全に掌握しているエリアであった、というと大げさであるが、毎朝のように午前4時から午前7時まで軽トラックをかり出して古新聞を集めては、授業料を稼いでいた時代があった。今の時代でいうと、さしづめ環境保全とでも言うのであろうが、ようはちり紙交換(当時は、”チリコウ”と呼ばれていた)を副業にしていた。
「気分はいつもブルースカイ」というタイトルの番組であるが、僕にとってはこの三多摩で暮らした時代は生き方を見つけられずにいたグレーの時代であったように思う。
2013.03.07
第9号 ギター☆マン
ギター☆マンの始まりは、15世紀のポルトガルの宮廷音楽のときに奏でられたリュウトとも言われているが、実は、人間の本能は打楽器にしろ、弦楽器にしろ、管楽器にしろ、音を出すことでコミュニケーションをするのではなかろうか。
そして、この音に群がる瞬間に人々は時代を変えるいくつかの歴史的な事変を迎えることになる。
ギターを手にした人は、日本だけでもおそらく数千万人を数えているはずだ。新宿のゴールデン街を店から店へとギターを弾きながらまわる商売のことを「流し屋」といい、数万人の聴衆をまるでヒトラーのように巨大な音で取り込んでしまうロックギターリストもいる。
女性のエネルギーと神秘性を激しいリズムに変えていくフラメンコのギターリストもいる。
協会の片隅で、懺悔をする少年に聖歌をアレンジして弾いているクラッシカルなギターリストもいる。
薔薇の咲かない北の街の吹雪の中で、僅かな木漏れ日をたよりに、愛する人にギターを奏でる兵士もいる。
こんな具合に考えていくと、ギターの音は、弦というメディアを通して、新聞やテレビや雑誌やラジオでは伝えることもできない心を、気持ちを伝えてきたのではないかと思う。その意味では、地球に住むすべての人々が、ギターマンなのである。
1965年以降、第二次世界大戦のあたりで生まれた巨大な青年の層が、人口的には25億人とも言われている。彼らは、エルビス・プレスリーや、ビートルズといったヒーローを作り出し、そのヒーローは戦う兵士の勲章の変わりにギターをかざした。
その後、日本にも彼らに憧れたたくさんのギターマンが生まれた。彼らと一緒に日本を探しにいく旅に出るのが、ギターマンである。
2013.03.04
第8号 カロライナ
スパゲティナポリタン、ミートスパゲティ。いずれも野菜の小皿付き。
僕にとってはちょっと辛めのビーフカレー。これも野菜の小皿付き。
これらのメニューに、粉チーズを数十回ふりかけると、お皿は粉チーズ以外見えなくなる。この辺りの喫茶店としては珍しく、深夜12時くらいまで開店している。
お酒も飲みたくない、歌も聴きたくない、テレビも観たくない。
しかし、広告を制作しなければならない。
そんな中途半端な気分のときに、僕は、粉チーズをかけることで、少しずつ自分を盛り上げていく。
その意味で、カロライナは僕のクリエイティブの聖地であり、粉チーズに語りかける僕は、少し変わり者かもしれない。
2013.02.22
第7号 銀座きいちのラーメン
きいちの経営者の千葉さんのこと。
もう30年近くも昔のこと。エレベータのない雑居ビルの5階にある深夜の飲み屋があった。飲み屋は、数席のカウンターと10人程度が座れるくすんだ色のソファ席があり、いつも常連で代わる代わる歌を歌っていた。
当時は、今のカラオケの始まりの時代で、それぞれの客が持ち歌を歌っては、深夜まで酒を酌み交わしていた。サントリーホワイトや、所謂だるまと言われたサントリーオールドが、主流の時代で、その中にあって私と千葉さんはなぜかケンタッキーのバーボンを飲んでいた。
カウンターに肘をついて、うずくまるように物静かな黒い陰のような存在の千葉さんは、同じようにカウンターの隅で、腰を丸めて飲んでいる私とどこか意識しあったライバルであったかもしれない。
ちばき屋のラーメンをいただくと確かに日本で一番と味わえるほどの絶品であるが、このラーメンの存在は、私の若い日の悩みや焦りや希望をいつも澄んだスープの中に溶かし込んでいるように思える。
2013.02.13
第6号 光る増上寺
増上寺が光っている。
あの人は夜空を宇宙に向かって歩いていく。
瞼をシャッターのように閉じると、
粉雪が海のように揺れる雪原に、
落ちては溶け、
雪底を凍らせていく。
今度は、瞼を二回開閉すると、
狂乱する群衆の声をかき消すように、
甲高いテノールのオペラ歌手が
乾杯の歌を歌っている。
次に瞼を開閉してみたが、
シャッターの音も、
上瞼と下瞼の開閉音が聞こえない。
笹の葉のような瞼を透かして、今宵は増上寺がライトアップされていた。
天に向かって伸びる灯明がまるで螺旋階段のように回転しながら宙に続いている。
流れきれない星が一つ。
僕の瞼に突き刺さった。
2013.02.08
第5号 MKタクシー様
MKタクシーの広告を創るときに、いつも気にするのが、この会社の爆発的で、奇想天外な、そして何より豪腕怪力で繊細な青木社長の評価である。
外国での事件やトラブルに巻き込まれる日本人が増えていく中で、近い将来、間違いなく起きるのがタクシーを使った凶悪な事件であるように思う。そんな奇妙な予感の中で、エムケイタクシーが上海、韓国、ロスで運行業務を始めるのは、頼もしい。
この広告は、やがて外国での犯罪をモチーフにした社会広告に発展させようと思っている。
2013.01.21
第4号 美楽実演会
古庄幸一さんの実演会を開催した。
昨年の夏から、半ば瞑想的にあたためていた企画で、今年に入ってやっと実現できた。
あらゆる情報が中途半端に大量に、都合不都合関わらず、人間の尊厳から国家の威信まで全く無神経に浮遊している社会。その中にあって、生の話を、生の人から聴ける機会が少なくなった。
古庄さんは、月刊「美楽」の執筆者でもあり、彼の海上自衛隊というキャリアを通しての人間のあり方や、ものを見る視点は、私にとっては教科書であり、時に聖書でもある。
この日、古庄さんの話を聞いて、体が火照るのを感じながら、東京湾の上の黒い大きな島のような船を見ていた。
2013.01.15
第3号 東京で大雪
東京の大雪は、予想通りになってきた。
というのも、地球の温暖化現象により、雲の流れが変わり、その雲に含まれた水分の量が変わり、さらにはエルニーニョなどの海水温度に伴う異常気象が日常茶飯事なのである。
朝の天気予報を見ていても、私の田舎の鹿児島の方が東京よりも温度が10度も低いことが頻繁にあるし、北海道の千歳空港は29年ぶりにマイナス27度を記録し、飛行機も凍結した。
台風のときも、大雨のときも、日照りの深夜も街に出かける。
さすがにこの夜はスリップを避けたせいか、タクシーの数も少なく、繁華街の代表格でもある新橋にも人影がまばらである。
やがて東京の降雪量も記録的な事態を招くことは必至で、さすがのアベノミクスも?雪にはかなわない。
2013.01.10
第2号 2013年海上自衛隊
2013年、海上自衛隊のリクルーティング広告を手がけている。
ふと、考えてみると、日本を守るための組織だということは、誰もが何となく認識しているものの、それでは日本の何を守るのかと、即答できる人は少ないように思う。
人の命を守るのは当たり前なのだが、そのために国土を守るのも何となく理解はできる。その上で、経済を守り、文化を守り、文明を守り、歴史を守る。これらは一体、どのような優先順位で、守るべきなのであろうか。
すべての経済を下部構造として基本概念を置くならば、経済活動なきところに政治、文化は保守できないということに一旦は落ち着いた学説も以前はあった。しかしながら、今世紀に入り、特にIT関連を牽引している経済人のルーツが、国土のないユダヤ人系が大半なのを考えても、やはり守るべきなのは、まさに”日本人間”そのものではないかと妄想したりもする。
1月20日発行の2月号の美楽で4ページもこの広告を連載するにあたり、仮にでも美楽が自衛隊のリクルーティングを手伝う意味を考えておこうと思う。
久しぶりに深夜の書店で、本を数冊買い込んだ。
2013.01.07
第1号 年の初めの食欲
年の初めの食欲を満たしてくれる3軒の店がある。
いずれも銀座と新橋の裏通りにある。
社会人になって、すぐに覚えた牛めしのなんどき屋。
昨年の暮れに発見した銀座三越裏の紫龍。
お歳暮で人にばかりに食べていただくうちに、ついつい悔しくなって、自分で食べにいく魚久の食堂。(これは紫龍の隣にある)
2012.12.05
第41号 芝公園の銀杏2012
篤姫も和宮もこの銀杏を悲しげに、しかし気丈に眺めていたのであろうか。
この場所で、秋の落ち葉を見るたびに、いつも必ず文明開化のことを考える。
2012.12.03
第40号 カーコンカップ
カーコンカップが開催された。
関東地方のゴルフ猛者がざっと200人。豪華絢爛の商品を狙い、やってきた。
幸か不幸か、この日は朝から冬模様の12℃。昨晩から泊まり込んだスタッフが口から白い息を吐きながらコースをチェックしている。企業が開催するゴルフコンペとしては、今年最大級のもので商品総額も数百万円規模と冗談でプレーをする訳にはいかない。・・・・だけに、コースをチェックするスタッフも真剣そのものなのだ。
中山カントリークラブは千葉県の中でも名門のパブリックコースで、クラブハウスの柱も黒く鈍く、歴史を感じさせる色調、2階にあがると奥の控え室で体を温めるとコーヒーを飲んだ。
「いいコンペになりましたね」
林さん(カーコンビ二倶楽部代表取締役)が、僕のタバコに火をつけた。レストランのスタッフが妙に騒々しいと思ったら、今日のゲストの上田正樹さんがでてきた。カーコンビニ倶楽部のテレビコマーシャルの主題歌を午後のパーティで歌ってもらう。
僕にとっても今年の締めくくりになるイベントである。
2012.11.20
第39号 月刊「美楽」2012-12月号
『焼き芋』
枯葉を集めて路地の一角で、焚き火をしている子供たちがいた。
煙たそうな目をこすりながらも、貪欲な微笑を浮かべている。
つむじ風が足もとを通り過ぎると、焦げた葉っぱの向こうに、
今にも飛び出しそうな焼き芋の“黄色”が覗いている。
2012.11.09
第38号 Peach Aviationの未来
Peach Aviationの井上社長と話をしていると、やや古いと思われがちな航空業界にも、無限の未来を感じる。
世界の鉄道市場が200兆円レベルといわれているが、将来の近距離間の移動、つまり一人乗りの人間飛行機のようなものから、2000人から3000人の大量の人を運ぶ大型旅客機まで、この航空コミュニケーション業界の未来は、明るい。
美楽東海版の大山くんが、若い人材のネットワークを持っていることもあって、富山大学のペンネーム・あんこさんに桃のイラストを書いてもらった。桃の中には、まるで地球のようにたくさんの国や宗教や人間が住んでいて、交通機関が発展すればするほど、それぞれの人々は分かりあい、溶け合い、手のひらの上の桃のようにやがて地球はなっていくのかもしれない。
そんな話をしながら、僕は、半ば奉仕の精神と好奇心と、井上さんに対する尊敬が入り混じった心でこの会社のクリエイティブを毎日のように考えている。
2012.11.06
第37号 セントラルサービスの広告
セントラルサービスの広告は、用心しなければならない。気を配らなければならない。気をつけなければならない。
ホテルや宿泊施設やレストランなどで、日本ほど食器の清潔な国はない。どんなに豪勢な材料を使った料理でも、そこに5ミリのまつ毛が付いているだけでぶち壊しである。
先日40年ぶりに行われたIMFの東京大会でも、東京の景色や日本人のホスピタリティや、ましてや富士山などにも真っ白に輝く日本食器の美しさに見惚れたVIPが多数いたという。
セントラルサービスは、日本の玄関であり、門である。
この会社が真心を込めて、食器を清潔にし、磨き上げることで、車や時計やカメラやそうそう・・・あのiPS細胞だって随分助けられるのだ。
日本という国がなくなっても、日本人の歴史と伝統はたった一枚の”白い皿”でも受け継がれていく。
2012.10.22
第36号 TMI の遠山友寛先生
TMIの遠山先生は、簡単にその人柄を語れるような気がするだけに、実は深遠なる弁護士キャリアを歩いてこられたに違いない。
そのお人柄をあえて簡単に言わせてもらえれば、
「強くて、明るくて、逞しくて、繊細で、情がある」
この朝も、行きつけのサウナの中で世間話。
「テレビは本当に軽くて、面白くなくなりましたね」(T)
「そうですね。テレビが変われば、少しはこの国もよくなりますね」(H) 「大体この政治的な問題は、そこがポイントじゃないんですよね」(T)
「制作しているディレクターの問題意識がないんじゃないですか」(H)
この夜、先生の弁護士事務所の近くにあるホテルで“Entertainment/Team Japan”という会合が先生の主催で行われた。この会合の趣旨は月刊「美楽」11月号の3ページ目に御執筆頂いたのだが、要は
“目立つことを何となく避けてしまう「日本人」が主流になってしまい、日本人の文化度が企画商品化してしまった・・・・・”。
よって、この会合でコンテンツと言われている業界に所属している人が一堂に会し、“もう一度日本人のつまらない文化感を打破するためのエネルギーを結集しよう”という趣旨。
「発起人もいなければ、主催者もいないのが、自然ですよね」(T)
「・・・・・・・・先生しか出来ないプロデュースですね」(H)
同じ九州人として、誇りに思う先輩である。
2012.10.08
第35号 浜松町の蘇生
浜松町の蘇生は、JR山手線の中でも最大の目玉である。
一日に17万人の乗降客が行き交い、羽田空港も24時間化空港へと向かい、この街は、日本のどの駅よりも国際化された都市になる。
大門から増上寺へと向かう参道と第一京浜の交差する東南の一角には、この街の住人なら誰もが知る金毘羅うどん屋がある。
仕事を終えたサラリーマンはまずは、名物の秋田屋の目が開けられないほどのやきとりを焼く煙の中で、数本のもつの串焼きを平らげる。続いて、行きつけの居酒屋で、晩酌セットを2〜3時間ゆっくりとたしなみ、終電の確認を腕時計でチェックした後、残りの数十分で金毘羅うどんを食べにこの店の暖簾をくぐる。
言ってみれば、この店はこの浜松町に住むサラリーマンたちの一日の最後を締めくくる“締めの店”なのだ。
この一角に、新しいビルが建造される。名物の金毘羅うどんも三十年近い歴史を閉じることになるようだ。
創造的破壊なのか、破壊的創造なのか、都市はいつも呼吸をしているが、それが街にとって健全なのか、不健康なのか、誰も検証しない。
2012.09.21
第34号 月刊「美楽」2012-10月号
『秋の実』
行きつけの小料理屋のテーブルにすすきが1本置いてあった。こんな時期にどこからすすきが舞い込んだのかと聞いたら、「先日、富士山の麓のうどん屋から頂戴した」とのこと。
都会では、すすきも見られないし、赤とんぼも飛ばなくなった。季節もなくなり、自然も軽薄になり、人は体温すら原子力で管理されている。
誰も泣かないし、誰も笑わない。
2012.09.16
第33号 浜松町の芝大神宮「例大祭・だらだら祭り」
浜松町の名前は江戸時代に人工的に植え込まれた防砂林と、江戸湾から吹きすさぶ強い風から増上寺の表参道を行きかう人々を護るための防風林に由来する。
芝大門から東京湾に抜ける東への道は、埋め立てられる前の砂浜の形状が今でもイメージできる。
「芝えび」が豊富に収穫できたのだろうか?だらだらと200メートルほどの浅瀬が続いた後、突然“すり鉢”状の急な傾斜の坂道に変わり、現在の海岸通まで伸びている。
芝大神宮の「例大祭・だらだら祭り」。どこにこの街の住人がこんなにたくさんいるのだろうか?貿易センターの前で、数十人の祭り人が老若入り混じり山車を、盛り上げている。この日ばかりは、愛宕警察の交通課も駐車違反を取り締まれない。
今年も浜松町に秋が来る。
2012.09.10
第32号 銀座6丁目並木通りイタリア料理「トラットリア マルタ」
銀座6丁目並木通りイタリア料理「トラットリア マルタ」に、招待された。
この店は、ファンケルの宮島会長の行きつけのイタリア料理で、ランチもディナーも驚くほどリーズナブルで、気分よく、滑らかに、食事の時間が過ごせる。
一般的に、銀座の西洋料理は隣の客人と肘がぶつかったり、時には会話が交錯したり、ひどい場合は、人の携帯電話に相槌を打ったりするほど、ゆとりもなければ、隙間もない。
しかし、ここマルタは、1畳に1人ほどの広大なスペースにゆっくりと、イカの墨をあえたドライカレーが食べられる。
壁にたくさんのうさぎの絵がかかっている。
このうさぎの名前を「マルタくん」と呼ぶらしい。マルタ島のマルタなのか、丸太棒のマルタなのか、その辺はさておいて、このビルの関係者がこの絵の画家であるらしい。目の前でおっとりとワインを飲みながら、笑っている宮島さんとは、かれこれもう20年ほどのお付き合いになる。
私の知っている経営者の中では、群を抜いて文化的で、上品な逸材である。
2012.08.10
第31号 安藤勇寿「少年の日」美術館
安藤勇寿美術館月刊「美楽」の表紙の打ち合わせで訪ねた。
出会ったときから何年経っただろうか。安藤美術館の周辺の山も、森も、風も安藤先生も変わらない。
変わったのは、ほんの少し、夏が暑くなっていることだろうか。
美術館に入ると、十数点新作の絵がかけられていた。
今回の新作は、今までの作風と異なり、テーマが明確になっている作品が多く、いずれの絵もいわば日本人の教科書にすべき題材をモチーフにしている。
先生は、色鉛筆で丹念に絵を仕上げるのであるが、想像してもお分かりの通り、白色を表現するのがとにもかくにも、大変な作業となる。何十もの色を重ねながら、色の科学的な調合を重ねた結果、「白」に至る。
写真にある絵は、画面いっぱいにからたちの花が咲いている。
花びらの白を恐れずに表現しようと思い立つ。そのエネルギーは凄まじいものがある。
先生と森の中で、絵の話をしていると、久しぶりに海を見たくなる。
2012.08.08
第30号 新橋あたりの客引き中国人に、看板で・・・
新橋あたりの客引き中国人に、看板が立てられている。
何が書いてあるかというと、どうもこの辺りで客に声をかけて商売をしてはいけない・・・と書いてあるらしい。
つまり、ポン引き中止の看板である。日本の飲食を含めた娯楽産業の年間消費額は、10兆円とも20兆円とも言われ、特に売春や賭博に関しては現金で取引されるため、正確な数字は定かではない。
3千円で飲み放題と言われ、アンダーグラウンドな飲み屋に連れて行かれ、30万円を請求され、泣く泣くカードで払ったなどといういわば、犯罪に巻き込まれた人もボチボチ出現している。
BOPという言葉は、ピラミッドの底・・・という世界経済の所得の構造でもあるが、つまり、ピラミッドの底にあたる年収3万円以内の人口層が、約20億人を締めている。
新橋の美しい外国人女性に声をかけられ、数千円から数万円の酒を飲み、中には酔った勢いで「※※※」。深夜の春を買う日本人に対しても警告を促さなければこのような看板は、今後増える一方になるだろう。それどころか、やがて北京や上海やアジアのあちらこちらの繁華街で、日本語で書かれたポン引き中止の看板が乱立する時代が来る。
2012.07.23
第29号 日本航空学園の広告
日本航空学園の広告を創りながら、やはり「モンゴル」だと思った。
気分的に、訪れてみたい国だったモンゴルに出掛けたのは、大相撲がきっかけでもないし、チンギスハーンの映画を観たわけでもないし、ちょっとした胸騒ぎを感じたからである。
月刊「美楽」の中に、1ぺージ程度の企画で、アジアの情報を提供すべき義務があると思い、ウランバートルへ出掛けた。
そのときにお世話になったのが、現在のモンゴリアンエアラインズ社の日本支社長のガルタ氏。ガルタ氏の紹介で結局は、日本航空学園の広告を手がけている。
日本の航空会社は、考えてみれば、どこで人材を確保し、どのように人材を教育し、また人材は何が機会で転職したり、退職したりするのか、全く知らなかったのだが、この広告を創りながら、航空業界全体に関しても、学ぶべきものが多かった。
国家の経済力、それに伴う文化、或いは、メディアとしての宗教、そして、人材の流通。これらは、どんなにインターネットが発展しても、交通インフラが伴わなければ、意味を持たない気がする。
因みに、日本航空学園は1932年創業。今年で80年目を迎える。
日本は、その間に2つの大きな戦争を経験し、船同士の戦いから、飛行機での戦いを通し、いまや核兵器と情報戦の時代になった。そして、日本においては、航空業界は平和な時代の象徴として、貿易や娯楽にのみ人材を必要としている。
2012.07.16
第28号 横浜倉庫の小紫さん
横浜倉庫の小紫さん(社長)とは、かれこれ十年を越えるお付き合いになる。僕と彼には、現在でも誇れるある商品をプロデュースした実績がある。それは、いまやコンビニエンスやスーパーで当たり前のように並べられているいわゆる「キャラ弁」(キャラクター弁当)第一号の製作者だからである。
このHPの読者の何人かは、記憶されているだろうが、今は亡きプロレスラー故・橋本信也選手の「びっくりカツどん」は数百万食を売り上げ、おそらくこの数字は、今日でもナンバー1であると思う。
横浜倉庫の広告つくりをする上で、倉庫の中身は、在庫ではなく、未来に向かうべきものである、というコピーを持ち出すとき、ふと思ったのが、小紫さんらが日本の倉庫業の新しい価値を生み出してくれると感じたからである。
2012.07.02
第27号 ホーチミンの戦争証跡博物館
ホーチミンの戦争証跡博物館を勉強しようと思った。
朝、目覚めるとホテルは窓で仕切られて、快適なのだが、窓の下のホーチミンは、インドシナ半島独特のスコールが上がったせいで、かえってむしむしとしているのだろう。
ホーチミンの戦争証跡博物館は、何故、「記念館」ではないのだろう。博物館というとどことなく、片っ端からモノを集めてきて、それを歴史や科学や思想で軸を作り、ただ並べたようにしか思えないが、記念館という表現を使うと、心に記すべき、という意味合いがあり、ぴたりと当てはまる。
南シナ海に沿って、長いものように伸びたこの国に、資本主義国と社会主義国が入り込み、南北に分断し、結局のところ民族戦争という名の内乱が演出された。
いってみれば、ヨーロッパの国々もそうであり、北朝鮮と韓国もそうであり、パキスタンもそうであり、日本も同じように2つに切り離されていたかもしれない。
戦争証跡博物館は、たくさんの写真で構成されているかのように思う。世界のありとあらゆる博物館の中でも、この博物館は写真を中心に構成されている。その中にあって、一番時間をかけて見入ったのが、さわだきょういち先生の作品である。
いまや時代や、動画から静止画に変化してしまったが、シャッターを押し続けるカメラマンの感性の集中は、フィルムを回し続ける動画の情報量と比べてもやはり怖いほどの殺気を感じる。
一発の米兵の弾丸が、農民の頭蓋骨を粉々にしていく。無数のナパーム弾が一瞬にして、街すべてをケロイド状に焦がす。雨のように散布された枯葉剤が数え切れないほどの奇形児をつくり出す。利益を生み出すために、犠牲になるのは、現在でも同じ弱者なのである。
2012.06.26
第26号 ベトナムの自転車
ベトナムの自転車は、川のように、雪崩れのように、僕を襲い掛かった。
洪水のように、押し寄せるオートバイに目を取られていると、背後から色とりどりの商売品を満載した高齢の女性が、声をかけてくる。
「ニッポン…トウキョウ……ゲンキデスカ」
僕は思わず、
「ホーチミンほど、元気じゃないよ」
と、呟いた。
国家が高度に文明化し発展していくことで、そこに住む人間の具体的エネルギーは、反比例して劣化していく。加えて、情報が発展し、ありとあらゆる全身の五感を刺激すればするほど、知的エネルギーも疲弊する。
ホーチミンは、まだまだ都市のエネルギーと敗北しない人間たちが生命という名のペダルを漕いでいる。
2012.06.20
第25号 月刊「美楽」2012-7月号
『紅い空』
自然が奏でる無限の色彩のどれか一つの色に、心を浸透させていく。すると、まだらで猥雑化した自らの心模様も極限の原色に返っていく。
少年は、夕焼けの紅を思い切り吸い込むと、肺の中が真紅になるのを感じた。
すると、日没前のオリーブ色の山並みがまるで花びらのように刻々と開き、うっすらと浮かんだ幾つかの星が花弁の中に吸い取られていく。
我々人間は、心の中に無数の色鉛筆を持っている。
2012.06.15
第24号 パーコー麺
上
ザ・キャピトルホテル東急『ORIGAMI』
中
支那麺『はしご』
最後に、
瀬佐味亭 虎ノ門店
2012.06.08
第23号 ホーチミンの誇り
ホーチミンの誇りは、どこの国でもあるような歴史や文化やましてやノーベル賞受賞者の数ではなく、20世紀に入ってから津波のように押し寄せてきたフランスや中国や日本やアメリカなどの外的を、農民の知恵と工夫で粘り強く排除したその理性と体力である。
延々と街を占領する無数のオートバイの川や、粘り強く何時間もの工芸品を生みだす指先。テレビの観光ガイドは、薄っぺらな紙のように表面的な映像を垂れ流しているが、戦争証跡博物館に張り出されたベトナム戦争の写真の数々が”悲しい誇り”となってベトナムの底辺を支えている。
麦の穂のようなたおやかな肢体をオアザイで包み込みながら、タマリンドの花が濡れる歩道を歩いていく。彼女たちがこの国のエネルギーとなっている20歳代だとすると、彼らの両親のほとんどはあのベトナム戦争の砲弾の下を潜り抜けた戦争経験者である。
1975年に独立して早くも40年が過ぎた。日本の場合、1945年の敗戦から40年過ぎた辺り、つまり、1985年に経済はバブルの頂点を迎えたとするならば、あと数年後にこの国も中国が散布する巨大なマネーによってバブルを迎えることになるのではなかろうか。
しかし、日本との根本的な違いは、「ベト民」が自らの力で勝ち取った独立という誇りを今も現実のものとして持ち合わせていることである。
2012.06.05
第22号 アイ・ジョージさんの「夜霧のジョーニー」を聴こう
アイ・ジョージさんに久しぶりにお目にかかった。
数年前に何度かミーティングをしたときは、世界の子供たちを救うためのチャリティーソングを企画されていた。その企画は、莫大な予算と共にスティービー・ワンダーを始めとするビッグアーティストが多数登場するために、かなりの時間がかかり、現在もその企画は続行中とのこと。
昭和20年代の後半にラジオとテレビがメディアとして普及し始めた頃の歌手は、現在の歌手と違い、歌もうまかったし、声も良かった。
レコーディング段階で当然デジタルやコンピューターなどは存在していなかっただけに、音感もリズム感もしっかりした歌手でなければレコード会社のほうも評価しなかったのであろう。
そんな本物の歌手しか存在しなかった時代に、中でもアイ・ジョージさんは群を抜いて声も良かったし、歌唱技術も素晴しかった。
「最近になって、以前よりまして喉の調子がいいんですよ」
と言いながら、録音したばかりのデモCDを、聴かせてくれた。
確かに、以前より喉の奥が開き、鼻から吸う息もリズミカルだし、何よりあの頃の低音にさらに磨きがかかっている。
こういう本物の歌手を評価する国でなけでば、日本の文化も評価されない。
アイ・ジョージさん。79歳。世界で通用する日本の歌手として、一層元気である。
2012.05.21
第21号 ブリストルヒルゴルフクラブという困難!
ブリストルヒルゴルフクラブにそっと出向いてみた、このゴルフコースの
広告は、良くある美しい緑のコースの写真を、背景にしたくなかった。
というのも、ブリストルヒルズに始めて訪れた日に、えらく苦労し
18ホール周り終えたときには、”敗者の肩に雨が降る”状態であったの だ。
2012.05.18
第20号 マグレガーゴルフの週刊現代の広告
マグレガーゴルフのグラフィック広告を制作。
このメーカーの伝統を、如何に新鮮に表現するか苦労する。
この時代だからこそ「歴史と伝統」という思想と、最新鋭の技術を
搭載した道具と両立させるのは、ついついしかめっ面になる。
そんな商品は、一体どんなものだろう。江戸時代の宮中で人気のあった
羊羹の会社を思い浮かべたり、大分の温泉のウォシュレットの広告を
遊びで造ったりと、ばたばた時空が過ぎていくうちに、この会社そのもの が、まさに「日本」なのだと思い始めた、
”新しさの中に、時代の流れを、感じ取れる”図案を、考えていくうちに
鵞鳥の羽をボールにしていた時代をテーマに、115個の玉を並べてみ た。
日本国家の広告なら、2012本の日の丸を、日本海の上に浮かべる
概念に近いとも思う。
2012.05.04
第19号 霞ヶ関の冷や汗
東京電力の本社から程近い霞ヶ関の信号の角に、東京電力の”すべての行為”を否定する幾つかのグループが陣取っている。
借り物の運動会のテントのようでもあるが、幾重かに立てかけられた手書きの看板が、原子力に反動する彼らのイデオロギーの本性をにわかに醸し出している。
霞が関には20を越える我が国の行政が集中しているようで散乱して、ビルを乱立させている。
やがて、暑い夏がくると、このテントの中の運動員は、より誇らしく、より逞しく、よりたよやかに、電気のない暑さと戦うことになる。
無関心を装った霞ヶ関の無能な、しかも機械化したロボットたちは、このテントの前を冷や汗をかきながら通ることになる。
友人Aが、福島の原子力発電所で作業をしている。
東電職員は「お疲れ様」の挨拶もしないと、嘆いていた。
2012.04.20
第18号 月刊「美楽」2012-5月号
『水たまり』
雨上がりの水たまりに、麦の穂を背負ったような雨蛙が揺れている。
組織や集団にも馴染めず、気楽に夕刻のひと時を過ごす若者のようでもある。
今日、道路の舗装が行き届き、「水たまり」という現象も見かけなくなった。
つまり、日本人の心も舗装されて閉塞のときを迎えているのであろう。
2012.04.10
第17号 桜という名の責任
日本という島国に、もしブランドというものが与えられるとするならば、そこには、明治維新以来の歴史の上に立つ日本人像がある。それは、誇大妄想的な人材に対する評価であり、今日においては、とうに霧消してしまっているのではないだろうか。
ブランドとは、一言で言うと、説明をしなくてもそこに立脚された信頼であり、確固個たる責任であり、“ある種の保障”のことをいう。
昨今、日本人を評価する声は、欧米よりむしろ中国や、それ以外の発展途上国との比較が基軸の中心となってきている。簡単に言うと、戦後、築き上げてきた緻密な計画性や、加工業と言われようがその商品開発力、アートにおける想像力、組織に見られる連帯性・・・・・
しかしこれらが評価されてきた“ブランド”は、実は国家経済の劣化というシンプルな要因によって、見直しを迫られている。1986年のバブルの到来から、流砂の如く雪崩れてしまった。
増上寺の屋根瓦の下の群青の藤に春の闇が重なり、その視線が覆うように今年も薄白色のソメイヨシノが乱華している。
富士山も桜も、共に残された永遠のブランドである。
2012.03.29
第16号 嵐田三郎さんを偲んで
嵐田三郎さんを偲んで、ニューオータニへ急いだ。会は午後二時に終わるので、ぎりぎり間に合った。大広間には、既に弔問の客は無く、大きな祭壇に嵐田さんの近影が、飾られていた。
人生は、色々な人との出会いで影響され、ぐるぐる変化し、回転しながら時が過ぎていく。目に見えない変化もあれば、鞭を打たれた馬のように走り出す激しい展開もある。
1993年の暮れに、僕は福岡にいた。福岡ドームの開業まで残り数ヶ月に迫っていたとき、ダイエーの中内会長の命を受けて、リクルートで特殊なプロジェクトを任された。そのうちの一つがドームのキャンペーン(今で言うブランディングかな?)。
いろいろ、細かな知恵や作戦をスケジュールに置いたが、どうもこの巨大な施設の知名度を瞬間的に上げるのは困難に思えた。そんな時に、行きつけの銀座の飲み屋で、嵐田さんに会った。
ビールを片手に、煙草をフカシテイタ。静かな品のいい小柄な紳士であった。少なくとも、僕には笑顔を絶やさなかった。ピーナッツを日に焼けた指に転がしながら、また一服。ダンディであった。紺色のスーツに、紺のドットのネクタイを締めていた。色気があったのは、男のスケールから来るものであろう。
「マイケル、ジャクソンは、来日の予定はありませんか?」
僕の唐突な質問に、彼はシンガポールでのコンサートを予定しているといった。
「東京はさておいて、福岡で、歌ってくれませんか?」
ちょっと、聞いてみますよ。・・・あたかも、隣に住む知人に挨拶をするように、気軽にマイケルに打診をした。
福岡ドームが開業した年は、現在でも語り草になっているように、続々と大物ミュージシャンが、来日。ホイットニー・ヒューストン、サイモン&ガーファンクル、マイケル・ジャクソン、マドンナ・・・・。
僕が、今の仕事を適職かもしれないと考えたのは、嵐田さんの影響が大きい。師弟関係に近いキャリアの差を感じながら、彼の隣の席は居心地が良かった。多分、”こんな中年の男”になろうと憧れたからであろう。
ご遺族に挨拶をして、帰ろうとした時に、キョードー横浜の藤村会長が
壁の方を指差しをした、
そこには、イベントのスタッフが首に下げるたくさんのステッカーが掛けられていた、多分1000枚は、超えるであろう、
僕は、必死で福岡ドームのマイケルジャクソンを探していた。
それはまるで、見舞いの折鶴が、舞い降りたかのように、美しいオブジェであった。無造作に掛けられているのが、嵐田さんらしかった。
照れ屋の嵐田さんは、最後は、自らステージに立った。僕は、最前列の観客の一人として、感謝しながら目を閉じている。
2012.03.26
第15号 月刊「美楽」2012-4月号
『代掻きの頃』
肩幅もないぬかるんだあぜ道を、僕はよろけながら急いでいる。
朝目覚めたら、もう父さんは畑仕事に出掛けていた。
太陽よりも、鶏よりも、アマガエルよりも、霜柱が雫になるように、寝坊した僕は罪滅ぼしにお昼ご飯のおにぎりを届ける。
途中、振り向くと重たい魔法瓶を持った妹が泣きべそをかいていた。
2012.03.24
第14号 美楽マレーシア版の下調べ
マレーシア・クアラルンプールに4日ほど出かけた。ニホンジンは、緯度に強く、経度に弱い国民性であると、かってに判断しているが、まさに、今回のマレーシア旅行では、それを感じた。
つまり、1945年辺りの帝国主義日本の幻想と其の頃の地図ねせいか、大東亜共栄圏の範囲のアジアは、何処か近く感じられるのだ。
しかし、朝の11時に出発したジェット機が、クアラルンプール空港に降り立ったのは夜の7時。つまり延々8時間もかけて罫線を下ったのである。
考えてみれば、モンゴルよりも、ハワイよりも、遠路。赤道近くまで来てしまった。バンコックと、ミャンマーと、マニラと、どんな位置関係にあるか意外と、難しい、
飛行機の扉が開くと、その隙間から蒸れる様な熱気が吹き込み、沖縄や、インドや、エジプトを旅した時と同じような亜熱帯の艶かしい湿度の感覚が背中を刺した。
「資源が豊かで、緑に恵まれ、物価がやすいので、ニホンジンが、たくさん住んでいます(実際は1万人程度)」
現地のガイドが、タドタドシク、ハヤイ日本語で捲くし立てた。
中国系3世や4世が、人口の7割を数え、インドは勿論中近東や、オーストラリアからの移民が多い。雑食の半島。
クアラルンから西へ車で1時間も走ればマラッカ海峡に出る。第二次世界大戦で、父の兄が戦死した海である。軍艦と共に、若い命を国に捧げたのは、終戦の、ほんの少し前であったらしい。
西の空が赤銅色に染まりながら、日本の夕陽より、一回りも大きな太陽が燃えている。
飲み込まれそうな、温い熱帯の闇がカーテンのように、揺れ始めた。
2012.03.19
第13号 上田正樹LIVE―遠ざかる日本(ふるさと)の歌 by MacGregor Spirit 1897
遠ざかる日本(ふるさと)の歌 by MacGregor Spirit 1897のライブが盛況のうちに終了。
やはり、上田さんの声は、CDでは、比較にならない位”現場快楽主義”なのだ。
キャリアの凄さでもあるが、技術的な、本能的なのはマイクとの距離感造り方である。あおの振り絞るような声帯を収縮させながら、声の幅や、太さや、高さにあわせて、ほんの数センチ、数ミリの単位で、マイクをあわせるのには、驚ろいてしまう。自分の声を、美しく届かせるコツを、知っている。
ある種、上田さんと湧き合いあい、製作してきた曲目だけに、”生の伝言”がどれ位のメッセージ力で、会場をひきつけるかは、胸がしまるほど気になった。苦労と、プロ、熟練者、キャリアー、いろいろ”ねんき”を保険にしても、日本の童謡が、場合によっては、時代遅れかもしれないし、時代はづしカモシレナイし、地震にヒントを得た、僕の思い上がりかもしれないかと、心配で、会場のお客様の表情を考えると、息苦しかった。
帰りの受付で、涙ぐんだ女性が、CDを購入してくれた。
スポンサーのマグレガーの女子社員であった。
「いいコンサートでしたね」と言われたので、
「お客様が良かったんですよ」と、答えた。
これは、事実である。
2012.03.16
第12号 電気カーの充電器?到来!
電気自動車の時代が、やってきたな・・・・・?常々、ニュースでは、報道されているものの、往きつけのサウナの駐車場のいつものスポットに車を止めようかとギアーをバックに入れると、電気自動車の充電用スペースに変わっていた。車を降りて・・・・・・
恐る恐る近づいて”何やら青い充電マーク”らしき表札を確認すると、どうやら無料の給電ができるらしい。
森ビルは、いつも最新鋭のシステムなのは有名だが、電気自動車の普及台数は、まっだ数パーセントにも満たないわけで、気が早いのでは?
さて、職業的趣味であるが、このマークを普及させる為には、どんなネーミングをつけたらいいのかな?
やはり「車コンセント」・・・・「カーコン」??だろうか?
カーコンビニ倶楽部の林社長に、提案してみよう。
2012.03.02
第11号 上田正樹 遠ざかる日本(ふるさと)の歌 by MacGregor Spirit 1897
このたび、3月7日に上田正樹さんの『遠ざかる日本(ふるさと)の歌』CDが発売されます。
そこで、3月16日(金)に東京プリンスホテルパークタワー1F "Melody Line"にてライブを行いますので、ご案内いたします。
上田正樹 遠ざかる日本(ふるさと)の歌 by MacGregor Spirit 1897
2ステージあります。
会場:ザ・プリンス パークタワー東京 メロディーライン (東京都)
1st show 19時スタート
喫煙不可。
2nd show 21時スタート
未成年者は入場不可。喫煙可。
公演などに関するお問い合わせ先
サンライズプロモーション東京:0570-00-3337
チケットはこちらから・・・
http://www.sunrisetokyo.com/schedule/details.php?id=1171
画像下のURLからご覧ください。
被災地の浜辺を歩いていると
どこからか
メロディが聞こえてきました
夕焼けの雲の切れ間からなのか
打ち寄せる 波のゆらぎなのか
それとも
故郷全体のシンフォニーなのか
わかりません
僕は街へ帰る汽車の中で
いつのまにか
童謡を口ずさんでいました
2012年1月 上田正樹
2012.02.20
第10号 月刊「美楽」2012年3月号
『雪解けの頃』
地球温暖化といわれてもう数十年経つのだが、いよいよ日本も温暖化を肌で感じるようになってきた。
ワインの生産地が北上し、拡大していく。
アイススケート場に氷がはれない。
北の国の桜の開花が早くなる。
12月に秋刀魚が旬を迎える。
やがて日本人の心が四季を感じなくなる。
2012.02.17
第9号 マグレガー―Japan Golf Fair2012
マグレガー―Japan Golf Fair2012は、思いのほか好評で、お世辞も含めてマグレガーの展示スペースの評判がいいと、耳にした。
一方で、この程度の簡単な思想でアピールするだけで、他のメーカーを驚かせてしまうゴルフ業界の稚拙な販売方法も、やや難儀な課題を背負っている。
要は各社とも、全く同じ広告で競い合っているのだから、悪く言えば、知恵が無いか、ゴルファーを舐めているのだ。
”飛距離”信奉・・・・・これほどゴルフを軽薄にするものはない!
さて、結果として思うに、日本のゴルファーが、品位も、質も、幼児並なのかもしれないし、・・・・或いはゴルフと言うスポーツが、プレーヤーを幼児にしてしまうほど純粋に簡単なのかもしれない。
バリューゴルフの水口社長曰く
「2018年あたりは、高齢化で日本のゴルフ人口は30パーセントほど減少するという数字があります。コースも少なくなるでしょうし・・」
「しかも、消費税や、円安でガソリン代も上がるし、・・・・逆風のゴルフ業界ですね」
マグレガーは、ゴルフの持つ伝統と、プレーすることのロマンを、問いかけている。創業以来115年、無数の戦争と、災害と、トラブルを続けてきた地球人は、一体何故に、このスポーツを愛するのだろう。
これが、今年のテーマである。
ゴルフを見直そうよ。。。。ゴルフの価値を考えようよ。。。
2012.02.15
第8号 東京電力の不透明
東京電力の不透明は、「犯罪」である。というより、国民を無視して延々と垂れ流れている放射能そのものが、この組織である。政府との情報が公開されないことも、仮にも今日の被災規模が推定できないことも、将来の被害拡大が推測できないことも、停止した施設の再開までの手順も、我々消費者が被る電気代の中身も、・・・・・全てが不透明である。しかも、明らかに確信犯的に、東電の利害を守りながら、また、その輪の中で利権を保持している悪党も、”いまだに、此処の利益を優先して不透明にしている”。
冷たい雨に晒されて、霞ヶ関の交差点に、テントのような小屋立てて、抗議を行っている人々がいる。霞ヶ関の官僚たちが、見てみぬ振りをしながら
一杯やりに、其処を通り過ぎる。
何かが、根底的に壊れ始め、やがて滝のようにこの国を海の底に沈めようとしている。
放射能をたっぷり染み込んだ流木に、つかまろうとしているのは、消費者である。
いやいや、我々も、ふしだらに沈黙をしている限り、ただの古ぼけた流木に、留まるのだ。
2012.02.09
第7号 マイファーム西辻君との広告作り
マイファームの西辻君から、広告制作の依頼があり、図書館や、書店で農業関連の写真集や、書籍や、雑誌をぱらぱらめくる。
日本の農業行政に関する数字だけの本が、一番イメージが沸きやすかった。それにしても、このジャンルの本は、多岐に渡る、農業政策を誤ると、戦争にもなるし、宗教弾圧にもなるし、国力の低下もあれば、無論飢餓や、内乱、から恋愛関係や家庭問題、教育問題にも普及する。
結局、御馴染みの弁当をモチーフにした。いい仕事をすると、昼ごはんが無かったら、やってられない。白い米と、梅干さえあれば、もうそれで満たされる。
人間は、食べることで、生きている。
さて、マイファームとの合作「美楽米」(ひのひかり)は、お陰さまで好評のうちに、第1回販売分を終了し、来年も、豊作を祈るのだが・・・・
末を行く日本の、農業政策は、現在の野田政権では、見えてこないし、おぼつかない。
2012.01.31
第6号 マグレガーの思想
マグレガーの広告を、夜な夜な制作している。
好きなゴルフの仕事なので、気合も入るが、あまり好きなジャンルの広告に気が入りすぎると、広告主の要望とお客様からの支店と、僕の情熱が、入り乱れ、返って無頓着で意味不明で、広告の目的と意味と、メッセージが伝わらない駄作になる。
僕が、中学生の頃、父のキャディバッグには、マグレガー・ターニーが入ってのを、確実に記憶している。それは、習いたての英語の単語には見慣れない文字だったから、妙に頭をひねくり返し、発音と、意味に悩んだ分だけ
印象に残っている、
ターニーの、明敏な3番ウッド。
マグレガーの広告を作るときに、一番気に留めたのは、他社の広告と並んだ時に絶対に、珍しく、驚きをもってもらうこと。
やはり、目に留まらない、広告は、頭に止まらない、文字の意味も、写真の表現も、”印象的”で”直撃的”なアピールがあって、それからの始まるから。
「脳写」と言う言葉で、僕は、自分の頭に、浮かんだイメージをなるべく忠実に再現する。脳写されたものを、広告主に照準を合わせないで、ややセンスのいいお客様に、目掛けて発射する、
マグレガーは1897年に創業された、老舗。
昨今、消えていくまでの時間を競争するようなマーカーの軽薄な存在を否定し、115年の信頼を、アピールしていきたい、そんな・・・・・・脳写の断片が、”眠れない夜”を紡いでいく。
2012.01.30
第5号 マイファームの西辻さんと美楽米を制作
マイファームの西辻さんは、リクルートの後輩の中でも、最も期待できる事業家、政策家である。月刊美楽にも連載中であるが、”耕作放棄された農地”を再生し企業や、個人に貸し出して、「農する」事の楽しさや、喜びや、必要性を日本に普及している。
西辻さんは、人相がいい。
いつも、畑にいるから、ストレスや、妙な緊張感が、顔に無い。
人は第一印象で左右される。初めての客人を凝視すると、色々な事を創造する。日焼けした人は、この時期、スキーか、ゴルフの紫外線か、魚釣りか、海外のリゾート帰り。顔の皮膚がかさかさしている人は、病み上がりか、屋外での仕事の多い人。ネイルをしていない女性は、知的水準の高い人か、日頃家事を一生懸命している人。基本的に、肥満体の人は運動不足は当たり前、歩かない豪食家かな?
美楽米は、「日の光」という最上級のお米らしい。
少し、多めに水を入れて炊くと、真っ白なご飯が、釜から浮き上がる。
西辻君の真っ白い歯と笑顔のようだ。
2012.01.20
第4号 月刊「美楽」2012-3月号
『雪解けの頃』
地球温暖化といわれてもう数十年経つのだが、いよいよ日本も温暖化を肌で感じるようになってきた。
ワインの生産地が北上し、拡大していく。
アイススケート場に氷がはれない。
北の国の桜の開花が早くなる。
12月に秋刀魚が旬を迎える。
やがて日本人の心が四季を感じなくなる。
2012.01.18
第3号 砂時計の砂
美楽の砂時計が、評判が良く、あっという間に在庫が無くなり、お客様からもお礼の言葉を頂いている。
砂時計の砂を見ていると、人生に似ている。一分間の砂時計は、一分間の命、三分間の砂時計の中の砂は、三分で無くなる。島根県に一年間の砂時計があるが、これが日本では最大ではないかな。
砂時計の砂が、人生だとすると、砂の一粒は、”今”であり、”今日”であり、”現実”であり、”感情”であり、時の全てである。其の砂が、下の空間に落ちると、”思い出”に変わる。「結果」と言う名の「過去」である。
砂時計の形は、瓢箪のようなもので、ほとんどの人は、落ちていく瞬間の砂を見つめるのは何故だろう。
上の空間は、未来であり、其処にある砂が残った人生なのに、落ちてゆく瞬間と、少しずつ積もっていく砂を、眺める人が多い。
来年は、上の形を”素敵”な物を、作ろう。
2012.01.09
第2号 上田正樹さんの仮歌録音
上田正樹さんのCDのレコーディングが佳境に入っている。3月に発売されるアルバムは、日本の音楽社会に何かを提案してくれる傑作になる。
上田さんも何度か足を運んでいるが、被災地の状況は物質的にも、悲惨なものだが、それ以上にダメージを受けているのが被災者の心、精神的なるものが大きい。文明が未発達の原始社会ならまだしも、ある程度の電化製品に囲まれ、石油の恩恵を受け、人工的な環境に育まれた生活になれた人間が、”不便”を強いられてている、さらに仕事も、無ければ、明日の目処もつかない。
上田さんの声の魅力の一つは、”裸の心”が曝け出されるところにある。変な気取りも無ければ、偽装的にきれいな声も作らない。喉の奥の肺に近い声帯から直接搾り出された声は、特に、感情や心が強調される詩には、威力を発揮する。威力とは説得力である。
いくら詩を書いているといっても、そんな歌い手(シンガー)の仮歌を歌うのは自分の録音以上に、神経を使う。
久し振りのスタジオは、居心地がいい。工作室や、屋根裏部屋や、高校生の部室は、物を作る気分を高めてくれる。何処か、秘密めいて、謎めいて、
時間の流れる感覚も無くなり自由だ。
妥協しながら、満足するのは、苦痛を伴いながら、心地がいい。
2012.01.03
第1号 あけましておめでとう・・・・・とは心からいえないとしになりそう
新年を迎えた夜に、浜松町の芝大神宮に、立ち寄った。
しんしんと冷える夜で、人気も無い。
「今年は、何が起るか解からない」と言う人が多い。
昨年の震災や、東電の事故や、北朝鮮、欧米の経済状態の悪化、こんな時に
各国の首脳が、続々と交代する。
民主党も、心細い、・・・・政治においては、有能なリーダーがいないのは、実はもう何年も続いている。
”神頼み”するにも、お願いすることが多すぎて、しかも其の順番も複雑。
こんな時は、一日一日、坦坦と、過ごしていくのが、自然なのだ。
2011.12.30
第45号 上田正樹氏「遠ざかる日本(ふるさと)の歌」
上田正樹氏の見本。
詳しくは、上田さんの連載を美楽で執筆中。
日本の、ソウルは、童謡なのかもしれないという、仮説がピッタリと、しっくりと理解していただけます。
3月6日。ユニバーサルレコードから、発売予定!乞うご期待!
2011.12.27
第44号 聯合艦隊司令長官 山本五十六 -太平洋戦争70年目の真実-
美楽の執筆者でもある古庄氏が、監修に参加した東映映画「山本五十六」が封切り。この種の”第2次大戦”をテーマにした映画は8月の終戦記念日前後の封切りが多いのだが、・・・・何か時代めいたものを感じてしまう。
どうにもこうにも手の打ちようの無い日本なのは、余程馬鹿じゃない限り国民に理解され始めた。もともと人材以外の資源のない日本が、今で言うACEANのような大東亜共栄圏なるものを、旗印に東南アジアから中国を侵略していく。70年前の日本の状況と、今日の状態が、幾分似てきているだけに、この映画の主人公山本五十六氏の気持ちが少しは理解できる気がする。
誰よりもアメリカの事情に詳しく戦争の早期終結を目指したにもかかわらず、ずるずると戦争の闇に引きずる込まれていく日本。
TPPやら、増税やらで不安の中にある国民は、戦争に反対し続けた連合艦隊司令長官・山本五十六の判断と、先見性を求めている。
そろそろ、日比谷通り辺りを、学生が数万人規模のデモを、起こしても良さそうなのだが、どうやら”個人の生活”で、多忙らしい。この国は、一人ひとりが、それぞれの暮らしの中の、”満足!”を追いかけたら、危険な状況に追い込まれてくる歴史が、度々あった。にも。関わらず。
2011.12.21
第43号 カーコンビニ倶楽部の市川さん・・・岡持ちを置いていってください
カーコンビニ倶楽部の市川さんが美楽の広告の件で来社。
市川さんは、いつも浅草のお土産を携えていらっしゃるので、当方も近所の大門の老舗中華屋さんから、出前を注文。
この中華料理店の「味噌ラーメン」は、食通の男優・高橋秀樹氏を唸らせるほどの、”普通の安心な”味噌ラーメン”との噂。
昼休みともなると、ビジネスマン相手の露店の弁当屋に、数十メートルの行列が出来るほどの激戦区・浜松町なのである。
従って、VIPが来社しようがスタッフのみの会議だろうが、いつも11時過ぎに到着する出前が多い。
「岡持ちを置いていってください」
僕は、意地張りの合理主義者なので、「岡持ち」を、会議室のテーブルの真ん中に置いてもらい、出前のおじさんには、そのまま帰ってもらう。
食べ終えた、器やお皿は、そのまんま、しまって、お返しすればよい。
つまり「岡持ち」は、運搬用のお盆なのである。
歴史を感じさせる、ジュラルミンの「岡持ち」の蓋を、ギシギシと上にスライドさせると、まるで、ミラノ座の真紅の緞帳(カーテン)が悠々と上がり、オペラ役者が、勢ぞろいしている瞬間の、あの”ときめき”。
レバニラの匂いが軽く鼻を掠めると、にくい餃子の大蒜(ニンニク)が天井を突き刺し、主役の味噌ラーメンの湯気が、テーブルの上を雲のように覆う。
「さあさあ、お好きなおかずを、取ってください」
別名「岡持ち」ブッフェの、昼食が始まる。
2011.12.20
第42号 月刊「美楽」1月号
『こたつ』
こたつの中に足を入れると、母さんの足に触れた。僕はいつの間にか菜の花の夢を見ていた。こたつの中が、菜の花とモンシロチョウと春の風でぽかぽか、ぽかぽか。
冬休みの宿題は、いつもこうして眠くなる。
2011.12.14
第41号 マグレガー様新聞広告
マグレガー1897年創業の老舗。老舗とは「ろうほ」と呼んでいる人もいるが、先祖代々から伝統的に事業を行っている「信用と歴史」の会社組織であります。
ちなみに、日本では創業200年以上の企業が3000以上もあり、酒屋や、和菓子、製造業などが多い。
1897年創業以来、ゴルフ道具を提供し続けていた会社・・・・3世紀渡りゴルフを考えている会社なんて、素敵だな。
好きな仕事(広告制作)は眠れない・・・・。午前3時の睡魔の中で、原稿用紙の水道の蛇口が緩み、コピーと文章が、流れ出す。
会社に佐谷社長が訪ねてくる、同志社大学の野球部でキャッチゃーであったという彼は、ゴルフの腕前がどうのこうのと言う以上に、ゴルフに対する情熱が濃くて厚くて、暑い。
「ゴルフを変えたいね・・・・距離とか、何とかじゃなくてね・・・」
老舗企業の、ブランド・イメージは、時代に合わせて微妙に変化し、数十年のうちに大きな変化を遂げるケースも少なくない。
マグレガー社は、道具の提供から、ゴルフ道精神の提供に、変わりつつあるのカモシレナイ。
2011.12.11
第40号 回帰月食
皆既月食と言う文字より、回帰月食という感じの方が、すっきり来る気がしませんか?
今朝の新聞に、月の地球の関係図(天体図)が、書いてあり、この種の天体ショーは、彗星の接近やら、日食やら、必ず何処かで見ることにしているので、今夜も楽しみにしていた。
会社で、広告主と新聞の広告を製作中だったが、23時過ぎに車を跳ばして、東京湾のほとりにある公園に、繰り出した。
時間を掛けてゆっくり、重なり合う月の影は、セクシーで、濃い橙色に、発色している。往く宛ても無く愛し合う、不安一杯の恋人たちの遥にも見える。それとも、強引に、価値観を失わされていく無力な日本(わが国)だろうか?
ふと考えてみたら、東京で、”闇”を探すのは、一苦労する。どんな場所に行っても、犯罪防止の街燈やら、道路灯があり、24時間明るい町なのだ。しかし、”心の闇”を持つ人は増えているように思える。一人ひとりの心の闇の、表面積が、日に日に増大している。
日本の空を舞台にした、回帰日食は、何も無かったように、午前2時に、
幕を下ろした。町は、眠れずに、朝を待っている。
2011.11.23
第39号 石巻の空気
石巻を歩いている。
上田正樹さんの被災地応援の歌「今在る気持ち」の2番の歌詞を創る為に、石巻の瓦礫の前を歩いている。人気が無い漁港では、わずかばかりの復興のクレーンが、音を立てている。祝日だからなおさら、寂しい光景。
波に犯され、流された数千台の車が、連連とピラミッドのように積まれ、泥と汚水でもみくちゃにされた黒い瓦礫が、山脈のように海沿いの道を覆っている。
津波に呑まれ火事になってしまった小学校の脇に、船に積んであった消火器が置かれている。校庭の右隣にある墓地の石が転倒し、土に食い込み、ひな壇に小さな野菊が黄色い花を咲かせている。
青空の中で風が無い石巻の漁港は、あと数日すると冬を迎える。粉雪がツンツンと舞い、比重の重い、冷たい海が容赦なく踊り、凍えそうな町の人々気持ちを閉ざさなければいいが・・。
東京の机の上で、一服しながら書いた詩を、書き換えようと上田さんに電話してみた。
「あまり目の前の現実を意識しすぎると、言葉が探せなくなりますね」
「心の中の情景は、あくまで幻想という嘘ですからね」
この町に必要なのは、暖かいご飯と、温かいストーブと、何でも話せる友人と、”魚を取りに行く船”。
復興。再起。??????。
本音を言えば、言葉や、歌や、絵よりもっと必要なもの。
大切な今の瞬間を生きる為のエネルギーが、足りない。
以前の石巻に、帰る道は、探せない。明日の石巻を作る道が、見えない。
全てが今の政府の人材では、長引きそうである。
2011.11.17
第38号 ベネトン広告のやる気
ベネトン広告は、ものの一日で撤去を命じられたようであるが、その効果ははるかに大きなものである。
コンセプトは「Unhate」。お互いに争い合っている各国の大統領や首相、指導者たちがキスをしているという合成写真は、当たり前の創造力ではあるが、実際に街中で看板展開したことに、強烈なこの会社の実行力と経営スタッフのやる気メッセージと、”色を駆使する”ベネトンと言う会社の自由度をアピールした。
美楽の10月号で、歴代総理の合成写真と、僕の嫌いな携帯電話に没頭する意見広告を制作したが、思いのほか評判が良かった。
一言言いたい人が、どんどん増えている。
2011.11.10
第37号 パイプドビッツの佐谷さん
パイプドビッツの佐谷さんの事を、考えながらポスターを造る時は、いつも、彼の若い優秀な頭脳の先にある、人間とITの関わりと、そこにある複雑な関係性と未来への仮説を意識させられる。
美楽の12月号から、「自問自答」をキャッチに、絵柄を構成してみた。
ITそのものが、”何処か機能優先”に拡大していく現代の状況を佐谷さんは、どこか不満に思い、不安を感じているからである。
「インターネットは、人間の心をネットしているのだろうか?」
この疑問がある限り、この会社は、伸びていくのであろう。
2011.11.02
第36号 スティーブ・ジョブ氏は本当に亡くなったのだろうか
スティーブ・ジョブズ氏の写真が遺影に見えない。
ふと思うと、ジョン・レノンも、ジョージ・ハリソンも、開高健も、その以外の無数の世の中に文化を送り出してきた創造主が、この世を離れても、長い間・・・時には、数十年の間、実際に彼らの死は、受け入れられないで、其の作品と共に存続している。
一方、政治家や経済人は、ご遺族や近親者はさておいて、一般的には葬儀を終えてしますと、速やかに新しい体制に移り、ことさら感情の尾を引くことも無く、この世から”故人”として扱われ、その意味においては合理的に”死を認めてもらえる”のではなかろうか?
店頭に、たくさんの花々が飾られている。あるものは、ジョブス氏へのお礼の花束であり、また悲しみの表現であり、口惜しい涙であり、共に夢を創造してきたファンの讃歌である。
簡単に、偉大な事業家としての評価されたり、本に記されてはいるが、宗教や政治や、国籍を超えて、その人柄は注目されてきた。
何故なら”美しい商品や作品”は、誰の心の中でも、愛されることを証明した”神様”である。
ジョン・レノンのイマジンが、似合う事業家は、今世紀のうちは・・・しばらく地球人の心に、生き続けることになる。
2011.10.28
第35号 上田正樹氏in東北(石巻の小学校)
上田正樹さんの新曲に、子供たちの声を合わせてみる。被災者でもある子供の心は、少なくとも、申し訳ないが、進学塾の帰りに、コンビニで、漫画やゲーム本を立ち読みをしている子供より純粋で、研ぎ澄まされているに違いない。
あの”悲劇”によって、生きることの大切さと、生きる上での大切なことが、はっきりと解かり始めている。
「今在る気持ち」この曲のタイトルにあるように、今を当たり前に生きる我々は、今の有り難さに浸りきり、動物園の盲目のライオンが、与えられた生肉を食べて、欠伸をしているようなもの。
地震で随所に転々と段差が生まれ、かろうじて遺跡のように残骸がちらばる町の校舎は、オアシスのように思える。子供の心は瑞々しい。
さびにあたる、詩の中に
「輝き続ける星たちに・・・・この愛が届くまで」
この星とは、子供たちの両親や、親友や、先生や、亡くなった被災者に加え、やがては、僕たちも天に昇るわけだが、音楽もの持つ、永遠の力にも期待したくなる一説である。
11月20日過ぎに、この音楽は世の中に発表される。
2011.10.24
第34号 上田正樹氏ライブは本物の音楽人
上田正樹氏は、たったの一人でも、僕の音楽を聴いてくれる場所があれば、何処にでも出かける・・・・主義である。
10000人規模の東北の被災地のコンサートにも、恵比寿のスナックにも、スーパーの駐車場でも、結婚式でも葬式でも・・歌う・・・唄える。
喉から振り絞るおようなハスキーなしゃがれ声は、地球の底から響いてくる風のようにも聞こえるし、誰の耳にも心地良い”甘い飴”でもある。
彼も、この声に自尊心を持っているし、また最近の中には、滅多に見られない音楽家らしさは、お金や、名誉や、権力や、時間からは全くの無重力なのだ。芸術家は、なるべく常識や既存の価値観からは離れた方がいい。
しかし、それらのルールを無視するには、相当の勇気と実力と経験と忍耐が必要となる。
先日から、来年に向け、音楽活動の打ち合わせをしている。
上田さんの目指すソウル(魂)は、日本の童謡にも似ている。「夕焼け小焼け」「叱られて」や「きらきら星」の作者たちは、どんなソウルで、譜面を
書いたのだろう。
この不安だらけの日本の、あちらこちらで安らぎを求める人に、聞いてもらいたい録音をしたいと思っている。
2011.10.20
第33号 月刊「美楽」11月号
『飛び石』
去年の秋に右足が届かなくて、川に滑り落ちた。
水の流れが速くて、岩に膝小僧をぶつけた。
紅葉や蔦がどこからともなく流れてきて、冬に向かって水の音も慌ただしい。
冬が苦手な僕は、春に向かって思いっきりジャンプした。
2011.10.18
第32号 古庄幸一氏は、人生の30%を海で過ごした
古庄幸一氏は、わが国の海上自衛隊のトップに、いながら一流の画家でもある。美楽に10月からご執筆頂いている手前、先日も中華料理を、共に食した。温和な、ゆったりと話しぶりの中身は、わが国を取り巻く厳しい現実と直面してきた”実体的なエピソードばかりで”初耳の驚愕。
いずれにせよ、戦後65年間平和を甘受してきた日本は、取り返しのつかない歴史的低落を迎えることに、なりそうな・・・・・悪寒。
古庄さんから、大きな段ボール箱が届いた。ずっしりとした重荷の中身は数十冊の画帳。中には、半世紀を隔て黄ばんだ画用紙のノートから、今にも硝煙と海の香りが入り混じった大判の物もあった。
1ページずつ、ゆっくりと捲くり、捲るごとに、海から見た日本の入り江や、湾や、島や、遠くから眺めた半島のデッサンや、水彩画が描かれている。海上自衛隊の、船の中の人間模様や、滅多に見られない女性の姿がある。
「波の上で、30年くらい過ごしましたよ」
目的意識と義務感を持った職業人は、何かを掴みながら悩み、悔やみ、焦り、それでも耐えながら、それでも目的に向って仕事をする。
僕の何グラムかの平和は、この人から与えられたものなのかもしれない。
2011.10.16
第31号 戸張さんとの仕事
やはり戸張さんの仕事の進め方は合理的でスマート。考えてみれば、20年前、会社の上司であり、また、一人の男性として尊敬する人物でも在った。スピード感と開放感が、仕事のテンポを作り出す。
テレビで御馴染みの”声”と、決して相手の目を逸らさないで話す表現力、独特の発想、そして実体験に基づいたキャリアー・・・・これらから滲み出るのが”オーラ”というのだろう。
今日は、早朝から房総半島縦断のゴルフ三昧。マグレガーのコースにご招待を頂いて9ホール。その後、戸張さんを訪ねて、富士通レディスのトーナメント会場700に、マグレガーの佐谷さんと、友人の斉藤氏、元三菱電機の中島さんを連れて、お邪魔した。
房総半島は、斑に覆われた雨雲のせいで、土砂降りのコースがあったり、
晴天のコースがあったりと、降雨量も”気まぐれ”。
考えてみれば、ゴルフの試合ほど、ハプニングが起りやすいイベントもない。天候に左右され、コースに左右され、しかも20万坪の広大なエリアを掌握しなければならない。しかも時間が限られているので一瞬の判断が要求される。
「リーダーは、止める(撤退)判断が、重要」
僕が、最初に学んだのは、戸張さんの判断力の向こう側にある、無鉄砲さと、強引さと、そして正確な状況分析からくる”感”のよさだった。
来年の春、久し振りに仕事が出来る。
2011.10.05
第30号 マグレガー佐谷社長のご招待で展示会へ
マグレガーの佐谷社長とは、以前の会社で美楽をお世話になって以来の事。その空想的で、大胆で、一方マッチの寄木を集めて建築物を作るような緻密さは、職人芸的な経営を感じる。
マグレガーの新製品の展示会は、新製品のコピーをほんの少しお手伝いをさせていただいた関係で、ポスターや、パンフの出来具合が楽しみで、お邪魔した。
ゴルフ業界が、この50年、大量生産、大量広告、そして”何処か嘘っぽい”販売になって、いま、曲がり角。何処も同じであるが、次の市場は、中国、そしてアジア・・・やがて南米へと向かうのであろう。
しかし、サッカーや、他のスポーツと異なり、ゴルフの発展の歴史には、人間の品と、ルールが、教科書や聖書のように絡み合っている。
ただ勝利すれば評価されるだけでなく、勝ち方や、プレーの品性や、コースの攻略法に見る知性が、問われる。
マグレガーは、1897年以来、来年で創業115年。度重なる戦争と民族の独立と、資本主義の発達に伴う都市の変化の中で、世界的にも名だたるプレーヤーに愛され、慕われ、呪われ、嫉妬され、それでも決して迷わず、営々と、ギヤ(道具)を造り続けた。
僕が、微力ながら、マグレガーの佐谷さんを手伝うと言うことは、大袈裟に言えば、ゴルフの歴史作りの、お手伝いをすることになる・・・・そんな緊張感が沸いている。
商品を売るのではなく、ゴルフの歴史作りを手伝うのも、楽しみな仕事である。
2011.09.29
第29号 ピーターは駅前のギタリスト。
ピーター・ディクソンは、ラテンから、インド音楽、ジャズまで、弾きこなすギタリスト。ダブルネック・ギターで、表現する彼のテクニックは、どんな感情もメロディーに帰ることが出来るような腕前。普段は、通りがかりの音楽好きの数人が、並ぶ程度のストリートライブであるが、この夜は、20数人が、ピーターのギターの音色に引き込まれて、酔わされて、帰路に着けない。
もし、、ピーターが、日本の童謡を奏でたら、どんな楽想になるのだろうと・・・考えるうちに、不思議と僕の頭の中には、詩が浮かんでいる。
熱帯の海辺の家を、土砂降りのスコールが、撃ちつけている。椰子の葉が風に揺れて、寡黙な老人が、煙草に火をつける。老人は遠くの海を眺めている。停泊しているのは、錆びに色を変えた貿易船だろうか?
老人は、遠く離れた異国の故郷を、思い出している。
「こんな感じの、詩はどうかな」ピーターに尋ねてみると、
「このメロディーに、そのまま詩をのせては?」と微笑んで食くれた。
音楽が、どんな国境も、宗教も、民族も性も年齢も・・・障壁も越えていくように、ミュージシャンも風船のように心が軽い方が、いい。
荷物を待たずに、ギター一本で、日本を訪れたピーターと、何処か縁を感じたのは、昔の僕を、見つけたからだろうか?
2011.09.21
第28号 上海のアンバランス
歴史は街を造る。しかし、町の存在が、運命的に歴史を作るケースがあるように思える。
そう上海は、いつも、毎日が歴史の中にある。今朝も、歴史が作られている。裏町に、期日を終えたマンション広告の不動産の看板が、無造作に立てられ、一方この町でさえ・・・失業した大陸内陸部の農民が、浮浪者になりビニール袋を枕に昼寝をしている。
慢性病のように、周期的に外国資本の影響を、受けやすいのは、国の政策なのか、この町の”癖”のような性格なのか?
この200年。落ち着かない歴史に、翻弄されるのは、揚子江の出口の海に近い地理的な場所柄から、諸外国の政治の舞台に使われやすいからであろうか?それとも、ここに、”住む竜の頭の数”が、中国のほかの町より、少し多く、隠微なのであろうか?
人と街が、バランス良く機能しているかどうかは、そこに住む人々の顔に表現される。
上海は、諦めを通り越して、どこかおっとりしている、すっきりしている長老と、金貨を収奪する強盗のような、バイキングたちが共存している。そこにある未来が、明と暗の間をフラッシュのように混乱する。この町で、どんな子供たちが育つのだろう。
いい料理人と素材と器の様に,どこかしっくりと落ち着いて旅人にも安らぎ与える町がある。じっくりと弱火で煮込んだシチューのチキンのような深みと、釜で炊きだした米飯のような辛辣なエネルギー、もきちんと両立している町もある。
フィレンチェや、金沢や、シェナンドーや、ロトルアでは、数週間のんびり凄し、深い睡眠を忘れ、毎朝寝坊をして、昼過ぎに朝ごはんを食べることもあった。そう・・・・震災前の日本のように。
上海は、とにかく、今日一日をどう生きるかに、掛けるエネルギーが重要である。歩かない、休まない、笑はない、瞼を閉じない、・・・・。それが、上海と言う町の掟なのかもしれない。
町は、肥大化し、そこに機能(インフラ)が追いつき、最後部を何億もの人間が走る。このアンバランスを、魅力的に思える資本家も、不眠不休で、滑走する。
僕は、夜明け前に、ほんの僅か数分寝静まったフランス疎開を、ゆっくり歩いている。
魚の骨を咥えた子供のカラスが別の大きなカラスに追われ、目の前を横切り、振り向くと教会の鐘が鳴り、高層ビルの上で、欠伸をした雲が朝を告げる。
朝ごはんは、味噌汁が、飲みたい。
2011.09.20
第27号 月刊「美楽」10月号
『猫の三毛』
曲がりくねった海沿いの道を、一日にほんの数本のバスが走っている。軽油の匂いを潮風がどこかに運んでいく。
さっきから、バス停の前に佇んでいる少年は、何の夢をみているのであろう。隣の町から迷子になってやってきた犬も、このバス停にくるといつもクンクンと鼻を鳴らしてないている。
帰り道を探しているのを少年は気がつかなかった。
電信柱の影が夕焼けに向かってずんずん長くなる秋の夕暮れ。
2011.09.13
第26号 上田正樹さんの”声(たましい)”
上田正樹氏が、会社に来ると、風が吹く。関西の風でもなく、ミシシッピーの匂いでもなく、上田さんの風が吹く。
その風は、生き様や魂を、メロディーの載せて、詩に変えて、声に焼きつけて吹いている。貿易風のようでもあり、稲妻のようでもあり、突風のようでもあり、タンポポをのせた春の季節風でもある。
風には、力がある、風には、向きがある。風には、重量がある。風には色がある。そして、風には思想がある。
上田さんと、日本らしい風を、吹かせようと思っている。「大和風」。
その風が、日本全国の、山や、丘や、谷を吹きぬけて、川を過ぎて海を渡り、空に抜ける。雲になり、雪になり、雨にように、心に落ちる。
そんな日が、来るような、胸騒ぎがする。
この日は、農林水産省の食堂の横の、会議室で、ミニコンサート。
彼の声は、風のように、場所を選ばないし、人を選ばない。
音楽とは、そういうものなんだと、思う。
2011.08.24
第25号 きいち・・再び連稿
銀座「きいち」の壁に、安藤勇寿先生の絵が飾られた。この店の、雰囲気に溶ける。献立にピッタリくるだけでなく、千葉さんの素朴な情熱的な、人懐っこい性格が、絵の中の主人公に何処か”しっくり”似ている。
このHPの愛読者の方は、是非一度、お店を覗いてみてください・・・・な。
ネットの時代は、ありとあらゆるものを無神経に露出し、本物だろうが偽物だろうが、個人の主観で好き勝手に評価できる、全ての存在が、簡単に評価される、無責任な社会でもある。例え対称が人間であっても、芸術であっても、国家であっても、自然であっても、個人の価値観はどんどん無制限にインターネットという”おしゃべりな電線の無法地帯”を通して、流れ広がり、地球を染色していく事が可能である。
本当の現実を見るには、エネルギーが要る。人間は億劫で臆病で、さらに怠惰だから、これがまた曲者のメディアを加速さている。携帯電話で、絵の展覧会を見に行く人もいる。
店を出て、銀座の裏通りを、会社に向って急いでいると、コンビニエンスの入り口で缶ビールを飲んで、歓声をあげて騒いでいる若いサラリーマン集団を見た。その通りの端っこで、空き缶を探しては、残りのビールをチョビチョビ吸い込んでいる30台の浮浪者がいる。失業している若者の数は、簡単に手に入るが、彼らの悔し涙のしょっぱさは、ネットでは手に入らない。
このコントラストに現代に住む人間の乖離がある。
”人の痛みや悲しみさえもが、苦しみや、苦味”までもは、情報化されない中途半端な世の中。気持ちや感情は、数値では測れないのだが、その理解力を高めようとは誰もしない。
そんな日本の夜に、「きいち」の壁にかけられた安藤先生を眺めながら、ラーメン(タンが煮込んである)をすすると、暖かかな気分になる。
寂しい気分が、水彩画のように薄くなり、それを麺と一緒にすすり込むと
ひと安心する、僕である。
2011.08.21
第24号 MKタクシーと、美楽カフェ・オープン
MKタクシーさんには、月刊美楽が創刊当初から、お世話になっている。頭も上がらないし兼ねてから何か”恩返し”を考えていたが、ちょっと遊び心で広告を作ってみた。あの礼儀正しい運転手さんを、ニコリとさせてみたかった。広告は、宇宙飛行士を運転手さんに仕立て上げて
「月まで行きたいのですが・・・・」とお客様にお願いされるコピー。
「地球まで、帰りたいのですが・・・・」これは、第2弾。
宇宙服のMKマークが、妙に、可愛らしい。
先日青木社長に、恐る恐るこの絵柄のプレゼンをしたら、大喜び。仕事のスピードと、思い切りの良さは抜群の人だから、
「これ銀座の看板に、させてくださいよ」との、ご意見を頂いた。
次の日の夜、看板の位置確認と、通行人の視線を見に出かけた。
その場所は、銀座8丁目のリクルートのすぐ左隣30メートル。
僕自身何千回も、歩いた通りに在った。
写真の右の絵柄は、美楽の表紙、左は、MKさんの広告。
その建物の1階に「和風団子喫茶・美楽」をオープンすることにした。
人間の、夢は希望から始まり、希望は欲望から始まり、欲望は食欲、金銭欲、性欲、名誉欲、睡眠欲など多々あろうが、生命力の強さに、起因すると思う。美楽の夢は、全てのニホンジン一人一人が、もっともっと、正常な夢を、持ち始めることだと、考えている。
今の、この国は、誰かにコントロールされて、諦める事や、忘れることで・・・・そうそう、小さな夢より、大きな希望を持つ人が、足りないのだ。
2011.08.11
第23号 千葉さんの古時計は20年もの
千葉さんの「きよし」に安藤勇寿先生の絵を掛けていただいた、御礼に古時計という20年物の日本酒を、頂いた。この「古時計」は、津波に襲われた気仙沼の海をぷかりぷかりと漂流していたもので、日本酒の蔵から流出した殆どの日本酒は、行方知らず・・・になったらしいが、偶然見つかった。
あの夜、恐ろしいほどに星が美しく、その星空を、流れ星を眺めていた被災者も何人かいたと思う。砂にまみれてその僅かな隙間から夜空を見た人や、瓦礫や流木に体を預けながら、オリオンを数えた人も居たに違いない。
「古時計」という名前の由来は聞かなかったが、何年も先まで、永遠に時を刻むという意味だろうか?唯の古酒とは、思えない。
店の電燈に一升ビンを透かしてみると、濃いビロードの様な、赤茶けた紫の向こうに、千葉さんの顔が見えた。
今晩も、被災地の友人からの携帯が鳴っている。
紹興酒のような甘みの後に、舌の上で日本酒の香りが、ほんの仄かに匂う。酒の弱い人も、ストレートで、飲むべきでは?そんな気持ちになった。
「このお酒を、漬けた人は、一体どんな人なんだろう」と、思うと、しばらく、永遠に僕には飲めなくなって・・・・・・・。しまう。
2011.08.08
第22号 ちばき屋の千葉さんは憧れの日本男児
ちばき屋の千葉さんは憧れの日本男児。というと日本男児って何ですか?聞かれてしまうくらい日本と言う言葉が、何処にも見当たらない”今の日本”。
この言葉の本質は、男の生き様、死に様、そして行動指針を支えている”男の有り方”を表現するもの、よって、現在の日本のように、人それぞれ個性が在って、自由で言いじゃん、、、と言う人には、気難しく聞こえるかもしれない。
千葉さんとは、彼これ人生の半分くらいのお付き合い。とある飲み屋のカウンターで、盛り上がる客を尻目に、僕たちは、一人黙々と、考え事をしながら飲むタイプ。よって、今でもそうだが、気になって仕方が無いしょうがない存在であった。
「今の、料理屋を止めて、ラーメン屋を始めるんだ」
と聞いた時、なんだか一流の割烹料理屋を止めて、何故ラーメン屋なんか始めるのかは、当時の僕には理解できなかった。
その後ラーメン「ちばきや」は、その味が日本全国に評価され、押しも押されぬ一番のラーメン屋になった。
日本男児の条件には
@夢を持つこと
Aその夢が、社会に影響を与えること
Bその夢の為に、死ねること
Cその夢を、みんなが、歓迎すること
Dその夢には、一本柱が立っていること
Eその夢は、簡単にあきらめないこと
Fその夢には、終わりが無いこと
Gその夢を、後ろ指で指されても、笑っていること
Hその夢のお陰で、人が成長すること
Iその夢が叶ったら、日本を誇りに思うこと
千葉さんの故郷気仙沼の旧友から、電話が入った、
「会えなくて、ごめんなぁ、今度行くからよ」
来年の春が来る前に、地震と津波で、全て流された気仙沼の海岸に「かもめ食堂」という料理屋を作り、彼の原点になった、ラーメン屋を復活させる予定である。
当時、小学生だった千葉さんはその店で、おばあさんの造る”ラーメン”に、感動して、魅せられて、今があると語ってくれた、
そうそう
J番目は
夢が達成されたら、世話になった人に、恩返しをすること
*例えその人が、この世を去っていたとしても。
2011.08.03
第21号 上田正樹さんは順風満帆の予感
上田正樹さんは、これからの音楽家として、順風満帆の予感がする。
一口に音楽家、ミュージシャンと言われているが、その存在を、又は個性を考えていくと、音楽家と言うよりは話し上手なテレビ・タレント、見栄えの良いモデルさん、詩人、作曲家など音楽家と言うよりは、別なジャンルに分類はめ込んだいい連中(方々)が山ほどいる。
音楽が、聞く人に向けられて存在する価値があるのであれば、そこには社会的責任もあり、複数の聞き手や、メディアを通して世の中に、広がる可能性がある以上それはメディアである。
従って、音楽家を自称するのであれば、その誌、メロディー、その声の影響力を、考えてしかるべきなのである。ましてや、職業にしているのであれば、音楽家は、プライドを、持つべきである。
「わたしの、音楽の目的は、ここ・・・・なんだと・・・」
最近、会いたいな思う人に、偶然出会うことが何故か、多い。
友人のN君の紹介で、上田正樹さんの、話が出た時も、数週間前に彼のDVDを
見ていて、「やはり、本物なんだな・・・・・」と感心していた。
上田さんは、アジアのソウル(魂や情熱を音楽で表現する)は、欧米とは、異なり、場合によっては、それ以上のパワーがある・・・と信じている。それゆえに、インドネシアや、フィリピン、インド、台湾、韓国、中国と現地の音楽家と共に作品を作り、その活動を通して、日本の文化を伝播させている。
そんな、彼の夢と気持ちと、”話”に、深く共鳴した。
あの頃、僕は、人生を迷い、将来の職業や生活スタイルさえ判断しかねて、音楽から離れていった。
臆病な事に、音楽を職業にしていく自信・・・”食べていく自信”が、無かったがゆえに、音楽を捨てた。音楽で、自分を表現することを放棄した。
目の前の上田さんは、豊かな目をしている。好きなことを、思ったことを、歩くべき道を、選んできた男の誇りや情熱が、”目を肥やしている”。
「何か、気分いいですね、一緒に、日本を、伝えましょう」
上田さんの言葉に、僕は、恥かしながら、取り返すべき人生の時間と青春の
忘れ物を、捜しにいける予感がした、恥かしながら・・・。
その夜、「大阪ベイ・ブルース(悲しい色やね)」と、写真の「今ある気持ち(東日本大地震のチャリティーソング)」を聞いた。
久し振りに、ギターを持ち出して、流れる音楽に合わせて、弾いてみる。
少し、錆付いた気持ちの向こうに、暗くなった東京タワーが呆然と在る。
人生の錆びは、意外と、磨けば、落ちるに違いない・・・しかし、光るまでには、今の僕には、何かが足りない。そう、あの頃と同じ”足りない”何かが、解からない?????
2011.07.21
第19号 月刊「美楽」8月号
「しょんべん」
どうして真夜中に目が覚めたのかな?
布団の中に、白い秋の風が入り込んで、ブルルと背中が震えた。
夜空に、小さな流れ星を一杯詰め込んだ特急電車が、走っている。
いつもより、ゆっくりゆるりと、おしっこしている。
2011.07.21
第20号 「隠れ家」懐かしいライブハウス
「隠れ家」ってライブハウスは知る人ぞ知るアマチュアミュージッシャンのメッカ。サラリーマンで”あの頃の音楽”を忘れられないロマンチストが、集い、熱気溢れる演奏を披露してくれる。
浜松町の裏通りの、ビルの地下に、70年代を彷彿させるライブ空間。厚い歴史を感じさせる・・・・壁には、懐かしいギターが掛けられている。
もちろんハイライトの紫の煙が漂い、焼きうどんや、焼き蕎麦や、一歩進んで、音楽を語るには、その為の言葉が飛び交うような椅子とテーブルが数席。
「よろしければ、歌ってください」
「此処は、プロは、お断りなんです」
「イエロー・モンキーやりますよ」
昔、学生時代に公園で寝そべって、将来を弄っていた頃、こんなライブハウスのマスターをやりたかったんだ。
台風6号が、駿河湾を太平洋に右折して、たまに、土砂降りになる夜、
僕も、傘をささずに、しばらく、道に座り込んで、月も星も雲もない雨空を見上げていた。
「ずいぶん、遠くに、来たもんだ・・・・・」
2011.06.23
第18号 ほたるの里
ほたるの里は、以前イマジニアの神蔵社長や、笹岡薬品の笹岡氏や、毎年忘年会で集まっていた湯河原の「あしかり」から徒歩7分。ゴルフに行くのに1時間程度のドライブは、日常的で気楽な気分になってしまった。
夜、眠れないので東名高速を飛ばして、久し振りに蛍を見に来た。
この辺りの、蛍は、観光名物になっているので、昼間は人ごみが多く、また夜も近所の旅館が「蛍ツアー」を売りにしているので、ごちゃごちゃ・・・・蛍どころでは、ないのだ。
深夜の川べりには、誰もいない。
暗闇に、星のように、数十匹の蛍が、灯りを付けたり消したり、出没している。
東電の、アクシデントで、湯河原の町全体を心なしか暗くしている。
蛍を、何百万匹飛ばしたら、原子力発電に追いつくのだろうか?いやいや蛍が舞消えた日本に関しては、電気の文明力より、ニホンジンの”分火力”を議論する余裕さえないないのだ
2011.06.20
第17号 月刊「美楽」7月号
「波」
足元が、柔らかくて冷たいのは、太平洋の飛沫を浴びて岩を住処にしている濃緑の苔のせいだろう。
岬の先端にそそりでた、いつもの岩に、午後の強い波がバシャリパシャリ。
僕の体は、透明の泡になって、空にはじけると、青い鴎の背中に飛び乗った。
2011.05.27
第16号 東京タワーの灯り
東京タワーの灯りが弱弱しい。タワーツリーにその役割を譲る準備が始まったからなのだろうか。今の、管総理の表情にも似ている。東北震災から3ヶ月が過ぎようとしている。国民の大半が被災地の状況も、東電の現状も、ましては、国際経済の悪化も、夢遊病者のように、テレビから零れる断片に、流されながら翻弄され、徐々に無力化している。
先日、総裁候補と噂される友人と、晩飯を食べていると、疲れたような顔をして
「東さん、力の出しどころが、解からんよ」とボヤイテイタ。
政治化主導でも、官僚主導でも、明確なのは時間軸を経済主導に即刻変え、
各務の役割分担を大胆に行えるトップが居ない。
会社組織で言うと、パーツ(技術)はしっかりしてるのに、自転車操業の状態で泥濘にはまってしまった様だ。
その間、国際関係も日々悪化、欧州も米国も火達磨で、中国はぼちぼち調整局面、アフリカ・中東は石油情勢が混沌、・・・・・
島国日本は、震災が目潰しとなり盲目的に、放蕩を始めている。
増上寺の徳川家の霊廟が、今年も、一般に開放されている。葬られている遺体は本道裏と、寛永寺、栃木の日光輪王寺、にある。家系図を眺めていると・・・・・・・今の政権の短命は、この町に灯りすら届かない仄かな東京タワーのようだ。
2011.05.21
第15号 上海雑感
上海・外灘エリアには、中国全土から観光客がやってくる。川の向こうには、共産主義的資本主義の象徴とも思われる浦東の高層ビル。足元には占領下に建造された、由緒正しい建造物。それぞれの建物の上には、中国の国旗が、誇らしくなびいている。国家経済が猛然と伸びていく際に、起りうる矛盾も、エンターテインメントとして観光化する。
日本で言うと東京の隅田川?京都の鴨川・・・・雰囲気的には大阪の淀川だろうか?
今日一日を、懸命に生きるエネルギーは、懸命に食べて寝てを繰り返しながら、時として冷たい炎のように、未来を焼き尽くし、享楽の時間しか、残さない。それを、平然と受け入れる中国は、やはり未知の国。
月刊美楽を、この町のニホンジンに、届けたいと思う。この国の瞬間的な爆発力に負けないように、この国の、巨大な空域を持った精神に取り込まれないように。
2011.05.20
第14号 魔都上海にて
上海へは、久し振りの旅。空港から市内へのハイウェイは、整備され、平行して話題のリニア地下鉄が、市街地へ向って時速400キロで、走っている。
相変わらずの曇天、空は湿って濁り、重たい空気が充満している。
少し近代的な建造物がところどころに散在している。上海万博で話題になった会場がチラホラ。それも昨年の熱気を忘れたかのように、寂しい存在感のままに既に過去となってしまった静寂の中に佇んでいる。
花園飯店に着くと、ホット一息。ここは、ニホンジンの資本(血)が流れているホテルだけに、安心感がある。
旅人は、何処かで、見慣れた光景や、吸いなれた匂いを探しては、疲れを解すのだろうか?・・・・・・久々に日本語を聞いた気がした。
昔、ダイエーの中内会長と散歩したストリートを探しながら1時間歩いた。この町独特の、海風に混じる排気ガスを堪能しながら、浦東の見える川沿いを、歩いた。36度もあるのに、皮膚が東京のままで、気候に同化しないせいか、汗さえもこの町に遠慮して、飛び出さない。
昔、日本人を始めとした、貪欲な資本家は、汚職を筆頭に、賄賂と賭博と、麻薬と、売春と、この町を汚染した。「魔都」上海。
スリリングなスピードで発展?変化する町の裏通りには、そんな経済的な演劇など興味すらないような顔をした貪欲で逞しい老人たちが、「世界の方向と、風向き」占っている。
2011.05.20
第13号 月刊「美楽」13号
『輪ゴム』
蚊の鳴くような声に耳をそばだてていると、田んぼのくすんだ風に乗って、いつもの来訪者が狙われている。幸せを運ぶ者と、幸福になりたいものはいつも罪なく、両立する。
ツバメは数年来、巣を大きくしながら夏を楽しみやってくる。僕の人差し指が震えるのを見て、三毛の子猫が、驚いている。
2011.04.30
第12号 千葉グレンモアの地割れ
千葉成田のグレンモアは難易度が高いコース。
フルバックからのプレイは美しいレイアウトも水も風も感じるはずの自然の全てが敵になる。
しかも、本日のプレーは、コースの何箇所かに地震の後遺症・・・つまり地割れや、大地のゆがみがあると支配人が、ぼやいている。
「ゴルフ場の数NO1の千葉県でも、房総と成田では、随分被害が・・・揺れが違うんですね」。。。角屋さんとは、久々の対決である。
「この辺りで、池の底が割れるんじゃ、東北のコースは、傷んでますね」
青々と晴れた空の下、8番ホールの向こうに、送電線が聳え立ち、そこから福島原発のある東北の方に電線が、延びて行く・・・
関東地方の何処のコースに出かけても、その光景が美しければ美しいほど、あの日の”惨劇”と、フェアウェイの緑が、感じようも無い落差となって、自然と人間の関係の複雑さと、それを逃避させるような無常観を覚える。
しかし、テレビや、雑誌などのメディアに携わる一流の?人間たちは、何故あの津波で打ちあげられた生活の一部を”瓦礫(ガレキ)と、呼ぶのだろ
う。すべては、生活の一部であり、思い出のかけらであり、人間の一部であるはずなのに・・・・・・。
ある局の新人アナウンサーは、
「この巨大なごみの山・・・・・・を政府・・・・が・・・・なんとか」
あなたが、ごみの一部なんじゃないのかなあ?
2011.04.20
第11号 月刊「美楽」5月号
『毛虫も応援』
みんながもうとっくに、蝶々になったのに、僕だけまだ毛虫のまんま。葉っぱもたくさん食べたし、たくさん日の光も浴びた。それなのに、僕の体から、まだ羽が生えてこない。
葉っぱの隙間から近所の子どもたちが、田んぼのあぜ道で歌を歌っている。
僕と同じくらいの年頃かな。
2011.04.16
第10号 地震雲!?
地震雲!?3.11以来、空を凝視する事が多くなった。
あの災害は、到底映像や、言葉では表現できるものではないし、またそんな
技量は日本語には無い。
今朝もまた、何処かでわが身に、置き換えられない安心感と”虫のよさ”が
空を眺めさせているのカモシレナイ。
しかし、薄ら薄ら解かってきたのは、どうやら僕たち人間は、自然を
上手く利用して暮らしていると誤解していたが、それはとても悲しい傲慢
にすぎなかったと言うこと。自然が人間に”生きる許可”を与えていたという事。
それでも「誤魔化」しの豊かさの中で経済一本を軸に、動いていたこの国の事実は、東京電力のスタッフを見ても、それを批判しているほぼ日本人全体を見ても、今後もとろとろ変わる様子も無い。
黒い海が静に、そして自然に、人や、建物や、山や、社会に押し迫り、
巨大な胃袋のように、”生命”を放り込む。
「死」が普通で「生」が、奇跡という現実。我々、人間は死も生も選択
出来ない現状を、目の当りにしてしまった。
この生と死の間で、テレビや新聞や全ての媒体が、ただの数字と”お慰みのやさしさ”をCMにして、垂れ流している。
今や力の無くなった歌手や歌は、またもやお悔やみにもならない流行歌を、街中にたれ流している。
地震雲を見ていると無力になる。雲は、どんな形であろうが、自由で美しいだけに、無力になる。
私たちは、自然に選択されて、数十年を活かされている。
2011.04.09
第9号 桜の咲く日本列島
桜の花が、日本列島を、縦断する。
数年前から、この桜が開花しながら北上するスピードも、地域も以前とは違ってきているらしい。行きつけのホテルの一番桜は、「琉球彼岸桜」で、早ければ2月の下旬には濃いピンク色の花びらを満開にする。トリにあたる「ソメイヨシノ」が、増上寺の境内を夜空が見えないほどに覆う頃より1ヶ月は早い。
温暖化と言うよりは、何か地球の下で、ぐつぐつ地熱が滾っているのだろうか?生易しい気候や雲の変化と言うよりも、強力な地底のエネルギーが日に何度も、大地を揺らし、ビルを振り回し、テレビやラジオの音のない瞬間も、天井を見ると、壁が動いている気がする。
どうも三半規管が、麻痺し、体のバランスが、取れていないようだ。
今年の桜は、ほんの少し優しい色をつけている。街中のネオンと、看板と、オフィスの窓明かりが、消えた東京で、静に”弔いの声が”聞こえた。
月明りの下で、花びらが、囁いている。
「東北の仲間が、何本も何百本も根こそぎ海に流されてしまった」
*「散る桜、残る桜も、散る桜」
2011.03.22
第8号 月刊「美楽」4月号
『耳そうじ』
「さくらの花びらの開く音が聞こえるよ」
と、口癖のように言いながら、母さんは耳そうじをしている。
耳の奥のほうでごそごそと、風がぶつかるような音がる。僕は手を握り締めて固まっていた。
桜の花びらが咲く音はしなかったけれど、夏の風に揺られて落ちる花びらの音が聞こえた。
2011.03.20
第7号 月の引力
月の引力とは、古くからたくさんの小説やデータや映像にもなっているが、なんと言っても人間の心を一瞬にして奪う”その光の力"ではないだろうか?人は、物を見たり、聞いたりすることで、”胸の中にある心を、対象物に奪われる”。まるで、放り出すように、対象物に心を放り投げる。
二日続きの、ゴルフで、下半身がパンパンに伸びている。車のアクセルを踏むのも一苦労。
夜食を食べて、皇居の横を通りかかると、一人の年老いた深夜のランナーが、芝生の上で、夜の空を眺めていた。
空を覆う雲は、青白く光り、しかもまるで大陸が移動するように、ゆっくりと流れている。
顎を上げて、フロントガラスから、ビルの上の空を眺めると、雲の隙間から、月が見え隠れしている。思わず車から飛び降りて、僕は、皇居の芝生の上に、寝そべった。そうそう、今宵は、スーパー・ムーン・・・・・こいつが、地球を狂わせてるんだ。地震、津波、火山・・・・・満月。
普段、ホノ優しく感じる明りが、今夜は、なんだか、”悪い占い師の鏡のように”引き込まれ、魅せられてしまう。
(注)月と地球の接近は「スーパームーン」とも呼ばれますが、今回はおよそ35万6500キロメートルと、1992年以来19年ぶりに最も接近した距離となりました。
NASA(アメリカ航空宇宙局)によりますと、今回は、月と地球が最も遠くなった時に比べて、大きさでは14%大きく、明るさでは30%明るく見えるということです。
確かに、確かに、いつもよりずっと大きな満月だ・・・・心が熔けて、ふやけて、吸い込まれていく。
2011.03.17
第6号 「「はしご」揺れる拉麺
VSNのK役員といつものように、一風呂浴びた後、何か”油っぽい”ものが、食したくなり銀座のシナ麺「はしご」で、醤油に”全部いり”を食していたら・・・・例の振動が、やってきた。店員さんも力強く身構え、客も唖然として、寝れた視線で壁や天井を眺めている。私は内股に、筋力を張りながら、咀嚼を急いで麺を啜る。ずうずずずずz!
11日の地震の時も、
「震源地は、何処だろう?」と瞬間に案じ、本能的に地震の規模の大きさを察した。その後に東北の惨状をニュースで聞いた時、つらいな・・・やはり、そうか・・・そうだったのか・・・と思った。
よくよく器の表面を凝視すると、叉焼と麺が小刻みに揺れているように感じる。日本に住む全ての人が、そうかもしれないが、体の軸が異常に繊細に反応し、それは、まるで”麦の穂に留まる赤とんぼ”のように、揺れることに敏感な恐怖を、覚えてようだ。昔、釣り船が波に揺られて、2,3日シップ・ラグに襲われたことがある。そう、日本中が、気持ちも、心も不安定に揺れているのだ。
”揺れる拉麺”を急いで、タイラゲ、人気の無い銀座の待ちを、後にした。
鈍感な私でさえ、しゃぶしゃぶや、鍋料理、など器の表面にお湯の張ったメニューは、しばらく、食べる気がしないとなれば、料理屋さんは、この春から、売り上げを下げることになる。
この夜も、岩手、宮城では、ばらばらになった人の頭上に、春の雪が落ちている。
2011.03.16
第5号 セ・パリーグ開幕戦延期なのだが・・・・
セ・パリーグの開幕戦延期される。電力の問題もあるし、いくら震災にあった人を励ますと言っても・・選手協会がこの経営優先主義の無理な論理を否定している。
いい判断だと思う。考えてみれば、野球を夜開催しナイターで試合するというのも不健康で不自然な話な話。甲子園のように青空の下で、汗をながし、人工芝ではない天然芝で、泥にまみれ白球を追うのが、当たり前なのだ。
野球が、日本に輸入されて?伝道されて?100年以上になる。神田にある学士会館の前に、その記念碑がある。明治4年つまりは、維新の直ぐ後に「打球おにごっこ」と言う名前で、全国的に広がったこのスポーツは、戦後メディアの発展と共に、数々のスター選手を輩出しながら、国民的なスポーツになった。
そして、今、21世紀の訪れとともに、抜本的に見直しを要求されている。
”こんな時だからこそ、一度、船を止めて今後の航路を、確認する”いい機会かもしれない。
学士会館の前の野球碑は、良く見ると、ボールが地球儀になっている。まだ、日本がアジアの”ちいさな島国”で、この国の将来を有望視した米国人教師ウィルソンが、野球を教育メディアとして、位置づけていたのだろうか?
ならば、2011年現在、プロ野球を運営するスタッフは、今の子供たちに、何を伝えようとしているのだろうか?そこに、今後の野球の、発展の鍵があるのだろう。
2011.03.13
第4号 バーバリーの広報は”水漏れ”かな?
三陸海岸を襲った”海の大量虐殺”を、テレビが繰り返し繰り返し繰り返し・・・流している。ドノ映像も、泥水の海に浮かぶ”町の破片”と、獰猛なくせに静に襲い掛かる”長い蛇の集団”が、姿の無い人間を飲み込む瞬間ばかりで、”脳味噌が、重たく揺れる、どんよりとした妙な湿度”に犯されていく。
飲料水と煙草と思考能力が切れたので、銀座の街に、買い物に出かけた。
友人のE氏が、テレビで何度も呼びかけていた。
「このままいくと電力の供給が、出来なくなる可能性があります・・・・」
随分、勝手な言い分では、無かろうか?普段支払っている、電気代の中に、原子力発電所の、点検コストも入っているだろうに。
しかし、わが身を振り返ると、電気に、ほぼ100%すがる現代の人間社会は、30秒でも電流が止まると、水の無い水槽では、生きていけない魚になる。
こんな非常事態に、Bというブランドショップの明りが、自らの非常識という”恥”を自慢するように、煌々とネオンサインを輝かせていた。
このメーカーのコートは、きっと昔のような、”質の高い商品”では、なかろう。
”水も漏らさぬコート”の決め手は、丁寧に折られたコットンから、始まるのだ。
松坂屋はこの日から、営業時間を2時間短縮して、東北に祈りを捧げている。
「さよなら、水浸しの会社”バーバリー”。」
2011.03.08
第9号 わさお弁当は久し振りの弁当プロデュース
わさお弁当を、サークルKサンクスと東映さんとで共同で発売!あの大ヒット「橋本真也シリーズ」から数えて実に63作品目にあたる。中には、小泉総理のシシロー弁当のようなトラブル(2001のビーンラディン・テロで発売中止)もあったが、ほとんどがミリオン・ヒットで、シリーズの合計は2000万食にも、及び、・・・・といっても目標の1億食には、まだまだか・・・。
「わさお君」は、みなさんご存知の様に、青森県出身の犬。その”華麗なる容姿”が話題となり、ブログの波も手伝って、”現代の癒しの教祖”とも呼ばれている。
そして、彼の好物は「チキン」。サークルKの青木さんが、早速10数種類のメニューを手際よく企画し、このような弁当を中心に、東北エリアのCVSの店頭を、話題の渦に巻き込んでいる。
一般に、動物物は・・・ましてや写真を使った食べ物商品は、不気味で売りにくい。しかし、いまや、犬や、猫や、人によっては熱帯魚などは、家族同然・・・・「ならば、人物キャラの感じで、行こうか!!!」
と言うことで、さて、さて、評判は如何に?
2011.02.18
第8号 Gacktの眠狂四朗I
Gacktの眠狂四朗をプロデューサーのSから招待された。
日本中のイベントが集客不振。プロ野球から、サッカー、相撲は無論のこと、歌舞伎・・・ごく僅かの若者お祭り騒ぎ系のコンテンツと、普段お目にかかれないビックスター物意外は、全てのイベントが、空席だらけである。
根本的には、テレビの画面の大型化で”生以上の迫力”が体感できるようになったことと、大勢の人間の集まる場所にそろそろ嫌気が差してきたのではなかろうか?
一方せいぜい1000人までの会場で演劇を楽しむなどは、昨今流行りだしていて、早乙女太一君の舞台などは大盛況、後楽園ホールのボクシングも選手によってはチケットが、プレミアムになっている。
東京国際フォーラムのGackt氏の舞台は、生ものの面白さが存分に発揮されていた。何より、シナリオが自由で、アドリブがその場その場の客をひきつける。
そうなんだ・・・・今の日本にシナリオや、ストーリーが無いように、
「明日無き世界」をコンテンツが迎えているのかもしれない。
2011.02.17
第7号 向井亜紀さん座談会
向井亜紀さんの、対談を収録した。
考えてみれば、向井さんにはもう4年以上も月刊美楽にご執筆頂いている。原稿用紙にして400枚以上の”お付き合い”。・・・・近々書籍にして出版してみたい・・・。
本日は、保険関連の会社の広告コンテンツ用の、座談会。彼女の知性と、品性と、強靭さは、最近のタレントさんには、滅多にお目にかかれない。
インタビューの途中で、子宮がんを宣告されて・・・・、やがて代理出産の決心をした時の、彼女の心理に話が流れた。死を覚悟しての彼女の心境を聞いていると本当に女性は、強くて逞しいと、実感した。
「お前痛くないの?体中に管を通して、針を埋め込んで」(夫の高田氏)
「あなたこそ、毎日、殴られたり、蹴られたり・・」(向井さん)
「いやぁ、僕は、表面の痛みには強いけど、体の内側からくる痛みは耐えられないよ」
確かに、世の男性は、痛みに弱いし、医者が苦手だ。僕も、多少の痛みなら我慢して、家で寝ている事の方が多い。女性は、出産の痛みに耐えられるように出来ているという話しも聞いた。月に一度の生理の時に、実質的に”死を迎える”とも聞いた。
いずれにせよ、向井さんは、どんどん大人の素敵な女性に成長している。
2011.02.10
第6号 テーブルウェア・フェスティバル
テーブルウェア・フェスティバル実行委員会(読売新聞社、株式会社東京ドーム)に顔を出した。普段は、野球か、コンサートに使用される人口芝のグランドは、”圧倒的な量の、テーブルと食器セット”の見本市に様変わり。
福岡ドームのプロデュースをした時に、年間のドームの借り手を捜すのに苦労したのを思い出した。あの頃は、”日本中がドーム・ブーム”で、現在の札幌や、名古屋、オリックスなどのドームは出来ていなかった、
「年間のホークスの野球試合は、せいぜい60日、残りの300日の借り手を探さなかんぞ」
ダイエーグループの故中内会長が、静かに命を下さった。
「まずは、福岡ドームの”旗揚げ”をどうするかですね。相当派手にしないと、”貸し館営業が死んどくなります。」
そんな、やり取りの後に、マイケル・ジャクソンやら、サイモンとガーファンクルや、マドンナやら続々と来福。
1994年は福岡にとっても、歴史的な活気的な一年、ドーム元年になった。
今や、日本中の各地に存在するドームは、植物の博覧会から、地元の小学生の野球まで、すっかり溶け込んだ施設になった。
それにしても、昨今この空間(スケール)を生かしたイベントは、気に止まらないし目に付かない。一日に20万人位、集めるコンテンツは無いものだろうか?
インターネットの影響で、”足を動かさない!”時代のマグネットは、無いものだろうか?
スタンドから、小さな食器が壮大に並べられているのを見ながら、そろそろ20年近く経とうとしている福岡の事を思い出している。
写真2枚目は、エコをテーマにした「経済産業大臣賞 大賞」のテーブル・コーディネート。
タイトルは、”休”。
2011.02.06
第5号 ヤマト運輸のいい仕事、上手いパン
銀座昭和通りを歩いていると、昔懐かしいパンの焼けるにおいがしている。スワンバーカリーの”うさぎパン”が、目に入った。
暖かい、うさぎパンは、この店のポリシーを象徴するかのように、丁寧な上品な艶が出ていた。
「これが、例の、スワンベーカリーか・・・・」
日本一、気持ちのいいパン屋さん。
何故か・・・・・・近々月刊美楽でも、ご紹介したい。
その理由は、
ヤマト運輸の会長だった故小倉昌男氏は、障害者の給与が「平均1万円に満たない」ことや、それが「仕方ない」で済まされているのを知り、それまでの自らの経験と経営ノウハウを注ぎ込んで「身障者雇用事業の向上」を目指すヤマト福祉財団を設立した。
同財団は経営の脆弱な福祉の事業所・作業所を対象にした実践的経営セミナーを開催するばかりでなく、ヤマト運輸とともに「アンデルセン」「リトルマーメード」の高木社長と組んで、障害者が就業できる焼きたてパン屋チェーン「スワンベーカリー」(株式会社スワン)を始めた。
9月19日、埼玉地域ファンド研究会が主催するCSR基礎講座「CSRと社会的起業 スワンベーカリーの挑戦」がさいたま市の北浦和カルタスホールで開かれた。CSR(Corporate Social Responsibility)は、「企業の社会的責任」などと訳されている。
今回は、スワンベーカリー北浦和店を経営している株式会社「千の風」代表取締役の飯塚哲朗氏の話を聞いて社会的起業とCSRを考えるものだ。
飯塚氏は元埼玉県職員。スワンベーカリー北浦和店を始めたきっかけは、小倉昌男氏との出会いだったという。長年福祉関係行政に携わってきた同氏は、行政だからできることや障害者福祉の難しさを語り、自ら会社を起こして店を始めた経緯と仕事の困難さについて述べた。ここでいう「仕事の困難さ」とは、障害者とともに働くことではなく普通のパン屋として他のバン屋と競争して経営を成り立たせるための苦労のことである。
障害者の雇用を促進する障害者雇用促進法では、一般の民間企業(常用労働者数56人以上規模の企業)の雇用率を1.8%としているが未達の企業も多く、特例子会社(障害者雇用の専用子会社)を設立して雇用率を達成している企業もある。
「一般雇用」を達成する障害者自立支援法については、当事者の負担増や仕事の確保などについて問題が指摘されている。それにもまして、スワンベーカリー北浦和店のような小企業が「一般雇用」を成り立たせるためには、他の企業との競争の中で普通の企業として生き残っていかなくてはならない。
ヤマト運輸の特例子会社である株式会社スワンは、障害者も働けるパン屋の仕組みをフランチャイズして、既存の企業や社会福祉法人などでの障害者の「一般雇用」を確保することを支援するばかりでなく、社会的起業によって障害者が「働く場」をつくることを支援している。
障害者雇用促進法での雇用率や特例子会社をCSRと捉えている例もあるが、そこから更に、このように社会的起業を支援する形のCSR、つまり、「ともに歩むCSR」も存在する。
2011.01.24
第4号 高層ビルの職人芸
高層ビルの職人芸。オフィスの窓から富士山を、口をあけて見ていたら
突然屋上の方から、揺れるようにゴンドラが下りてきて、僕の目の前に止まった。
すると、体を半分乗り出して、左手でロープを掴みながら、窓の掃除を始めた。命綱が長くドローリとビルの下に向って垂れ下がっている。
「今日は、ロープが4本だから、揺れませんよ」
「2本だと、揺れるんですか」
「揺れても、落ちませんから・・・・」
聞いてみると、リーマンショック以降、日給がダウンし一日8000円程度との事。職業だから、やがて練れてくるとは言うものの、強い風の日もあれば、冷たい雨の日もあるし、高いビルもあれば、古いビルもある。
日本は、いつの日からか、職人さんという言葉を使わなくなった。「職人さん」という言葉の響きの中には、「技術者」という言葉では、表現できない”生身の手の動きと経験”を感じる。
日本は、いつの日からか、”楽をして、お金を稼ぐ人たち”を評価し、汗水たらして仕事をする人たちを、貶すようになった。
若者は、ずるがしこく算盤の早い金融系の人たちに憧れ、人生を掛けて手に職をつける職人さんを、”下目目線”で見下ろす様になった。
「楽をすると言うことは、何も学ばないこと。人生は、とことん苦しんで見えてくる世界や景色がある」
ふと見ると、ピアピカに透き通った窓の向こうに、富士山が見えた。
職人は、日本の誇りであり、象徴でもある。
2011.01.22
第3号 銀座アカデミー賞
銀座らしくない夜。
買い物をする人の影もない。
首筋の冷える夜が続けざまに1月を通りすぎている。
冬眠すら安心して出来ない夜が続いている。
シャッターの降りた松坂屋の前で僕は車の窓を下ろして耳を傾けた。
サックスの美しい音が銀座の中央通りに流れている。
歩道を歩く人が、何人か足を留めてしまう。音。
何年前から吹いている錆つきそうなそうなサックスで、「ムーン・リバ ー」を奏でている老人。
チョコレート色の、サックスケースには、楽しげに穴があいている。
まだまだ、東京は捨てたもんじゃない。
凄いミュージシャンが、ふらりと、音を出せるじゃないか。
こんなライブが聴けるなんて、今夜は昔の事でも思い出そうかな。
「風に吹かれて、気持ちよく歌っていた頃の事」
2011.01.12
第2号 ハウステンボスの沢田さんと築地吉兆新年会
ハウステンボスの沢田さんと築地吉兆で新年会。澤田さんと
ゆっくり食事をするのは、何年振りだろうか。
1995年あたりは、まだ中国が発展途上というよりは、後進国の扱いを受けていたように思う。政府の特使とやらで、田中角栄さんが「中国にお返しする金魚」を返却に、特別機で北京に向かった。僕は、さしたる目的も無く選別されたメンバーの顔ぶれに、惹かれ北京に向かった。
釣魚台(迎賓館)のパーティの後、広大な池に新潟から持ち帰った?金魚を108匹ゆっくりと、流しこんだ。放流というより池に、そっと浮かして泳がせた。
ソフトバンクの孫さんや、パソナの南部さん、大徳寺の岡本さん、そして親友の神蔵くんに、澤田さん・・・・そうそう大阪北浜の橋本先生も。
あれから20年も、たって澤田さんはHISを見事な旅行会社に育て上げ、
いま新しい夢に、向かって必至に、仕事を楽しんでいる。
”金魚”を池に放した夜、何人かの仲間で、北京の繁華街の裏道にあるレストランで晩飯を食べた。
「人は、出会った縁と、死ぬまで繋がっている」
2011.01.08
第1号 いつもの週末、正月気分はさておいて。
いつもの週末。
正月気分はさておいて、一応一年の計は元旦に在った筈。
「一年の計」とは、多分、この一年に起る全ての事象は元旦の
心のあり方、気分の引き締め方にあるということだろうか?
僕の場合は、やはりこの場合の「計」とは時間の過ごし方では・・、と思う。
朝靄のかかるアクアラインを今週も、ゴルフ場に向って、走っている。
房総の山並みの向こうから、午前6時42分の朝日が、うっすらと顔を出し始めた。少し眠気が覚めてきた。
一体、昨年は何ラウンド、プレーしただろうか?・・・・意外と少ないかも・・・・45ラウンドくらいかな。
一ラウンドに掛かる時間は、約5時間、すると年間225時間もフェアーウェイに、居た事になる。なんと、日数に直すと46日も・・・一ヵ月半。
この数字を、もったいないと捉えるか、どうかはこの時間の人生に齎す、利点にもよる。
同様に、睡眠時間から、食事の時間、読書時間などなど、日日の数に換算すると、まさに一年の人生に費やした時間の配分が、明確になる。
今年は、少し芸術的に、生きようと、決心の朝である
2010.12.31
【第55号 大晦日の木更津にて】
大晦日の木更津に・・・今年は木更津が故郷だった。この近辺のゴルフ場の数は、ギネス・ブックらしく、アクアラインを抜けて木更津東のインターを下りた畑には、ゴルフ場の看板が、森のように立っている。
普段は、帰りのラッシュを避ける為に早朝スタートのゴルフが多い為
昼過ぎの午後には、このあたりを、ウロウロしながら、昼飯を食べることが多い。
行きつけの農協スーパーの、入り口に、たくさんの地元の主婦を集める湧き水がある。千葉はピーナッツや味噌、野菜の生産に負けず劣らず”名水”の宝庫でもアルのだ。
新年の飾り付けを終えた給水場で、コップ一杯の水をがぶりと飲んだ。
まだまだ、純粋な房総の木の香りがしている。
報道によると、森を買い漁る中国人(スイスもアメリカもフランスも)の目的は、その森に含まれる豊かな水源との事。1920年代に出来た法律で外国人はいとも簡単に、日本の土地を購入できる。
友人のVSNの加藤君がいいアイデアを話している。
「売る時に、税金を、倍にしたら、いいんですよ」
2010.12.28
第54号 さだまさし ソロプレミアム in 国技館
さだまさし ソロプレミアム in 国技館に顔を出した。
今年で2回目。出来れば、ずっとずっとやって欲しいイベントである。
さださんは、年間100回以上も、コンサートをこなす。沖縄から、北海道まで彼の”生ステージ”を楽しみにしている人は、きっと何百万人もいるだろう。隠れさだファンも、凄い数に上る。僕の友人の強い強い格闘家もその一人で、車に乗るとボリューム一杯で、さださんの歌を、熱唱している。それも30年間も。そして、よく泣かされている・・・。
さださんは、日本の歌謡界史上に残る歌手でも、あり詩人でもあるが、その創作能力やアイデアや、イマジネーションは、芸術の部類である。そしてもう一つはニホンジンの心を記してきた”語り部”なのではないか。
だからこそ、普段「相撲」が行われている国技館で、年末にさださんが、しかもたった一人で、土俵を飾るのは、意義がある。おそらく日本の国民行事なのである。
恥かしながら、月刊「美楽」の幟が、国技館にはためいている。この雑誌の、意味も、少しはあるのかな?と嬉しくなった夜でした。
2010.12.25
第53号 クリスマスにケーキより建国記念日にお握りを
クリスマスにケーキより建国記念日にお握りを食べましょう。
東京タワーの周辺が、車と人並みのの混雑で、賑わっている。ついに、パトカーが道案内や、道路の整理を始めた。おやおや、青森ナンバー、島根ナンバー、北九州からも・・・・。若い二人は、何かと材料を探しては、”盛り上がりたい”。材料を提供するのはテレビや雑誌だ。しかし決して、材料の意味や、材料が放つ社会悪は語らない。
さだまさしさんが、ニホンジンは生まれたときにお宮参り、進学進学でクリスチャン、大学の合格祈願は神社、やがて、結婚式は神前から教会へ。挙句の果ては葬式は、仏様。多神教と言うより、節操が無い。と笑っていた。
静かになった夜更けに、近所の神社を通りかかると、誰もいない神社は正月の準備に入っていた。鳥居の向こうに、ハートマークにデコレーションされた東京タワーが、光っていた。
このコントラストに、現在の日本の不気味さがある。力の出しどころさえ
見当たらないニホンジンが、夜な夜な享楽を求めて彷徨っている。
携帯電話に代表される人工の明るさの影で、”何もかもが見えなくなった”のは・・・・・この10年の事。
ここから10年は、日本の事を、考えよう!
2010.12.20
第52号 月刊「美楽」1月号(新年号)
『五線譜』
雪道を歩いていくと、がさがさ音を立てて、雪が肩に落ちてくる。見上げると、まるで五線譜にとまる音符のように、たくさんのすずめが電線に留っていた。
ピーヨ、ピーヨの鳴き声を聞いていると、さっき習ったばかりのメロディーのようにも聞こえる。
2010.12.10
第51号 季節が見えない公孫樹
八重洲ブックセンターに来年の手帳を買いに出かけた。時間の流れが縦に読める手帳が、増えている。大型の手帳と、小ぶりな手帳が、数年前と比べると、半々に陳列され、種類も豊富。電子手帳の普及が、騒がれているのに何故だろうか?個人の製作した手帳・・タレント本の延長かな?が増えている。人生時間の管理まで、人の真似をするニホンジンは、何処に行くのかな?3年手帳や5年手帳は、さっぱり売れないそうだ。来年も解からない時代に3年後は、不要だろう。
季節が見えない公孫樹が、落葉もせずに、かと言って、凛々と歩道に並んでいる。「季節の無い街を出て・・・・」泉谷しげるが、歌っていたが、違う。季節や、時間は、相対的なものではない。自分の心の中で、管理すべきものなのである。
体内時計、自分時間、手帳も、なるべく罫線の無いシンプルなものがいい。
2010.11.22
第50号 月刊「美楽」12月号
『ウルトラC』
さかな屋の健ちゃんは、かけっこが早い。八百屋のマー坊は、平泳ぎが得意。病院のあっちゃんは、算数が得意。そして僕は、色鉛筆で絵を描くのが大好き。
みんな、一人ひとりに自慢話があって、それぞれに嫌いなものがあって、僕たちは大人に負けない社会を持っていた。
刈り取りの終わった畑に、野焼きの煙が狼煙のように上がっている。夕飯前に、刈穂を吊るす組木にぶら下がって鉄棒が得意なだいちゃんがくるりと回った。
2010.11.08
第49号 女性自身タイアップ母さんのお節
女性自身の田辺編集長は、”童顔の切れ者”。オージーフーズ×週刊「女性自身」企画の御節弁当が、いよいよ佳境に入ってきた。
たまに顔を合わせては、田辺さんの、発想の”雑誌経験”に驚かされる。
この企画をプロデュースして以来・・・そう言えば、何処のレストランに行っても、御節のチラシが目に付く。
デパ地下は、もちろんTVの通販番組まで、今年は御節の企画が花盛り。東京プリンスの和食「清水」も、マロニエの「中華オセチ」も、20000円を超える高価格の贅沢品。庶民派向けにはジョナサンもローソンも、ゴルフ場まで「御節」の前売り販売中。
経済ジャーナリストは、いろいろ景気の指数を並べては、分析と悲観と、占いのような予測を、繰り返し語るが、日本はどんどん、不景気に向って”穴を掘っている”。
この悲惨な失業率、新卒の内定率56%?????80万人の大卒、短大卒、専門学校の若い労働者たちは、今月で30万人以上、来春からの職が
未定状態。
日本に正月が来るのは、少し時間が掛かるようだ。気分だけでも「御節弁当」で、正月を迎えようよ!
2010.10.20
第48号 月刊「美楽」11月号
『角』
見たいもの、聞きたいもの、嗅ぎたいもの、食べたいもの。そんな知りたいものがたくさんあるのが子どもたちである。
それらを一つ一つ体験することを“人生”というのではあるまいか。その意味で、私たちは生まれてから死ぬまで永遠の子どもであり、経験することを拒んではならない。
夕焼けを真正面から受けた鯖の干物が、あまりにも香ばしかったので、僕は母さんの目を盗んでつまみ食い。
2010.10.07
第47号 鹿児島錦江湾のうどん
薩摩の麺は、何でも来い!である。ラーメンは、店数が少ないだけで博多よりも絶対に美味いし、垂水の「十五郎そば」はその麺の太さ(3ミリ程度)と舌感に僕の虫歯さえおとなしくなる。軽く柚子の皮を振りかければ更科のつゆ汁など申し訳ないが”美味いうちに入らない”。
先祖の墓があまりに汚れていたので、墓石の中まで掃除していたら、「垂水十五郎そば」に立ち寄る時間が無くなっていた。飛行機の中からすっと楽しみにしていたのだが、残念。
しかし、桜島垂水から鹿児島に向かうフェリーの”船上ですする”うどんがある。錦江湾のうどんである。桜島をまじかに見ながら食べるうどんである。
普通、駅の構内や、空港で食べる麺類は、美味しいはずがない(羽田空港のちばきやは別格にうまいが・・・・)何故って、水がまずい場所で、美味しい料理は作れない。
しかしこの船のうどんを、デッキに持ち出して食べること10分は、別天地。決して、名物のさつま揚げも大きくない。卵も茹でてはあるが並。カマポコは、薄い。葱もパラパラ。しかしうまい。そうです・・・・・露(汁)が絶品なのである。薄味の醤油と、みりん、勝負の鰹節に、ほんの少しの錦江湾の若布、そこに日本を代表する名水垂水の水。
”歯の痛みも忘れて”僕は、丼の底まで、”舌で舐める”
*ちなみに、蕎麦の場合は、トッピングはオンリー葱だけが、よろしい
2010.10.03
第46号 木更津に麺あり
木更津に麺あり。高速料金が値下げになって以来、週末のアクアラインは、渋滞することが多い。この海底トンネルの中で、渋滞を迎えると、イライラするよりは、水道管の中に居るようで窒息してしまう恐怖感がある。窓を開けると排気ガスが充満して、なおさら不快感が増す。
いつものゴルフ仲間の誘いを断り切れず、コースを出るのが5時過ぎになった。
「川崎方面、アクアライン渋滞18キロ45分」の表示。最悪である。
だから、途中の15番ホールで切り上げればよかった。
そんな訳で、なんとか打開策をと考え袖ヶ浦のインターを下りた。田園風景に、東京湾の潮風が夕陽の赤を、取りこんで映えている。
その時に、なんと天空に突き出した幟である。幟のセンスを見れば味が、薄々は分かるのだ。因みに、店の名前を聞けば、店主の趣味は、100パーセントわかる。ロゴタイプの色から客層がわかる。
客は、その店に居る自分をイメージして訪れるのである。
*UCC上島珈琲は、最近では優秀デザイン賞である。スターバックスは、定番過ぎて面白みがないのが面白い。ココ(C/C)カレーは、ぼちぼち飽きられるし、カレー以外の想像力が湧かないのが悲しい。
「ながうら」の自慢はは以前食した翡翠麺(ひすいめん)の様な、濃い緑色の麺である。但し、ここは若布の色素に染まったもの。歯ごたえも、舌触りも、匂いも、絶品。炒飯や、餃子、野菜炒めは、火力と油の品のせいか、ムッとこないので、胃も歓迎。併せてお薦めである。
この夕は味噌ラーメンを食jしたが、多分つけ麺の方が18番かもしれない。
今日は、ゴルフもラーメンも18という数字に縁が無いようである。
2010.09.20
第45号 月刊「美楽」10月号
「つまみ食い」
ほんの少しお腹がすいて、誰にも見られずに、誰かに知られずに、忍ぶように、“つまみ食い”。
丸めた親指と中指が、震えている。
母さんの“干し柿”を、口のなかに放り込むとお腹は、まだまだ空いているけれど、なんだか、気持ちは満腹になった。
いたずらは、小さな、小さな冒険。冒険は愉快。
今日、陰険陰湿ないたずらが横溢してるが、人間を“つまみ食い”する子供たちに、決して、“心の満腹感”は訪れない。
2010.09.14
第44号 シンガポールの憂鬱と未来
シンガポールは、近くて遠い街。以前の会社のご褒美旅行で3度ほど訪れたのは、セントーサ島にある海沿いのゴルフコースとグッド・ウッド・パーク・ホテルの先にあるニュートン・サーカスで食べるブラックタイガーの炙りが目的だった。
沖縄の澄んだ青い海の横のスタジオで長期滞在して、親友の照屋リンケンさんとレコーディングして以来、なにも遠方のアジアの果てまで行くこともなく気分は解放されるし、まして故郷の鹿児島には年何回も帰京しているのだから、余程の事情でもない限り南シナ海の周辺の町を訪ねることはないと思っていた。
そうこうしているうちに、20年程月日が跳んだ。
今でも飛行時間は7時間。海外への移動の飛行機の中では、ほとんど酒を飲むことは無いのだが、午前発の便に飛び乗ったので夕方まで、退屈に身が持たないと思い白ワインを口にした。
モンゴルは勿論北京よりも上海よりも、マニラよりもハワイよりも遠い。しかしその人口500万人の小さな町に、世界中の金融と情報と、人材が集っている。蒸し暑いアジア最南端のこの街は赤道の斜め下にある他の都市とは異なり”知性がのんびり昼寝”をしている。
ラッフルズ・ホテルには、未だにへミングウェイのシガーの香りが漂っているし、アガサ・クリスティの奇妙な殺人事件のミステリアスな予感もする。
翌朝、とにかくオーチャード・ロード(銀座の中央通りだね)を歩いてみたかったので、早起きして噴出す汗を覚悟で、街に飛び出した。椰子やバーミヤンなどの熱帯林が、横断歩道やビルの壁面に絡み、街の隅々の小さなスペースには原色の花が綺麗に植えられている。
シンガポール芸術大学や、大きな教会や、露店で売られている原色のジュースは、今でも変わらない街の雰囲気を保っている。
巨大なコンベンション・ホールとホテルとカジノの上に空中公園を演出したマリナ・ベイほどの施設は日本の何処にも見当たらない。これが、今世紀を牛耳る華僑のパワーと、政党政治に終始して国際化に遅れた日本との差を象徴しているかのよう。まだまだ、未完成のこの施設は、既に観光名所として世界中からVIPを集め、プレゼンをしている。
そう言えば、亡くなられた加藤和彦さんの、「シンガプーラ」と言う曲(歌)に触発されて、
「西、東、インド会社・・・その歴史を秘めながら」というフレーズにも強く惹かれていたように思う。
街行く人は、若く、知的で、眼鏡をかけている人が多い。市の条例で厳しく規制されているので喫煙者は、隠されたように放置された灰皿を見つけ一服するしかない。・・・・・そう・・・・電子スモーカーは用のない街ななだ。
今年の夏は”あの暑さ”で、極端にゴルフの回数が減った。
なのに、ラッフルズ・ホテルが運営する「ラッフルズ・カントリー・クラブ」に、顔を出した。赤道直下40度以上あるかな。
レンタル・クラブで征服できるほど甘いコースでは無く、コースの中は、無人に切り込まれた小川と、池と、湖で、たちまち玉がなくなった。
しかも、このクラブは、20年物の、パワービルトでメタル製。
風も無く、芝生から揮発する熱気の中で、朦朧としてプレーを終えた。
帰り道が、ひどく、遠く感じられた。
2010.09.07
第43号 電子スモーカーいよいよ元年
電子スモーカーに関する、国民生活センターの”抜き打ち検査”が行われ、20社あまりのメーカーがニコチン・タールの含有に関する指導を受けた。幸いに、アーススモーカーは、以前から成分や、内容や、故障に対して神経質に対応してきたので、無事にパス。
それにしても、いよいよ煙草は400円台に突入。年間15万円の嗜好品になる。!”チリも積もれば、山になる?”・・・・どころでなく、書籍を購入したら100冊、ガソリン1000リットル(日本列島縦断可能)、吉野家の牛丼(ただ今270円)500杯、ゴルフボール300個、いやいやサラリーマンの喫煙者には厳しい値上げだ。
そして、おそらく電子スモーカーは、150万本から200万本程度の市場に成長する。3000万人が禁煙を考え、1000万人が減煙する。
ふと寂しいのは、指先の煙草の煙を眺めながら、物思いに耽る時間や、酒場の人間模様や、食後の満足感は何処に消えてしまうのか?
そう思う僕が、電子スモーカーをプロデュースする自己矛盾なのである。
2010.09.05
第42号 週刊女性自身御節弁当
週刊女性自身の田辺編集長は言ってみれば日本で一番の女性市場を把握している。オージーフーズの大野社長は日本全国の食材通で日本一の”目利き”。この二人が、日本の”食事の心”探しの旅にでる。
果たして、”弁当”位で、日本の状況に何が起る?と言う話もあるが、実は、このスピード狂で、デジタル狂いで、何でもかんでも携帯とコンビニで用を足す軽薄な今日・・・・
ふと立ち止まって”モノを考える”機会も人間も少ない今日・・・やはりきっかけは「食」なのではないかと思う。
しかも、グルメというほど家庭経済は豊かでもないし、一方でデフレ食に代表される日常の「食事の有り方」が問われ始めている。
ダイエットが生き甲斐の若い女性も多い、肥満を気にする中年の女性も数知れず、最近では長寿や高齢化の食事を特集するメディアも日増しに増えている。つまり、わが国の歴史上はじめての食事ブームなのだ。
”目の前の料理”の知識を学ぶことで、その奥と底にある日本を考える。
・・・とすれば心機一転、年の初めの、正月の弁当に焦点を合わせ、思い切ったネーミング「母の御節」を誕生させよう。
「母さんのお節(こころ)」・・・久し振りに”効果”の現れやすい商品の誕生であります。
2010.08.28
第41号 三遊亭きん歌改メ三遊亭鬼丸の事
三遊亭きん歌改メ三遊亭鬼丸師匠は、10月号からの執筆者でもありまして・・・その昔から友人のVSNの加藤さんと同郷の信州は上田の生まれ、
その加藤さんの先輩でもアル、また美楽の執筆者でもある島田先生が、”講演”会長をいやいや”後援”会長を、お引き受けで、いらっしゃり、この度そのご縁で真打ご昇進の鬼丸記念にお呼ばれ、久し振りに”空しいテンポの速い毎日”からポカポカ暖かい日本の歴史と伝統をキッチリ継承する落語業界?の豊かさと、知己に富んだお話の数々に触れたのでありました。
それにしても、最近の若者に聞かせたい日本語の美しくて、上手い達人の集まりにでした。
2010.08.21
第40号 月刊「美楽」9月号
『とうちゃんの船』
今、目の前を通り過ぎていった風は、どんな心の風だったのか。風の中には、悲しみや喜びや笑い、時には怒りさえもあるように思う。
戦場を吹く風、麦畑に滞る風、校庭で無邪気に渦を巻く風。窓から台所に入り、居間から庭に吹き抜けていく風。
父は、海に出掛け、風の中で仕事をし、母はいつも船の帆を見ながら、父に吹く風を束ねるのが仕事だったように思う。
ざわざわと風の声がしたので、振り向くと、ススキの穂をまだ不透明な秋の風が揺らしていた。
2010.08.17
第39号 東京激暑38度
女性自身とのコラボレーション商品の打ち合わせで、新宿へ。悪いことに駐車場のメーターが”暑さボケ”で、トラブル。炎暑の中で、車が出せず車内温度はどんどん上昇。オージーフーズの大野社長が心配そうにわざわざ駐車場に顔を出してくれた。
走り出した車の、エアコンメーターはなんと38度。
最近のご挨拶は
「こんにちは」ではなく・・・・「ひどく暑いですね」
そう言えば、先日、違反でトラブルになった警察官は、
「暑い所、すみません」・・・・だって。
体の中が、滾っている。血液がコンクリートに染み込んだ太陽の放射熱で、ドロドロしている。
水風呂を求めてサウナへ。
小田和正さんのマネージャーさんが、
「こんな夏が、毎年続くと、日本列島は変わりますね。民族大移動で。北へ北へと、家を移る人が、多くなりますよ」
友人の飼っているベランダのメダカが、熱射病で1匹死んだ。
今月に入って、熱射病で亡くなった人270人。救急者の出動回数16000回。
暑い夏は、大きな人災を引き起こさなければと、懸念する。
写真に収めた、エアコンは、外気温度39度に、上昇している。
2010.08.12
第38号 倉本聡先生の「歸國」
倉本聡先生の「歸國」は、太平洋戦争で命を落とした英霊たちが、今の日本に帰国し、驚愕し、落胆し、悲観し、”海の底に”再び帰っていくのがテーマ。
携帯電話に驚き、老人ホームで悲観し、医療界のあり方に憤怒し、今日の親子関係に、苦言する。
8月15日。マレー沖で散った僕の叔父さんも帰国する。
2010.08.04
第37号 モンゴルのウラン
モンゴル航空のガルダさんの紹介で、国営企業のモンアトム社のバダムダムディン社長(53歳)と会議。中学生の頃、ロシア文学にはまり込んだものの、登場人物の名前を覚えるのに四苦八苦し、何度もページを元に戻しては、読み進めたのを覚えている。・・・がモンゴルの人たちの名前はこの比ではない。
さて、モンゴルは会社の時価総額のような物差しで、国家の時価総額を図った調査期間のデータによると、10年先は日本の10数倍の価値を持っていると言う。要は、レアーメタルを始めとした資源の埋蔵量。ロシアの支配下の元、大半の山々は埋蔵資源の量が測定されたというが、それにしても現在でも未開の土地。バダムダムディン代表の話も、この未知なる企業の将来に、遠く目を仰ぎながら暑い話をしてくれた。金、銀、銅、マグネシウム、石油・・・それにウラン。いやいや、無数の夜空に浮かぶ星座、アジア大陸のど真ん中を吹き抜ける風、そこで季節に流れながら暮らす人々、首都ウランバートルの喧騒と混乱と発展。
僕は、いつから、このモンゴルに創造力を傾け始めたのだろう。
開高健先生の日記からなのか?それともチンギスハーンの伝記からなのか?何処かの映像が忘れられないのか・・・・いずれにしても今や、月刊「美楽」には、欠かせない横綱白鳳の原稿やら、モンゴル航空のガルダさんとの関係やら、写真家宮澤さんとの企画やら、深くて厚い関係になっている。
9月から、月刊美楽のモンゴル版を発行する。上海版に続いての海外2版目。
そう・・・・・きっと僕自身の血や魂のルーツを求めている何かが、そうさせている。そう・・・・日本探しのヒントを求めて。
僕の骨は、この青い雲の下の草原に横たわるのがお似合いかもしれない。
2010.07.27
第35号 伊丹十三記念館と美楽四国版
伊丹十三記念館には、以前から、お邪魔したいと思っていた。昨年さだまさしサンの「眉山」を宮本信子さんが好演されたこともあって、宮本さんに美楽の筆者にも、なっていただけたら、最高である。
2ヶ月目前の5月号から、ハーピー・ダイニングの宇都宮社長の経営方針に共鳴し、美楽は、四国にも、”顔を広げる”事になった。グループのタクシー会社や、レストランなどで、美楽は配布されている。
今日は、一日かけて、愛媛から鹿児島、そして東京。考えてみれば日本列島の三つの島を、日帰りするのは初めてのことだ。
松山は、以前友人の葬式があり(それもゴルフ場で)来て以来の訪問、2度目。瀬戸内海に面していて、ご存知みかんの街。そして伊丹先生が高校まで住んでいた故郷。
記念館は、先生の幅広いクリエイティブを思わせるノートから、映画作りの様々な道具、シナリオ、メモ、年表など、さらには「マルサの女」シリーズの脚本から小道具、など一式が並んでいる。
要するに”直感が鋭敏、それを精緻に組み立て、徹底的に作り上げる”。
常識を超えたところは、この”とことんやる”精神と努力にある。
伊丹先生が生存されていたら、80歳に近い素敵な老人であろう。
「先生は、今日の日本の何をテーマに映画を、創るかな」
午後の飛行機で、鹿児島に向うのだが、27人乗りのプロペラ機・・・・何年ぶりだろう。ロスからラスベガスに向う遊覧飛行機以来かな。
通常の高度より、低い空を飛ぶので瀬戸内海の島がそれぞれにくっきり見え、機影が海に浮かんでいる。日本列島を、覆う温暖化で動きの読めない”まばら雲。確かに天気予報が苦労しているのが良く解かる。幾層にも断層になった高層雲が、運河のように入り組んで、縦横無尽に九州の先の、東シナ海まで繋がっている。
鹿児島まで1時間・・・・・この雲の何処かで、帽子を目深に被った伊丹先生は、椅子に座り、渋い顔をしてメガフォンを握っている。
2010.07.23
第34号 女性自身弁当「お節2011」会議
週刊女性自身の歴史と信頼と編集長の田辺さんの市場洞察力に、オージーフーズさんの販売力、仕入れ力、信用を掛け合わせると、大袈裟に言うと日本の「食」が少しは革新する。こんな感じのネーミング・プレゼンを行った。”おせち(御節)”は元来、季節の変り目に、食されたもので、明治以来、正月の定番食になったが、年4回・・いやいや12回まで存在してもいいのではないか?
何気なく、食をしない。おいしければ良いと言うのも、悪くないが、材料の産地や、色や、作った農家や、歴史まで、知りながら、食するのが、今の日本には必要。
そうそうもしあなたが、”気難しい”思ったら・・・・ハンバーガーの食べすぎか、虫歯が痛くて食べられないか・・・・どちらか?
2010.07.20
第33号 美楽の筆者白石茂樹さんの「帰ってきた蛍」
美楽の筆者白石さんの「帰ってきた蛍」の舞台は、昭和20年5月、鹿児島県の知覧にある料理屋である。”明日の命さえも、国家に預けさせられた”若者が、ほんの何日か数時間か残された”ぎりぎりの人生(生命)”を、懸命に演じる。
日本はこの数十年、極端な時代である。数百万人の命を戦争で失い、国民は貧し、しかしその後十年で目も眩むような豊かさを体験し始める。生まれた年が僅かに前後するだけで、国に対する考え方も、親に対する考え方も、人生も、恋愛も、金銭も全ての、価値観が異なる人種が混在する国。
しかし、戦前、戦後の間には、明確に引かれた「国境のような思想とテーマの違い」がある。それは、愛国主義と、アメリカニズム(欧米)である。
僕は、主にテレビから流出した大量のアメリカニズムの洗礼を浴びながらも、何処か”この強力でシンプルな数と量の思想”に疑問を持ち始める世代。動けないし、走れないし、かと言って、座れない。
「残った人生を、おばさんに、差し上げます」
明日の朝、沖縄での特攻が決まった若者が言う。
「明日の夜、僕は、蛍になって帰ってくるよ」
知覧を飛び立った蛍(英霊たち)は、夏になると毎年美しい故郷に”命の灯り”を灯すのであるが、決して今の日本を、信じることはできない。
*脚本・演出の柿崎祐治さんには、3年前のパウエル元国務長官の来日講演の際に、大変お世話になりました。パウエル氏???これも、何かの縁かな?
2010.07.19
第32号 月刊「美楽」8月号
『ほおずき』
少女は“ほおずき”を、キュウキュっと鳴らすのが得意だった。夕焼け空のような橙色の実の種を器用に取り出し、口の中で薄い皮を絡めると、なんとも軽やかな音色の、音がした。
少女は、「ほおずき」というあだ名で、呼ばれるようになった。
母は、毎年この時期になると、何かを思い出すように一日中、庭の“ほおずき”を、眺めている。
脳裏に刻まれた“音”の思い出は、永遠に色のあせない情景を、作り出すのかもしれない。
2010.07.05
第31号 小山薫堂さんのカレー屋さん
小山薫堂さんのカレー屋さんは、東京タワーの2階。レストラン街の一角に、小粋な店を構えている。隣の中華料理屋さんはブッフェ・スタイルで、タワー見物の後に、腹を空かせた中学生が何百人も押しかけている。
食通の小山さんらしく、味だけでなく、メニューも、スプーンの重さも、BGMも、工夫された何かを感じる。クリエーターは、”普通”を嫌う。普通にやっても、今や現在の小山さんの世界的評価において、”普通”以上のサムシングが要求される。
「おくりびと」で、奥ゆかしく父への愛情と郷愁を描くシーンに、”昔拾った石”を材料にしたセンスの良さは、カレーの味にも活かされている。くどくなく深くルーが円熟し、淡白なようで微妙なチキンが煮込まれている。
小山流の執念と、挑戦と、気概を感じる、カレーである。
さて、単純で解かりやすい、スピードばかりが、食の世界を席巻している。
電子で魚を焼いて、郊外の工場で野菜を煮詰める、人が製作の過程で介在しないレストラン。
僕たちは、何かを、無意識のうちに葬ろうとしている。しかし、決して「食のおくりびと」に、なってはいけない。
2010.07.02
第30号 長友先生の微笑み
長友先生の微笑みは、30年前から変わらない。ホガラカデ、オオラカデ、チカラズヨク、何処かカナシゲデ、しかし、ラクテンテキデ、マエムキデ、タッカンテキデ、ウキヨバナレしている様で、ゲンジツテキデ、まさに創造力のある人は、強いといつも感じる。
「いやぁあああ、喉の調子が、少し良くなってきましたわ」
「ゴルフも、ボチボチですぇええ」
「れいのタバコ、どうでっか?」
僕は、久し振りに、耳を傾けていた。先生の言葉ではなく、先生の微笑を聞いていた。
先生には、拙著の「創造的商人」のイラストを書いていただいたり、最近発売した”禁煙用タバコ”のデザインをお願いしたり、様々にお世話になっている。
昔勤めていた会社の真裏に「茉莉花(まりはな)」という文壇バー(というか経済人も文化人も集まるたまり場)」があった。切れ味の鋭い、毒舌で面倒見の良いオーナーがいて、そこで先生と初めてお目にかかった。
その頃先生は既に、売れっ子デザイナーで、名の売れた化粧品や、有名作家のイラストを手がけ・・・・やがて現在のK2を設立される。
「東さんは、いつもお元気ですな・・・」
「・・・・・(最近そうでもない)・・・(梅雨の時期は)・・・?」
そう言われて、ふと気が付いた。
忙しくて、目の前の日常に追われ、創造力が乏しくなると、気持ちが前に行かなくなる。プラスのイメージとは、楽しい気分を作るための想像力である。楽しい気分でいられるには、”自分の世界”に入り込み、好きなことを考えるのが一番。
そのためには、ムツットしてもいられない。となると誰にも、何にでも、進入されない”微笑の壁”が必要。
長友先生は、今日も創造力の荒野で、微笑んでいる。
2010.06.29
第29号 朝日新聞 星浩編集委員(内外時流研究会)
朝日新聞 星浩編集委員(内外時流研究会)の講演のテーマは、参議院選挙。票によっては、民主と自民の大連合となり、そこで再び小沢さん登場!
この間に、ワールドカップ明けのヨーロッパは、”火の車”。スペインからポルトガル・・・さらにはイギリスから大西洋を渡りアメリカまで、”総崩れ”。経済恐慌のワールドカップかな。
国内経済は、国際経済と分けて隔てて、考える日本人の島国根性は、リスクの根源。選挙の戦況を語っている間に、地球のあちこちで”日本を揺るがす事件”が続出。
「早く終わって、早く体勢を作り、早く税金を上げて、早く借金を返済しましょう」
星さんの声は、テレビのニュースステーションと同様に、癒し系。ワシントン時代に培った冷静な分析力は、説得力抜群。彼を、国会に送り込みたい心境になりました。
2010.06.20
第28号 月刊「美楽」7月号
『すいかのお面』
春夏秋冬、それぞれの季節には、二つ三つの代表的な果物がある。しかし、夏といえば、断然西瓜と決まっている。
果肉の赤が、その存在感を主張しているのか、それとも、その圧倒的な容積の大きさと重量のせいなのか?
入道雲が開花した西瓜畑で、大の字になると、秋の気配さえ感じない。雨の匂いもしない。燦燦とただ午後の日光が体に、染み込んでいく。
生暖かい果肉の中に、“がぶり”と顔を突っ込み、口の中の種を雲に向かってプット飛ばした。
「一つ、二つ、三つ・・・・」
冷蔵庫が登場して以来、西瓜を切って、冷やして食べる人が多い。体は、冷えるだろうが、西瓜の本来の味は、消えうせている気がする。
2010.06.15
第27号 宮澤正明先生とモンゴルの行く末
モンゴル航空のご招待で、ウランバートルを訪ねた。一昔前は中国の事を”近くて遠い国”と言っていたが、今や、中国は”怖くて近い国”。その中国を400年以上支配してきたチンギスハーンの国「元」がモンゴルである。そして”近くて遠い国”と言う言葉がすっきりはまるのは、今日モンゴルであろう。
成田空港から約4時間ちょっとで、この街を訪ねると、自分の肉体がなにかの音に共鳴する。昔からゆっくりと流れているリズム。”先祖の血が流れる音・音”。僕の体の奥に、この街のメロディーが刻まれている。
写真家の宮澤正明先生から、写真集のご提案を頂いた。
「東さん、一緒に”蒙古班”をテーマに、本(写真集)を造りませんか?」
「蒙古班を持つ民族は、南米にも、アラスカにもいるんですよ」
飛行機の丸い窓から、今にも抜け出しそうに、東アジアの丘陵地帯に向けて、何枚ものシャッター切っている。何時間も飛行しているのに、なだらかな緑の丘は続いている。
宮澤先生の右脳は、今、赤い鬣(たてがみ)の馬に乗って、羊を追っている・・・・シャター・チャンスという想像力は、無限に広がっているのだろう。
月刊美楽に横綱白鵬氏が連載している事もあって、僕にとってモンゴルは
馴染みで、お世話になっている国である。
翌朝、早く目が覚めて、ホテル(コーポレイト・ホテル)の周辺を、歩いている。空気の中に塵が少ないのだろう・・・飛行機で見た周辺の緑の丘が
鮮明に見える。昔、色数の少なかったクレヨンで、書いた故郷の山々にも似ている。
日本の盆地は、湿度が高く、過ごしにくいい所が多いが、ウランバートルは、一日の温度の高低差が30度を越えても、清清しい。しかし、昨夕の空港からの車の渋滞は、無差別に、無意識に、無計画に増徴するこの国の未来に、僅かな不安も覚えた。
日本のように、急ぎすぎないで、適当なスピードでアジア歴史を重ねて欲しい。急ぎすぎるのは、”人間の欲望”であり、”その凶器”は、どんどん”人間の幸福”から遠ざかってしまう触媒でもある。
モンゴル航空の粋な計らいで、なんと60名もの楽団(モンゴル国立音楽)が、私の為に集い、コンサートを特別に聞かせてくれた。
この感動を、この秋かこの冬あたりに、この壮大な音楽隊とともに、このモンゴルの風を含ませて、みなさんにお届けしようと思っている。
宮澤先生の数千枚の写真も、ウランバートルの出版社(イルムン社)で製作しその時に、お渡しできると良いのだが。彼と僕の友情と、”日本の人生”とともに。
2010.06.08
第26号 日大ゴルフ部の西田しょうへい先生と東日本シニアツアー
日大ゴルフ部の西田しょうへい先生と東日本シニアツアーでご一緒させて頂いた。”紳士のスポーツ”を絵に描いたようなお人柄で、フエアウェイを歩いていて久し振りに心が、解れた。気分がいいし、気持ちがいい。
「東さんは、よく飛びますね」
”あの”西田先生に、誉められた事で、気が入りすぎて、力がこぼれて、やがて弾けて、早速次のホールでOBを打った。
それも、止せばいいのにロングホールで2オンを狙い、すぐそこの木の枝に玉があたり、左にポトリと落ちて、カート道をころころ転がって、白い杭の外へ・・。
さらに、悪いことに、先に2打目を打たれた西田先生の足元を、玉が転がっていったのだ。
「東ちゃん、あれは、無茶だよ。アイアンで刻まなきゃ」シニアプロの徳永君は、既に2オンを済ませて、余裕の指導。
人間は肩に力が入ると、いいことは無いな・・・・・。
「プロとは、”心の自然体を”、コントロールできる人」
2010.06.05
第25号 桜島のストレス
桜島のストレスが、どんよりと街全体に雪のような灰を降らせていた。垂水にあるお墓の掃除を済ませて空港に向かう国道と道沿いの家は、この間に降り積もった桜島の灰で、噴火に埋もれそうな廃墟のようだ。
・・・・・何故、政治のことばかりで、地球の異変を告げる報道が、なされないのだろう。・・・・・
「しばらく、お墓に行けてないのよ。だから・・・」母が、申し訳なさそうに言った。
墓石に2センチ程にも、積もり積もった灰を洗い流しながら、先祖の家系図を指でなぞっていると、29歳の若さでマレー沖で戦死した父の兄弟の文字が浮かび上がった。幼くして無くなった弟の名前も久し振りに、読み取れる。
人はやがて灰になって、地の底で深い眠りつくが、櫻島は生きている証に灰を吹き上げる。
頂上に近い噴火口から、祖先の魂が、灰と一緒に浮かび上がり、やがてそれは、積乱の雲になって、僕の肩に、覆いかぶさってくる。
2010.05.31
第24号 月刊「美楽」6月号
『和紙人形』
ある日、蝶々が家の中に舞い込んだ。ちゃぶ台の上の和紙人形を花びらと勘違いしたのだろうか。2匹の蝶は気まずくなったように、家の中を飛び回り、やがてうつろに消えてしまった。
人も時に、さ迷いながら歩いてはいけない場所や入り込んではならない路地に迷い込む。
人生は、直線の道でもなく、曲線の道でもなく、限られた時間の中で、点と点が瞬間的に描く無数の足跡のような気がする。
しかし、振り返ると、それは、曲がりくねった線のようにも見えてくる。
私は今でも、あの蝶が無事に表に飛び出して、花畑の上を舞っているかどうか心配になることがある。
2010.05.26
第23号 戸張捷さんの築地うなぎや「丸静」
戸張捷さんから、I・PADについての電話を、頂いた。たまたま昼前の電話だったので、ふいに以前ご馳走になった築地にある「丸静」のうなぎが食べたくなった。昼前から行列になるほど”知る人ぞ知る”絶品の蒲焼である。
築地うなぎや「丸静」は、築地商店街でも老舗中の老舗。剣道7段と柔道5段の兄弟が、図太い腕で、デリケートにうなぎを焼いてくれる。メニューは「連」から「臣」ときて「王」まで、うなぎの大きさと量でお重の値段が分かれている。
晴海通りから、右折して、ちょっとした路地を入ると、早くも蒲焼の甘い香りが漂っている。うなぎは、くどくなく、決して甘すぎず、歯ごたえがやさしく、身がさくりと、舌にのる。
20年前は、2、5匹を載せた「王」を食べた。それでも足りなくてお新香とお茶で食欲を抑えた。今日は、一番小さい「連」にしようか、迷ってしまった。勢いで、食事をしていた頃が、懐かしい。
そう言えば、昨年、戸張さんと我孫子でゴルフの指導をして頂いた。あの時も、昼ご飯は、「うなぎ」を食べたのを思い出した。
2010.05.16
第22号 さぼうる(御茶ノ水・神保町)の匂い
「さぼうる(お茶の水・神保町)」で、コーヒーを飲んでいる。とにかく、神保町に行きつけの飯塚歯科があるので、久し振りに顔を出そうと思っていた。
今日は、安くて速い印刷会社があるので、パンフレットの見本が出来上がるまでの時間に、”ついに30年振り”に、足を入れた。創業(開店)50年位かな・・・店内は、以前のように鬱蒼と暗く、床は”昭和の匂いプンプン”の地べたが、浮き出している。
お茶の水は、学生の町である。日本に残された最後の活字の街である。一昔前、この町で、精神を高揚させ、思想を学び、血の美しい学生たちは、”連帯”し、日本の将来を考えた。そして、彼らが憂い、危惧したように日本は変貌した。
いつもは、ミルクティーを飲むのだが、今日はコーヒーを飲んでいる。
久し振りの「さぼうる」では、そんな気分になっていた。椅子の裏側にある
壁は、タバコの脂で焦げ茶色に変色している。
ふと、額にはみ出した小さな写真を、覗き込むと、若き日の筑紫哲也先生が
笑っている。
2010.05.06
第21号 PGAゴルフの「藤」
PGA(千葉・君津市)で、早朝から苦戦のゴルフ。このコース専属のA君は、大分出身の高校野球あがりの飛ばし屋で、僕も、必要以上に、力む力む・・・いい年をして・・・・。
「ドライバーショットは、過剰意識が筋肉や体のバランスに与える影響が大きい・・・・要は、力が入るほど、玉がばらける」
12番ホールで、玉は、大きく左に曲がり、山間の谷底にOBを打った。気分転換に一応玉を捜しに行くと、群生する「しだれ藤」が、山の腹のあちこちで、紫色の水の玉のように茂っている。藤棚に整理されてかしこまり、枝垂れる藤を、以前別のコースで見たこともあるが、やはり、藤の蔦の強さを象徴するのは、野生の藤である。
僕の玉は、大きくフック(左に曲がった)したが、野生の藤の蔦は、”左巻き”。一般に観賞用とされる藤は何故は”スライス(右巻き)である。
5月下旬まで、藤は花を咲かせるだろうが、僕の左巻きの玉も、この藤の花が閉じる頃までには、収まってくれるとありがたいが。
2010.04.28
第20号 伊集院 静氏の「ねむりねこ」とアーススモーカー
伊集院先生の「ねむりねこ」(講談社文庫)の中に、最近の禁煙ブームというか、おぞましいほどの禁煙体勢をお書きになったエッセイが在る。
「戦争や、飢餓や、・・・を乗り越えてきた人たちが、”タバコを呑む行為が”楽しみの一つであったとしたら、私はそれを認める・・・・」
確かそんな文章であった。
電子スモーカーの人気商品に育ったアーススモーカーの新作(写真の3点)が発売される。この4月からお陰さまでローソンや、日本中の有名なドラッグチェーンや、女性自身を初めとした週刊誌や、日刊ゲンダイなどのメディアとのタイアップも順調である。そして、毎回のように僕は、この広告コピーで苦戦苦闘を強いられる。
*美味しい煙でやめられる
*これは、タバコではありません
***多分、数十個のコピーは、書いたかな
鹿児島の父が、タバコを止めた。仕事をしながら、文章家でもある父の指先にはいつも、タバコの煙が香っていた。もし、タバコの煙が、無かったら、父は文章を書いていなかったような、気もする。
思うに、どうも、僕自身も、禁煙キャンペーンに、追われていたのかな。
もっと、スモーカーを応援するコピーを考えよう。
「タバコは、止めない、煙大好き」・・・・これは、意味不明かな?
場所を選ぶことで、道徳を問われるのなら、タバコだけではないはずで、人間は、いつも場所を選んで、生きているのだ。
2010.04.21
第19号 中谷彰宏先生の試読本
中谷彰弘先生から新刊が届いた。もうもうこの発刊ペースに驚いて20数年。そろそろ発行点数は1000という偉大な数字に到達秒読みなのではなかろうか?毎週毎月、続々新刊が発行される。何処の書店に行っても、まるで喫茶店のコーヒーのように、常連のメニューなのだ。
「僕は、中谷書店になるかもしれません」
そう言えば、ずっと昔に、この言葉を聞いた時にも、きっと、彼のスピードと切れ味なら、可能なことであろうと、舌を巻いた。
中谷先生の凄さは、この発刊点数だけではない。例えば、全てのファン・レターには直筆で返事を書く。年賀状の返事すら、季節遅れになる僕のズボラな性格とは、程遠い。
彼の本の様に、”判断し””動き””発想し””微笑む”。つまり、中谷先生が、自身の本の経典なのである。
何ページかに、僕の紹介もして頂いた。
”東さんは、お店のお客さまに、全員に気楽に声を掛ける”と・・・・
知らない人が、横にいると、妙に気を使うので、確かにそんな所があるかもしれない。結局は大人数が、苦手の僕のコンプレックスを、長所にご理解頂いて、頭が下がる。
*3分で幸せになる「小さな魔法」
2010.04.16
第18号 戸張 捷さんと、中村哲也先生と、美楽筆者ランチ
戸張氏は日本のゴルフ業界をプロデュース、中村哲也氏は、日本の医療界をプロデュース。ご両人は嫌がるかもしれないが、業界の”未来の絵”を描き、経済の流れを把握し、現状に適切な一手を打つのが、第一人者の責任であり、義務であり、権力とするならば、まさに日本をリードするプロデューサーである。
今日は、中華料理なんぞ啄ばみながら、両巨頭が、雑談意見交換会・・・これも美楽を発刊する者の醍醐味かな。
高齢化する日本の医療費は、30年後は70兆円を越えるとも言われる。・・・国家予算にほぼ等しい?
一方、年寄りの楽しみとしてのゴルフ人口は、600万人(プレイヤーのみ)。この二つの数字を掛け合わせると、”たのしく健康を保つ為に、クラブを持って歩く人が増えれば、予防医学の見地からも、好ましい。
ゴルフ場の横に、ゴールドエイジ(シルバーではない)ホームを造るも良し、リハビリ(精神的にも、肉体的にも)にも有用。
この二人、近々、何か、合作が期待できそうな予感がします。
2010.04.09
第17号 白鳳とチンギス・ハーンとモンゴルの至宝展
横綱白鳳は、美楽の中でも人気一番の執筆者。その関係でモンゴル航空支店長ガルダさんと、この秋「モンゴル国立音楽団」の日本公演を企画中。
今日は、取材も兼ねて江戸東京博物館の「チンギス・ハーン・・・」に。
1200年前後に活躍したこのアジアの英雄は、当時分裂していた中央アジアの部族を統一し、やがてその末裔は中国全土から、ヨーロッパの入り口のキルギス周辺までの巨大な王国へと発展する。
今から、800年前の衣装や、武器、家、食器などが陳列されているのであるが、やはり”どれも大きい”。モンゴル人は、今でも、そして昔から大きい人が、多いのかな。
僕は、白鳳がこの衣装を身に着けた想像をして、こんな連中が数百頭の馬に乗って、襲って来たら、とても敵わない・・・・などど考えていた。
*この秋、モンゴルの交響楽団が、東京でコンサートを実施します。詳しくは、美楽6月号で告知します。
2010.04.06
第16号 ヒロさんは、ニューヨーク帰りの、床屋さん
ヒロさんと言う名前は、遠くニューヨークでは,
凄腕の理容師として、その名前が輝いている。
僕は、10分100円の床屋さんでも、女性用のカットやパーマ屋さんでも、どこでもいつでも、適当に髪を切る。時間が見つけられないわけではないが、気持ちの何処かに
「男は、髪なんかに、拘るな」的な、思いがアル。
しかし、ヒロさんの所に、出かける時は、何処か気を構えて出かけるのだ。
エルトンジョンや、ハリウッドの映画スターの頭を整えてきたヒロさんの、魔術に気持ちよく、馴染むように。
2010.04.01
第15号 中谷彰宏さんのVSN講演会
中谷先生と素直に言ってしまうほどの、中身のアル、タメになる講演会になった。今年のVSN(特定人材派遣会社)の入社式は、赤坂プリンスに2百数十名の新人を迎えた。
「さあ、全員メモを取りなさい!」この一声で始まった講演に、思わず僕も新入社員に帰ったように、身を引き締める。
「怒られなければ、意味が無い!それは、チャンスなんだ」・・・なるほど
・・・・・僕も、良く若い人にハッパかけるな・・・・
人の出会いは、不思議なもので、中谷さんとは20数年前に遡る。
あの夜、確か、藤原和博さんと、3人で飲んでいた。
「博報堂を止めようと、考えてるんです」
僕は、大賛成した。あの頃から、中谷彰宏は輝いていた。鋭敏なコピー、大仕掛けで解かり易い説明(プレゼン)、タイミングのいい視線。若くて洒落たルックス。
それから、一年も経たないうちに作家中谷彰宏は、日本中の書店の”売れ筋”となり、僕の人生の支柱の一つになった。
「これが、みなさんとの出会いだね。また来ますよ」
さりげなく、暖かく、スマートに、”おだやかな春の疾風”のように、演台を降りた。
僕は、中谷彰宏さんと20年ぶりの小さな握手をして、感謝した。
2010.03.24
第14号 月刊「美楽」4月号
『れんげの花』
毎日、青い空を眺めている。川のせせらぎのリズムに合わせて雲がゆっくり流れていく。雲のメロディーに合わせて、川沿いに咲いたレンゲの花が春の歌を歌っている。
僕が大きく一つ息を吐くと、白い雲がピンクのレンゲ畑に変わった。
僕は、心の中に色鉛筆を持っている。色鉛筆は、心の模様によって、時には一色だったり、時には何万もの色が必要になる。
今の日本を見ていると、灰色をベースにしたたくさんの黄色の水玉模様が必要。黄色は、点滅し、やがて日本文化の警戒信号変わる。
2010.03.21
第13号 鹿児島中央駅
鹿児島中央駅は、昔西駅と呼ばれていた。この駅と、東京駅が九州新幹線の全線開通に伴い、7時間30分で繋がる。少年の頃、夏休みになると「はやぶさ号」に乗って20時間ほどかけて、夜通し本州、九州を走り抜け、東京から祖母の顔を見に、故郷に戻った。
腕時計で、到着時間を何度も確認しながら、本を読み、駅弁を食べ、見え隠れする東シナ海を眺める。それを繰り返すのに飽きてしまうと隣の車両に、散歩に出かける。
子供心にも、鹿児島までの、”その退屈さ”が憂鬱だったのを覚えている。
西駅に着くと、桜島の上部が僅かに見え隠れし、当時もよく噴煙を、吐いては、その喉の奥から、ベージュ色の灰を町中に降らしていた。
「今年に入って、桜島の爆発が200回を越えている。変だね・・・」と父が言った。
地球が変化し、日本列島が変化し、鹿児島も変化した。変化なのか、退化なのか、変化の軸さえ、複雑に変化している。
2010.03.19
第12号 女性自身「PIPI」広告第2弾
田辺編集長の感性には頭が下がります。女性自身「PIPI」の第2弾の広告が掲載発売された。女性用禁煙タバコPIPIのブランドは着々と市場に定着し始めた。コールセンターの電話が、先週に比べ2倍ほどになった。
長友先生のピンクのパッケージに「可愛い!!」と言うお客様の評判も上々。
10月1日のタバコ税値上げで、何百万人もの女性の指先から、煙草が無くなり、そこには電子スモーカーPIPIの水蒸気が、揺れるのか?
2010.03.10
第11号 オージーフーズの大野社長は、”日本の舌”
オージーフーズの大野社長を取材で訪ねた。新宿御苑を眼下・・・窓の下に見下ろすコールセンターは、開店前の緊張感と、新鮮な事業によくある経営者の情熱が空気になって、はち切れそうだ。
大野社長は、グルメと言うより”食材の冒険家”である。お客様の舌を喜ばせるために、日本は勿論、アジアの果てまで狩に出る。
中でも、お新香の知識と、知恵は、素晴らしい。”昭和良き時代”の、食卓を囲んだ家族の風景に、思いを馳せ、今の日本を嘆きながら、「食事革命を提唱する」
その夜、僕はうるい(山形県)の)新香に遭遇した。こんな東京のど真ん中で、東北の野に群がる独特の粘りの繊維に・・・・・大野さんの経営者としての粘りを思い出していた。
*大野社長のエッセイが美楽5月号から登場します。
2010.03.08
第10号 アーススモーカーZEROの女性用PIPI発売!
アーススモーカーPIPIが、「週刊女性自身」で先行独占販売スタート。喫煙者3000万人。女性の喫煙率18%。600万人の女性愛煙家へ。
「お願いだから、どうぞ煙草を止めないで!そのしなやかで細い指先に
煙草の煙を、セクシーに香らせて」
*但し、ニコチン、タールの無い、PIPIの煙を。
2010.03.03
第9号 朝青竜は本当に・・・・
朝青龍氏が引退。まるで、これで事が済んだかのようにマスコミは”次の話題(吊るし上げの材料)へ。 日本に内包されたストレスは、メディアを通して瞬間的に、解消されても、実は本質的な解決には至らない。
昔からの悪い癖で、集団主義(個の存在の意義を理解したくない)という国民的性質を、悪用して、或いは自然発生的に増長させて、特に経済的に混乱をきたした時期に”人柱”を作り出す。
戦争では・・・・、公害では・・・・、選挙では・・・・教育では・・・そしてリクルート事件、事が起きると、必ず犯人を捜し出し、作り出し、標的に変え、みんなで”村八分”にして、社会のシステムに内在する不完全を解消しようとして、実は本質的な問題にメスを入れない。
相撲協会に代表される、”仕切る側”に、対する提案や、持続的な要望は決して行われないで、後は、人任せに、するのだろうか。歴史的に大衆(視聴者)は、そんなに飽きっぽいのかな。目くらまし的に、”ネタ”を探すことは、メディアとして犯罪的な行為とも、思えるのだ。
「僕にとっての、朝青竜は、話のわかる好青年で、決して理解力の無い
スポーツマンではない」
傷つかないメディアという檻の中で、ただの偽善者を振る舞う・・・・そう、君たちの方が、余程無責任で下品だよ。
2010.02.22
第7号 月刊「美楽」3月号
『水切り』
まだ風の冷たい川辺で石ころを探した。おまんじゅうのような石ころや、イチゴのような形をした石ころや、大きなミミズが隠れていそうなブロックや・・・。
3段や4段の水切りをするには、なるべく薄くて真ん丸い形の石ころが一番だ。川面に水平に石を投げると、水しぶきさえしないように、石は対岸に向かって走っていった。
ダムや橋の数が増えて遊び場所になるような川沿いの空き地が見当たらない。水切りをするための石は、高層ビルに変わってしまった。日本は、川や海や湖に恵まれた国のはずである。
2010.02.14
第6号 アーススモーカーZEROの問い合わせ
アーススモーカーZEROの問い合わせが殺到しているので、チラシのご案内。
中国の上海から車で2時間。ミンボウの工場で数百人の”真面目な工員”
が、ライテック社の子会社のモバイル・ライフ社の厳重な管理の下で、製作されている。フィルターは、マル秘(日本の煙草関連の会社の老舗)。
2008年の秋から、この”電子スモーカー”が、日本でもブームになっているが、・・・・・・頭が痛いのは不良品。
このアーススモーカーZEROは、おそらく今販売されいる類似商品とは異なり
「上手い。安い。こわれない。」の3拍子が揃っているはず。
*来週は、中国出張。
2010.02.07
第5号 アーススモーカー好調!東急ハンズ
アーススモーカーの煙草サイズ・パッケージが東急ハンズにて、販売好調。
民主党政権の”目玉”ともなりうる煙草税。この値上げは春にも早々国会を賑わすであろう消費税の議論の”裏の主人公”でもアル。
10月に値上げが実施された場合、3000万人の喫煙者の、20%程度にあたる600万人が、禁煙するという予想データもある。
一方、2兆円を上回るこの財源は、貧乏する日本国民の贅肉でもあり、調整弁でもある。
祖父は、50年ほど前に、鹿児島の「たばこ耕作組合」と縁があったと聞いた。その意味で、この”電子スモーカー”は、「神様の贈り物か?DNAの宿題か」・・・・・
2010.01.23
第4号 安藤勇寿先生の栃木県はゴルフ場・・・・
安藤先生の美術館の周辺には、一体幾つゴルフ場があるんだろう。この写真の山の麓に美術館があって、皐月ゴルフ倶楽部をはじめ、20や30のゴルフ場が殆どの山の中腹に寝そべっている。
高速の出口の看板には、まるでスーパーの価格表のようにずらりとコースの表示板。
山肌を、水平になるまで削り、東京に砂と岩を運び、売り、私たちはビルと住宅を作る。栃木の山と緑は、まるで、血液を売って生きていく切ない人間のようにも思えるし、高度経済成長時代の被害者でもあり、バブルの不動産の為の売血という名の応援者でもある。
道のあちこちに友人でもある、地元出身の茂木敏光氏の選挙ポスターが目に付いた。セメント工場は三井、三菱を始め旧財閥系の巨大なものが目立ち、煙突からは、不況とは思えない程の噴煙がアルプスに向かって流れていた。
2010.01.20
第3号 月刊「美楽」2月号
『そり作り』
なんでも手に入るようで、実は何でも手に入るとは限らない。鉛筆は、シャープ・ペンシルに変わり、シャープ・ペンシルは、キーボードに変わった。早くて便利だが、丁寧に文字を書くという精神はどこにも見当たらない。
物置から、去年の冬に使ったかんじきやそりを持ち出して、縄を絞めなおしている。白い雪が降り始め、外の温度が指先を凍らせる。指先に息を吹きかけながら、体中を走る暖かい血の流れを感じている。
2010.01.17
第2号 リクルート時代の思い出が燃え上がった。
リクルート時代の思い出が燃え上がった。ゴルフに向かう早朝7時。いつものように、天気のチェックに、東の空から北の空に目を流して行くと、丁度銀座、新橋辺りに、物々しい雲?煙かな。車の窓を明けると、煙からは遠く離れている日比谷通りにも、何か焦げ臭い匂いが、漂っている。
不思議な感覚だが、匂いにも焚火の様な燃え盛る勢いの新しい匂いと、昨夜の疲れ果てたサラリーマンの愚痴のような匂いがある。この匂いの力は、今そこで、燃え盛る鬼の棒の様な火柱すら感じられる。
車を、西新橋の方に走らせると、元リクルートの裏道に、数台の消防車と、数台のパトカー・・・・それに、外堀通りまで浸み出した放水車の水。走り回るカメラマン・・・・?まだ午前7時・・・・。空には、ヘリコプターと、住人らしきカラスが飛び回っている。
リクルートに入社したのは、このビルの時代。まだワープロもパソコンが無かった。まだカセットで音楽を聴いていた。スニーカーという言葉がはやり出し、ブランドというマークも無かった。薄型テレビは勿論HVもEVも、存在していない。
昼飯の時間になると、ビルの裏道をゆっくり散歩しながら、喫茶店に入り、本を読んでいた。西新橋ビルの裏道は民家すら点々とし、路地はさらに2メートル程しかなかった。
火の消化は手間どったらしく4時間も掛ったと夕刊に書いてあった。
何処か、寒い風が、僕の首の後ろを、吹いている。
2010.01.01
第1号 魔裟斗去りさだまさしで新年が明けて
魔裟斗氏がリングを去り、さだまさしさんが国技館で、ファンと一緒に年を明けて,僕の足元は、ゴルフシューズのままで、埼玉アリーナと両国国技館を、走り回っていた。
ドリームとSRCのコラボで、大晦日の埼玉アリーナは、満杯。お目当ての試合は、さておいて、オペラ歌手の佐野さんに急遽国歌「君が代」を歌ってもらう話になった。
佐野さんとは、以前まったくの冗談で、ステージをご一緒させてもらったことがある。そして、佐野さんは今や、日本を代表するテノールとして大活躍中。今晩1月3日も、NHKで、ニューイヤー・フェスティバルで熱唱する。
その佐野さんは、大のさだまさしファンで、”まっさん”は、佐野さんが国歌を歌う時間に、国技館でカウントダウンをスタートする。
3年前、魔裟斗選手の写真集を、プロヂュースしか関係で、彼の最後の花道も、見ておきたかった。アンディ・サワーが相手なだけに、リングサイドから動けない。
大晦日は、いつもこうなる。
仕事の裏側に、ドラマと人間関係が、入り乱れ。
車でうとうとして、ふと気がつくと、東京タワーが、2010の文字を、照らし出してる。
NHKで、放送されたせいか、増上寺は、人人人・・・・・・・人。
たくさんの人が、集まる空間を、ループしながら、スパイク・シューズで走り廻る。
大晦日は、365分の1に過ぎないのに、そこで人が動くと、僕も動かされる。
*(2010年も言い訳)
だから、誰もいない森の中での、ゴルフが欠かせない。
「待ってろよ、遼君!」
2009.12.27
第46号 具志堅 用高氏と思い出雑談
具志堅 用高氏に、「東さん、久し振りですね」と声を掛けられた。
世界戦まで、後3分。場内は、亀田コールと、内藤コールが交差して
まるで、サッカーの会場のようだ。
「まだ、安比は、滑れますか」
「そう言えば、具志堅さんにも、滑りに、何度か来ていただきましたね」
「しかし、ボクシングも変わりましたね」
「アイドル化しすぎて、なんか照れくさい感じですね」
「東さんは、どちらが、勝つと思う?」
「実力が、互角だから、判定あかな」
この人の時代のボクシングは、何処かペーソスがあって、
勝っても、負けても、人間の評価がそこに付いていた。
負けたけど、いい選手。強いけど、好きになれない奴。
後楽園ホールの歩道橋を、まだ始めて間もないボクサーが、
目を赤く腫らして、うつむき加減に、渡っていく。
すれ違う、若い恋人たちは、ボクサーに気がつかない。
”モノクロのボクサーの肩を、女の子の原色のマフラーが、
撫でていく。”
男が少なくなった日本。
がんばれ、ボクサー、男は失うことを恐れるな!
2009.12.20
第45号 月刊「美楽」1月号
『南天』
四季の中で、唯一原色が似合わないのは冬である。カラー写真をポケットに入れて、風景を見つけ出そうとしても、中々白以外は見当たらない。
毎年のように、シャッターを切ってしまうのは、恥ずかしそうに、惜しげもなく、赤い実をまとった南天だ。
アメリカナイズされた日本人は、最近、感じる気持ちを表現するのは苦手でも、自己主張だけは明確に言葉にする。
日本も感性不在の寒い冬が続いている。
2009.12.19
第44号 片山右京さんの事
片山右京さんの事を、考えていたら、右手に富士山が見えた。雲ひとつない頂は、”そこに行くと”多分雲さえ漂っていられないほど、強い風が舞っているのだろう。今にも、青い草が繁茂しそうな山肌は、息も凍るような氷点下で、生物の存在も困難になるのか。
片山右京さんは、月刊美楽の執筆者の一人である。中華料理を食べるの忘れるほど、熱狂的に地球環境の悪化を、嘆いていた。
つぶらな瞳である。純粋な冒険者である。そして、この事故を無垢な富士山が、弁護する。
(岐阜羽島に行く新幹線から・・・AM11:00)
2009.12.16
第43号 江副みどり氏と大畑氏
江副みどり氏と大畑氏(メディカルガイド)と、新商品の打ち合わせ。
この世代を超えた組み合わせで、MCMという石川遼選手も愛用するミネラルの新商品を販売する。月刊美学の広告スポンサーなだけに、”無い知恵”を提供することになっている。
新商品に名前は「海の母」。トピー商事の久保さんの販売力と信用力で、
近々美容院で販売予定。
ちなみに、僕も毎晩飲用しているが、朝の寝覚めが、本当に違う。
*近々、サイトで販売予定
2009.11.29
第42号 亀田興樹君が世界チャンピオンに!
亀田興樹君が、世界ボクシング評議会(WBC)のフライ級チャンピオンになった。亀田3兄弟と、お父さんとのお付き合いは、かれこれ4年近くになる。
サントリーの鳥居副社長や、ローソンの新浪社長にお世話になってトランクスに社名を入れてもらったり、「亀田弁当」君のお弁当を作ったり、とにかく”縁”が深い。
今回の試合でも、顧問先の商品。トランクス後部にマハロ・ウォーターが刺繍されている。こうなってくると、ゆっくり試合を見る余裕もなくなる。TVの露出が気になったり、翌日の高視聴率を願ったりと、気分は複雑。
僕が、亀田3兄弟を応援するのは、実は彼らの余りある商品価値や、世間受けする派手さではない。お父さんが好きなのだ。いろいろとやかく言う人もいるが、この家庭関係が希薄な日本において、こんなに迷わず””強く”父の愛情や責任”を実践している人は、数少ない。
3度の飯を自分で作り、健康管理に目を光らせ、子供を無責任な社会の風から守り、何といっても”自分の価値観をきっちり植え込む”父親は、何処に何人居るだろうか?
ちなみに、実力は互角。戦術戦略面をきっちりリングで発揮できた、亀田くんの、余裕が勝敗を決した。そしてその背景に、苦しい練習に耐えた亀田君の”父へのプライドと尊敬”が、あった。
2009.11.28
第41号 JAJラウンジの誇り「美楽」「水の美楽」
日本航空ラウンジに月刊美楽を置いていただいて3年になる。その間、一体何十万人何百万人の読者と触れ合い、本を手にとって頂いたのかと思うと、頭が下がる思いだ。
そのJALさんが、経営的にも非常に厳しい状況に置かれ、又美楽の執筆者でもある前原大臣がその対処に追われて苦慮されているのも、何かの”縁”なのかな。
九州に帰る早朝のラウンジにで、自分の作っている本を、眺めながら
「人生は、知らずと、知らされずと、見えない縁に、結ばれて行く」
この本も、”ヒトと事業の交差点”みたいだな。
ちなみに、九州版美楽を鹿児島空港で、手に取るかもしれない。
2009.11.20
第40号 小松小旅行
小松空港からすぐの片山津ゴルフ倶楽部は日本海の風重たくまるでリンクスのようだ。
よく、関係性を表す単語で「・・・・と・・・はリンクしている」と言うが、海(大西洋)と、海岸線をつなぐ、海原をリンクスと言うらしい。
従って、全英オープンが開催される、幾多のコースは、砂山が固まったような瘤(コブ)上のフェアーウェイと、ヒースといわれる葦の草原と、抉られたようなバンカーで、しかも白球は風任せ。
設計者は、そう・・・・潮風と海岸で遊ぶ自然なのだ。
白山コースはやっかいなプロ向き。まるで、羊飼いが出てきて、枯れ草を固めて、プレーを始めそうだ。モグラの穴もあるかな?
暗い日本海の向こうに、僅かながら夕陽がその額を出している。18番ホールが、光っている。
「ゴルフとは、自然を味方につけるたほうが勝ち!」
僕たちは、自力でプレーしているようだが、実は人生も運命という見えない風に吹かれているに違いない。
2009.11.18
第39号 月刊「美楽」12月号
『風化』
枯れた薄が視野の限りに拡がって、まるで海をベージュ色に染めたみたい。
こんな日にも、やわらかい日差しを含んだ南からの風がサワサワサワと流れている。“ススキの海”はやがて満ち潮に変わり、僕たちはその中に潜りこんで、かくれんぼをしていた。
子どもたちが季節を感じることは、時の流れを学ぶことであり、“秋の海”は良い教材になっていた。
2009.11.16
第38号 夕焼け寸話
夕焼け空が久々に、東京の空を覆った。夕焼けは、明日に続く夢の種。
今日一日の、最後のエネルギーが、一瞬にして発散され、放射し、やがて
みんなに、惜しまれながら、暮れていく。だから切ないし儚いし、吹っ切れれば元気である。
それにしても、今夕の夕焼けの色は、なんと複雑で単純なんだろう。雲の奥に控える太陽の紫と、黄金色の風が、澄んだ午後の空の青を置き去りにして、現実と夢遊している。
2009.11.10
第37号 スペースデザインの折鶴
スペース・デザインの来年の広告を制作中。リーマン・ショック以来すっかり欧米人は日本から退去(・・・・した振りかもしれないが)。高級賃貸マンションは、中国人とインド人さまのみが、以前主たるお客様。本来は、1945年の戦後から”こうでなければ、ならなかったのだが、やっと日本の美徳をモチーフに、広告が展開できる喜びで一杯です。「折鶴」は、手先の器用な日本人が、心をこめて作り上げるサービスの象徴である。
僕たちの日本は、地球地図の中で、奇妙で微妙な位置にあり、しかも交通手段の不便な時代は、独自の経済と文化と政治と、人格を形成してきた。資本主義なる経済の世界的成長は、やがて、アジア大陸に触手を伸ばし、その過程で、日本は、明治維新なる市場開放を迫られる。その後は、ご存知の通り、数回の戦争に直接参加し誰かの計算通り敗北し、人数以外のありとあらゆる精神的なる物も失いつつある。
間接的には現在も戦争に参加し、60年前の敗北の、代わりに得た保険金の支払い現金が、今まさに無くなり、生活に困窮の様相が見え隠れし始めた。
「折り鶴」を見ていると、日本人の才能が”悪くない”事に、励まされる。
2009.10.21
第36号 讃岐うどん屋「おぴっぴ」
西新橋の讃岐うどん屋「おぴっぴ」は、20歳の後半によく通った。
リクルートがまだ銀座にビルを移す前の話。当時から、居心地のいい会社で、仕事があろうが、終わろうが、日曜日でも祝日でも、とにかく大学のクラブの部室のような雰囲気で、みんなが会社で、溜まっていた。
夜になると、ビルの裏手にあるこの「おぴっぴ」で夕食を食べた。
あの頃は、ダイエットなんて言葉は無かったし、ましてやメタボなんて肥満体を中傷し批判するワードも無かった。
そう・・・・・薬品市場が広告市場に侵食される以前の話。思い起こせば、僕の歯も20数本健全に、白く輝いていた。
この日のうどん・・・・・”懐かしい”を通り越して、何か明日の”エネルギー”をすすったな・・・シュルシュルッ・・・・・
2009.10.20
第35号 月刊「美楽」11月号
『凍てつく夜』
星が流れる音がしたので窓から空を見上げると、凍てついた夜空にたくさんの星たちが何かぼそぼそ、こそこそと呟いている。僕は星を一つずつ手の平に集めて、湯船につけてあげた。
冷たくなったたくさんの星を湯船につけると、再び輝き始め、北の空に元気よく飛び出していった。
「あったかくなったよ・・・・」
2009.09.24
第34号 月刊「美楽」10月号
『おちんちん』
体が温まると心が温まる。そして、気持ちも温かくなる。気持ちが温かくなると、喜びや悲しみ、怒りや何より人生が楽しくなる。気持ちは私たちにとって生きる上で最も大切な“感情”を司る。
今の日本では、この“気持ち”がどんどん薄くなっていると思う
「体が冷えるから、早くお湯に・・・・」
私は今になっても、湯気の向こうの風呂桶につかった父の声が聞こえている。
2009.09.18
第33号 戸張捷さんと水口さんのコラボレーションで・・・
戸張捷さんは、僕の人生のまさに兄貴分。滅多なことでは相談もしなければ、お願いも出来ないし、ましてや100歩後ずさりしてもゴルフコースの予約なんて・・・・・有り得ない。
先日、バリューゴルフの発行人でもあるリクルート時代の友人水口さんと、お茶をして、ものの30分の会議で、たくさんの企画が誕生した。
この日記でもご存知の通り、私は、散歩ゴルフの達人を自称しているコース狂であるし、水口さんのバリューゴルフは、ゴルフのフリペで、日本全国30万部の巨大メディア。
「やっぱり、戸張さんに頼んでみようか」
「そうですね、やっぱり、戸張さんですね」
と言うことで、
近々、値上げが予想される煙草市場の禁煙グッズ・・・・そうです僕の自慢の作品「アーススモーカー」のPRをお願いした。
禁煙地帯が広がる、ゴルフ場で、お困りのかたは、
バリューゴルフ(何処のゴルフ場でも見つかります)を手にとって、戸張さんの広告ページをご覧ください。
「一本売れたら、チャリティーをしよう。」
そう言って、戸張さんは、トーナメントに消えていった。
「東さん、一本、煙草ください」
水口さんは、人なつこい顔で、僕の煙草を一服した。
しばらくして、バリューゴルフの発売日に、葛西のロッテゴルフを訪れた。ラック一杯に溢れた本を手に取り、来年は、ヒットすること間違いなし。そんな感触が、久し振りに電光飛来。
この3人・・・・・・何か始まりそうな予感。
国会で、煙草の値上げ論争が、始めり、3000万人のマーケットが動く!
*ちなみに、煙草が1000円になると、2000万人の喫煙者が、禁煙し断煙し、しかし、煙草税は、4兆円にUP!!!一方で、肺がん患者が減少し、年間33兆円の国民医療費のうち、数兆円が浮いてくる。
財源に苦しむ、政府も、”黄金の隠し玉”なのである。
2009.08.28
第32号 FTV(ファッション・ティービー)のカフェがオープン!
ファッション・ティービーのカフェがオープンし新しいコンテンツの夜明け・・・・。全世界で数億人が視聴しているFTV。CNNやMTVなどの人気番組と肩お並べている巨大放送局のアンテナ・プレゼン・ショップが顔店。
友人のI氏が、言い切った。
「音楽も、スポーツも、既に新鮮なコンテンツとは、言いがたい。食事を始め、全てのコンテンツと共存できるのは、ファッション」
おそらく、2010年には、わが国でも知らない人(若者はもちろん)はいない番組に急成長するであろう。
ちなみに、I氏にこの局の役員を命ぜられているが、責任の重さを痛感している。
「まず、自分の衣装から、見直さなきゃ・・・・ダイエットシテ!」
2009.08.20
第31号 月刊「美楽」9月号
『遠い国』
日曜日になると、僕は決まって海に出掛けた。気ままに形を変えたたくさんの雲たちが遠い国から僕のほうに向かってくる。
水平線の向こうからは、生まれたばかりの貿易風が流れ込んでは、新しい文化や価値観を置き土産にしていく。
日本は、四方を海に囲まれた島国である。諸外国から無制限に飛んでくる“雲のような情報”を、無意識に受け止めていると、いつの間にか本当の“日本の空”が見えなくなる。
2009.08.19
第30号 サントリーホール・デヴィーアとフィリアノーティ
サントリーホールでラボーチェ主催のコンサート。デヴィーアは、現代最高のベルカント・ソプラノ。美しい舞台姿と、完全主義の歌唱表現はまさに芸術そのもの。一方、ジュゼッペ・フィリアノーティは、世界のテノールを支えるであろう逸材。この滅多にない組み合わせは、サントリーホールの満場の観客を、魅了し、たっぷりと酔わせた。
1996年に国立競技場で3大テノールをプロデユースしたのが、昨日のように鮮明に、思い起こされる。サッカーのワールドカップの決勝の前夜祭が日本と同じセットになると聞いて、急遽ロスに飛んだ。JTBやJCBなどのクライアントを引き連れて、会場入りした瞬間、そこはイタリアであった。アメリカ人ではなくではなく、数万人のオペラファンのパーティが開催されていた。まだまだ日本は、オペラには馴染みが無いし、ましてや、この雰囲気は作れない。コンサートの大半は、聞き手である観衆が作り出すものだから。
・・・・あれから十数年、わが国のオペラファンは、その数を増し、今では立派なジャンルを確立した。
ベッリーニの歌劇「ノルマ」に、こんな言葉が残されている
「ただ待つだけの人生、だから心が綻ぶのよ。今を信じることが、人生よ。そうすれば、悩んでる暇なんて、見つからないのだから」
2009.08.13
第29号 鴨川カントリー名物1日三個限定肉巻きおにぎり
鴨川カントリー名物1日三個限定肉巻きおにぎり。
この日の、鴨川は、34度湿度70%熱中症になっても、おかしくないコースコンディション。グリーンは、湯気立ち、太平洋から吹き上げる風は”暖めたコンニャク”が、首に纏わりつくようだ。
とにかく、逃げ込むように14番ホールの山小屋に、飛び込むと、冷たいお絞りで後頭部を、冷やす。スコアーは3パットの連続で、既に4オーバー。
「一日、ほんとに2個しか作らないんです。アウトで1個、インで2個」
こんな、おにぎりの販売は、日本中何処を探しても、絶対に無い。
醤油とにんにくで、炊いた多古米の飯に、生姜で煮込んだビーフが絡み付いている。
プレー中に、食事をして、スコアーが良かった試しは、一度も無い。しかし、、もう二度と、お目にかかれるかの保証も無い・・・・・・思わず、迷わず、一気に2個を、食する。
「もう、ゴルフなんか、・・・・・・・お茶ください」
火照った胃袋に、肉巻きおにぎりが、ガッチリ食い込んだ。
*一つ380円、吉野家の牛丼より高価。だが、滅多にない肉汁の味が、たまらない。
2009.08.05
第28号 鹿児島枕崎の鰹弁当
鹿児島枕崎の鰹弁当を鹿児島空港で発見。ご存知の通り、黒豚を素材にしたものや、キビナゴを素材にした寿司弁当、さつま揚げを主人公にした幕の内系薩摩弁当など、鹿児島は・・・・と言うより九州は弁当の素材に恵まれている。考えてみれば、日本で一番の漁獲量を誇る枕崎の鰹弁当を、食してなかったことが私の怠慢であった。
料金は780円。生姜を載せて、醤油とみりんで煮込んだ米と同時に頬張ると、肉汁とおぼしき、東シナ海の香りがする魚汁がふんわりと・・・。
2009.07.20
第27号 早乙女太一公演(名鉄ホール)
早乙女太一「わらべうた」の公演の仕事で名古屋に来ている。マハロ・ウォーターが主催する始めての興行。お客様の期待と、高野社長の信頼に、”舞台だけでなく、全ての仕切り”でお答えしなければ。
100年に一度と言われる早乙女が、舞踏家であり、表現者であり、よって芸術家であり、彼自身がメディアでもある。17歳。彼はやがて、思想を持ち、天才と称される誰もが持つ宿命的なメッセージを放ち、日本ばかりか世界で拍手を浴びる時に、我々も何かを学ぶのであろう。
「少年老いやすく、学なりがたし。。。。。。」
ご来場のお客様の全てが、”応援するもの誇りが感じられる”コンテンツ。
高野社長も、それを感じ取られていたように思う。
2009.07.19
第26号 虹色の空
黄色いどんよりとした低気圧が、列島に被さっている。朝からねっとりとした風が体に纏わりついている。梅雨が明けたにもかかわらず、気分は晴れない人が多いのではないだろうか?
自民から民主への政権の移動が確実と言われても、何かすっきりしないのは、”ある時代が中途半端に終焉を迎え、新しい時代が読めない”ストレスから解放されないから。
何かが変わろうとしている。誰が動かしているのか、それとも誰も答えの見つからない経済の法則が働いているか、わからないが、私たちの生活も大きく変化しつつある。
「髪の毛が伸びるのを、毎日見ているとわからない」
・・・・・・と、イマジニアの神蔵さんが、電話で呟いた。
散歩に出ようと、町に出ると、東京の南の空に虹が出ていた。車のルーフを全開にして、シートを倒して、虹を感じていた。
カラパマの「メニイ・クラシック・モメント」を聞きながらうとうとしていると・・・・・・虹は、姿を消した。
さっきまで、空を眺めていた人々が、もとの重苦しい表情に戻り、新橋の駅の方に流れていく。何かを払い落としたいのだろうか、再び空から、シャワーのような雨が降り出した。
2009.07.16
第25号 モンゴル大統領サンジャー・バヤル氏との昼食会
モンゴル大統領が閣僚をずらり引き連れて来日。月刊「美楽」の執筆者の白鵬を初め、モンゴル旅行者のガルダ氏や、大使館のバトボルト氏など、公私共にお世話になっているので、赤坂の某所のランチに出かけた。
地政学的にも、アジアの重要な拠点となりうるし、資源も豊富、民主化運動も目処がついた・・・・それになんと言ってもこの国の人材(民族)は(上品で頭がよろしい)。一見日本人との風貌の違いを見極めるのは不可能に近いし、敢えて言うと、体格が頑丈で丈夫。
「モンゴルの子供たちは、チーズ、それに羊のミルクがありますから・・」
以前身長196センチ体重165キロの白鳳さんが、言っていたから間違いない。
食料大臣のバダムジョナイさん、鉱物資源大臣のアリウンサンさん、外務大臣のボロルさん、いずれにしても30代から40代の若い閣僚は、どこかの国の利権まみれのバッジ組とは違い、一目でわかる”清い目”をしていた。
やがて、彼らの力を充てにしなければならない未来が、来る。
2009.07.12
第24号 きみさらずゴルフの朝食
きみさらずゴルフの朝食に限らず、何処のゴルフ場も、コース・コンディションは無論、キャディー教育やら、風呂の温度やら、近隣住民との良好な関係作りやら、むしろゴルフ・プレーとは一見無縁そうな仕事が山ほどある。
しかし何と言っても、食堂(レストラン)の味とメニューは、集客数に大いに影響するらしく、ご当地メニューやら、シェフのキャリアーやら、変わったゴルフ場では、プレーはしなくても、お食事だけでもOKのところも、増えている。
朝5時に起床、7時からプレーしての、9時過ぎの朝食は、体に血が回っているし、運動の後だけに、美味しい。
友人のVSNの加藤役員と、川崎専務とのデッドヒートの半ばを終え、コップ一杯の水を呷り、輪定食を食べるのが日課?いや習慣になっている。
ちなみに、この極上の鮭を主人公にした、きみさらずの朝定食は、食事だけでもOKである。料金は750円。7時から10時まで注文できる。
2009.06.29
第23号 泉川ピート氏の技
泉川ピート氏の姿を、初めて拝見したのはブラウン管の中だった。フジサンケイ・ゴルフ選手権の最終ホール、当時30???才のピートは優勝を手中にいれ、ハーフ独特の彫りの深い顔で、日差しの強い18番ホールを歩いていた。
「今、体を作ってるんですよ。シニア向けに改造するまでに2、3年費やしながら・・・・東さんも少しシェイプアップして・・・」
長沢純さんの、コンペに招待され北海道の空知にあるゴルフ場の芝は、このあたり独特の粘りがあって重い、ラフは禁物。というより、ラフに打ち込んだらボギーを覚悟しなければならない。
ピートの玉は、右からの強い風と、ドロー回転に迷いながら、グリーンまで120ヤードの深いラフ、しかも完全なスタイミーな杉の木の真後ろの根本に落下した。・・・・・・・チャンス到来、私は、グリーンまで130ヤードの
フェアーウェイとラフの境界線。
さっきまで、付き合いゴルフに徹していたピートは、8番アイアンで、慎重に素振りを数回し、気の真後ろでアドレスを取った。・・・・まさか・・・。
次の瞬間、強い向かい風のなか、ほぼグリーンの20ヤードほど左に放たれた玉は、目の前の木を高く越え、さらに強烈にスライス回転で右にブーメランし、ピンの根元に着地した。
「生まれ変わっても、こんな芸当はできない。」
”プロとは、どんな状況でも、慌てない嘆かない技術者のこと”
2009.06.20
第22号 月刊「美楽」6.7月号
インターネットの登場により、新聞や雑誌などの活字(媒体)の役割が大きく変わろうとしています。さらに、世界レベルの経済不況や産業構造などの変化に伴い、多くのメディアの存在価値が消失しつつあります。
1年目の「美楽」は、植物で言う種でした。どんな花を咲かせるかを模索している時期でした。
2年目に入って、どうやら地面に根を生やし、その茎がほんの少し、地上に顔を出しました。
3年目の「美楽」は、たくさんの皆様から、心の日差し≠お預かりし、大きな葉っぱをたくさん身につけたいと考えています。
そして、2010年には、「美楽」の役割を広げ、日本や世界のあちこちで美しいメディアと言われるようなしなやかな影響力を持つように育てていくつもりです。
この間、100名あまりの執筆者の皆さんやたくさんの広告主の皆さんに温かいご指導とお力添えを頂いたことに心から厚く御礼を申し上げます。
2009.06.12
第21号 C.W.ニコル氏(作家、環境保護活動家、探検家)
C.W.ニコル氏(作家、環境保護活動家、探検家)と取材でやっとお目にかかれた。あの暖かな日本語。逞しく日焼けした頬と、物憂げで悲しみさえ感じられる眼光。・・・・それに尊敬する開高 健先生と「野生の呼び声」という座談会の本まで出版している。
溜池にあるホテルのロビーに、ヒルズの高層ビルの隙間から、夕日がこぼれている。玄関に向かってニコル先生を待っていると、丁度逆光になって
、僕の気持ちは期待で一杯。
「昔、小さな川が流れていて、そこに小鳥たちが飛んでくると、何故か気を失ってしまうのです。東さんは、この意味がわかりますか?」
僕は、汚染物質か何かだと思っていたのだが、どうも森のマイナスイオンが、恐ろしい濃度で流れて、鳥たちが気持ちよくなってしまうらしい。
こんな自然や環境に関する山ほどの、経験談(エピソード)が、抒情詩のように、言葉になる。話しではなく言葉で、伝わってくる。
インタビューが、終わって、僕の体はマイナスイオンで充填されたように
浮いていた。
*詳しくは、美楽8月号からの、連載をお楽しみに。
2009.06.09
第20号 小金井カントリー倶楽部は強敵!!
小金井カントリー倶楽部は強敵!!何処の誰が呟いたかは、知らないが
「小金井は、お年寄りのコース」だの
「接待向きのコース」だの・・・・・。
大きな誤りである。会員権が、高額なのと、滅多にプレーできない人の、焦りと嫉妬なのではないだろうか。
何度ここを訪れても、スコアーがまとまったことが無い。まず、グリーンが難解。1メートルのパットでも芝目が読めないと、入ってくれない。つまり、ナイスオンしても、何処にオンしたかで油断大敵・・・古くからある手作りのグリーンと、歴史的なゴルフ好きのOBたちの迷いが、今も生きている。
さらには、現在バンカーの修理中で、砂が異種混合の微妙な状態。この黄色い砂は何だろう?思い切って、フェイスを開かなければ玉が、”救え”ないな。
改修して、より風格を感じるレストランから、美しいコースを眺めながら、
「今日は、いけそう」
と、思うのだが、終わってみると、すっかり武蔵野の林、狭いフェアウェイにやられている。距離が無いだけに、グリーン周りで、自己嫌悪におちいる、気持ちがダフル。
来週は、長野佑也先生の古希を祝うコンペがある。ウエッジを買って頑張ろう。
2009.06.05
第19号 東映相原さんと任天堂「脳強」発売
東映相原さんと任天堂「脳強」発売の、いよいよ前夜を迎えている。今回は、元リクルートの畑中君(夕焼け想像研究所副所長)の強いバックアップもあり、相原さんの即断即決で、ビシビシ発売まで、仕掛け満載。
任天堂のDSは、市販されているタイトル数だけでも2500本を超える
”お化けコンテンツ”。その中でも、「脳」を材料にしたものだけでも、50本以上。この市場に、”ど真ん中から”食い込んでいくのだからやる気満々、勇気凛々である。
応援団も、義家ヤンキー先生を初め、8000名の東大生からEQの高い小悪魔アゲハ嬢まで多士済々。
内容は、神戸の浜学園のメソッドをベースに、ただの記憶力やスピード頭脳では克服できない新型のゲームなのである。
しかし、僕は解けなかった・・・・・・。
「新脳強育」・・・・・僕の脳も、やや古い。
2009.06.02
第18号 さだまさしさんの新刊「アントキノイノチ」
さだまさしさんから新刊が届いた。タイトルは「アントキノイノチ」。またまた、深夜から朝まで、一気に映像文学の世界に持っていかれた。
さださんの本は、全部楽しみに読破している。その何処か詩的な文章から、イメージが映像化しやすく、時にメロディーまで付いて来る。
作詞家(特にシンガー・ソングライター)の、歌は、感情をそのままぶつけるタイプと、状況説明から、心情表現に入りこむタイプに分かれる。さだまさしさんは、後者のタイプで、その”心の表現力”は、島崎藤村以来だと思う。
そんなさださんが、小説を書いて、映画化され、テレビドラマになって、古くからのファンはもちろんの事、日本中を泣かせる。
「何時書いているのだろう?」
本当に、日本語の天才で、日本文化の旗手なのである。
2009.05.24
第17号 鹿児島県垂水市の朝
垂水の朝市に間に合った。朝一番6時の飛行機で、鹿児島に飛び、お墓のある垂水の「道の駅」に立ち寄った。自分のルーツに関して、あまりにも無知で、焼酎と水とみかんの名産地であることしか知らない。
今回は、生産農家に顔を出し、何故水が、日本的に評価されて、誰が全体のブランドをコントロールしているのか?程度の勉強はしてみたいと思った。
桜島の裏側にある「道の駅・垂水」は、桜島溶岩の植木鉢やら、養殖のはまちの生簀やら、”足湯”やら、名産特産のオンパレード。中でも、朝取れたばかりの枇杷が、たくさんの小箱の中で金色に輝いていたのが印象的。
紅芋のアイスクリームを、頬張りながら、湾の向こう岸の鹿児島市を遠く眺めていた。
いつものように母に電話する。
「今鹿児島なんだ」
「あそう、帰ってきたの」
何が起こるかわからない、日々の貧そうなスケジュールのなかで、事前に帰郷を伝えて、両親を待たせるのも、申し訳ない・・・・・ので、いつも垂水のあたりから、実家に電話している。
母も慣れたもので、私に何しに帰ってきたのかは、聞いたことが無い。
2009.05.22
第16号 後楽園(有楽町)の焼きそば
後楽園の焼きそばは、ふいに食べたくなる。昔からあるラード風味で、大きな鉄板焼きでまとめて炒めてある。並盛りが360円、大盛りが450円。オプションに目玉焼きをもらい、丼に入れてある葱を、振掛けのように盛る。焼きそばが見えなくなるくらいに、葱を盛る。サイドオーダーにスープを頼み、その中にも葱を振掛ける。食べる前に、闘争心とスタミナが必要。明日の口臭など気にしていられない。
最近、今日の仕事と、明日の仕事の境目が、引けない事業が増えている。
今夜も、再び葱を食らう。
*有楽町・後楽園は24時間営業である。
2009.05.20
第15号 安藤勇寿先生とは夕焼け仲間
安藤勇寿先生とは夕焼け仲間である。7年ほど前、テレビで紹介された安藤先生の美術館の「夕焼けの少年」の絵に惚れ込んだ僕は、すぐに、栃木県佐野市に住む先生を訪ねた。
それから数年後・・・・よほどの縁があったのだろうか・・・・発行する「美楽」の表紙に、その素晴らしい絵を提供していただいている。
「僕は、頭の中にある情景を、クレヨンで表現するのです」
栃木訛りの、素朴な先生の話を、穏やかな気持ちで聞いてしまう。
力が抜けているから自然。何かを主張したり、誰かを説得したり、自分を押し出す必要の無い世界の母国語なのである。
この日は、3周年を迎える「美楽」の打ち合わせと、個展の開催に関する
話で、久し振りに美術館の作品を拝見した。
表に出ると、雑木林を抜けてくる酸素濃度の濃い風と、初夏の日差しがふわりふわりと遊んでいた。
僕は、ほっと一息、ため息をついて、
「ゆっくり泊まって、いきたいですよ」と、
腕の時計を見ていた。
2009.05.05
第14号 リクルートの同級生の徳永プロ(ゴルフ)
徳永雅弘君は、いつも笑顔の勝負男だ。が、そんな風に見えないところに
強み有り。
ゴルフのシニア・プロと言うのは、誰かお抱えスポンサーがいて、本業は、練習場のレッスンプロだったり、企業と顧問契約を結んでいるケースが多い。しかし、徳永君は、本当のサラリーマンだった。9時から夜遅くまで、会社に勤めながら”腕を磨いた”生粋の会社員選手なのだ。これは、どんなスポーツでも、奇跡に近い事。
数年前は、全米シニアという名門のトーナメントにまで、出場を果たした。
小柄で、飄々と、球を打つ。飛距離は、ゆうに280ヤード。変わったことにヤーデージ(グリーンまでの距離標)は、使わない。日焼けした顔で、感覚的に、情熱的に、動物的に、ゴルフする。
最近、お互いに高齢化してきたせいもあり、会うたびに、体のあちこちが痛い、目が薄い、筋肉が・・・などと笑いながらのゴルフ談義。
僕は、徳永君のスコアより、坦坦とした思い切りのいい生き方に、ある憧れがある。
つまり、ミスショットは、決して、後悔してはならないのが、ゴルフ、人生もきっとそうなのである。
2009.04.27
第13号 ジャガーの命
ジャガーの命は、走行距離ではない。イギリス生まれではあるが、今や資本はインドのタタが大株主。ジャガー・グリーンも無論嫌いではないが、汚れやすく、交通事故は、黒や緑の塗装が多いと言う。木製のパネルも嫌いではないが、70年の後半からバランスが悪くインパネは消極的。本来2人で乗るべき車なので、後部のシーターは狭くて硬い。
ジャガーの命は、あくまで、豹の姿なので。ある。
青空の白が、車体の白に、共鳴している。
幸いに、午後の太陽が、豹に影を落とし、豹は走り出している。
俊敏で、大胆で、静謐な車である。
「携帯でも、結構、味わえる構図が撮れていた」
2009.04.25
第12号 友部正人の「ジュークボックスに住む詩人」
友部正人のジュークボックスに住む詩人・・・・に出会った。神田神保町で歯医者さんの待ち時間があると、古本屋さんを廻る。古い雑誌を捲り、店主のおじさんと世間話をし、最後に詩のコーナーに立ちよる。
18歳の頃、名古屋の栄公園で、毎週土曜日のフォーク集会が開かれていた。何百、時には何千の学生が、そこに参加することで”生きる自分”を探していた。友部さんは、地べたに座り、怖いほど鋭い表情をギターにぶつけボブディランを歌っていた。
僕は、音楽はしていたものの、”そのフォーク集団”の中には、入らなかった。入れなかったのは、少し年下のせいもあって、気後れしていたのだ。
歯の治療を終えて、思い出したように、アマゾンを開き友部さんのCDや、本を探した。
あの、心をそのまま言葉にした友部さんの詩集やエッセイが販売されていた。2日後に、松田優作やブレッド アンド バターと一緒に本が届いた。
ビニール袋を空けた瞬間に、1972年の栄公園の芝生の匂いがした。
「アマゾンは、いつも”思い出”のパンフレット」
2009.04.20
第11号 月刊「美楽」5月号
田植え
誰かの足を踏んづけた。
隣に住んでる鬼の顔をしたおじいさん。
麦わら帽を首まで被り、腰まで田んぼに浸かってる。
誰かの足を踏んづけた。
隣の町の、村長さん。
内輪を片手に、お手伝い。
誰かの足を踏んづけた。
雨靴忘れた雷様。
足がたくさん田んぼに浸かり
誰かの足かもわからない、
ごめんなさいは後回し。
2009.04.13
第10号 インプラントとの戦い
先週の水曜日、逃げ回っていたのだがついにインプラントの手術。
写真を見てのとおり、我ながら痛々しいを通り越しておる。知らない人は、
交通事故か何かで、担架で運ばれているのではないかと、思われるのではないだろうか。
下の歯に1本(前回とあわせると合計4本)、上の歯に2本。目標は?12本程度のインプラントで、わが身の高齢化に備えようと考えている。今回は、全身麻酔に、局部麻酔を取り合わせ、医者3人に看護婦2人という万全の体制で手術を、迎えた。・・・・ところが、準備不足は、私の方で、特にどうやら心の準備が、足りなかった。左の下のグラついていた歯の抜歯のときに、恐怖心が絶頂に達し、なんと目覚めてしまったのだ。痛みのないはずの時間帯で、治療椅子から、起き上がり、さらに体を右に反転させたのだ。
記憶には無いが、驚いたのは、医師団の先生方で、
「こんなに、無意識のうちに、嫌がったのでは、危険だな」
との判断の元、1本は次回に回すことになった。
ちなみに、この不安感と恐怖心は、幼年期に受けた歯の治療が、トラウマになって、フロイトの言う「客観的不安」となり、僕の精神を支配しているらしい。
”不安は、全て希望を、奪い去る最悪の要素である”
奇妙な不安は、待たないで、行き当たりばったりの人生を選んだ方が、一本も”日本”も前進する。
2009.03.20
第9号 月刊「美楽」4月号
「ビー玉」
桜が美しいのは、極めて動物的にその花の命を終えるからであろうか、それとも空の青さが見えなくなるほど、風も雲も、時には地面さえも桜色に染めてしまうからであろうか。或いは、決して朽ち果てることなく、栄華を誇ったままで散ってしまうからであろうか。それとも、私自身が儚い人の命を感じるからであろうか。
永遠に続くものなどこの世にあるはずがないのに、私たちは美しく散ることを忘れて呼吸している。
2009.03.06
第8号 照屋林賢氏と深夜の再会
照屋林賢氏は、いつも季節風のように現れる。現れるときは毎度、なんの前触れも無く、突然沖縄から、東京の僕の目の前に登場する。
「東さんは、今何処ですか?」
「沖縄の、天気はどう?」
「いや、今東さんのところに、向かっています・・・・」
こんな具合なのだ。
すると僕は、どんな予定があろうと、会議中であろうと、サウナの中であろうと(ちなみにリンケンさんは、風呂が嫌いなのだが)、彼を待つ体勢に入る。
1995年の夏から数年の間、僕は当時のダイエーの中内会長のご指名で、「アジア音楽祭」という大規模なコンサートを沖縄でプロデュースさせてもらった。リンケン・バンドをホストに設定したコンサートは、アジアの各国の音楽家を迎えて、数万人のお客様を集めた歴史的なイベントに成長した。
リンケンさんは、写真のプロでもある。撮影した写真は20万30万枚にも及ぶ。彼の好意もあって、「月刊美楽」で毎号掲載中。
しかし、中内会長の写真が、無いのは、寂しい気もする。
2009.02.20
第7回 月刊「美楽」3月号
「お雛様」
3月上旬になると、上着に何を選んで良いのか、迷う季節である。セーターを羽織るか、マフラーを巻くべきか、半ズボンか長い靴下か、毛糸の帽子を持っていくべきか・・・・。
村のあちこちに、濃い分厚い葉っぱをまとい、まっ赤な寒椿が何週間も輝く赤を誇張する。すべての生物が黒か茶色か白であるはずのこの時期に、この輝く赤はまるで生物の心臓のようにその静脈を露出する。
お雛様の時期になると、私はいつもあかぎれから滲み出した血液とその赤に明日の生命を感じていた。
2009.02.11
第6回 北京五輪の取材の時の・・・・
北京五輪の取材で、宿泊した中国大飯店の、窓に”異様で大胆なデザイン”のビルが、朝もやの中の、曇天の空に突き出していた。
建て掛けの中国中央電視台(中国中央テレビ、CCTV)の、ビル。それは今世紀が中国の時代であるかの様な象徴的な自慢の、建造物であった。
一昨日、そのビルが火を噴いた。煙は、曇天の北京の空を黒く覆い、僕の脳裏にさえ煤(すす)の焦げた匂いが、タチコメタ。やはり・・・・。
2009.01.31
第5回 江副さんとソウル危機の晩飯と南大門の空虚
江副さんと、ソウル取材。サブプライム・ショックの最も影響を受け、為替は壊れ、輸出は留まり、求人市場は白旗状態、韓国人独特の”底辺のエネルギー”を創成するはずの庶民も、外食を減らしている。
朝、人手の多いはずの南大門を散歩した。薬屋にも、食料品店にも、おもちゃ屋にも、靴屋にも、革の衣料品店にも客がいない。
「冷えますね」
「この街の経済は、立ち直るのも、早いからね」
「甘いものでも、摘まみましょうか」
「どんな時でも、食べ物は強いね」
50年前(半世紀)に、学生事業家として、人材産業の種を植え、日本一の求人会社を作り上げた人の眼にも、ウォン・ソウルは、国家経済の破綻が明らかのようで、しばらくは回復の兆しが掴めないのと読んだ。
2009.01.20
第4回 「美楽」2月号
『飛ばしっこ』
山を切り崩し、工場を造り、木を倒し、花を摘み取り、団地を作り、すべての道を車が走りやすいようにコンクリートで固め、流れる川をせき止め、ダムを造り、海を埋め立て、コンビナートを造り、子どもたちは簡単にトイレさえも行けなくなった。
都会では、廃墟の跡や地上げ途中の空き地以外、キャッチボールをする場所すら見当たらない。まかり間違って、小学生が立ちしょんべんをしようものなら、ものの何秒でストレスの溜まった大人たちに叱られる。
「伸び伸びとした子どもたち」を育てることが、国家全体の創造力を高めることに繋がるのは当たり前なのに、今の子どもたちは可哀相なほど怯えている。
2009.01.14
第3回 セブンイレブンの漫画読むヤング
セブンイレブンの夕方6時。会社を終えた”若きビジネスエリート”は、漫画コーナーに列をなしている。出版不況で、今や、雑誌は廃刊ブーム。出版市場も1兆円を割り込むのは時間の問題。インターネットのせいでもない、活字離れのせいでもない、日本文化がどうのこうのという気の難しい話でもない。不況なのだ。大好きな漫画雑誌にも消費は向かない。
だったら、文化とは金がかかるのか?・・・・・その通り、精神論は別にして、文化も情報という回路がある限り、ある程度の金がいる。
従って、この数年、若者の文化は育ちずらいに違いない。
2009.01.06
第2回 早乙女太一氏は100年に一人の逸材
話題の早乙女太一氏と、新しい新聞「水の美楽」の取材でお目にかかった。北野武監督の「座朗市」での鮮烈な印象、昨年末の紅白での”目を釘付けにされた舞”・・・・。公演のチケットも矢のように売れている。
とにかく一時間の取材時間ですら、確保するのが大変な逸材。上野の浅草ビューホテルで、矢継ぎ早に言葉を交わした。
幼い頃から、舞台の道一筋で、その考え方(哲学)も、とても17歳とは思えないほど無駄が無い。ゴルフの石川遼君や、スケートの浅田真央さんなどもそうであろうが、幼い頃から目標を明確にするというのが、人間を無垢に磨き、センスと言う名の細胞の分裂を、無限大にする。いわゆる、無意識の鍛錬は、個人の眠っているうちに才能を開花させるのだ。
「好きなものは、何ですか」
「白いご飯です」
・・・・・イマドキ、こんなに素敵な答えを返してくれる若者はいるだろうか?
「睡眠時間は」
「日によって、異なります」
何処か間の抜けた、平凡な質問に、少し恥ずかしい思いをした私だった。
2009.01.02
第1回 日比谷公園、冷え込んだ元旦
新聞や、ニュースの報道が気になって、日比谷公園の「派遣村」を覗いてみた。以前、藤原和博氏と新宿西口の”炊き出し”に顔を出したことがあったが、今夜は、何故か心が冷え込んだ。
7000万人近い労働者の3分の1の1800万人が、非正規労働者という不安定な労働市場。2003年の小泉改革???以来、増え続けた派遣労働者が、フリーターが家がなく、食がなく、一部の行政では東京への片道チケットを渡されて町を放り出される。
グローバル化だの、職業の形態は個人の選択?いろいろな理由をマスコミを通して正当化され、要は企業の調整弁として”都合のいい機械労働者が誕生した”。
普段、浮浪者が眠る日比谷公園では、派遣労働者のアピールの場所として、1月4日まで寝床と食事を提供するオアシスに。しかしながら何故300人程度しか集まらないのか?今や数万人が集まるような事態が起きているハズなのに・・・・・
2008.12.21
【第48号 香港にて】
2週間前の香港は、半袖では震え上がるほど寒かったのに・・・・考えてみれば沖縄より緯度的には、うんと赤道に近い?はず。香港文化会館から湾沿いに造られた遊歩道(シネマストリート)を歩いていると、小春日和を感じさせる生暖かい風が、ゆらりゆらり身体を過ぎていく。
インターコンチネンタルで、美味しそうに朝食を食べている人も、まだ7時過ぎなので、ままばらだ。
昨夜、深センの繁華街あるチェンさんの店「来櫻(こはる)」で、季節を感じないほど、日本各地から集まったたくさんの魚を御馳走になった。中でも、駿河湾の鯛の塩焼きと、熊本から届いた馬刺しは絶品で、中国にいることをすっかり忘れてしまった。
シェラトンの路地裏で、日本人を呼び込む花屋さんを覗いてみると、さくらの切り枝を売っていた。何処から運んできたんだろう?
12月なのに、此の町でも異常気象の影響で、”小春日和”。
世界中が、異常経済、異常経営、異常政治、異常国家、正常なのは、今日一日を懸命に生きるために必至で働く、中国人のエネルギーだけのように思えてくる。
”先のことは、考えない”・・・・実は、生きる真理とはそういうことなのかも知れない。
2008.12.20
【第47号 「美楽」1月号】
「羽子板」
羽子板は、室町時代に我が国に伝わってきたと言われているのだが、現在では東京の浅草寺「歳の市」などで売られているように、スポーツと言うよりは、縁起物としてしかその存在を留めていない。
少年の頃、かすかに羽子板をした記憶はあるものの、何故か手毬などと同様に女性的な遊びのような気がして、少年たちには人気がなかったように思う。西洋のスポーツであるテニスや中国の卓球とは異なり、羽子板は鳥の羽を上手に重力に合わせながら、相手の羽子板の拾いやすいところに落とす、思いやりのスポーツでもある。決して、相手の隙をついたり、目にも留まらぬ速さで打ち返したりしてはならないところが実に品と格を感じられるのである。
私の耳の奥で今でも元気のいい、木の板の響きが鳴っているのは、僅かに残された本来あるべき日本人の姿をまだ期待しているからかもしれない。
2008.12.03
第46号 アントニオ・古賀さんと「音魂不思議ツアー」の打ち合わせ
「やはり音楽は、詩なんですよね」
故・古賀政男先生の一番弟子でもあるアントニオ・古賀さんは日本を代表するギターの名演奏家でもある。その彼が意外にも言葉に拘り、今の日本を嘆いているのは、日本の流行歌の現状がかなりの低レベルにあるからに他ならない。
「テレビやパソコンなどの影響で自分を表現するチャンスが少ないんですよね。きっと・・・・」
音楽を通してメッセージを発し、より言葉を人々の心の中に通りやすくするのが流行歌の定めである。しかし、どの歌を聴いても愛だの恋だの(それも悪くないのだが)。しかも、独りよがりのロマンの切り売りばかりが今の流行歌となっている。
アントニオ・古賀さんは来年2月から日本の隅々まで、古賀メロディーを届ける旅に出る。ある場所では老人を元気づけ、あるところでは若者に、日本の心を学んで欲しいとおっしゃっている。
コンサートの1曲目は、「荒城の月」。荒城とは、滅び行く日本の現状であり、月とは、それを悲しく縁取る母親の心なのだと・・・・。
2008.11.30
第45号 電子煙草の工場見学
エコスモーカーの工場見学にシンセンに。週末の金曜日の羽田発のJALで、香港着は深夜の1時。考えてみれば、この便を使えば、週末の土曜日を有効に使って、香港(シンセン)とのコミュニケーションが取りやすくなる。・・・・但し、日曜日の深夜2時に帰国するという、過酷な体力が必要だが。
サブプライムの影響で、中国の経済は、壊滅的な状況になりつつある。
「街中での、窃盗やすりが多いですので、・・・・・」
通訳のチェンさんが念を押した。
香港と中国の国境で、出国許可をもらい、50メートル先の中国の入管で入国許可証をもらう。ヨーロッパでは、当たり前のこの光景は、やはり僕達日本人にはもの珍しい。・・・・・電車でシンセンに行かなくて良かった。車での移動が、時間も神経も楽にしてくれる。
電子煙草の工場は、400人以上のスタッフが、ベルト・ラインの両サイドに並び、バッテリーのチェックから、点灯のチェック、フィルター液の混入、箱詰め・・・・・人件費の安い中国ならではのファクトリー!!!びっくり。
香港に戻って、インターコンチネンタルで、時間調整。
「今年のイルミネーションは、少なめですよ」
香港在住25年の森山さんが、香港島を眺めている。
テレビでは、タイの空港閉鎖を革命前夜と報道している。CNNはインドのムンバイの爆発テロで、国際経済の影響が深刻になると、・・・・・アジアが揺れている。中国がその”心臓”であることは、間違いない。
2008.11.20
【第44号 「美楽」12月号】
『零の雪』
突然身包みを剥がされるような強い突風が吹いて、その凍てつくような北風は、地球の回転を止め、軸を凍らせ、先進国から後進国まで巻き込んで凍てつくような世界を創ってしまった。
「サブプライムショック」とカタカナで表現しているところに尚更その欺瞞性(ぎまんせい)が高くなった。これは言い換えてみれば、「不動産債権の世界な詐欺商法」。
宇宙の果てから舞い降りてきたような、雪の結晶を手の平に受け止めて、皮膚の体温で溶けるのをじっと眺めている。指先が冷え切るのも忘れ、その美しさに見とれていると放課後のチャイムが鳴った。校舎も校庭も鉄棒も池も水飲み場も、すべてが白い綿で覆いつくされたような境目すらない。
国境がなければ、人種もなければ、宗教もなければ、或いは貧富の差がなければと、歌った詩人ジョン・レノンの歌のように今、世界は“真っ白な零”からやり直すことが出来るのであろうか。
2008.11.01
第43号 ちばきや(葛西駅)
「ちばきや」の千葉さんとは20年以上の付き合いになる。当時は銀座にある有名な蟹料理店で料理長を勤めていた。夜になると、部下のスタッフの面々と一緒に行きつけの飲み屋でカラオケを唄った。
ある夜、「今、ラーメンを研究していると、深刻な顔で話をしてくれた」
今ほど、ラーメン・マーケットが拡大する以前の事で、僕は”包丁すてて、ラーメン?”との問いかけに、理解できなかった。
あれから「ちばきや」は日本で一番、上品でうまいラーメン屋になって、羽田空港のロビーにまで出店している。
千葉ちゃんは、今夜も朝まで新しい味を研究している。
2008.10.31
第42号 安藤先生と増上寺
安藤先生とは、「美楽」の表紙の打ち合わせをするために、月2回くらい
昼食を取る事にしている。今日は、天気もいいので、増上寺の落葉でも見ながら、団子でも抓もうと・・・。
日本にある理美容室の数は約30万件。そこで、働く人々は100万人を数える。トピー商事さんとの発案で、なんとかこの”強大なコミュニケーション・スペース”で、気の利いた企画を催そうと言う話になり、久保社長の
ひとつ返事で「お客様のサービスを考える作文コンテスト」を始める事となった。
安藤先生の”古き良き次代の絵の中に”・・・・・・2枚ほど髪を切ってもらう少年の絵柄を発見。ポスターは、この絵を主人公にデザインさせてもらった。
「先生は、何処の床屋さんですか・・・・・・」
「僕は、自分で切るんですよ」
やはり、安藤先生の哲学は、ほのぼのしているのである。
2008.10.30
第41号 キョードー東京 嵐田会長(銀座)
嵐田会長とは、そろそろ30年近いお付き合いになる。親子ほどもある年の差、人生経験の差、イベントの規模の差、それに”嵐のような時代を駆け抜けてきたエネルギーの差”・・・・・何処をとっても大先輩、いや大先生なのだ。
しかし、いつお目にかかっても、紳士的で、おだやかな口調。
1994年、福岡ドームでマイケル、マドンナ、ポール・・・・・数々のコンサートを開催していた頃が、まるで昨日の事のようだ。
乾杯をして、白いワインに氷を入れて、口を濡らすように味っていると
嵐田会長が、精気の溢れる目で、僕を見て
「最近、何か面白いことがありますか?」
まだまだ”世界のイベンター”健在なのである。
2008.10.25
第40号 そごう(ビックカメラ)の閑散
巨人優勝!!というので、旧そごう(読売グループ)ビックカメラは、夜の9時過ぎから「ジャイアンツ優勝セール」。たくさんの売子さんが、大声でチラシを巻きながら、お客さんを呼び込んでいる。
しかし・・・・・・・ジャイアンツもサブプライム不況には、勝てない。
寂しいくらいに、人もいない。
僕は、呆然と、原監督のインタビューを聞いていた。
日本一になる日は、祝祭日のデーゲームにしたらいいのに。
2008.10.22
第39号 アバイディング ゴルフクラブ
長嶋一茂さんのお薦めで、千葉県の真ん中にあるアバイディング ゴルフクラブを訪ねた。以前のオーナーが、ファッション関係であったせいか、中世のアイルランドの貴族の別荘を思わせる重厚な煉瓦つくりのクラブハウス。
今日は、プレーをしないで、裏庭のベンチで本でも読もうかと思った。
デズモンド・ミュアーヘッドの設計したコースは、フェアーウェイでもうねり、グリーンも俗に言うポテトチップスのように波を描いていて、苦労が多く、泣かされる。
ゆっくりお茶を飲んでいると、20ヤード先のティーグランドから、悲鳴や、野次や、罵倒が聞こえてくる。朝一番から、どうも玉があちこちに飛んでいってしまうようだ。
やはり9ホールだけ、回ることにした。
2008.10.20
第38号 月刊「美楽」11月号発行
「焚き火」
枯葉であろうが新聞であろうが、衣服であろうが、極端に言えばタイヤであろうが機械の一部であろうが、すべては煙になるか、灰になるか、水になるか、酸化して眠りにつくはずである。
枯れ木を集めて、火を焚く。路地からの風に戸惑いながら、時には神経質に、あるときは冬の木枯らしを避けながら頑固に、それなりの煙が天に昇っていくのを眺めていると、自分自身の肉体も、その中にある精神や思い出も、薄らいで消失していく。
人間は何故、所詮灰になるはずなのに、“もの”ばかり欲しがるのであろうか。
2008.10.13
第37号 愛車入院
やはり外車は手がかかる。日本車では滅多にない事であろうが、突然エンジンがうんともすんとも稼働しない。そう言えば・・・・数日前から風邪のようにガソリン計が満タンにしても、反応しなくなり、残量が判らなくなった。並みの車の修理とは異なり・・・・・英国車は複雑で・・・ついには、大型のレッカー車が現れ、御覧の作業になった。
まるで、心臓の手術をする前の、人間のようである。悲しいやら、情けないやら、不安な気持ちで、手術室へ向かった。
2008.09.27
第36号 藤原洋記念ホール開設記念
慶應大学日吉にある共生館の中に、IRIに藤原さんが音楽講堂を寄贈した。このオープニング企画をお願いされて、朝から、アカデミック時間が過ぎていく。
たくさんの招待客とともに、普段から藤原さんと親交のある江副さんも顔をだしてくれた。音楽好きの江副さんだけに、
「音のいい空間だね・・・・」
そう言えば、僕と江副さんは、リクルートというより、音楽を通してのお付き合いの方が、より深いのかもしれない。
カラオケでも、いまだにハモッチャウし。
2008.09.13
第35号 月刊「美楽」10月号
『赤とんぼ』
赤とんぼは、よく目にする類のとんぼで、有り難味がなかったような気がしたのは誤りだったのであろうか。
秋の気配に、一斉に波を打ち始めた枯れススキに、数えられないほどの赤とんぼが息を静めて止まっている。それぞれが、行く夏を惜しみながら物憂げな目をして、微動だにしない。短い夏を生きることに全うすることに疲弊したのか、それとも山の向こうに沈む太陽の臙脂(えんじ)の変化を鑑賞しているのか、無防備で指を伸ばしても動かない。まるで、結論を出さないことを堪能している哲学者のようでもあり、最後の一行を楽しむ物憂げな詩人のようでもある。
情報に追われ、人間に追われ、時間の流れすら見えなくなってしまった日本人にとって、枯れたススキの先端で静止し、思索にふける赤とんぼが、何か提案をしてくれている。
「夕焼け小焼けの赤とんぼ。追われてみたのはいつの日か・・・・」
東京ではめっきり赤とんぼが目につかなくなった。と同時に、私たちは、どうも得体の知れない喪失感。つまり日本の良さを失うことの恐怖感に追われているような気がしてならない。
2008.09.10
第34号 Eco Smoker発売!!
Eco Smoker発売!!とにかく、売れている!
お医者さんも、床屋さんも、女子大生も、長距離トラックの運転手さんも、
ホテルの支配人も、居酒屋の店長も・・・・・。
在庫は、あっという間に、空っぽ。
*詳しくは、電話ください。
2008.09.09
第33号 亀田ジム設立記念パーティー
亀田3兄弟の”晴れの日”である。色々世間を騒がせたが、僕は、この家族が大好きなのだ。・・・・「なんとか王子」とか・・・・、マスコミが自分のクリーン度を抱き合わせで誇張するように・・・最近のコンテンツは、無難で上品で、清潔で、安全な紳士ばかりを持て囃す。
浅草ビューホテルは暑かった。亀田家のエネルギーが充満し、”なにかやってくれる予感に”ヒートアップしていた。
「勝てば、いいんだよ。結果が全ての世界だから」
と言う評論もあるが、
「勝たなくとも、この家族は、今の日本に”本音”の勝負を挑んでいる」
・・・・・それだけで、僕は、十分に評価している。
2008.09.06
第32号 鹿児島、垂水の十五郎そば
十五郎そばは、父の大好物で、はじめにこの蕎麦を食したのは、大学生の頃。太くてサバサバした蕎麦を、柚子と葱の浮いたたれに漬けて、一気に三枚食べた。
垂水は、焼酎や、水、それに柑橘類の日本でも有数な名産地であるが、この「十五郎そば」は、文句なしの日本一である。誇大広告ではない、この垂水という、桜島のほとりに佇む小さな町は、やがてこの「そば」でも名前を知られることになるであろう。
2008.08.21
第31号 月刊「美楽」9月号
『秋の空』
要するに、異常気象なのである。地球を包む空の雲が分厚くなり、その影響で海水の温度が上り、空気中の温度も上る。ヒマラヤの雪が溶ける、北極の雪が溶ける、海流が変わる。地球の仲間たちがその種類を減らす。
空を眺めていると、少年時代よりも白い雲の数が多くなった気がする。雨雲から落ちる水滴も、どこか生暖かくなった気がする。昔見ていた星が消えてしまった。
雲の断片を繋ぎ合わせて動物の形にしたり、花を咲かせたり、好きな人の微笑みにしてみたり、空は大きな創造のキャンパスだ。背中に露草の湿度を感じながら、大の字になって“雲の絵合わせ”をしていると、いつの間にか眠ってしまった。気がつくと、空は赤い紫色に変わり、その上を家路に帰る無数の鳥たちが夕焼けに向かって飛んでいく。墨色に変わる山脈に太陽が落ちると、辺り一面真っ暗になって、僕も大急ぎで自転車を漕いだ。
秋の空の変化の速さは、科学の力では抑えきれないほどのスピードで色を変える。まるで、地球の美しさが猛然と失われていく速さを象徴するように。
2008.08.15
第30号 車の計器も溶けていく暑さ
『猛暑で景気がダウン!』
あまりに、暑いので、ゴルフに出かけた・・・・といっても、人が少なくてプレーが早いのだ!
・・・・・で、車の計器で外気を確かめてみると・・・参った。
温暖化というより、熱帯か?
体温より暑い37度・・・・きっと来年も、再来年も。。。。
2008.08.10
第29号 『Eco Smoker』ロッテ葛西ゴルフに登場
9月号(8月20日)発売で、初めての試みとなる表紙裏4ページ広告の商品『Eco Smoker』のデモンストレーション販売に顔を出した。
タバコの値上がりや国家的レベルでの禁煙キャンペーンを背景に、日本のあちらこちらでひたひたとヒットし始めている。今後、このデモンストレーション販売は今日行なった葛西のゴルフ場や、ビックカメラ、東京ドーム、JRAなどでプロモーションを兼ねて展開される予定。
リクルートの後輩の戸田さん(現・NSP)率いる部隊が「美楽」本誌と共にこの画期的商品を全国でのデモハンを予定している。
因みに、9月号の表紙の裏をお楽しみに!!
2008.07.14
第28号 月刊「美楽」8月号
『足利の花火』
電信柱に貼り付けられた映画のポスターの下に、雨で滲み、墨で書かれていた花火大会のビラが貼ってあった。友人たちは、思い思いの浴衣を羽織り、夕食にするおにぎりを紙袋に入れ、渦巻状の蚊取り線香をいくつかに割り、台風で流れる雨雲の様子をラジオで聴きながら、いつも小魚を追っている川原に出かけた。
花火がはじるまでの間、妙にどきどきしていたのは、土手の僅かなスペースを使った観覧席の斜め後ろに、好きだった女の子が両親と共に座っている。
携帯電話でたくさんの小学生と中学生が、いじめに遭い、苦しみ、そのせいで命を落としている。
天に向かって伸びていく花火の味わい方も昨今は、昔とは随分変わってしまい、その音や美しさや風に流されるせつなさを味わう間もなく、一斉に携帯電話のカメラのスイッチを押す。
私たち大人は、今の子どもたちに、“夏の花火”の記憶をどう美しく残してあげられるのであろうか。それとも、“夏の花火”は単なる一夜のイベントとして消化させてしまうのであろうか。
2008.07.11
第27号 モバイル「美楽」のご案内
7月10日より、鰍bAモバイルとのタイアップ「モバイル美楽」がオープン致しました。
雑誌と連動した本企画は、本企画は、誌面では"「美楽」太鼓判!"という商品紹介ページを設け、携帯電話・ショッピング購入サイトNo.1の「ONE☆FESTA」で商品を購入することができます。
いい商品を厳選して、驚くような価格でご紹介しますので、一度ご覧下さい。
□□□携帯からのアクセス方法□□□
●NTT docomo
i Menu→ メニュー/検索→ショッピング/チケット→くらし/雑貨 →ONE☆FESTA
●au(EZweb)
トップメニュー→カテゴリで探す →ショッピング・オークション →総合通販 →ONE☆FESTA
●softBank(Yahoo!Keitai)
Yahoo!携帯 →メニューリスト →ファッション・アクセサリー →ONE☆FESTA
2008.06.20
第26号 フィリピン観光省 ジョセフ H. デュラノ長官と対面
「美楽」の11月号で5ページもの広告をお申し込み頂いたフィリピン観光省 ジョセフ H. デュラノ長官とお目にかかった。
どこかの国の選挙疲れをした政治家たちとは異なり、一見、音楽家風でやわらかい物腰がフィリピンという国を象徴するかのようだ。
広告プロデュースを担当する潟Cンプレジャーの酒井さんの話によると、とにもかくにも正真正銘のロマンチストだそうだ。9月後半にフィリピンの島々を周る取材は、どうやらくじ引きになりそうだ。
2008.06.18
第25号 月刊「美楽」創刊一年号(7月号)
『山ゆり』
月刊『美楽』は、創刊して1年目を迎えました。その間に、六十数名の執筆者の方々や、五十社近い広告主の皆様、さらには数千箇所で読者に本を届けていただいている関係者の皆様。考えて見れば、本の存在以上に、こうした方々との“やりとり”が、私にとっては大切なものとなりました。
7月号から、表紙に安藤勇寿さんをお迎えしました。この絵のタイトルは、「山ゆり」。日本列島で春から秋にかけて見られる山ゆりは、昔から登山家たちの間で疲労した体を、ふっと癒す“天然の水”とも言われてきました。その白い花に触れた瞬間、山人たちの気分は登り始めたる“最初の一歩”を思い出すとも言われます。
安藤勇寿さんの絵には、私たちが元気になるための“最初の一歩”となる栄養素が含まれているように感じます。それは、まだ間に合う「本当の豊かさ」という名前の日本の原点なのかもしれません。
2008.06.13
第24号 安藤勇寿先生と中谷事務所の淺野さん
創刊1周年号の7月号の表紙を安藤勇寿先生にお願いをしてから、毎日、どんなときも安藤先生の絵を「もっと日本に広めたい」というプランが動いている。
安藤先生の絵とメロディを合わせて、日本の原風景をモチーフにした童謡を作ったり、安藤先生の絵の中の主人公を動かして童話集を制作したり、場合によっては、良い商品や良い薬のパッケージにしたらどんなに素敵だろう・・・・・
例えばそんなアイデアのやりとりもあって、この日は中谷彰宏さんのプロデューサーでもある淺野さんと安藤先生のツーショットを演出してみた。
2008.05.26
第23号 假屋崎省吾さんと“花のマーケット”の打ち合わせ
假屋崎さんは、僕と同じ鹿児島生まれ。
テレビのブラウン管から感じられるイメージとは異なり、感覚的な判断だけでなく、経験に裏打ちされた科学的な視野のマーケティングができるアーティストでもある。
それになんといっても、憎めない性格である。来月開催される「洞爺湖サミット」でも、假屋崎さんの作品が世界の首脳たちの目を楽しませ、フラワーアレンジャーとしての評価も一層高まるだろう。
とにかく、日本人がとっくのとうに忘れてしまった”花の美しさ”というものを再認識するには、假屋崎さんの力が大きくなる。
假屋崎さんは、“花の精”なのであろう・・・・
2008.05.21
第22号 月刊「美楽」6月号
『雨学』
車社会について予測した「クルマロジー」という本の中で、人間の肉体と文明の関係は、あたかも反比例するように、例えば高速道路の距離が伸びれば、歩行距離が縮まる、電卓が普及すれば、当然のように暗算ができなくなる・・・・と警鐘を促している。
マクルーハンもコンピューターの普及は、社会の合理性を高める一方で、頭脳の劣化に繋がると予測していた。
・・・・・とするならば、モバイルネットワークの普及は、私たち人間社会から何を奪い去ろうとしているのだろうか。文字なのであろうか。言語なのであろうか。それとも、個々の人間に対する興味や関心なのであろうか。
地球環境の変化の中で、今年の梅雨は早くて短いといわれる。天空から落ちてくる雨粒の大きさも、少しずつ大きくなっている気がする。本来、木に誘われ葉を青くし、大地の養分を豊かにする梅雨も舗装された地面を一気に海へと駆け抜ける。
我々は、雨から何を学ぼうとするのか?その好奇心すら捨ててしまったのだろうか。
2008.05.17
第21号 四川地震と北京
中国大飯店の20階は、“豪華閣酒労”といって所謂VIP用ラウンジである。ドイツからきたビジネスマンやオリンピックの打ち合わせに来たフランス人など、中国で言う高級官僚たちが宿泊するフロアである。
窓の向こうに白濁とした空が低く広がり、高層ビルが視野を塞いでいる。ビルの上のネオンサインは流暢な筆記体の漢字で、ネオンの制作費は随分とお金が掛かるだろう。ビルの外壁にかけられた垂れ幕のような広告メディアも10メートルを超える巨大なものが多く、まさに面積と派手さで勝負している。
四川大地震から90時間が経とうとしている。テレビの画面は救援隊と被害者の情報をひっきりなしに流し、志望者が2万人を超え、行方不明者が3万人・・・それに各国の救援支援がうんぬんと・・・・。
ラウンジでアイスティとフルーツを食べていると、格差社会などという意味のない現象の本質にある人間の不平等を感じる。
生まれた場所、出会う人などによって、人間の人生が左右されるとするならば、チャンスは必ずしも平等ではなく、あらかじめ与えられたチャンスをいかに有効に使うか、というだけに留まる人のほうが多いのではないだろうか。
30数年前初めて北京を訪れて以来、確かに北京は大きな変革を遂げたし、中国も経済的成長を続けているように思うが、どこか不似合いな洋服を着せられた子供がいつの間にか大きく成長し、居心地の悪い街に戸惑っている気がする。
2008.04.18
第20号 アントニオ猪木さんとレコーディング
アントニオ猪木さんと3年ぶりに仕事をした。これまでもたくさんの格闘家からボクサーまでキャラクタービジネスをプロデュースしてきたが、やはり猪木さんは”巨星”である。
昭和30年代の後半から、50年以上も様々な話題を提供し、我々を楽しませてきてくれたその才能と想像力とビジネスセンスの良さは未だに健在で、今後とも猪木さん以上のタレントはおそらく現れないのではなかろうか。
携帯電話の仕事でこの日も
「元気ですか!! 1・・・・2・・・・3・・・・!?」
を、収録したのだが、この言葉を誰が言ったとしても、音にも絵にもならないはずである。
猪木さんはきっと、絶対に永遠なのである。
2008.04.17
第19号 月刊「美楽」5月号発行
『舞芽』
液晶テレビから、携帯電話まで大手家電メーカーの事業の撤退が相次いでいる。消費者の変化への対応の遅れや、短期的に成熟した市場に、無防備に集中し過当競争が行われていることが原因である。
21世紀を過ぎて、ほとんどの企業が生産性の向上のためにリストラを行ったが、日々変化、減少縮小していく市場に対応するのが、精一杯の状態でもある。ヒット商品を誕生させても、ほんの一年で終わる。
生き残りサバイバルレースは、中長期的な視点を無視して、近視眼的に利益を追求すればするほど、我々消費者には必需ではない付録的な、邪悪な商品が配列する。
今年の春は、人間や地球に“百年後も貢献するような商品”は、発芽したのであろうか。
日本の美しい庭は、その芽が舞うこともなく、夥しく腐敗した食品偽造問題や、詐欺的な商品のニュースばかりに埋もれているような気がしてならない。
2008.04.02
第18号 安藤勇寿先生とADKの大芝さんとを、編集してみたいと思った
安藤勇寿先生とADKの大芝さんとを、編集してみたいと思った。安藤先生には、今年の1周年にあたる「美楽」7月号から、表紙の絵をお借りすることとなっている。
お陰様で、雑誌のスポンサーも少しづつ集まってきているし、「美楽」を手にした読者の方々からもお褒めの言葉を頂きはじめた。
大芝さん(ADK)は、博学の営業責任者であるが、特にこの人の相撲に関する知識は、百科事典のようである。
一方、安藤先生は美術館のある栃木県の山間で、春夏秋冬を素材にした少年の絵で今の日本を癒してくれる。
「もし、国技館に安藤先生をお連れしたら、どんな絵になるのかな」
僕は、こう考えていた。
2008.03.25
第17号 藤原和博さんと神蔵孝之さん
藤原和博さん、神蔵孝之さんと久しぶりに食事をした。思えば、ベルリンの壁が崩壊したのを確認する旅行やら、カイロのピラミッドで日本の凧とらくだを交換する企画やら、スペインとポルトガルの国境近くの町で牛の祭りに参加する企画やらで、3人はいつも一緒だった。
今日も、藤原さんの「ご苦労さん会」で何気なく、ふらりと晩御飯を食べる話になった。20代からもう30年もの付き合いになるが、3人の性格は全く違うし、趣味も異なるし、ライフスタイルも今や全く違う色合いとなっている。もし、共通点があるとするならば、人生を歩くテンポなのかもしれないと思うことがある。
藤原さんは、今や日本の教育界の代表的な変革者であり、リーダーでもあるし、神蔵君は、事業の成功者として次の人生を模索しているし、僕は、まるでもうじき満開になる桜のように、年数回の”人を集める仕事”を楽しんでいる。
この夜も、ほんの数分の話でこの秋に北朝鮮に行くことが決まった。
「人生最後の一秒まで、楽しみたいと思うことを青春という」
2008.03.21
第16号 日本ヒューレット・パッカード株式会社の小出 伸一代表と築地で会議
日本ヒューレット・パッカード鰍フ小出代表に、築地の聖路加病院の前にある寿司屋でいろいろお話をして頂いた。
カウンターは、まさに元IBMのOBたちがずらりと並んで、リクルートの同輩の富村さん、今回のセッティングをしてくれた齋藤さん・・・・それぞれに寿司をつまみながら会議らしき会話を交わしている風景。
小出代表との話は、日本にある外資系企業のマネージメント論から、人材育成、そして宣伝広報まで多岐にわたった。
「鷲は舞い降りた」という映画があったが、7,000人もの従業員が奮闘する日本ヒューレット・パッカードの代表取締役社長として一人で舞い降りて数週間。まさに男の勝負を感じさせる”熱い静脈”が沸々と湧き出ている。
物腰が柔らかくて、しかしながら忍耐力すら感じる押しの強さをもつ小出社長は、まるで上質の栄養ドリンクのように人々の心の中に入っていく能力の持ち主。
「デジタル・ネットワークの将来は、感触の領域まで手が届くようになるでしょう」
つまり・・・・・、人間が心を動かした瞬間に必要なデータが自動的に現れる。・・・・・・そんな夢をまるで明日実現するかのように、楽しそうに語る。
一昨年の12月に、小出代表が日本テレコムにいらしたときに、サックス奏者、ケニー・Gのコンサートをプロデュースした。このコンサートは、常日頃お世話になっているお客様を招待したコンサート企画であったが、東京国際フォーラムの控え室で、初めて小出社長と名刺を交換した夜のことを思い出していた。
「悩ある鷹はゆっくりと空を舞い、すばやくピンポイントでターゲットに舞い降りる。」
あの夜も、眼鏡の向こうに、奥深く佇む”そんな小出さんの殺気”を僕は感じていた。
万感応援!!!
2008.03.14
第15号 「美楽」4月号発売間近!!
「美楽」4月号発売が、あと5日で市場に出される。今回は、JCBカードの手塚治虫先生のキャンペーン広告や、新しいスポンサーの花の広告(潟<泣Vーフラワー 大間社長)、天然炭酸水の広告(潟nーベスト 前田社長)など、「美楽」にぴったり合った広告がお目見えする。
さらに、常日頃お世話になっている越智先生推薦の健康マット、バイオラバー(山本化学工業梶jや、越智先生をサポートしている潟<fィカルガイド(大畑社長)の広告など、「日本の”ココロ”と”カラダ”を考える」雑誌コンセプトにぴったりとしたページ構成となった。
因みに、春がそこまで来ている。
そんな季節に合わせて、表紙は、緑のアスパラガスにした。
2008.03.14
第14号 沖縄の照屋林賢さんと月刊『美楽』の写真ページの打ち合わせ
林賢さんの株式会社アジマァの役員をやっていることもあって、1993年から15年近くここ「北谷」を訪れている。
当時まだ、中学生だった女性二人組みの「ティンクティンク」もすっかり女性らしく成長し、アジマァのスタジオもレストランもライブハウスも荒内のコンクリートの壁こそ、変わらないものの中身は随分変貌した。
全く変わらないのは、照屋林賢さんと私の会話である。
僕たちは、会うたびごとに音楽の話をし、事業の話をし、日本の話をし、世界を話題にする。
今回驚いたのは、林賢さんがなんとスタジオ用の100万円のカメラを購入したこと。昔から新しいパソコンや、新しい携帯電話、新しい楽器、要するに新しい機械に対して恐れをもたないのだ。
この新しいカメラで撮った写真が、また美しく月刊「美楽」のセンターページを飾るだろう。
2008.02.29
第13号 小澤隆生氏の聖誕祭が築地本願寺で行われた
小澤隆生氏の生誕祭が築地本願寺で開催された。
世間ではとかく、人脈やネットワークが大切だと言われているが、そのために研修や勉強会、引いてはパーティやらゴルフで、名刺の数だけ集めて、やたらと意味の無い、メルマガを発信し、”ネットワーカー”を気取っている人が多い。
一体全体、人脈とは何なのであろう、と考えてみると、答えは一つ。
「遠慮しないで何でも話せる仲間」
つまり、感覚的に気があったり、たまたま同じ会社や大学、プロジェクトで席を同じくしたとしても、それは人脈とはいいがたい。
私は、各世代にほんの数名の”裸の相談”ができる友人がいれば、それでもう十分だと思っている。
そんな中で、30代ラインの(私自身が勝手に考えているのであるが)小澤君は「楽天」時代からの大切な人脈の一人である。
今宵は、彼の生誕際。
イベント好きの彼の仲間が新年会や、勉強会、事あるごとに、あらゆるシーンが記憶に残るように、楽しい出来事を演出してくれるのであるが、まさか「築地本願寺」で”HAPPY BIRTH DAY”を行うのは、ちょっと羨ましいくらい斬新だ。
昨年の選挙で、この寺の松原貫主に、ある人を紹介したのだが、その貫主の落ち着いた声が院内に染みとおる様に響きわたり、真面目に小澤君の人生を考えてしまった。
今はすっかりインフラとなったインターネットのコンテンツ提供者として、今後とも小澤君は、人間の”生や死”に纏わるコンテンツを社会のために提供してくれることだろうと期待している。
この写真のように、パワーもあるし。
2008.02.27
第12号 日帰りで大阪。会議時間40分。
日帰りで出張や旅に出ることは度々あるが、今回は、現地での滞在時間が、最短かもしれない。
2年程前、今のハンカチ王子が郷土の鹿児島の高校と甲子園大会の準決勝でぶつかるということで、12時の飛行機で大阪に入り、5回から8回まで試合を観戦し、飛行機で舞い戻ったことがあった。
その昔には、友人の藤原和博君とハレー彗星を観察しに、最終便で沖縄に飛んで、翌日の始発で東京の9時の会議に間に合わせたこともある。
その少し前には、フランスのボルドーの世界ワイン博覧会の審査のために、一泊三日パリというのがあった。
要するに、現地でのんびりすることが出来ない性格なのではなく、ごみごみとした東京の静かな小さな空間の中で、人並みや町並みを眺めながら、ぼっーとしているのが、どんな旅より、ストレスの解消になるなのだ。
今日の大阪は、12時の飛行機で飛んで、15時の会議に間に合わせ、16時の新幹線で帰ってきた。
大阪のある老舗の子供服のメーカーの社長との面談時間は、僅か35分。
尊敬する大阪の経営アナリストH氏の笑顔を見に行ったようなものだ。
新幹線の切符を買って、電車がホームに入るまでの僅かな時間。いつものように富士山を”つまみ”で食べるための、晩御飯にお寿司を購入。
数あるお寿司系の弁当の中で、この「姫にぎり」は東京に近づいて、ほっとして摘むと・・・・・・一番おいしい。
2008.02.12
第11号 ぴあ株式会社の坂本氏、酒井氏と株式会社NSP戸田氏とお茶
私がリクルート時代にお世話になった、というよりは助けてもらった人々が何十人にものぼるのだが、直接の上司で、この”傲慢で奔放な個性”を放し飼いにしてくれたのは、坂本健さんである。
今日は、健さんが東京プリンスを尋ねてくれて、昔の”温かい風”が吹く中で世間話や四方山話。
思えば20年ほど前、健さんは突然、スポーツ刈り風の短髪になった。それ以来、少し白髪が増えた気がするが、ずっと短髪を通している。
そういえば20年ほど前、健さんは突然、黒いスニーカー風の革靴に履き替えた。今日もそんな風な靴だった。
健さんは、多分スーツより、ラフな格好が好きなはずだ。今日も気楽な格好で足を組んでお茶を飲んでいた。
リクルートという会社のOBがあちらこちらでもてはやされているが、自分で事業を起した男、リクルートの周辺で小さな会社を営む人、クライアント先に転職する人、現在のポストや事業規模の大小は様々であるが、いずれにしても根本的に「勘が鋭くて、元気な人」ばかりである。
従業員に勘、そして仕事をする上での成功イメージを持つことの大切さを教えこんだ功労者の一人が、坂本健さんなのである。
ちなみに、NSPの戸田君は同じように20年前の僕の部下だったが、健さんはどうも忘れてしまっていたらしい。
僕も、健さんも未だにプラス思考健在である。
2008.02.06
第10号 長野県上田市の蕎麦屋「草笛」
昨年からVSNの加藤役員に誘われていたのだが、年を越して長野県上田市の県立長野病院を取材で訪れた。上田市は、反骨と人情の真田幸村の町でもあり、四方を山に囲まれ、浅間山の西北に位置する盆地に、ぽっかり静かに佇む城下町でもある。
マイカーが普及した影響で残念ながら郊外のショッピングセンターやレストランに出掛ける人が増えて、由緒正しい歴史の町の商店街は所謂シャッター通りと言われる閉店休業が何店か目立つ。
県会議員の島田基正先生に案内されて、長野病院の取材を終えた後、信州国際音楽村に向かう途中、県内は無論、全国的にも有名な蕎麦屋「草笛」にお邪魔した。
私はいつも初めての蕎麦屋に顔を出すと、ざるそばを注文することにしている。「草笛」の蕎麦は、蕎麦粉7対3のねっとり歯ごたえがあり、量も多い。
「温暖化の影響で、蜜蜂が北上していることもあって、蕎麦畑も新しく増園しているんですよ」
と、島田先生が大盛りの天麩羅蕎麦を食べながら教えてくれた。
短髪でエネルギッシュで、がっしりとした体型の島田基正先生は、太い指で箸を動かしながら、上田の歴史を講演?してくれた。
本当に知識の宝庫で蕎麦からITまで解りやすく語れる人物で、県会議員にしておくにはもったいないほど・・・・信州大学で教鞭をとったらいいのに!
加藤さんと島田さんの開け放した話を聞いていると、”故郷を持っている人は、何処か安心なんだなぁ”・・・・・・・
故郷とは、そこにある山や川やじゃり道や昔からあった病院や商店や学校だけでなく、すべてを知り合った仲の友人との会話を言うのではなかろうか。
2008.02.01
第9回 東京慈恵会医科大学会附属病院 頴川晋先生
頴川晋先生を月刊『美楽』4月号の取材で尋ねた。慈恵医大病院の本館4階にあるフロアは、国会図書館を思わせる木質の重厚な歴史を感じさせるアカデミックな空気。教授室の重たい扉をノックすると、一日中、辞書を開いても飽きないような雑念を感じさせない部屋だった。
頴川先生には、主に泌尿器と泌尿器に関する機能や病気のお話を伺った。驚いたことに、一般的に泌尿器と言うと主に尿に関係した臓器と思われがちだが、男性は睾丸から女性の尿管まで含まれ、特に男性の生殖器は様々なトラブルを起こしがちだとの話。
この取材の段取りをしてくれた慈恵医大、広報室の高橋さんはリクルートの後輩でもあり、月刊『美楽』の大変な後継者でもある。
一週間前に頴川先生と高橋さんと下打ち合わせを兼ねて、小金井CCでゴルフを楽しんだのであるが、特に頴川先生のショットは、取材のときの知的で静謐な雰囲気とは異なり、全身の筋肉を使ったパワフルなドライバー・ショットを打つ。
「先生の人生の”美学”はなんですか」
と聞くと、
「・・・・うぅううん、難しいですね。。。”孤高”ですかね。」
と静かに笑った。
確かに日本人は、いつも相対的にしか物を見られなくなってる。外国との比較、他の会社との比較、他の街との比較、同級生との比較、隣人との比較・・・・・・それだからこそ、もっとも比較しやすいお金や物ばかりが人生の基軸のように思えている人ばかりになってしまった。
頴川先生には、月刊「美楽」の執筆者としても加わって欲しい、と思った。自信のある人は、いつも孤独で楽しい時間が流れている。
2008.01.23
第8号 文化シヤッターの岩部会長のご招待で、『広島県人会』にお邪魔した。
毎年恒例のことであるが、様々な新年会の中でも楽しみなのが、県人会主催の新年会である。各県自慢のお惣菜や和菓子、酒から織物、変わったところでは写真集など、郷土自慢の土産が、惜しげもなく土産袋の中に入っている。
この日は、文化シヤッターの岩部会長のご招待で、『広島県人会』にお邪魔したのだが、広島県人といえばお世話になっている方も多く、代々木のCOHJIMクリニックの越智先生や、元テレビ朝日の皇さん、協栄ジム所属の世界フライ級チャンピオン坂田君まで多士済々で、馴染みなのである。
広島県人会は例年2000人以上の参加者で、会場は熱気に溢れかえる。
ご自分でもそう自慢されているように、鉄腕アトムの”御茶ノ水博士”のような芸術的で、濛々たつ白髪と小気味よく笑顔で人に接する岩部会長は人気者で、どんなパーティ会場の中でも、人が群がっている。
そんな岩部会長が見つからずに、風邪でも引かれたのかと思ったら、20分程たって気がついた。写真のように今日は、粛々たる面持ちでステージの上のひな壇の最前列に並ばれていたのだ。
鹿児島県人の私が、壇上に向かって手を振るわけにもいかづ・・・・この夜は”ウインク”をして挨拶もなしで失礼した。
帰りに楽しみにしていた福引の商品を頂くと、今年の土産袋の中は流行の”エコバック”が入っていた。
2008.01.22
第7号 京都駅裏の「新福菜館 本店」
MKタクシーの青木社長と月刊『美楽』のデザイン打ち合わせの為出張。京都駅を降りた。東京の寒さとは異なり、寒さが道路の表面から体全体に這い上がって、つくづく骨の中までコツコツ凍えている。
「25分間があるから、何か熱い麺でも食べましょう・・・・」
CXOパートナーズ社長の齋藤さんとMKタクシーに乗り込んで、運転手さんにご案内頂いたのが「新福菜館 本店ラーメン」だった。
携帯電話で撮影したので、果たしてこのラーメンのルックスが圧倒的に魅力的で質感といい、色といい、ドスのきいたシンプルさといいうまく表現できているか解らない。
口にしてみると、想像していたより淡白であっさりして毎日食べても苦にならない程、くどくない。
チャーハンは、所謂典型的な焼き飯で、器の上でほぼどす黒に近いこげ茶色のライスを見て、一瞬ぎょっとするのだが、一口食べることに後ろ髪を引かれる恋愛のように艶かしい。油とソースのバランスだなぁ。
齋藤さんと私は、すっかり唇を悩殺され生麺とスープをお土産にしてもらった。
店を出るときに、思わず足を滑らせそうになった。ラーメンの湯気が、フロアを油っぽく敷きつめて・・・・・
そう言えば、こんなツルリとした足の裏の感触も、味の証明なのだ。
2008.01.21
第6号 沢田研二コンサートin C.C.Lemonホール
沢田研二さんのコンサートに招待されて、土、日曜にC.C.Lemonホール(旧渋谷公会堂)へ足を運んだ。
人間は懐かしい音楽を聴くと、その音楽を聴いたときに目にした光景や、一緒に聴いた仲間やそのときの思いや、時によっては食べた食事のメニューまで思い出す。
沢田研二さんの喉は、超人級で60歳とは思えない逞しさで、あの頃のままに私の耳に飛び込んできた。
隣の席のローソンの新浪剛史社長も、「ずいぶん高い声が出ますね。それに喉がかれてないし」と、その美声に驚いていた。さらに驚かされたのは、二千人強のコンサートホールがほぼ全員女性。しかも、40歳後半の女性たちがまるでジャニーズのコンサートのように、ステージ上の沢田研二さんに合わせて身振り手振りをしながら、腰を揺らしていたことだ。
さらにさらに驚かされたのは、沢田研二さんの記憶力である。普通シンガーは、ステージ上に”虎の巻き”のような歌詞が流れるモニター画面を置いて、チョロチョロ歌詞を確認しながら歌う。
しかし沢田さんはビートルズからローリング・ストーンズ、ビージーズの英語の歌詞から、アンコールで歌った「LOVE(抱きしめたい)」まで完全に暗記していた。一字一句間違いなく。
やはり、昔の歌手は鍛えられ方が違う。レコーディングの方法も違う。お客様に対するマナーも違う。そしてライブに対する心の持ち方が、真面目なのだ。
冬の闇が近づいてくる夕方の渋谷を散歩した。さっきコンサート会場にいた妙齢の女性たちのちょうど子供たちの世代が、それぞれ思い思いのスタイルで道玄坂のあたりを闊歩している。一見みると、自由で何一つ不足なく、楽しそうに見えるのだが・・・・・・生きるカルシウムは大丈夫だろうか。
40年後も彼らは元気でいられるのだろうか。今日の沢田研二さんのように。
2008.01.20
第5号 月刊『美楽』2月号発売
『萌土』
新年早々、私たち庶民には嫌な話だが、我が国の経済は強烈なインフレーションに襲われるであろう。原油、レアメタル(稀少金属)などの天然資源、さらには小麦やとうもろこしなどの穀物類の価格の上昇傾向に歯止めがかからない。中国やインドなど二桁の億を超す大量人口保有国はまだ、工業化の初期段階にすぎず、まるで日本の昭和30年代の様相。従って、これからそれらの国の人々の可処分所得は急増し需要が上がる。こうしてますます資源の枯渇はおろか、やがて地球には食料危機が訪れる。
日本は今“冬”の扉を開けたところである。この国が、再び春を迎えるとするならば、賑々しい金満的物質主義の“春”ではなく、もっと日本人の心に根ざしたほのかな季節を創りあげることである。
滋養に富んだ『萌土』を育むためには、まず物質的な豊かさを放棄するところに陽光の訪れがある。それはみんな百も承知しているのだが・・・・・。
2008.01.11
第4号 第33回『経済界大賞』表彰式祝賀パーティ
新年を迎えると、あちらこちらのホテルで一体全体、何回の新年会が行なわれるのであろう。マスコミ・広告業界だけでも、おそらく100回いやもっとかなぁ。
前に務めていたリクルートで、マーケティング局に席を置いていた関係で、大手広告代理店から始まり、出版社、テレビ局などの新年会の招待状が今でも十数枚は送られてくる。
この業界は土日もなく、深夜もなく、広告主と情報を最優先して、働かざるおえない環境である。そののせいか、年若くして亡くなった友人の部下や年相応以上にめっきり老け込んでしまった先輩や、また連夜の接待漬けで肉体の衰えが著しい同年齢の友達と年に一回顔を合わせるのもこの新年会である。
今日は、その中でも多士斎々のゲストで評判の高い、経済界の
”第33回『経済界大賞』表彰式祝賀パーティ”に足を運んだ。
今年の景気はどんなものだろうか。北京オリンピックという大きなイベントがあるものの、サブプライムショックと米国景気の先細り、加えて原油高、さらには、地球環境を脅かすまでの資源の高騰。さらにさらに、判断の鈍い日本の政治状況などを考えると、全く暗闇の中で明かりを探すような一年となるだろう。
我が国のメディアも”広告とは何のためにあるべきか”というきちんとした答えを出さざるおえなくなる。ただ、物を売ればいいという時代は、もうとっくのとうに終わったのだ。
2008.01.07
第3号 おけいすしの”黒糖いなり”は☆10個!!
「おけいすし」の”黒糖いなり”は、生まれてたくさん食べた稲荷寿司の中でも群を抜いて、舌が笑う。歯が驚く。
COHJINクリニックの越智先生に、お昼ご飯を誘われて久しぶりに”知る人ぞのみが知る”代々木の「おけいすし」をご馳走になった。
ここのところ「おけいすし」さんには、神様の縁結びで度々お目にかかる。昨年の暮れは、長嶋一茂さんの自宅でテレビ番組の打ち合わせのときに、豪華絢爛の寿司桶で「おけいすし」のほぼ全品目が登場した。
私は、寿司であれば「久兵衛」から始まり、溜池の「寿司たつ」、銀座の「萩原」、四谷の「松葉」、それはそれは新橋のガード下の立ち食い寿司まで、ともかく目も鼻も口もない。
その中でも、「おけいすし」の創造力に溢れた寿司の形は、どんなフードエンターテイメントより気品が溢れ、深遠で驚愕と共に安心感がある。その中にあって黒糖を微妙に染み込ませた揚げに包まれた”いなり”は、毎日一度は食したいほどの魅力に満ちている。
朝起きて、歯を磨く前にまず”いなり寿司”。昼、フレンチを頂いた後で、デザート代わりに”いなり寿司”。晩飯に、あったか〜〜〜い番茶と”いなり寿司”。寝る前に、一日を満足で終えるために”いなり寿司”。
何とか日本中の皆さんの口の中にも、滲むようにお届けしたいものだ。
ただ今、企画中。
2008.01.04
第2号 ノーベル平和賞受賞 アル・ゴア氏
ノーベル平和賞受賞、アル・ゴア氏(アメリカ元副大統領)の『不都合な真実』という映画や書籍をご覧になった方も多い思うが、この夏、ゴア氏のプロジェクトをスタートさせる予定。
マルクスやレーニン或いは、毛沢東、レイチェル・カーソン、そしてカール・セイガンまで社会の環境を多角的に分析し発表した人々と同様に、今世紀の地球の分母を環境に置いて、まざまざと私たち日本人にも、この国の行く末を披露してくれるに違いない。
「環境が経済を支配し、環境が政治を創造する」
乞うご期待!!
2008.01.02
第1号 芝、増上寺の御神籤(おみくじ)
友人のVSN・加藤役員と君更津ゴルフリンクスへ初打ちに出かけ、10番のショートホールでなんと”8”も打ってしまった。これはいけない・・・思い出したように、深夜の増上寺にお参りに出かけた。
正月休みでめっきり都内の車の走行量が少ないせいか、澄んだ空を見上げると天頂に北斗七星が揺れている。僕はどんな風の強い真冬でも、半袖のポロシャツでゴルフ場の北風にさらされても寒くない。夏の間に吸収した太陽熱が皮膚の下に残っているからだ。しかし、この夜はちょっと冷えた。普段の正月ならば、初詣に出遅れた何十人かの参拝客がちらほらいるはずの増上寺に、人っ子一人いない。・・・・化けた鼬(イタチ)が、出てきそう!
花びらはもちろん、葉っぱ一枚残っていない桜の木の下に、たくさんの運勢がユラユラと結びつけられている。しんとした闇の中で白く発色している御神籤(オミクジ)は、強く結ばれているものもあり、結び目が解けて参道の砂利に落ちてしまっているものもある。
もし今、御神籤を買ったとしたら、今日のゴルフのボールのように僕の人生が”行方知らず”とならないように、神様にお祈りしたい、とお願いしたい。
う〜、あぁ・・・・少し腕が冷えてきた。
桃桜
花とりどりに咲き出でて
風長閑なる
庭の面哉
2007.12.21
第21号 「美楽」特別取材で東京慈恵会医科大学附属病院特任教授の村山雄一氏
東京慈恵会医科大学附属病院特任教授の村山雄一氏は、お目にかかる前に考えていた通りのスマートな学者。
こんな先生に生死に悩む患者さんたちが身を任せたとすると、まるで潮に身を任せる痛んだ”椰子の実のような浮遊感と安堵感”がその胸に訪れることだろう。
お話の一つ一つは、数々の研究と、その成果が確固たる柱となって説得力に満ちている。
今年も数々の痛ましい医療トラブルが、ある時は人為的に、またある時は偶発的に起こってしまった。日本中に1万を超える病院があり、そこにたくさんの医師がいる。医師たちもまた、白衣を脱ぐと生身の人間である。感情もあれば肉体もあり、満足もあれば不満もあり、そして誰にも理解してもらえない疲労もあるであろう。
村山氏は、そんな中にあってまるで樫の木のように強固な意志と、我々のような素人の取材スタッフに対して柳のような柔軟性で諭すように”体を走る血液”について話をしてくださった。
「組織は人なり」というが、日本の医療社会にこんな先生が少しでも生まれ育ち、そして影響力を持ってくれればいいな・・・・・・。
詳しくは、1月20日発売号、月刊「美楽」をご覧ください。
※取材をセットしてくれた慈恵医大の広報室、高橋誠氏にこの場を借りて心から感謝。
2007.12.20
第20号 フイリップ・トルシエ監督が”沖縄”を磨く!
トルシエ監督が、FC琉球のテクニカル・アドバイザーに就任するというニュースに、マスコミや日本中のサッカー・ファンはもちろん、スポーツ界全体が騒然としている。今日は、昨日の沖縄の記者会見に続き、東京の記者会見。控え室のトルシエ監督は、生真面目そうに原稿を読み、気さくに写真に応じ、”にこり”とスタッフに微笑んでいる。
沖縄は、ゴルフ、野球、武道、ボクシング、そしてサッカーに至るまで運動能力が秀でる子供たちの名産地である。春夏秋冬、一年中スポーツが出来る環境はもちろん、本土の人間と比較しても骨太で頑強、しかも精神的にタフな選手が多いように思う。
・・・・・欠けているものは・・・・・きっと競争心・・・・・
この日の午後、その島に”負けることを、恥じる、そして許さない”サッカーの先生が赴任した。彼の一見モダニズムにも見える振る舞いの中に、皆さんもあの2002年仙台のトルコ戦の後に見せたトルシエの落胆を忘れられない人も多いだろう。
沖縄は”磨かれる”しかも、春を待たないで!今日から!
2007.12.18
第19号 婁正綱書画家の作品
婁正綱氏の展示会が「上野の森美術館」で開催中!
”静寂の中の狂気と騒然たる創造の整備”の結果、こんな作品が生まれるのか。筆の瞬間的なタッチの集積が、その結果として空間を占有し、見るものの雑念を払拭する・・・・・・
息をゆっくり吸って、小鳩の産毛を揺らすようにかすかにかすかに吐き出していく。
墨が粘土のように、立体化して動き出し、僕の心の中に”漢の字”奥深い意味と歴史が刻まれていく。
2007.12.12
第18号 さよなら、ベンツV320(緑色)
9万キロも走った車を、ついに手放すことになった。
こんな原油高の時代に3台も車を所有するのは、大げさだが地球人として不謹慎だし、最近では車をどこに置いたかも思い出すのもめんどくさくなった。
ディーラーの人が、車を取りに来て、極めて簡単に売買契約書をかわし、車検証をチェックすると、
「これで終了です。車を持ち帰ります。」・・・・・・
と言われ、急にこの車にまつわる数々の思い出が、”涙とともに胸いっぱい!”に込み上げた。
古い靴を捨てたり、携帯電話を新しい形に変えたり、使い慣らしたダイアリーを机の奥深くにしまったりするのと違い、長い間愛用した車を手放すのは心が痛むものである。それはきっと、車にまつわる思い出や、過ごした時間、窓越しに見た風景、聴きなれたカーCD、また車のトラブルなどの思い出がいくつも折り重なっているから、というだけでなく、きっといつの間にか僕の手足の延長線上に、つまり肉体の一部になっているからに他ならない。
2007.12.10
第17号 月刊『美楽』新年号・発売日
月刊『美楽』の新年号が発売された。
東京と京都のMKタクシーに置いていただくだけでなく、この号から首都圏の書店で発売されることとなっている。
創刊号から7本目でようやく流通網が完備してきたよう思える。
この表紙から、『美楽』という題字も縦から横に配列を変えた。”楽”という字が書店棚や、タクシーのポケットから見えなくならないように、婁正綱氏が自らレイアウトに手を加えた。
残念ながら、本は少し薄くなってしまったが、これも印刷部数が増大したことを思うとやむを得ない。
2007.12.07
第16号 リクルートの後輩たちとランチミーティング
江副育英会の山形さん、スタイル・インデックスの金子さん、慈恵医大の高橋さん、ライツの川口さんと次々に”鍋焼きうどん”を食べに集まった。
いまやリクルートのOBたちはマスコミの誌面を飾り、それぞれがリクルートを離れてから活躍し、成功していると言われているが、実はこんな感じで和気藹々と話す機会が多いのがこの会社の特徴でもある。
僕はリクルートの人材は、優秀だというよりも、個性的でプラス思考でスピードが速い。そして決断と行動の間がないことが特徴だと考えている。つまり”恐れを知らないキャラ”の集団が、がんがんトライ&エラーを繰り返している図式である。
来年から日本は長い、暗い、狭い、低成長という名のトンネルに潜り込む。独立した後輩たちの成功が続くことを注目したい。
2007.12.06
第15号 自民党の星・西村やすとし先生とニコライ・ワルーエフ(WBA世界ヘビー級チャンピオン)
例年のことながら、12月に入ると忘年会とイベントとパーティが月に50回以上は出現する。僕は、忘年会は結婚式の次に嫌いである。従って、ほんの少しパーティに顔を出し、1年間の御礼をした後、これまたほんの少しイベントの一番楽しみな部分にだけ顔を出すことにしている。
この夜は、webサイトをプロデュースしている西村やすとしさんの勉強会にほんの少し顔を出し、ジャクラの平間社長をご紹介した。
全国で1300校を数える自動車学校にメディアを持つジャクラは、自動車学校で学ぶ若い学生さんの意識を変える可能性があると感じている。
その後、水道橋にある後楽園ホールで日本ウェルター級タイトルマットに顔を出した。10年前に一緒にお寿司を食べたニコライ・ワルーエフが遊びに来るということで旧交を温めるためだ。やはり、ニコライは大きかったのだがさすがに身長は伸びていないようであった。
会いたい人に会えるのは、人生でもっとも楽しい。
2007.12.03
第14号 東京プリンス「清水」の鍋焼きうどん
日本の「食」が狂っていると、連日のようにマスコミが取り上げている。しかし、皆さんも私と同じようにきっとこう感じている。
「そんなの昔からあったんじゃない・・・・・」
この一年、食べ物をうまいか、まずいかという尺度で食べたことがない。
というのは、治療中のインプラントとインプラントの間の歯が、48時間周期で”ぐらぐら”し、砂丘にたった古い電信柱のような状態なのだ。
お客さんの好みで接待中、歯と歯茎の間から、焼肉のたれが入り込んだ。一瞬、全身に電気が走りつま先が痙攣した。僕は、じっと堪えていたが、やはり洗面所で涙を流した。
冬になって、ゴルフをしていると今度はこの隙間に北風が入り込んで、アプローチをトップした。
この一週間、なんと4日間連続で昼ご飯は東京プリンス「清水」の鍋焼きうどんにしている。このうどんなら噛めるし、飲める。何故か汁が歯の隙間に入ってもそんなには痛くない。
僕にとっての”食の安全”の基準は、安心して”飲めるか””噛めるか”がポイントなのである。
2007.11.30
第13号 日刊ゲンダイの山田さんと講談社の浜野さんと書籍の打ち合わせ
もうとっくのとうにこの日記に登場してもらわなければならないほど、お世話になっている日刊ゲンダイの山田さんと『数字のホンネ』の単行本化の打ち合わせをした。
出版プロデューサーは、山田さんの新社会人からの友人でもある講談社の浜野さん。
山田さんとは、もうかれこれ20年以上の付き合いである。栗本慎一郎さんとソ連崩壊の取材でモスクワに旅をしたことが昨日のことのように鮮明だ。
この活字文化がどんどん急速に消え去ろうとしている中で、山田さんも浜野さんも出版文化を最後尾でディフェンスするキーパーである。
2007.11.21
第12号 きみさらすCC帰りの東京湾の夕日は、格別に透けて見える。
今年は一体、何ラウンドしただろうか。ダイアリーを1月から捲っていくと、ざっと60数ラウンド、プレイしたように思われる。
「思ったより、少ないなぁ・・・・・・」
と言うのは、平日の午後、散歩がてらに9ホール(ハーフ)プレイすることが多いため、回数は多いがラウンド数は思いのほか多くはなかった。
午前中に4つ5つの会議をこなし、午後1時にコースへ向かう。その殆どは、夜からの仕事に備えるため木更津方面となる。
アクアラインが出来るまで、2時間近くかかった木更津のゴルフコースは、いまや40〜50分の近距離にある。ジェームス・ブラントは、1曲が長いため7〜8曲聴いているともうゴルフ場に到着する。
この日も木更津市にある「きみさらすCC」へ出掛けた。
1番ホールで、両サイドの枯れ草が音を立てるほどのアゲインスト(逆風)。ティーを短くして、球をやや右寄りに置き、低い弾道のドロウボールを打った。球の落ちどころが良かったのか、ランが30ヤードほど転がった。
半分減量のためにプレイしているのでカートには乗らず、さほど冷たくない北風に向かって歩き始めると、東京湾の方に向かって見える木更津の丘陵の上に夕焼けに変わろうとしている青い太陽が見えた。
帰り道を急いでアクアラインを飛ばしていると、さっき見た太陽が僕の好きな”沈みそうな夕焼け”に変わって、東京湾を蜜柑色に”揺らし”ていた。
2007.11.15
第11号 長嶋一茂さんは、出会うたびに新鮮な果物。
週に1度テレビ番組の企画で、長嶋企画を訪れる。長嶋一茂氏と出会ってかれこれ十数年が経つが、毎回毎回初めて出会ったときの様に鮮度が落ちないのはとても不思議だ。瞬間のアイコンタクトが水水しい・・・・
「東さん、こんにちわ」
「どうも一茂さん、こんにちわ」
何十回も何百回も出会う度にこの挨拶を繰り返してきたが、いつもみかんの皮をむいた瞬間のフレッシュな驚きと期待は変わらない。
この打ち合わせで、とても楽しみなのが弁当である。
焼肉弁当、うな丼、チキンカレー、天丼、大きな海老フライが入った幕の内。長嶋一茂さんは食に人一倍気を使う人だけに、皆すべて日本でも一級品の味がする。
2007.11.14
第10号 エムケイ叶ツ木 信明社長の創造力は、未来へ向かう。
朝の新幹線で京都へ向かった。大親友の元ソフトバンクテレコム・営業責任者の斉藤さんと、3時間近く新しい事業の話やネットワーク社会の是々非々について意見交換。
この日は、月刊『美楽』に深い理解をして下さっているエムケイ叶ツ木信明社長に近況報告。
僕自身、雑誌業界は部数を競う時代から、ある程度小部数でも限定された読者にどうリーチしていくかに、変わってきたと思う。その意味で、東京と京都エリアのエムケイタクシーとハイヤーの中に『美楽』を置いて頂いているのは、この『美楽』の社会的価値を高めていく上で重要な意義があると思っている。
太くて低音の魅力に溢れる声で気さくに話してくれる青木社長は、御目に掛かる度に、”未来へのヒント”を与えてくれる。きっと彼は、運輸業というものを基礎にして、今後の日本において新しいサービス業を模索し、確立してくのではないかな・・・・
これからの日本の産業界で、もっとも重要な役割を担う経営者の一人であろう。
2007.11.12
第9号 「PRIDE」榊原さんの夢は、マーケットを揺らし驚かし楽しませる。
榊原さんにリクルートの旧友でもあるトランスコスモスの会長の船津康次さんを紹介する縁に恵まれた。榊原さんは言うまでもなく、総合格闘技のパイオニアで、10年前は果たして定着するかどうかとも疑問視された『PRIDE』を見事な商品に育て上げた。
今日の昼ご飯の”おかず”は、いづれこのHPでお話することになるだろうが、いづれにしても僕と榊原さんと船津さんが南の島で楽しい仕事をすることで、アジアの注目を浴びることになれば・・・・・と期待に燃えてます
2007.11.09
第8号 中国を代表する書画家 婁 正綱氏
婁 正綱さんは、いまや中国を代表する書画家の一人である。昨年には『中国近代書家10人』に推薦された。
1994年、まだオープンしたばかりの福岡ドームのロビーに掲げる巨大な作品の打ち合わせだった。亡くなられたダイエーグループの中内功会長は、
「この女性は、やがて歴史に残る芸術家になるよ」
と最高の賛辞で私に紹介した。
彼女の行動半径は、ニューヨーク、北京、東京を基点に目覚しい。繊細な発想力と、何時間も筆をとり続ける肉体のバランスは、まさに一級品のアスリートを思わせる。
毎朝連載される産経新聞の『きょうの言葉』の打ち合わせで、一ヶ月ぶりにお目にかかった。
この1週間は、電通の成田元会長をはじめ、たくさんの財界人やメディアとのプロジェクトをエネルギッシュにこなしている、との話であった。
来年の北京五輪も彼女とっては、大きなPRの機会になるだろう。
2007.11.01
第7号 御礼
月曜日から1000名近い人たちに、このホームページリニューアルの葉書を出しました。
そのせいか、今日の夕焼け少年ホームページにはたくさんの来訪者をお迎えしています。
特に、連載中の日刊ゲンダイ『数字のホンネ』が皆さんの参考になっているようです。
今後ともよろしくお願い致します。
東 正任
2007.10.11
第6号 康先生、平野啓一郎氏 in有明コロシアム
講談社の月刊誌『KING』などの連載や、mixiや書籍の出版などで、この人に再びスポットライトがあたっている。康先生の見直しと再評価が始まっていると思えるのは僕だけではないように思う。
この夜は、芥川賞作家の平野啓一郎氏と3人で朝が来るまで舌戦となることは確実。
ちょっと亀田大毅くんには早い気もする世界挑戦だが、試合前の有明コロシアムは何か予感に満ちている。
2007.10.06
第5号 取材の達人、田原総一郎先生
田原総一郎さんは、テレビでもお馴染みの鋭敏な取材者(インタビュアー)・・・・・無論作家としても時代を抉ってきたが・・・。
口元は、油断するほど柔和だが・・「なるほど。」と相槌をうったあと、寸前突然、「ということは・・・」と突っ込まれ真実を問われるとフェイントを掛けられたボクサーのように、思わずぎょっとして本音を吐いてしまう。
マイペースな様で、相手のペースに合わせている。
聞かれているうちに、蛇口が緩み「水が流れるように、ホンネの洪水」。
すべてを見透かされているようで、内閣が解散したこともあったっけ。
偽者だらけの日本では、もっと田原先生のような取材技術を持ったジャーナリストが育たなければならない。
2007.09.10
第4号 MKタクシー
プロデュースをしている月刊誌『美楽』が、今月号から東京MKタクシーのお客様用(乗客用)本として、後部座席のポケットに並べて貰うこととなった。
どんなに良い商品でも流通してお客様の目に留まり、認めて貰わなければ何の意味も持たない。その意味で、1日250台のタクシーに平均15人のお客様が乗車するとして、1ヶ月に10万人を超える読者と接触できる。
ご英断を下さった青木社長には、本当にありがたいと思っている。
2007.09.06
第3号 横綱・白鵬
192センチ、160キロの白鵬は、生まれたときから逆算すると1年間に約9センチ身長を伸ばして、1年間に約8キロ肉を付けたことになる。
さらに、その圧倒的な勉強量で日本語を学び、相撲界の歴史を学び、さらに22歳とは思えない風格を身に付けた。
ホテルオークラの鉄板焼を7人で3.5s。
白鵬の誕生年でもある、1985年生まれのボルドーを2本。
二日後、9月場所の初日があるからと言って、颯爽と席を立った白鵬君に何故かスキのない青年だな、と感心した。
2007.08.09
第2号 チンギス・ハーンの祭り
何となく”流行風”(トレンド)を感じて、モンゴルのウランバートルへ出掛けた。
仕事はもちろんのこと、芸術にしてもスポーツにしてもたった一人で実践するよりは専門家やその分野に詳しい経験者が必要である。
初めはいつものように旅行会社でチケットを購入して、現地で宿を決めるという、いつものフウテン旅行のつもりでいたが、たまたまインターFMの小笠原社長の紹介で、通訳のアンゲル氏と実業家のブヤン氏とウランバートルのチンギス・ハーンホテルで落ち合った。
皮膚の色も、髪の太さも、眼球の動きも、何の抵抗もない同じ人種である。
翌朝、アンゲル氏の案内でチンギス・ハーンの生誕800周年記念イベントへ出掛けた。
白骨化した山羊の頭骸骨と、まだ肉片の付いた牛の肋骨と、馬の糞のような土の塊が草原に点々と散らばっている他、生命の命の気配すら感じられない。
時速15キロで空を泳ぐ羊雲を見ながら、僕は大きく鼻から息を吸ってゴビ砂漠に向かって口笛を吹いた。
「日本では既に絶滅している、神様たちがこの土地には何千人も住み着いている。」
2007.01.13
第1号「空を飛ばない蛇、魚」
名古屋の冬は、東京に比べると2℃から3℃くらい温度も低く、また脊髄に染み入るような底冷えがするのは、十分承知なのだが常宿の東急ホテルから栄町まで朝の散歩に出掛けた。
あの頃は、この噴水の周りに何千人もの学生が屯し、マルクスを読み、毛沢東に没頭し、ボブ・ディランを聴き、岡林信康を敬い、交番にいる警官に心無い言葉を連発し、そして破れたリーバイスのジーパンの穴から見え隠れする膝小僧を自慢していた。
昨晩は当時(1971年)の栄公演の仲間が集まって、何もなかった様に過ぎた30年を忘れ、お互いの現在を話した。人間と言うのは不思議なもので、年齢を重ねても話し方や声はあまり変化しないものらしい。
その意味で我々人間のコンテンツとは、やはり「永遠」であり。「思想」であり。「哲学」であり「心情」であり、その時の「気分」なのであろうか。
今年も自分というコンテンツを見失い、探せない日本人が、政治や経済や文化やそして三面記事を賑やかにするのであろう。
こんなことを考えているうちに僕の体はすっかり冷え切ってしまい、早足でホテルに帰りついた。ホテルの玄関に続くスロープの壁に12の星座のオブジェが季節ごとに造作してあった。
日本では猪年にあたるのだろうが、西洋では年毎に星座をわけることをしないで、月ごとに分配したのは何故なんだろう。僕は、蛇年の魚座である。初占いによると、今年は大きな飛躍の年と書いてある。
しかし蛇も魚も空を飛ぶ動物ではないだけに、やはり昼飯は名古屋コーチンの鳥丼にしようかなぁ。
『今年のスローガン』
「5cmづつ飛ぶヒヨコに見習い、決して高望みせずに基本動作にかえろう!」
2006.12.10
第45号「銀杏の穴」
事務所の代わりにお邪魔している東京プリンスの本館から、プリンスタワー新館まで歩いて7、8分。日比谷通り沿いの芝公園の一角を遠回りしながら散歩していると、UVサングラスをかけているように、空全体が黄色い。銀杏の落ち葉に覆い隠されてしまった枯芝の上に午後の太陽が反射して、まるで金の粉をかけられたように公園全体がピカピカと光っている。
ここ数年、これほどの黄金に輝いた冬は記憶に無い。落ち葉はそれぞれの葉が一枚一枚個性を持って、色も異なれば地面に散るタイミングも違うし、よく見ると葉の厚さも大きさも異なる。
ところが今年の落葉は、まるで機械仕掛けの様に組織的で一貫性もあり、まるで全員が北朝鮮の誰かの指導者のもとに演じられる軍隊の行進のように乱れがない。
今年も色々な会社とめぐり逢い、人と話し、仕事もほどほどに恵まれた年だった。ただ個人的な反省として、この日の落ち葉のような大胆で思い切りの良い集合的な企画は生まれなかったように思う。
公園の芝生に落ちた葉っぱを2,3枚拾って見ると、どの1枚にも小さな虫に食われた傷穴があった。
やはり大雑把に仕事をすることで、お客様に嫌な思いをさせるより、どんなに小さな仕事も、不本意なミスが無かった事を良しとしよう。
「大きな夢より、小さな実績!」東
2006.12.08
第44号「胃の咆哮、入舟町にて」
行きつけのスポーツ・ジムで、毎日お目にかかる減量のライバル、TMI総合法律事務所の遠山先生との決戦の日まであと2週間をきった。・・・・・・というより、2週間しかないので半分この戦いは双方とも減量の目標値に届かずいたみ分けの様相。元旦に向かってどんどん顔の色を土気色にしながら餓死寸前で減量計に乗ることも無さそうである。
しかし、最後の望みをつなぎ、実は少しでも睡眠時の無駄な体重増を控えるために晩御飯を6時頃の早い時間に取るか、万が一遅くなったとしたら炭水化物の摂取を控えるようにしている。
今夜も苦しい。私の人生の大半をかけて肥大化した胃の大きさがわずか一週間や2週間で欲望を抑えられるはずがない。23時を回る頃から、唾液が食道を通って胃液を刺激し始めると、闇の中に光るコンビニエンスのネオンや、閉店間際の居酒屋の提灯や赤い暖簾から漏れる屋台の電球の黄色がより一層その輝きを増し始める。
「人生には限りがある。だから今夜は食べよう。」
と思い、深夜の銀座にハンドルを向けた。メニューに迷いながら、低カロリーを探しながら、そして意思無き自分に怒りながら夜食を求めていると、入船2丁目の信号近くで僕の胃は喜びに震えた。
「凄い数のうどんの見本」
「しかも歴史的に由緒あるうどん屋だ」
素うどん程度ならたいして胃に負担にならないと、木戸を開け、中に入ってメニューを開けた。
「情けない。結局食べたのは、うどんだけではなくすき焼き定食という晩御飯並みの立派なメニューとなってしまった」
明治屋というこのうどん屋は、減量中の僕にとって不幸中の幸いとも言える。
2006.12.02
第43号「K-1 WORLD GP2006 決勝戦 in 東京ドーム」
毎年、年の暮れになるとウインター・スポーツでもないのに格闘技がスポーツ・マスコミの主流になる。いつからこんなに格闘技がブームになったのか定かではないが、それは20世紀の後半、1997年辺りからであろう。
一方、K-1(キックボクシング)やPRIDE(総合格闘技)などいわゆる本格的な格闘技に主役の座を奪われ衰退していったのがプロレスだろう。
私が小学生のころは力道山率いるプロレスリングが、カラーテレビの普及と共に圧倒的な人気を誇り、やがてそれがアントニオ猪木さんやジャイアント馬場さんを輩出し、今日の格闘技ブームの礎を作った。
こうした、いわゆるコンテンツが社会に受け入れられる前提になるのがメディアの発達である。エルビス・プレスリーを支えたのはラジオであり、蓄音機であり、普及し始めて間もないテレビである。ビートルズの世界的なヒット曲の向こう側にもLPレコードやステレオと共に、人工衛星による映像配信があった。
東京ドームのアリーナは、写真撮影禁止というのは名ばかりで、携帯電話のカメラを使ってリングで戦う選手を撮影している若者が多数見られた。ここ数年でパーソナルなメディアとして突然普及した携帯電話やパソコンは、巨大な百科事典として作用し、又、形を変えたコミュニケーションツールとしても定着した。
しかしながらこれらのITメディアが新しいコンテンツを生み出し始める、という気配は今のところない。
2006.11.09
第42号「名古屋の味噌煮込みうどん」
「小さじに3分の1程、大蒜(ニンニク)を入れて食べると体が温まりますよ」
名古屋駅から乗車したタクシーの運転手が教えてくれた。
この日の東海地方は少々出番の遅れている冬が近づいてくる、という予報にも関わらず、ラコステの半袖のポロシャツでいても汗ばむほどの陽気である。
名古屋へ行くときは、山本屋の味噌煮込みうどんを楽しみにしている。食べ方は、20年前と変わらない。
まず岡崎屋の赤味噌の匂いを嗅いで・・・茹でないで穴のない鍋蓋で密封し、ごつごつぐつぐつ煮込まれたうどん・・・その上に生卵をかける。なかなか冷めない鍋蓋を茶碗代わりに、白いご飯を少々のせ、そこにスープかけて、うどんを混ぜる。要は“赤みその猫飯うどん”。従ってうどんではなくご飯から食べるのが私の流儀である。
名古屋は僕の学生時代の思い出の土地でもある。この平べったい平野を訪れると、いつも決まって奇妙な安心感と、言葉に馴染めないよそ者の焦りと、久々に会う旧友との緊張感に襲われる。
僕の青い時代は“何処か甘ったるい、しかも伸びてしまったうどん“の様でもあるが、それでも過去と言う時間の鍋蓋の下で、煮詰まって、今になってもぐつぐつと沸騰しているのかも知れない。
2006.10.29
第41号「神田古本探し!」
「神田の古本祭り」は、「青空古本掘り出し市」の総称である。神田の明大通りのある駿河台から神保町をぬけて、専大通りのある神保町3丁目まで、100万冊以上の古本が、年に一回この時期に一斉に開花する。
昨年は藤村操の『煩悶記』が登場して愛読家の話題になった。
この辺りの古本屋エリアは量も質も歴史も、多分店員さんの記憶力も世界一であろうが、神田古書店名簿によると157件の店が営業中であるといわれる。文学、古典、歴史、思想宗教、外国書、社会科学、自然科学、美術版画、趣味芸術からアダルト、などのジャンルに分かれた古書店が、ほとんど工夫もなく、個性もなく、ユニークでもなく、無差別に、ただやたらと、めちゃくちゃな量の本を、床から天井まで、うず高く積んで、並べている。
但し、ご主人に著者と署名を言うだけで、ものの30秒で“探し物”は発見される。
この祭りの間は、普段閑散としている「さぼうる」、「ミロンガ」、「フォリオ」などの歴史的な喫茶店はもちろん満員。
スタバや、タリーズの前で、買ったばかりの本をひろげる人が、道を塞いでいる。
大正から第二次世界大戦前にかけてちょっとした中華街だったというだけあって中華も“いい味の店が多い”。当時、中国大陸から多くの留学生が来日しており、そのためか本場顔負けの中華料理が数多く、それぞれが店主の好みで味を作っているため微妙に個性的。
孫文も腹をへらしてウロウロしていたのだろうか?
ラーメン屋に至っては、数えるのが大変で日本有数の激戦区である。
「1円でも余計に本代に当てたいと思う人たちのために、この町のプライドは輝いている」
さて、私はたくさんのお金は要らない。しかし、音楽を聴くお金と、映画を観るお金と、そして本を買うお金がなくなったとしたら、いつ死んでもいいと思っている。
何年か先に、“表に向きすぎるている感情が、ゆっくりと乾き”落ち着いてきたら、この神田に移り住んでくるのも、いいアイデアかなぁ・・・・
2006.10.14
第40号「笑いを文化にした巨匠」
「日本はGNPこそ伸びてはいるものの、それに比べて庶民の給料は上がっておりません。皆さん、GNPとは義理と人情とプレゼントではありませんよ。」
と、こんな感じで速射法のように1時間の講演を終えた木村政雄先生は走り出すように講演会の会場の裏の喫煙コーナーに、辿り着き、おいしそうにタバコを一服吸われた。
VSNの加藤役員(写真中央)はまるで「大学の授業のように為になりました」と、木村先生の2本目のタバコに火をつけた。
関西の、というより日本を代表する“お笑い芸人”の貯水池でもある吉本興業のエンジンでもあった木村先生は、思った通りの知性派の人情家であった。
一見クールで、すべて計算されつくされたような会話を構成する木村先生の頭の細胞の回転数は、おそらく現在活躍しているどのコメディアンよりもスピードに溢れているし、暖かい。こんな人が企業の広報や宣伝を担当したらおそらくその企業の社会的なバリューは、一気に何倍にもなるだろう。人事部長にしたら、顧客の心の機微を捉えるいい営業マンが育成されるだろう。
今日の日本のコンテンツ業界を動かしているのは、まだまだ業界人の歴史的な利権や人脈のように思える。専門的な業界ゆえ、それらも解らないではないが、木村先生のような市場の求める喜怒哀楽を直感的にトレンドにできるマーケッター(生産者)は、数少ないように思える。コンテンツ商品は、喜怒哀楽の感情的商品である。一般消費財と異なり、そのニーズの住む場所は生活者の心の中にある。従って、お金の動きよりは社会全体の心の動きを敏感に捉える力が何より一番不可欠なのである。
次に木村先生にお目にかかるときは、一杯酒でも酌み交わしながら人間の心のあり方や、今のマスコミが犯している罪や、今後わが国に必要ないわゆる正統派のコンテンツについての話を是非お聞きしたいと思っている。
2006.10.13
第39号「広島紀行」
広島空港から瀬戸内海へ向かう中国山脈のど真ん中を通り向ける道は、裏日本と表日本の境界線を辿る道でもある。道の両側はまるで法律で規制されたように熟した柿のような赤銅色の煉瓦の屋根、その端には大なり小なりしゃちほこがどの家にも飾られている。1時間ほど走ると車は呉市の海岸沿いの町に着いた。
谷原先生は、日本各地の遠方に住む患者から贈られたらしいたくさんのお土産の菓子箱を開けながら、「最近の日本人は事実(現象)ばかりを追いかけて、その真実(根本)を見ようという気力が感じられない。日本人ほど真実というものを突き詰める心を持っている民族はいないはずだ。」
とニコヤカに話をしてくれた。
窓から直角に見下ろす瀬戸内海は濃いクレヨンで書いたようなくっきりとした輪郭の海と小島と妙に人口的な橋が絵葉書のようだ。
先生の指からメスのような鋭利な電流が流れ、私の内臓が俄かに蓄積された毒素を泌出し始め、その雲泥のような毒素(病原菌の塊)が、窓の向こうのベランダの下の急斜面の坂を瀬戸内海へ向けて滑り出している。幸いにたいした病は患っていないらしいが、谷原先生の指先から放射される熱波は何万ボルトもの光を発し、私の胸と背中は落下する前の無花果のように濃い茶色から黒に変わった。
新幹線の広島駅で食べた名物のお好み焼きのソースの色もこげ茶色だった。お好み焼きは雑多な料理であるが、私流のかなり難しい食べ方のマニュアルがある。
まずは、@鉄板の上でそのまま食べないこと。
A50〜70度に熱した白色の皿に出来れば直径20センチ以内に焼き上げたお好み焼きを置いて食す。
Bマヨネーズとソースの配合をチェックするために割り箸の先で拾い舐めてみる。
C鰹節と生姜をど真ん中の3センチ四方にのせ、必ず目を閉じて小麦粉を感じる事。
D次に注意深く前歯で蛸を探す。次にキャベツに火が通っているのを確認するようにして同じように前歯で豚肉を探す。
全体的な焼け具合が具の味を引き出すことにもなるので絶対にソースの味に誤魔化されないよう。
新幹線の広島駅のホームで、突然不意に睡魔に襲われた。谷原先生の治療の程よい効果が出始めたようだ。
2006.10.07
第38号「鹿児島の小金太ラーメンPart2」
昨年も、当日記で紹介した鹿児島の天文間にあるラーメン小金太を再び訪れた。
今回は写真の餃子をご覧頂きたい。そこに電話番号が書いてあるので、何も言わない、何も書かない。皆さんも是非鹿児島へ足を伸ばしてご賞味頂きたい。
2006.10.01
第37号「東京タワーは、ネオンサインでもある」
25人に1人の割合で発病する女性の乳がんを再認識してもらい、多忙を理由に健康診断から足が遠のいている東京の女性・・・・?・・・明日の朝にでも乳がん検診をしてもらおうというPRで東京タワーはセクシーなおぼろげな、そして憂鬱な美しいピンクを昭光している。
東京タワーは、何処からでも見えるシンボリックなメディアとして、そのネオン管の色を変えることで楽しみなメッセージを発信してくれる。皆さんの記憶にも新しいだろうが、2002年のワールドカップの時には、ジャパン代表の色でもある濃い青に空を染めた。
家路に帰る桜田通りを、一人私は「東京タワー通り」と呼んでいる。札の辻と第一京浜が交差するあたりから赤羽橋までの1キロ5分ほどの道のりに延々姿を見せる東京タワーは、どんなビルよりも一番美しいスタイルで目の前にに迫ってくる。
一方、事務所にしている東京プリンスの裏口から見える東京タワーは突然仁王立ちした巨獣のように、乱暴で傲慢なのだが・・・・。
今日も一人の小学生が自殺した。友達に遺書を残して首を吊った。あの少年が東京タワーに登って、空や、雲や、小さな都会の町並みを眺めていたら、少しは気も晴れたのでは無かったのだろうか?
「いじめに悩む子供たちを励ますための色は、教育者やその親たちに警戒を促す黄色なのか、それとも今の子供たちの心の虚しさを表す真っ暗なのか・・・・・・。
2006.09.29
第36号「上諏訪と原田泰治美術館」
さだまさし氏に原田泰治先生を紹介されてから、10年近くなる。子供の頃、小児麻痺で足を患った先生は、車椅子を器用に操りながらホテルニューオータニのバー・ラウンジで談笑していた僕たちのテーブルにご挨拶にいらした。
あの底抜けに明るい先生の美術館を、一度はお邪魔しなくてはと思いつつ、やっとのその機会にめぐり合えた。
今では、なかなかお目にかかれない郷土の景色の原形をテーマに、誰の心にも残照している“古き良き日本の原色”。
その手法の暖かさはやがて朝日新聞の表紙を飾り、一気にファンを獲得することになる。
初秋の諏訪湖は、名物のかりんで縁取りされ、湖畔を散歩していると丁度日没を迎えた。中央アルプスの向こうに裏富士さえ見えないものの、連々とした漆黒の山並みが浮かび、湖面が柔らかな赤銅色に染色されていく。海に落ちる夕焼けとは違い、湖の向こうに深く沈む夕焼けは見るものの視野が限られているだけにより一層切なくもなる。
冬が近づいているせいか、春や夏のような旅人の雑多な喧騒や無駄な色彩がなく、それがかえって諏訪湖の静寂を単調で物憂いものにしている。
上諏訪の標高は、一般的に800メートルと言われている。人間が住まうのにもっとも適当な気圧らしい。
山脈と湖畔と湖がやがてただの黒に変わった。信州名物のそばでも食べて中央線に飛び乗ろうと思う。
2006.09.22
第35号「ドミニカ共和国の英雄」
ウェルネット・インターナショナルの平柳氏は、切れ味鋭い企画と明敏な発想でその仕事は多岐にわたっている。
その中の政府関連の仕事でもあるドミニカ共和国のプロモーションに私もお手伝いをさせて頂く事になった。
先週から幕張メッセで観光博が行われ話題になっているが、今日はドミニカ共和国を代表するメジャーリーガー、ホセ・リホ氏と長嶋一茂氏を招待しお茶をセットすることになった。
ホセ氏は、当時シンシナティ・レッズの4番打者で1986年のワールドシリーズでは、その圧倒的な長打力でMVPを獲得した英雄である。物腰の柔らかさからも一流の紳士である。
ドミニカ共和国は、人口830万人の小国、小さな島国である。島全体をじゃがいもの形に準えると、真ん中で国土は2分され、ハイチとその島の領土を半分づつ所有している。名産は葉巻、ビール、それに野球選手である。ご存知サミー・ソーサーやガルベス、現在も西武ライオンズで活躍しているマルチネスなど日本の野球チームに移籍すればすぐさま40本程度のホームランを打つ選手はごろごろいるらしい。いずれも、何年か前の何処かの後進国同様“あるファミリー”がそれらの利益と利権を独占しているらしい。
195センチ、115キロというホセ氏と握手した瞬間に、まるで厚手のグローブに包み込まれ、握りつぶされたような健康的な圧縮感を覚えた。
「この手で抓まれたバットに当たれば、野球ボールなんて、まるでピンポン玉だろうな・・・・・」
ホセ氏は2003年に現役を引退されたのだが、今すぐにでも現役復帰してもらい巨人軍あたりのクリーナップを盛り上げてほしい気がした。丈夫そうだし、紳士だし・・・・・
2006.08.19
第34号「マウンドと外野席」
とんでもないことを思いついたのだが、考えてみれば高校球界を代表する人気のエース、早稲田実業の斉藤君と、我がふるさとの鹿児島工業が準決勝ベスト4で激突するというのも、あるかないかのことでもある。
午後1時すぎの便で大阪空港へ飛び、すぐさまタクシーに飛び乗って甲子園球場に着いたのは、7回表の鹿児島工業攻撃の場面であった。無料の外野席の1塁側の通路に丁度お尻ひとつ分のスペースを見つけて、熱狂した両チームのリズミカルな応援をどちらともつかず、ただ呆然と眺めていた。
高校球児を代表する斉藤君にはやがて億単位の札束合戦が繰り広げられ、ベンチで出番を待つピンチヒッターは多分これが最後の試合になる。スタンドで先輩の試合を応援する控えの1年生には、これから2年の間甲子園で戦うチャンスがあり、地元で予選敗に甘んじた球児たちはテレビで観戦しながら進学や就職のことを考えている。
人生にはいつも見る側と見られる側、演じる側と演じさせられる側、作る人と使う人、握る人と食べる人、突き詰めれば舞台と客席で構成されている。
今野球をみている私が、明日甲子園のマウンドに立つ場面は1000%有り得ないのだが、しかしクライアントの前で、プレゼンという舞台ではデザインやアイデアを発表する。
「見る側と演じる側は、絶えず入れ替わるのも人生」
突然、我が鹿児島サイドの紫色に染まっていた1塁側の内野スタンドが瞬間悲鳴に変わり、やがて試合の終わりを告げる間延びしたサイレンが鳴った。どうやら鹿児島工業は明日一番のバスで、帰ることになったらしい。
2006.08.08
第33号「虎ノ門の交差点で5分間夕焼けを見ていた」
「今日も、また、夕焼けを見ていた・・・・・・」
社名にもなっているので当然だが・・・・・こと夕焼けに関しては敏感である。ほとんど毎日のように日没の時間になると西の空を見る。ビルの中にいようが、高速道路で車を運転中であろうが、18番グリーンで1メートルのパーパットを残していようが、とにかく首が自然に西のほうに回り、神経質に夕焼けを探す。
「東さん、何で夕焼け創造研究所って名前なんですか?」と聞かれる。
「別に難しい理由はないんですが、夕焼けを見ていると、いいアイデアが浮かぶんですよ。」いつもこう答えている。
一日が終わり夜が始まろうとするとき、今日という人生の残り時間もあと僅かとなる。少年時代であれば、母が作ってくれた夕食を食べ、いやいや宿題をこなす、残った僅かな時間に読書する間も無く、もうウトウトと寝る時間がやってくる。
今日のように無駄な夜が、無かった頃である。
だから実質的に日没は明日へのカウントダウンであり、1日の残り時間が少なくなった焦りと、“目を閉じるまで”までという納期が迫っている為、程よい集中力で脳の回路が右に右にと回り出す。
夕焼けが空を赤く染めて、やがてたくさんの星が絢爛と輝き始め、薄い満月がゆっくりと光沢を出し始める瞬間に浮かぶアイデアは、大胆で、ちょっと夢見心地で、時には市場のスケールすら感じさせない可能性に満ちたものが多いのである。
2006.08.03
第32号「対談 関口房朗氏と細川佳代子氏」
仕事先でもある碍SNのプロモーションの一環で、月1回、実績が社会的に評価されている知名度の高いゲストを招いて、座談会を実施している。(この座談会は、週刊ポスト・現代・新潮・文春それぞれ月に1度の割合で、現在も掲載中)
本日は、ボランティア、チャリティーをテーマに、細川佳代子氏をお招きした。細川佳代子氏は、元総理大臣夫人と言うよりは、昨年長野で開催されて有名になったスペシャル・オリンピックス日本支部の責任者と言ったほうが世界的には知名度が高いだろう。
一方、関口会長はケア・インターナショナルへ毎年寄付をすることで世界の難民救済をバックアップしている。
対談内容は、ボランティア精神を持つことで参加している人自身が、大きく成長していくことの素晴らしさ、あるいは人間自らが無意識のうちに持ってしまった既成概念や偏見を取り去ることで自分自身が解放されることの素晴らしさ、など中身の濃いものだった。
余りある時間と人一倍の健康をいつの間にか普通のように甘受し、昼はゴルフ、そして夜な夜な繁華街に出没しているわが身を思うと・・・・・・少し恥ずかしい気分に・・・・・・・・・
2006.07.29
第31号「桜島への祈り」
「これは・・・・」と思った新しい事業や商品が、芽を出し始めたときに、私は故郷の桜島の裏側にある垂水のお墓に出向き、先祖の力を借りにお参りに行くことにしている。
笑われるかもしれないが、この習慣はほとんど儀式に近いほど神がかっていて、早朝のフェリーに乗って錦江湾を渡り、日が出る前の桜島の空が紫色になる瞬間に、こうべを垂れるのがプロセスの一つになっている。
この朝は、今年の中でも一番華麗な色彩を演じてくれた。
新しい商品を創るまで、私の我儘やそれから生まれる人間関係の膿や、プロジェクトのメンバー全員が共有している不安や、泥まみれになった売り上げのシミュレーションやらで、グレーのヘドロになったすべての“生まれいずる悩みが、蝋燭の火が一瞬にして掻き消されるように白くなり、やがて希望の紫に変わるのである。”
今朝は、早すぎて弟の好きだった赤い花が買えないかもしれない、そう思った瞬間、僕の煙草の煙も紫色に変わった。
2006.07.18
第30号「亀田弁当記者会見」
来週から発売される亀田弁当の記者会見が行われた。今もっともテレビの視聴率を稼ぎ、新聞の部数を大きく揺るがし、殺伐とした親子が多い中で、ホットな親子リレーションの話題を提供する亀田興毅君の弁当は、最低でも100万食は売れる。
昨年の暮れから温めてきたこの企画は、世界タイトルマッチと合わせて日本全国で発売される予定。
まだ成人式にも満たない亀田君を、ややマスコミが持ち上げすぎていると懸念もあるが、いずれにしても大阪弁でずばずば本音を語る亀田君は、奥歯に挟まったようなものの言い方しかできないこの国の人たちの中にあって、突出したキャラクターである。
記者会見の一時間前に、きっちりとしたブレザーで亀田君は会場に現れた。僕よりもたくさんこの弁当企画に関するアイデアを提案し、販売先のローソンを研究し、試食会で食材をチェックし・・・・・・といった彼の仕事に対する姿勢は、ブラウン管から皆さんが感じている大胆な粗暴な若者とは全く逆の、戦略的で繊細な感性の持ち主である。
これだけ圧倒的なメディアの露出量で実態とは違う亀田像が創りえられているのが、やや心配な気がするのだが・・・・・・。
2006.06.24
第29号「インプラントの勇気」
長年煩ってきた右の奥歯の虫歯が、長年変わらないゴルフの強振のせいで下顎から解脱、孤立し一人歩きを始め、今にもまとめて唇から零れ落ちそうになってきたので、一念発起、インプラントの手術を受けることにした。
友人の飯塚歯科医曰く、「手術は、ほんの3時間で寝ている間に終わります。」との励ましに、ついに決行の日が来た。この写真の後に、衛生管理のための白衣を着せられ、髪の毛にも無数の雑菌がいるということで、白い帽子を被せられ、さらに麻酔医と、執刀医、看護婦さん計3名が加わった辺りから、僕の記憶は薄れていった。
歯茎にメスを入れる感触、顎骨の軋む音、インプラントを3本打ち込む鈍い機械音、予想していた恐怖を覚えるような瞬間すら記憶にない。今の麻酔って凄いなぁ!
小学生のころ、歯医者の待合室でキーンという歯を削る機械音を聞いて、逃げ出した辺りから、歯医者どころかすべての医療に対する恐怖のトラウマに怯えていた。
治療に携わってくれた医師団のほうが、この臆病者の患者より勇気が必要なほど複雑なオペだったらしい・・・・・
2006.06.23
第28号「筆の達人・辻さんが、蕎麦の巨匠になった」
人間は、落ち着くところに落ち着いてこそ幸福なのであろう。
ビジネスで言えば適材適所、好きな仕事をすることが一番能力を発揮し、成長しやすいし、男と女の関係で言えば、よく似た性格の二人(カップル)の方がつまらないストレスや行き違いもなくて気楽である。
極端な話、この気ままな漂流記の文章ですら、書く万年筆を選ぶよりはペン先を選んだほうが、すらすら程よい文章が書ける。
やはり、自分の才能を発見できた人生は、何より幸せなのだ。
リクルート時代にお世話になった辻さんが芝公園で蕎麦屋を開店したと聞いて、やはりそうか、と思った。当時文書課にいた辻さんは、その卓越した筆使いはもちろんのこと、小さな接待の招待状から新社屋の落成記念パーティの案内文まで、上品でそつのない、気配りの文章をすらすらの場で書ける才人であった。無論、定型物などは朝飯前である。
「偶然お蕎麦屋さんの教室に顔を出したんですよ。それでね、蕎麦作りが結構楽しくて性に合ったものだから、本格的に長野に修業に行きましてね。2から3年修行しましてね・・・・・」
筆とそば粉は一見全く異なった無縁のようなものにも思える。が・・・・・和紙を横目で眺めながら、墨汁に気を入れ、文字や文章のイメージを創り上げる作業と、そば粉を練りながらうまい蕎麦を練り上げる作業は共に、念を入れる集中力が一番必要であるようにも思う。
2006.06.14
第27号「亀田弁当の試食会」
弁当の発売まで残り後20日。
最後の試食会は亀田史郎代表(亀田3兄弟お父さん)と興毅くんにパッケージデザインのチェック、食材のチェック、味のチェック、色味のチェックをしてもらうことになり、世界戦直前の合宿中の伊豆下田のある海岸を訪れた。
三兄弟は父親の史郎さんが独自に作った、砂浜や、海辺を利用したトレーニングメニューを、黙々とこなしていた。
この日の関東地方を異常なほどの暑気が覆い、灼熱の浜辺はとっくに40度に達していた。
「おいしそうなお弁当が並んでいますね。この納豆そばは、ほんまに体にいいんですよ。」
まだ背中に砂のついた興毅くんはそう言いながら、机に並べられた10数品目の試食メニューを少しずつ口に運んでいる。
一方で次男坊の大毅君や、三男の和毅君も参加して和気あいあいの亀田家の晩餐会になった。
ボクサーは、3つの敵と戦っている。一つは、対戦相手との殴り合い、二つ目は生活の中で自ら持つ欲求をどうセーブするかの自己管理、3つ目はまさに減量との戦いでもある食欲との戦い。
試食会の弁当を、さわやかに、元気にパクつく姿をみて、普通の父親ならばただそれを満足げに眺めるので済むのだろうが、この父親の鋭利な眼差しは普通の親では滅多見られない“深いやさしさ”に満ちている。
「岸壁から、空に舞う寸前のひな鳥を、親鳥はどんなに嬉しく逞しく、そして悲しく思うのだろう」東
2006.06.08
第26号「富良野の良心、日本の良心!」
ここ数年、仕事に対する自分の価値観が変わり始めている。これまでは仕事、仕事して、どうしても利益を前提に事を進めていたが、ここ数年は新しい事業や商品の開発していく際に、横から見たり、斜めから見たり、下から見たり、とにかく仕事をする際の意味に対して余裕を持って望みたいと思うようになった。
特に、気持ちのいい仲間と喧々諤々やりながら、創りあげる過程が楽しい。
それでも、短期間に人を強引に集めなければならないような大仕掛けで荒っぽい仕事を頼まれると、変化しつつある最近の仕事の価値観と実際の発生する煩雑な実務との間に折り合いがつかなくなって、ふと、東京を離れる。
今年に入ってからの行き先は、北海道が多い。
倉本聰先生が東京を後にして、ちょうど20年が経とうとしている。今回は富良野塾開塾20周年と言う事で「地球、光りなさい!」というロングラン公演を観劇してきた。
その頃の富良野は「北の国から」も始まっていなかったし、多分札幌から汽車で3時間という交通の便の悪さもあって、今ほど観光客も集まっていなかったのであろう。北の原生林に覆われた盆地を日本でも有数の文化スポットに成長させたのは、倉本先生ならではの、コンテンツメーカーの上品で知的な最終形であろう。
雨の匂いが夜に染み出したニングルテラスという森の中で、手作りのチーズケーキと特製“焼きミルク“を飲みながら窓の向こうに並んでいるログハウスの店舗を眺めている。
手作りの彫刻品や記念写真の店が並び、その軒先には巨大な蛍の光のように電球がぶら下がる。人工的だが幻想的な森の祭りに右脳だけが酸化していく様だ。
戦後60年たって、私たち日本人は自然に対する無関心を装ってきた。
その悲しいまでの結末を一番嘆いているのは倉本先生を代表とする戦前生まれの先輩たちではなかろうか。彼らの時代にはまだまだ子供達が素材として自然の中で呼吸していた。
政治の仕組みや、経済の構造の短絡的な歪みや、都市化と言う名のもとに堕落街やコミュニティを取り返すためには、今後どれほどの富が必要なのであろうか。
「あなたは、文明に麻痺していませんか?車と足はどっちが大事ですか?石油と水はどっちが大事ですか?知識と知恵はどっちが大事ですか?理屈と行動はどっちが大事ですか?批評と創造はどっちが大事ですか?あなたは、感動を忘れていませんか?あなたは、結局なんのかのと言いながら・・・わが世の春を謳歌していませんか?」
2006.05.29
第25号「カツカレーの食べ方」
明治32年から営々と洋食レストランを続けてきた銀座煉瓦亭に立ち寄った。元巨人軍の名選手千葉さんや、長嶋名誉監督など、この店のカツカレーのファンは歴史的にも数多い。店内は20席あまりの小さな食卓が所狭しと並ばれております。
チェーン店化した大型レストランがその数をほんの数年で100の単位で拡大していく現代にとって、ハンドメイドの凝り性なメニューの数々は美味いのは当然だが、食べるこちらの気持ちも心優しくなるようだ。
煉瓦亭のカレーはなんと言っても、上にのせたカツの衣の歯触りにある。
まず最初に、@スプーンを水の入ったコップにつける。次に、Aなるべく中心に近いルーをお匙ですくい、B目を閉じて玉ねぎの炒め具合と、解け具合を感じる。次に、Cご飯をひと匙すくい、ルーの中に混ぜ合わせ、ルーとのコラボレーションを確かめる。この瞬間はルーの温度が決め手となる。次に、D福神漬けやらっきょうやコールスローやなんでもいいが、漬物の類とご飯だけを食べる。いい米を使っているかどうかは、この段階で判明する。一番最後に、E山盛りあるご飯の約3分の2をルーと徹底的に混ぜ合わせる。ここで初めてカレーライスを食べたことになる。
そう・・・・カツカレーではなく、カレーカツの方が、しっくりくるネーミングですよね・・・・・
2006.05.29
第24号「日本テレコムでの会議」
たまにはこんな写真も載せておかないと、東さんはいつも遊んでばかりいると思われるので・・・・・・・。たまには・・・・。
リクルート時代からの友人でもある、日本テレコムの富村副社長から依頼されて、現在企画熟慮中のコンサート。今評判のコンラッド・ホテルでこの夏予定している東儀秀樹さんのコンサートの打ち合わせの模様。
2006.05.20
第23号「レインボーブリッジに虹が架かった」
レインボーブリッジに虹が架かった。その虹を見るためにレインボーブリッジが渋滞をしている。
私だけでなく東京の空に虹を見るなどという偶然は、ほとんどの人が考えてもいなかったはずだ。
初夏の激しい五月雨の後、高尾山の裏側に沈む夕焼けの橙色の反射光と、東シナ海の西風で押し流されるように早足で太平洋に向かう鱗雲の真ん中に現れた虹は、小学生が使う分度器で計ったように正確な円弧を描いている。
人は一体生きている間に、何度虹を見るのだろう。
以前訪れたフィリピンのプエルト・アズ―ルで、丁度同じ夕暮れ時に虹を見たことがあった。3本目のダイビングをしてボートの上で大の字になってゴーグルを外したとき、酸素が欠乏していることもあって虹が緑一色に見えた。
虹は地球上のあちらこちらの場所で出没し、一色の場合もあれば七色の場合もある。子供たちの虹の絵を見ると七色になっているが、気象学的にいうと、七色のクレヨンが必要なのは恵まれたことに、この日本や一部の地域だけで、普通は4から5色しか見えない様ある。
でも彼らの、将来の描くの画用紙の上には、ばら色のクレヨンがなかなか見つからないようだ。
2006.05.19
第22号「福岡の一蘭本店にて」
ラーメンブームが定着してから凡そ30年ほどになるだろうか。皆さんもご存知の通り、福岡産のとんこつラーメンをリーディング・ヒッターに、札幌の海鮮味噌ラーメンまでチェーン店化した専門店は100銘柄をゆうに越えている。
テレビや雑誌で毎日のようにラーメンにまつわるランニングや記事が掲載され、視聴者はそろそろ食傷気味で・・・物好きな僕は折に触れその殆どの店のラーメンを少しづつ食べ歩いている。
この夜は新しい事業(モバイルバード)の技術スタッフとの打ち合わせで福岡を訪れたので、中洲にある一蘭の0号店を訪れた。
本来ならばこの一蘭にはもっと早く訪れる機会もあったのだが、塀に囲まれたような格好で隣の人と壁を作りながら、ひたすら食べるのみに集中するというレイアウトがどうも寂しいマニュアルのような気がして・・・・・・。
いつものようにチャ―シュー麺を注文して、@目を閉じてスープを口に含みながら、Aチャーシューの湯で具合や舌触りや、肉の質を楽しんでみた。次に、Bチャーシューの中に何本かの麺を巻き込んでまた噛み噛み。次に、Cまた目を閉じて、蓮華の中にスープとねぎを入れ、ねぎの鮮度をフムフム。さらにDどんぶりの中を箸で軽く混ぜてスープのみをシュルシュルシュル。申し訳ないと思いつつ、どこの店でも減量中の為、E麺は3分の1ほど残すようにしている。
「一蘭は、噂通り一人前の完成された型を持つラーメンであった。」
昔、伊丹十三監督が映画「たんぽぽ」の最初のシーンで、ラーメン丼の真上からの映像をオープニングのシーンで使っているが、スープの色と味は必ずしも比例しているわけではないので参考とはならない。
2006.05.05
第21号「亀田興毅選手 世界タイトルマッチ前哨戦の控え室」
有明コロシアムのVIP待合室に、凄い顔ぶれが勢ぞろい。滅多に見られる光景ではない。最初に訪れたのは、赤いマフラーのアントニオ猪木氏。次に訪れたのは、戦後最強のイベントプランナー康芳夫氏。この二人は30年ほど前に世界中が注目した異種格闘技戦、世界ヘビー級チャンピオン、モハメッド・アリVSアントニオ猪木を興行した。
暫くすると、プロシードの石川代表が現れた。おそらく、今日試合を行う亀田興毅君のコンテンツとしての価値を確認しに来たのだろう。さらに、後ろ向きのフードを着ている男性は、元アイドル、今でもアイドルのスリー・ファンキーズの長沢 純氏。さらに、この写真とは別に、高橋尚子を育てた小出監督。そして、環境大臣の小池百合子氏。さらには、野村克也監督夫妻・・・・・・・・・突然、叶姉妹まで。
亀田三兄弟の人気の中身は“昇り竜”、敵も見方も、嫉妬も賞賛も、応援も罵声も、順風も逆風も・・・・も・・・・・そう言えば控え室の面々はコンテンツにつき物の、そんな事すら乗り越えて生きてきた。
「船の帆は、大きければ大きいほど風を飲み込む」東
2006.04.25
第20号「長嶋一茂氏との嵐のロケーション・ハンティング」
何をやるにもすべては“現場”から始まる。よくある話だが、殺人事件などの犯人の痕跡も必ず“現場”に残っていると言うし、どんな名曲も幼少の頃に耳にした記憶に残った音階がのちに美しい楽曲の原点になると聞いたことがあるし、極端な話、この広い宇宙に地球のように水分のある惑星かどうかも小さな隕石のかけらを分析した結果発覚することもある。
来年の公開を目指して企画中のある映画のロケハン(ロケーションハンティングとは、撮影現場の視察のことをいう)に、千葉の郵便局を訪ねた。この映画を、長嶋一茂氏とブレスト(企画を出し合いながら、脳みそに嵐を吹かせること)しているうちに、ブレストの前にロケハンをしたほうが無駄な想像力を使わなくて良いという話になったからだ。
この映画のストーリーの舞台にもなる郵便局や、漁村や、富士山の見える海岸や、地元の小さな食堂を回っていると、天気予報の予想通り突然、嵐のような大粒の雨に襲われた。
墓参りのシーンの場面は太平洋を見下ろす岬の灯台である。小さな灯台の屋根の先端に設けられた避雷針に、空を覆った黒い雷雲の中に含まれたすべての電気が雷となって一点に集中して落雷している。こんなシーンは、とても机の上のブレストではイメージできないほどの閃光であった。
週に何回もの役員会で、現場にでるエネルギーさえ失ってしまった会社の経営陣も、本当に会社を愛するのであればロケハンをお薦めする。
現場に出て、お客様の顔を見る、商品の展示状態を見る、ベット上で朦朧としている患者を診る、リングサイドでファンの声援を聞く。この日本は限りなく無限大の現場が存在し、そこには永遠の創造力が溢れているはずだ。
2006.04.23
第19号「早川の漁港」
昨夜から友人の東氏(あずま)の経営する「湯楽」(温泉旅館)に滞在している。今朝は早起きをして、車で5,6分のところにある早川の漁港を訪ねてみた。
先ほどまで漁に出て仕事を終えたばかりの漁船から、新鮮な魚の匂いや、まだ熱を持った重油の匂いが溢れ、海から岸壁に続く階段には、たくさんの鱗が朝の太陽を受けてあるものは青く、あるものは虹色に放射している。
魚をおろす漁師たちの日焼けした筋肉の残影があちこちで声を上げている。
今年の春も世界的な異常気象のために海水の温度が上がり、本来獲れるはずの旬の魚が見当たらない。加えて、ベネズエラの強気と中近東の混沌で、原油価格が高騰しているため、漁に出ない船も出始めている。
私は寿司が好きである。とりわけ光物が大好きで、鯵、鯖、鰯の3種類が寿司屋のショーケースから、どれか1種類でも欠けると寂しくなる。
先週も銀座の寿司屋で、鯖ばかり1時間に渡り食べ続けた。今晩は、小田原駅前の友人が経営する「みどり寿司」に顔を出し、鰯と鯵を交互に食そうと思う。
2006.04.15
第18号「オーラを放つ魔裟斗氏の人生」
聖路加病院の日野原先生は、“人生とは、人間が一生に生きている時間そのものである”とおっしゃっている。
恵比寿の撮影スタジオで、この夏発売予定の写真集の追い込みをかけている写真家の清村先生を訪ねた。
天井の高いコンクリート剥き出しの空間に、撮影に使った何十着もの衣装が散らばっていて、たった今、最後のカットを取り終えたばかりの魔裟斗氏は、奥のドレッシッングルームで格闘技とは違うPRという商業的世界の緊張感から開放されて、足を組みながらやわらかい笑みを浮かべていた。
K-1という格闘技は、1ラウンド3分の戦いを、3ラウンド、つまりたったの9分で世界一の強者を決めるトーナメントである。
私たちも実は毎日の時間をどう費やすかで・・・・その蓄積で人生が決まるのであろうが、その9分という凝縮された舞台で魔裟斗氏は、人生を燃焼している。
獲物を追う狼のような獰猛な目と、獲物を食した後の満足げな優しい目との落差が、今回の写真集のテーマである。
「僕はモデルではなくて、格闘家ですのでこんなスポットライトは苦手なんです。」と、はにかんだ魔裟斗のデリカシーをどう表現するのかは、いまだ解決できない私の課題でもある。
写真集のタイトルは「オーラ」。彼の、微笑みそのものが放つ人生のやさしさと、厳しさである。
*「AURA」MASATO PHOTOGRAPHICは、扶桑社より好評発売中です。
2006.04.14
第17号「長嶋一茂さんは、・・・・元気な人と一緒にいよう・・・・元気は“心の伝染病”」
私は、元気な人が好きだ。元気な人と一緒に居ると、必ずこちらも元気になる。何故なら・・・・・
元気な人の仕事の特徴は、シンプルであり、スピードが速い。底抜けにオープンで裏がない、よって仕事の行く先が共有できる。だから、無駄が少ない、ストレスがない。集まる仲間も元気系・・・つまり一流である。
創造的な集団になる。
だから仕事がもっと元気になる。
“元気は人に連鎖し、ビジネスに連鎖し、きっと世の中にも連鎖する”。
長嶋一茂さんは、そんな“笑顔と元気の伝道師”である。
「今、ご先祖さんの墓参りに行ってきました。何故か、挨拶をしなきゃぁ・・・なんて気分になりまして。心が引かれたんですよ」
「ほんと、故郷っていいですね。ほっとして、疲れた心が解けちゃうみたいで、楽な気持になりますね」
長嶋名誉監督の切手をプロモートした関係で、一茂氏が郵政公社に「1日手紙大使」を依頼された。
訪れたのは長嶋家の故郷である千葉県佐倉市の佐倉郵便局と開催中の名物「チューリップ祭り」。
佐倉郵便局の壁面は、背番号3に象った切手のポスターと“歓迎・長嶋一茂さん”」の文字。駐車場でたくさんの局員さんと、地元の皆さんのお出迎え。
村上局長はじめ、隣町臼井局長の岡野さん、それに関東支社の渡辺さんのきめ細かい配慮に感謝!
郵便局員さんの業務分担表に「長嶋」さんの名前を発見!
「この方は、親戚かも知れませんねぇ。きっと遠縁かなぁ」
僕は、こんな一茂氏の発想を尊敬している。
チューリップ祭りの会場は1000人近い、一茂ファンで溢れていた。
同じタイミングで拍手が起こり、同じ顔で笑っている。同じ気持でスピーチを聞いて、視線はステージの一転集中・・・・・・・・故郷っていいなぁ。
東京から、わずか車で40分。
佐倉は、元気の出る街である。元気のいい人がたくさん居る街である。
2006.03.29
第16号「バンコック・パーティ」
「何処か、海外でした?」
「スミマセン、お邪魔するのがおそくなりました」
ほんの少し握力が、弱くなった気はしたものの、並外れた精神力は健在だった。
「あの鬼塚の代々木みたいな、派手なのをやりましょうよ」
「そうですね、退屈な試合が多いですものねえ」
病に倒れて入院していた先代の金平会長を、見舞いに訪れた日のことを、思い出していた。
確か、お土産に“軍艦マーチ”のなるオルゴールを持っていった。
「ヒガシさんも、ご存知の通り、“うちの家は本当にタイにお世話になってるんです。海老原とキングピッチ以来ですから・・・・30年以上のお付き合いですよ」
タイ陸軍総司令官のムアングマンニー氏主宰の晩餐会には、元首相のタクシン氏の親戚も在籍、先代から続く協栄ボクシングの金平桂一郎氏の東南アジア諸国との“熱い関係”には驚かされた。
昨日の日記にも書いたように、タイの世界チャンピオンを日本に招聘してタイトルマッチを行うのは、ただ単にファイトマネーを積むだけの契約ビジネスでは済まされない。“国家的ヒーローをお借りする”という政治的な義理や人間的な恩を感じてもらわなければ、プロモーターとして二流なのだ。
「今度、ロシアの選手をヒッパッテきますから・・・・・・これからの格闘技はロシアですよ。今、桂ちゃんが修行に行ってますので・・・・・・」
2回目に、病室にお邪魔した時、やや小さくなった顔でクールに事業意欲をのぞかせていた。
まるで自宅にいるようにリラックスして、焼酎に頬を赤らめた現会長の姿が、何処か先代に似てきたのを感じていた。
2006.03.28
第15号「ラジャダムナン・スタジアムは、日本の国技館」
河向うのペニンシュラ・ホテルで食事を済ませた後、車とバイクと自転車の混雑をジグザグにツイストしながらルンピニー・スタジアムにムエタイの観戦に出かけた。
タイの国技でもあるムエタイは、王室系(陸軍系)のラジャダムナンという組織と、警察系のルンピニーという組織に分かれている。
いずれもランキングを持ちチャンピオンは国宝級の待遇を受けている。言ってみれば我が国の相撲と同じようなもの。・・・・・(外国人がこのムエタイの頂点に立つのは至難の業であるが)
馬券売り場のような人混みの中で、ダフ屋らしき女性からリングサイドのチケットを4000円(定価は1000円程度)で購入。中学生ぐらいの場慣れした係員の案内で席に着いた。リングでは、前座の試合を展開中、既に、肘うちで眉間を裂かれた選手が、相手の頭を抱え込み、わき腹(レバー)を膝蹴りで連打していた。賭けの胴元が、双方のリング・サイドに陣取り、攻撃に合わせて声を上げて応援する。・・・(日本でもこの応援の仕方を真似ると良いかなぁ)
どんなに、打たれても顔を歪めない。どんなに出血をしても、動揺しない。太ももが青く痣(あざ)になってもキックを続ける。この戦士たちは意識が無くなる寸前まで、相手に立ち向かう。この白熱した死闘に自らの体温を上げた数千人の観客で、会場の温度は40度近くになっている。
ムエタイの歴史は、タイの歴史を織り込んでいる。アユタヤ王朝時代、隣国ビルマ(ミャンマー)による侵略の危機の中で、素手で敵を打ちのめす為に、国家レベルで教育普及された武術。かつて、捕虜になった味方を釈放する為に、たった一人でミャンマーに殴りこんだ英雄(ランボーだね)もいたようだ。
「全身に毒を持っている」と言われるこのムエタイ。毒の抜かれた、我が国の男性にも是非お薦めしたいスポーツ。
頭の中ばかりで物事を整理することに慣れすぎてしまった若者たちよ!たまには、“痛みや”“出血”を確認しながら、自分の肉体が生きていることを感じるのも悪くないと思うのだが。
神様の創ったルールに従って・・・・・・。
2006.03.27
第14号「サンド・ベージュの河辺のオリエンタル・ホテルのバルコニーから」
タクシン首相(愛国党)の選挙での再任を拒否するデモが、バンコックのあちこちで頻発しているという新聞の記事を読んで警戒していたが、空港からホテルまでは以外にスムーズだった。
部屋のバルコニーから、300メートルほどの河岸を行き交う帆船のようなホテルの艀を見ている。
一般的に文明は水辺で育まれると言われるが、ソープラチャットの水を媒介にして伝播したのは武器や様々な海産物や染物ではなく“タイに住む人々の生きるエネルギー”。
東南アジアの河につき物の茶褐色の“水の帯”は、まるでいろいろな性格を持った人間の様に、流れる街によってイメージが異なる。この河はまるで“象の体内に流れる静かな静脈”のようだ。
ククリット氏と言う作家の名前が付いたこの部屋を担当する男性が、“両手を合わせて”ご挨拶。
あわててチップのバーツを探したが、まだ貨幣価値がピンと理解できていないので、どうも豪勢に振舞ってしまったようだ。・・・・(特に、選挙後はバーツが高騰するなぁ・・・・)
リビングのテーブルに置いてあったバナナや、オレンジや、マスカットなどの果物を少しずつ頬張ってみる。
熱帯性の果実独特の甘い樹液が、喉を潤してくれる。
飛行機で充血した目の上に、冷えたタオルを被せていると、バルコニーの下から船の汽笛が聞こえた。「ヒュー・・・ヒュー」という竹笛のようにも聞こえる。どうも夕方のラッシュが始まり河が込み合っているらしい。
バンコック(晩虚空・・・これは当て字)、携帯電話のコール数が少ないので、久し振りに耳が休んでいる。
2006.03.13
第13号「やきそば礼賛」
“焼き蕎麦”と書かれるより、やはり“焼きソバ”の文字の方が肉感的で、上手そうに見える。
しかも、ここの焼きソバは、小海老(桜海老)で風味を出し、上質の豚肉(脂身と赤身のバランスが3:7)でフライパンで滾る(たぎる)ラードとの甘みを調整し、それでも付きまとう“油のしつこさ”を歯と歯茎の間で爽快に持っていくよう、最後にキャベツともやしを加えるのだろうか?
しかし、色彩的には所詮ソースの“黒土色”である。そこで、昔懐かしい赤いウインナーを乗せる。そう小学生の頃の運動会の弁当のスター。それも8本足の蛸の数刻んでもらい、それにあわせてを8匹を植栽のように・・・・・・・。
車が隅田川を渡る頃に、座席に置いた包みの中から、仄かに“青海苔”が匂い始める。すると不思議と明日元気で起床できそうな気がするはずだ。
モルガンの清水さんとひときわ経済談義を済ませた夜は、私はいつもお土産に“焼きソバ”をお持ち帰りいただく。一方私は、堪えきれずに、朝を待たずに、寝る前に食べてしまう。
2006.03.04
第12号「この朝の桜島は、黒から緑に色を変える」
作家の司馬遼太郎は、この桜島のことを人はもちろん、歴史すらその指紋さえ残せない・・・・・と書いている。
チェックインしたのが夜になったせいか、ホテルのバルコニーから桜島の陰を懸命に捜したが漆黒の錦江湾と、墨のような曇り夜空の向こうに扇形の輪郭さえ見えなかった。
時折、煌く星を頼りに、部屋のソファーに横たわって窓の向こうの桜島を捜していたが見えなかった。
和室の布団で肘をついて、しばらく煙草を燻らしたが、しかし、窓前面に広がるはずの姿は、とうとうその夜には掴めそうになかった。
今回は、父と母と少しは話をしようと思い、目覚ましを午前5時に仕掛け、朝一番のフェリーで垂水に向かおうと思った。上手くいけば、船のデッキから朝焼けを背景に真っ赤な桜島が見えるかもしれない。
うとうとしている内に僕は夢を見ていた。
ほんの短い夢は、白いランニングシャツに、白い短パンツをはいた少年時代の私だった。渚に打ち寄せる波の高さを確かめるようにずっと身動きもしないで、足元の砂を見ていた。少年の向こうで、夕陽が落ちようとしていた。少年が、引き潮を数える度に砂の中に沈んでいく。
林檎色の空が染み出した絵の具のように、やがて流れて垂れて、海を朱に染めている。音楽が流れている。ゆったりとしたフレーニーのオペラのようにも聞こえるし、昨年創作した「記憶」という歌のワンフレーズのようにも聞こえる。誰も居ないのに、誰かの気配がしている。
うつらうつらしていると、携帯電話の目覚ましが鳴った。小刻みにしか眠れなかったせいか、朝7時を過ぎていた。カーテンの隙間をこじ開けて、真っ青な空がシーツを透明にしている。
見たことの無いような清清しい桜島のなだらかな稜線が、あの日の少年の蒼い肩のように思えた。
墓のある垂水に向かう船に乗るころに、きっと彼は若葉色に変わっているだろう。
2006.02.26
第11号「亀田三兄弟の二男大毅君のデビュー試合」
のっぺらとした“みなとみらい横浜”は、小雨模様。それでもホテルに隣接している会場に一歩入ると湯気が立っている。何かの始まりを期待している人と、事実を見届けたい人。
兄興毅に続いて、日本中の格闘技ファンとマスコミが注目している二男大毅君の下馬評は、兄貴より自由で奔放なファイター。そして早い左のフックが強い。
協栄ジムとのお付き合いは、福岡出身のテクニシャン鬼塚選手の世界タイトルマッチのプロモートをして以来、そろそろ20年近くなる。今や貫録のついてきたジム会長の金平桂一郎君は、その頃先代の影でロシア選手の発掘の為にモスクワと東京を行ったり来たりしていた。
「東さん、デビュー戦で、TBSさんがON AIRする選手なんて初めてですよ・・・・・・それにこの人・・・・・の数・・・・」
「スター不在だからね。ボクシングだけじゃないですからね。日本全体がスターに飢えてるんですね」
これから登場する大毅君は、ボクシング業界だけの人材ではなく、大袈裟に言うと、日本の若者が吸い寄せられているストーリー・メーカーに違いない。
試合は、ゴングと同時に27秒で終わった。素手に近いメキシコ製の薄い8オンスのグローブで、あのパンチがヒットしたのでは止むを得ない。この日は、日本のスポーツ・シーンがカレンダーのように一枚捲られた日でもあった。
2006.02.22
第10号「奥湯河原の旅荘 オーベルジュ湯楽」
奥湯河原の旅荘「湯楽」を訪れた。
2002年の日韓共催ワールド・カップのプロモートの仕事で、お世話になった東(あずま)氏から、湯河原の「オーベルジュ 湯楽」という老舗の旅館を購入したという手紙を頂いたので、一度は訪ねてみたいと思っていた。
湯河原温泉に出向く時は、イマジニアの神蔵社長や笹岡薬品の笹岡社長の“年納めの会議”に招待されて旅館「あしかり」に行くのが定番で、真冬の2月にこの地の別な旅館を訪ねるのは初めてのこと。
(私は、風呂から出たときに、ぼぉーと過ごすのが好きで、露天から慌てて這い出して、冷たい風から逃れるように、バタバタするのが嫌いなのでとにかく“冬の温泉”、特に露天は苦手なのだ。)
「とにかく来てよ。上手い食い物を用意するから。」東氏のいつもの強引なお誘いにのって品川から新幹線で小田原まで40分。そこからタクシーで箱根山系に向かって10分ほど川沿いの登り道を走ると、もう温泉街。少しは、景気が回復してきたのか、こころなしかカラオケ店やラーメン屋さんのネオンが綺麗になってきた気がする。・・・・・浴衣姿の温泉客がぞろぞろというには、もう少し時間がかかりそう。
「湯楽」は、部屋風呂のついた3室と16室ほどの豪勢な客室に、地元の魚と、凝った肉料理をフランスレストラン風にアレンジしたダイニングで食べられるのが自慢。
館内のあちこちに展示してある、東氏自身が趣味で集めた高価な絵画が見せ所。
葛飾育ちの奥さんが、東氏の“昔からの夢”に花を添えてくれる。
「とにかくこの人旅館が好きだったんですよ・・・・右も左も判らないので、毎日が大変なんですけどね」
“いい時間を過ごして来た夫婦の、趣味の良さが酒揃いとデザートのケーキの甘さに”しっかりサーブされていた。
2006.02.21
第9号「長嶋監督切手の発売会議」
意識してそうしているわけではないのだが不思議と誕生日の前後は、毎年“記憶に残る”事が多くなる。
今年は、私の人生の“永遠の星”である長嶋茂雄氏と、お茶を飲む機会に恵まれた。
昨年、恵比寿のレストランでお目にかかって以来である。
今回は、郵政省とのタイアップで、名誉監督の「文化勲章受賞記念切手」のプロモーションを依頼されて嬉しくてどきどきしながら引き受けた。しかも対談のお相手は、今最も注目されている郵政省の生田総裁である。
そんな訳で、玄関からの動線やら、東京プリンスの会議室のセットやら、会議のシナリオの作成やらで昨夜から、一睡もしていない。ドキドキして徹夜してしまう程の、“心の振動”なんて滅多に無い喜びでもある。
さて、名誉監督の誕生日は2月20日。ちなみに、この日は、数々の星を輩出する“黄金の日”。
アントニオ猪木氏や、サザンの桑田氏など、日本を代表するスターが生まれている。
1日遅れの僕は、この“うお座”の始まりあたりの日付に、何か運命の強さを感じてしまうのだ。
2006.02.17
第8号「アップリカの葛西社長は、息を吸うように”企業貢献”を行う」
アップリカの葛西社長から「週末のカナダ大使館には、是非来てください」とのお誘いを頂いた。
日本の企業も、1980年代後半から、経団連の3%倶楽部などを中心にフィランソロピー、メセナ、チャリティなどの用語を研究し、企業活動の延長線上に、利益をどう社会に還元するかという視点を持ち始めた。
私が以前勤めていた会社でも、この企業運営上“当たり前のモラル”に関して、宣伝部の研究マターになり、市民マラソンやゴルフ・イベントなど数々の協賛を行っていた。
どうも、最近の目立ちたがり屋さん(企業)を、拝見していると、
「うちの会社、一人で頑張りますから・・・・」的な、受験勉強の弊害を受けた、まるで子供大人のような会社が多い。・・・・・・・・経営者の小児化かなぁ????
「簡単に言うと、従業員が働いていけるのは、そもそも最初に、社会インフラ(道路や水、通勤電車)があるお陰なんだよ・・・・・・・・・」先日も、ある大手のITインフラの役員に物申した。
さて私の友人の中でも(知る限り)、アップリカの葛西社長は、チャリティ(社会還元)の第一人者である。横で笑っているサントリーの鳥井社長もたくさんの“上品な利益還元”を行っている。(詳しくはHPを)
二人の共通項は極めて、奥行きのある企業運営を目指していること。
この夜は、カナダのカンタベリー大学の中にある、「日本研究専門学科」を、育成しようという企画。
考えてみれば、今や、我が国のコンパ好きの幼稚な大学生に、日本を真面目に研究してもらうより、“海の向こうの理解者”を育てた方が、早いかもしれない。
2006.02.15
第7号「芝大門更科布屋 季節のおそば」
オフィスにしている東京プリンスから増上寺の庭を抜けて、芝の大門をくぐると旧東海道。
さらに、浜松町方面に50メートル歩いた左側に、芝大門更科布屋そばがある。
芝公園のあたりは、江戸時代の古地図を眺めていても、楽しいエリアだったことを髣髴とさせる。
増上寺の表参堂には、たくさんの露天が並んでいただろうし、街の裏側には遊郭もある。
江戸城に向かう参勤交代の大名達は、蕎麦屋の前で行列の歩を休めると、砂浜に並んだ松(浜松町)の木陰で、“芝海老”を掬う漁師を眺めたり、笊から顔を出す“江戸前のあなご”・・・。それを天麩羅にして蕎麦に浮かべたりしたのだろう。
「芝大門更科布屋そば」は創業寛政というから約200年の歴史を誇る。
此処の名物は、1年12ヶ月わたりそれぞれの月に旬のネタを主人公に取り合わせたメニューである。
今月は、「梅蕎麦」。
ざるに、盛られた薄いピンク色の蕎麦から、微かに梅の香りがする。
いつも同じ臭いのするインスタントとは違って、“今しか食べられないし、匂わないし、飲み込めない”のが嬉しい。
「春が近いな・・・・・表の風は鋭く冷たいけど」
来月は「さくらそば」、ちなみに、冬の名物(12月)は体を芯から温める「生姜そば」であった。
2006.02.04
第6号「鹿児島・天文館のラーメン 小金田」
天文館の裏手の公園の横に、タクシーの運転手さんなら誰でも“一押し”のラーメン店「小金太」がある。
実家の母に、ハンバークをおねだりするには遅すぎる時間なので、並ぶのを覚悟で天文館の「小金太」に向かった。
首都圏に進出しているラーメン店はその殆どが福岡か札幌に本陣を置いている。その為、鹿児島のラーメンの知名度は低い。鹿児島の名産から黒豚と地鳥とさつま揚げはイメージ出来ても、ラーメンを連想する人が意外と少ないのである。しかし空港あたりの薩摩のラーメン(山形屋)を時間に追われてほんの一杯かけこんでも、味は絶品である。
「小金太」のそれは濃縮豚骨ベースではあるが、鳥ガラの調合と、多分魚の骨を充分に煮出し、“シラス台地の水”でコしてあるので、見かけと異なり意外なほど、さっぱりしている。
その上に、チャーシューの黒豚(角煮)は18番、素材も量も・・・言わずと日本一に決まっている。
老舗の「こむらさき」や黒岩といった地元の一流店よりも、その軽妙な油の配合に”舌が懐く、絡まる、魘される”。
食べ放題の薩摩大根をかじりながら、待つこと5分、・・・・
「熱いですよ!」と言ってテーブルに並ぶ頃には、舌の裏から喉の奥まで唾が溢れている。
ついでに、チャーハンとギョーザも侮れない。
2006.02.03
第5号「沖縄から鹿児島に満席の小舟が飛んだ」
照屋林賢さんに新年の挨拶を・・・・と言うことで、ゴルフも兼ねて1ヶ月ぶりに沖縄。
この島を訪れると、いつも必ずもう一つの”島”に申し訳ない気持になる。“薩摩”。
羽田を離陸して丁度1時間を過ぎたあたりに、飛行機は鹿児島の上空にさしかかる。
12000フィートの空の上から、実家の屋根が見えるはずも無いのだが、一応窓の下を覗いてみる。
一面の分厚い雲の下に、青みがかった海が僅かに見え隠れする。
「(今回も、通り過ぎちゃったなぁ・・・・・みんな元気だろうか?)」
そんな自己嫌悪に近い感情が嫌で、バタバタするのは承知でスケジュール帳をジグザグに駆使した。ゴルフ終了後バッグを宅配便に任せ、風呂も浴びずに、タクシーに飛び乗り、夕方の便で鹿児島空港に。
那覇の35番ゲートのガラス窓の向こうに、小舟のような飛行機が見える。・・・・・嫌な感じ・・・・。
桜島のあたりで揺れそうだなぁ。でも僅か1時間のフライトだから・・・・・。
飛行機に乗り込む寸前に、濃い紫色の花びらをつけた「デンファレ」が咲いていた。
この花は蘭の一種で、儀式に登場する名花である。沖縄では結婚式や祝いの席で良く見かける。
同じ南の方角であっても沖縄と鹿児島の温度差はゆうに10度。今晩の鹿児島は真冬の寒さらしい。
大した用も無く、故郷を訪ねるのも、今の僕には大切な儀式になっている。
2006.01.31
第4号「ムツゴロウさんの動物王国は、犬と猫と馬のお勉強に最適!」
ムツゴロウさんの本を学生時代に何冊愛読しただろうか?
ムツゴロウさんと言えば、あの頃毎晩のように酒を酌み交わした友人の中でも、ぷっつり縁遠くなってしまったカマヤツ君(本名:森祐二氏)を思い出す。
カマヤツ君はムツゴロウさんの本に、すっかり魅せられ在籍していた理学部から突然畜産医学部に転部した。無論肩まで伸びた長髪で、フォークギターを柔らかく弾いていた。
当時(1973年頃)は、学生運動もほぼ収まり、その分散した革命志向の支流の中にヒッピーのような原始的な生活に憧れる“自然回帰”派が登場していた。
厳寒の北海道に動物の楽園を創設したムツゴロウ氏は、そんな若者達の憧れでもあった。
P&Sの横井さんからムツゴロウ動物王国のプロモーションを依頼されて、中央高速を八王子方面に向かっている。調布インターを過ぎて学生時代を過ごした小金井のあたりを横目で見ながらそんなことをボォーと考えていた。
動物王国は、犬や猫や馬(ドサンコ)が、我々人類との柵も無く、のびのびと個性的にふらふらと集い共生するエリア(動物園というよりは、広場)である。チケットブースで石川園長(写真)が出迎えてくれて、
「犬ちゃんにとって、飼い主以外の人に紐を持たれて散歩されるのが一番屈辱なんですよ」
「老犬は可哀想じゃないんですよ・・・・老化したって感情が無いので自然に横たわってるだけなんですよ」
早くもいろいろな知識を披露してくれる。
春になると桜で一面総ピンクに染める丘に向かう途中、梅雨明けは蛍が舞い飛ぶ小川が流れている。
あちこちに灰皿があるのが嬉しい。ムツゴロウさんは愛煙家なのである。
ドサンコ(馬)に乗って、八王子の丘陵を歩くコースが大人気、カフェやカラオケに飽きた恋人達にはお薦めのデート・スポットでもある。
さて、人気の動物園にするには、どうやって脚色しようか?人工的なセットがお好きなマーケットを説得するのにはムツゴロウさんの本を読んでもらうのが早いのだが・・・・・・・・・・
2006.01.29
第3号「杉並区の和田中の藤原校長は、僕の“人生の栄養源”」
昨年の秋から、僕はこの日を手帳に赤くマークして楽しみにしていた。
30年来の友人の藤原氏から
「絶対に見てください!中学校に来てください!凄く面白い演劇ですよ!」と何度も念を押されていた。
和田中にお邪魔するのは、2回目。
生徒達に“生の社会や大人”を学ばせる「よのなか科」(藤原校長が設置)の講師として何故か?ギター演奏を頼まれて以来。
それは、大橋さんという女性プロデューサーが演出する彼女自身の半生記のミュージカルだった。
肌寒い校舎を抜けて、和田中の体育館に一歩足を踏み入れると、季節が違うのではないかと思うほど熱かった。
腰痛持ちの僕は、床に座り込んで既に始まっていた目の前の女性ダンサーたちの躍動を見上げた。
「誰が、どのタイミングで、指揮をしてるんだろうね?」
「東さん、“心の繋がり”がひとつひとつの合図なんですよ」
リハーサルの合間に、プロデューサーの大橋さんを紹介された。ダンスで鍛え上げた健康的な筋肉体に、愛らしい笑顔。
藤原氏が僕の紹介をすると、広報の加藤さんの手話を介して
「是非とも、私たちのミュージカルを応援してください」とニッコリ頼まれた。
どうして耳の不自由な何十人ものダンサー達が、あんなにも際だったタイミングで踊れるのか?壮絶な練習方法、密度の高いリハの時間、それに個々のダンサーの能力・・・・
きっと僕たちが失っている特殊なセンスが、あのチームワークを創りあげているんだなぁ。
大橋さんの肩越しに体育館の窓が見える。
「何事も活発積極、和田中生」というスローガンが貼ってある。
藤原氏と会うと、いつも“人生の芯とはずれている自分”に気がつかされる。
久し振りにいい日曜日である。
2006.01.14
第2号「ケニーG氏東京公演でのハプニングというより、サプライズ!」
そもそもこの写真で何処か不思議な発見がありませんか??!!青いステージライト・・・・!
そうなんです、安倍官房長官やソフトバンクの孫会長の向こうに見える舞台のライティングは、公演まであと5分のスタンバイ状態なのです。
スポンサーでもある日本テレコムの富村副社長(彼はリクルート以来からの大親友)との打ち合わせで本来はコンサート終了後に楽屋で挨拶をするはずだったのです。
「ケニー・・・・、開演が近いのですが、スポンサーでもある日本のビル・ゲイツと言われる孫会長と、阿部官房長官が見に来てますよ」
「え?本当、じゃぁご挨拶に行きますよ」
と言うことで、舞台に上がる寸前のアーティストが客席に顔を出し記念写真。これ、本当に珍しい事。
会場は思わぬところからのケニーGの登場に満場の拍手。
「良かったんじゃない!みんなが喜んだから」
入院中の病院からわざわざ現場にお見えになった、キョードー東京の嵐田さんらしいスポンサー配慮であった。
2006.01.13
第1号「男のロマン・・・・千葉ちゃんのラーメンは、世界一!・・・これ本当!」
葛西のロッテ・ゴルフ場の帰りに、新年のご挨拶に「ちばき屋」を覗いた。
千葉ちゃんとの、お付き合いはかれこれ20年以上。
赤坂にある当時行きつけの「楽屋」という、スナックで・・あの頃は確か松山千春を唄っていた。
僕は、夜な夜なリクルートの販売部のメンバーを集めては、朝になるまで“のど自慢”(と言うよりはコンサート)。この楽屋の客の歌唱力の高さは抜群で、まかり間違って接待のお客様などを連れて行くと、逆効果。唄を唄いにお連れした大切なお客様が、すっかり萎縮してしまい、かえってマイクから遠ざかり、聞き手に回ってしまい、ストレスをためて、深夜まで引きずり回しの接待は失敗と言うことになる。
千葉ちゃんはこの中でも群を抜く“喉の持ち主で”、僕は彼のまじめ“唄いまわし”が大好きだった。
或る夜の朝方、少し酒が回ってカウンターでうつ伏せになっていた僕の横に座り、
「ヒガシちゃん、今度ラーメン屋をやろうと思ってるんだ、やるなら日本で一番の店を作るよ、自信あっから・・・・」
当時、一応サラリーマンでもだった僕は、この自由な英断(転職・投資)に驚き、うらやましく思った。(・・・腕に職ってやっぱり強いな)
ちばき屋の麺は、細めんである。独特の山吹色のちじみ麺を、その周辺のスープを適当に巻き添えにして舌に乗せる。流行の濃いとんこつでも無く、醤油でもなく、鶏がらと、豚骨と、何かを???コシにコシた淡白なスープ。具は、豚骨ばら肉にのりを入れてもらうのがお薦め(僕は、好き)。
味は、絶対。というのも、あるCVSチェーンが「ちばき屋」ブランドで、販売して、リピーターを集めこの種のコラボ商品としては記録的な売り上げを残している。
千葉ちゃんに会うなら・・・・・・・・ちばき屋 葛西店 03−3675−3300、
近場なら、・・・・・・・・・・・・・・・・お台場店 03−3599−1067
船橋、仙台、大阪にも出店している。
2005.12.28
第18号「沖縄の林賢バンドは、僕の・・・・・・心の薬」
ここ数年、年末になると、特に大晦日のあたりは雑多なイベントに追われるので林賢さんへの挨拶は、クリスマス明けが恒例になっている。
那覇は、鹿児島に次いで僕の二番目の故郷である。飛行機の窓から青い珊瑚の海が見えると、動脈ばかりが騒がしい東京の生活から、ゆっくりと静脈が流れ始める。すると、決まって林賢バンドの「満天の星」が聞こえ始める。
林賢さんとの付き合いは、かれこれ20年近くになる。お互い南の暖かい風に育てられたということもあり、お目にかかったその日から“何百年も一緒に遊んできた友人”のように思えた。
それ以来、アジアの各国からアーティストを集めた音楽祭を開催したり、僕自身のレコーディングで彼のスタジオをお借りしたり・・・・・音楽を“ネタ”にたくさんお世話になっている。
沖縄の真ん中辺りに北谷という新しい商業エリアがある。林賢さんはこの海沿いの一番良い場所を陣取ってスタジオを創設した。
“あの風靡な林賢サウンド”をひらめいた時に録音し、となりのライブハウスでその新曲を発表し、世界中のファンたちとレストランで日夜語り合っている。アーティストとしては、まさにこれ以上ない理想郷。
東京が凍える4度だというのに、今日は20度。
みゅんちーさん(林賢バンドのボーカリスト)にお付き合いいただき、琉球カントリーに出かけた。スコアーより、強い風の中で大きな声でやり合う彼との会話が楽しみなのだ。
このコースの名物はあの「ソーキそば」。5分でテーブルに来るので、赤い生姜を一杯入れて、3分でたいらげる。
僕のようなそそっかしい奴でも、受け入れてくれる沖縄。
2005.12.20
第17号「湯河原の小料理「かまりゅう」は、絶対に秘密の“おもちゃ箱”」
ヤフーの川邊氏のお誘いがあって、湯河原の小料理屋に・・・・出かけた。
湯河原といえば、年末になるとイマジニアの神蔵氏と、ブレストの為に何度も訪れている「あしかり」に行くのが習慣になっている。
新幹線を使うと1時間以内、小田原で伊豆急行に乗換えるあたりには、すっかり旅行気分にしてくれる手軽な癒しのエリアである。
「湯河原に行きませんか?予約をしなければ、入れてくれない変わった料理屋がありますよ。何か、面白い人生を送っている料理人がいるって話もありますし」
川邊氏は、IT系(ヤフー)の寵児という安易な紹介では申し訳けない程、アナログ・センスの持ち主。
PCや携帯一辺倒になりがちな生活感覚のIT業界人が多い中でも、リアル(生の現実)のバランスがとれた常識人でもある。従って、彼の話はいつも、義理や人情があり、何より事実であり“血が通っている”。
だから、いつも彼の誘いにつられる。そして乗る。
というわけで、駅から湾に向かって徒歩10分。「かまりゅう」は湯河原の普通の住宅街の中のある。それも二階はアパート風。料亭のイメージを描いている人なら確実に通り過ぎる。しかし不思議なことに地元のタクシーなら、誰でもこの迷路の中の一軒を知っているらしい。それほど“上手い”のである。
カウンターの向こうから、丹前を着た蒲田氏がどんどん料理を提供してくれる。地元物の鯵、烏賊の刺身から始まって日本酒で酔わせた蝦の踊り食い、何を創作しているかと思いきやカサゴと思われる揚げ物。・・・・。30種類ほどの豊富な材を、或る時はアジアン・テイストに、ものによってはフレンチに、それはまるで子供が次々に自慢のおもちゃを客人に披露しているかのように。グルメおもちゃのライブ・ショーである。
8畳ほどの店内の柱と壁に、見事な筆で書かれた品書きや、能書きや、一筆らしき絵が張ってある。
つまり蒲田さんは筆の達人でも或るのだ。そしてフルコース3500円。飲料持込可。
“男の人生とは披露(技)できるものが多い人ほど、素敵”なのである。
最後に登場した白身魚満載の鍋をつつきながら、すっかり満腹の僕は、川邊君とその仲間の将来に乾杯をしていた。
*この店に是非行きたいと思っている方は、電話番号を紹介します。・・・・・当たり前ですが、ホームページなんかありませんし、要りません。
2005.11.26
第16号「摩娑斗氏の美しきオーラ」
写真集プロデュースの仕事で三軒茶屋にある魔娑斗氏のジムを訪れた。
人間が“肉を食べる動物”である限り、雄も雌も、強くて美しいものに憧れる。
ローマのコロッセウムで猛獣と戦った筋肉兵士も、スクリーンでアオーと叫んだターザンも我等人類の食欲が闘争化したシンボル商品であり、“飢餓感の象徴”であり、根源的には“倒して食べるという胃袋”のニーズから発生している。
したがって彼らの象徴的イメージは“強いものは残忍で醜いもの”とうのが歴然たる事実。
特に、昨今視聴率競争を展開している格闘技や人気底のプロレスや国際化してしまった相撲などが作り出したヒット・ストーリーのツボは、“嫌われるほど醜いキャラととても勝てそうでない繊細で知的な美男子が”が繰り広げる大一番での演出次第である。
しかし、市場は別の要素でも変化する。それは、雄と雌の支持率によるものが大きい。”美しき猛獣”の誕生である。多分、アントニオ猪木氏の登場以来、貴乃花そしてミルコ・クロコップあたりまで、最近では“美しく強いキャラ”でなければ客が来ない。
彼らがリングの上で冷酷な野獣に変身する劇画を楽しみにしている客が増えている。
その中で、魔娑斗氏の放つオーラには何処か“ひと昔まえのヒーロー”の色を感じるのだ。
それは、武士道にも共通する潔さとやさしさ、人を倒すことへの照れ、恐怖、恥じらいなのではなかろうか。
2005.11.20
第15号「迷信」
極秘来日したスティービーワンダー氏にお目にかかった。
「どんな音楽を聴いているの?」と聞かれたので
「思春期に映画『卒業』にぞっこん魅せられてから、現在に至るまでサイモンとガーファンクルの音楽が僕の聖書なんです」と答えたら、
「あれはいい詩だね、音楽は何億人もの人生を支えているんだよ・・・・今もね」
「それから、若い頃にあなたの『迷信』も、良く聴かせてもらいました」「そうですか、メロディーはどんな人にも通じるからね」
スティービー氏があまりにも尊厳な存在で、おそろしく柔らかなハートなので僕の言葉が蚤のように小さく感じた。
アルバル・タイトル通りスティービーを人生の鍵としている人(「KEY OF LIFE」)は、何億人いるのだろう?
2005.11.06
第14号「リアルタイム韓国放送の意義」
韓国のMBCの範社長に招かれてソウルでランチ・ミーティング
日本の在日韓国人の数は約70万人、韓国からのビジネス・ユースも含めた滞日韓国人の数は230万人。映画「シュリ」が火付け役になった韓国ブームはワールドカップの共同開催で“我が国に完全に根を張り”・・・・今や、ヨン様、グォン様、ビョンホン様、ウォン様、ピー様と何やら大名行列の様である。
最初に放映したNHKの友人も「正直、砂山から金でした」などと唖然驚愕抱腹万歳なのである。
一方で不思議なことに、飛行機で僅か2時間の韓国のTV番組をリアルタイムで見る事は先方の法律で不可、つまり放映禁止(地上波は)となっている。(コンナ不便なことはナイ!)と思っていた矢先に、ソウルに本社を置くKBS、MBC、SBSなどの各局から、「日本でも放映したい・・・・・」との問い合わせがあった。
これ以上は、企業秘密。2006年はみなさんのご自宅や、ホテルでいつでも”旬の韓流”がオンエアーされることになった。
そういえば、ハワイに住む友人が紅白歌合戦を見たいと言ってたっけ!
2005.11.05
第13号「中内さんは、永遠の教科書」
中内会長のご葬儀は神戸の流通科学大学で、しめやかに、しめやかに・・・・・・・
僕の人生で、会長という役職名がピッタリ似合うのは、ダイエー・グループ創業者の中内功さん一人であろう。大きな鼻で繊細に人を読み、カスタマーの中を早足で歩くまさに巨像であった。
日刊ゲンダイの川鍋代表のご紹介で初めてお目にかかったのは、1992年の春。
芝公園にあったダイエー本社の会長室で、インスタント・コーヒーを紙コップで頂いて以来、福岡、沖縄、上海、アメリカと視察兼ストレス解消(今思えば)の旅に付き添わせて頂いた。
10数年、ずぅぅぅぅぅ・・・ぅぅぅっと”人生の先を走り続けた先生”の背後で、”この偉大な事業家”を恋人のように慕い続けてきた。
「東さんは、いつも元気やねぇ」
お目にかかるときの第一声はいつもこうだった。
その言葉で僕は、もっと元気になった。
「功会長との仕事はやがて思い出に変わり、今日も、いつでも紐解ける僕の大切な教科書になっている」
2005.11.02
第12号「芦原温泉・紅屋にて」
S化粧品のI氏が代表を務める福井のゴルフ場で、冬が来る前に裏日本で一戦交え
ようという話になった。
宿敵がゴルフ場に前泊して充分な睡眠をとるようだ・・・・と聞いて、慌てて僕も金曜日の最終便で小松空港に向かった。
ところが空港に着いたのはいいが福井、石川あたりの温泉場は、昨今の格安温泉プランなどの企画商品が爆売れしているらしく、超満員、素泊まりなどはもってのほか、”猫の寝るすき間すら無いのだ”。
ましてやいつも”ふらりと予約なしで旅をする”僕は呆然自失。冬が近づく冷たい小雨の日本海の砂浜に呆然と立ちすくみ・・・と言うことですっかり気持がダブル・ボギー。
こんな時は必ず出番が回るJTBの原田君に、緊急出動をお願いした。
「最高級旅館の、一番いい部屋しか空き室が・・・・」
散財覚悟でお邪魔したのが有名旅館の「紅や」である。
ここの自慢は、和風庭園。クリスマス・ツリーのように、三角形に縄張りの雪支度をした松が、
鹿児島産まれの僕にはとても新鮮だった。
万事がこの準備不足である・・・・ゴルフのスコアーも大散財となってしまった。
2005.10.23
第10号「浪速の3兄弟は、日本を救う」
金平桂一郎氏(協栄ジム会長)からスパーリングをお見せしたいと連絡が入った。
協栄ボクシング・ジムに、(30年に1人の逸材が3兄弟分合わせると、100年に一人とも思われる)・・・・亀田3兄弟が移籍してきた。大阪(浪速)の西成で、父史郎さんが開発した全く独自の練習方法でスーパー・サイボーグ・格闘家として鍛錬された興毅君(19歳)、大毅君(17歳)、和毅君(14歳)である。
僕が具志堅さんや、鬼塚さんの世界タイトルマッチをお手伝いしていた頃と比べると、現在のボクシング業界は極めて脆弱。要は、世界級の選手が育たないのだ。この時代にボクサーと言うストイックな職業を目指す若者が少ないのは、当たりまえだが、それ以上に”若者のこころ”が変化してきている。
つまり正正堂々と戦わなくなった”日本の大人たちが一番の要因。裏側でずる賢く、政略的に、金と権力の力で利権を手に入れるのが勝ち組といわれる。そして”賢い”人たちは、決してボクサーのように血や汗を流さない。流した血や汗を人に売買するために、リングサイド(ポータル)を陣取っているのだ。
僕は、どんなことがあっても、この3兄弟を応援して行こうと思っている。
亀田3兄弟に触発されて”真正面で打ち合う”ことの潔さを感じた若者が少しでも評価されるように!
2005.10.23
第11号「嵐山の艀」
嵐山西武グループの経営の一角を担う大橋さんのご招待で、久々猛暑の嵐山を訪れた。
琵琶湖のほとりのプリンスタワーで一泊し、翌日杉田ゴルフ場で親善コンペを・・・・というお電話を頂いたので、時間があったら湖に流れ込んでいる川の上流にもあたる嵐山で「鴨のお鍋」を食したいとずうずうしくも、無理をお願いした。
嵐山に近づく道は、修学旅行のバスや観光タクシーが狭い道を塞ぐのでいつも必ず渋滞になる。
このイライラから解消されて、のんびりとした艀で料亭に向かうと、気分は180度変わる。東京の分刻みで動いている時間軸がほぐれてくる。すると食欲も一層増すのだ。
2005.07.15
第9号「小倉優子は【オンライン・ゲーム】を制覇する!」
(株)フェイスを経営する友人の平澤代表のプロジェクトで、「Rose On Line」というゲームの記者会見を依頼された。
そもそも平澤さん自身が、21世紀の産業という海を走る日本丸の船長のような人だから、何も韓流あたりのゲームを開発販売することも無さそうだ・・・・とは思ったものの・・・・いやいやプレーしてみると意外と面白い。もし、僕が16歳あたりの“少年期”に帰れたら、母の目を盗んで連日徹夜、“目に見えない敵”との決戦に目を紅くするかもしれない。
一般的に、我が国のオン・ライン・ゲーム市場は、お隣の韓国と比較すると5年程度の遅れをとっている。
おそらく市場規模で600億円程度、しかしこの冬に発売予定のマイクロソフトの「Xb 0 x360」をはじめとする新型のゲーム機が対応可能になっていることもありユーザー層は、飛躍的に拡大するであろう。
そんなこんなで、平澤代表と“何処か根の暗い秋葉族も取り込んでより健康的なゲーム市場を開発にしたい”というのが、ふたりの合言葉。
記者会見の終了後のパーティではゲーム・キャラクター兼司会の小倉優子氏も「村上バンド(ファンド)の村上さんから一言・・・・?!」などど健康的な笑いに包まれていた。
楽しみな船出である。平澤さんの”知性と良心”は、若者を変える。
2005.05.23
月島もんじゃ
2005.05.22
第8号「大人の為の、大人による・・・・ジョージ・ウインストン2005:東京公演」
日本テレコムさんにスポンサーに成って頂き、ジョージ・ウインストンのコンサートをプロモートした。
大親友の日本テレコムの富村氏(元リクルート)から、”地味でも、質の高い、本物のいい音楽”を提供したいというオーダーもあり、真っ先に浮かんだ音楽家は、ウィンダムヒル・レーベルの時代から40年近くも根強い人気のあるジョージ・ウィンストン氏だ。・・・・・(彼なら、一流で、お客様が通であればあるほど、高い評価をいただける)
と言うわけで、渋谷のオーチャード・ホールは、一見しても判るような玄人音楽ファンで超満員。それにテレコムさんの招待客(VIP)が加わり、一層荘厳な空気を漂わせている。
ステージ上に、漆黒のグランド・ピアノが一台。装飾と言う装飾は一切無し。まるで、竜安寺の石庭を思わせる。このアーティストそのものが質素で簡素、“音とメロディー”以外のものは無駄なのである。
そもそも、“体を動かす音で構成された音楽舞台”に、支配されすぎたのが、日本の業界。
其処に近づく、”大人の音楽マーケット”を、本気で考えている人も少ない。
つまりこのコンサートは、近未来の音楽ファンに贈るテレコムさんと、僕の“音楽文化の実験ライブ”でもあるのだ。
テレコムさんの粋な計らいで、コンサート終了後に、簡単なパーティが開催された。
普段、この種のクライアント実施の場には、めったに顔を見せないジョージもTシャツ姿で参加。
10分前にコンサートを終えたばかりなのに、疲れも見せず満面の笑顔で写真撮影から、サインまで徹底して応じてくれた。
「Mr.ヒガシ、日本も音楽が解る人が増えてきたね。すごく気分がいいよ・・・」
楽屋に帰る通路で、細くて長い指で、永くて熱い握手を求められた。
音楽を愛する日本テレコムの倉重社長、富村副社長、松原部長、そしてキョードー東京さんに、感謝!感謝
2005.05.07
第7号「石和の駅」
友人のフェルドマンさんの別荘に招かれて、早朝の「あずさ7号」で石和温泉に向かった。
中央線は肉体で言うと、心臓に向かって深深と走る静脈のような路線。
神奈川、山梨、長野と徐々に列島の最深部に向かい潜るように山間を縫って走る。
車窓から“森の精”が入り込んできて、乗客を何処か神聖な気分にさせてくれる。
残雪を僅かに残した南アルプス連峰が見え始めた頃、葡萄や桃の果樹園が線路の左右に拡がり、小さな農家が散在するのが、なんとも心を和ませてくれる。
8号車には連休中にも関わらず、客が僕一人しか乗車してない。
孤独で、静寂であることが、最高のバケーションである。
2005.05.04
第6号「若者は“ヒーローを闘いに求めている”K1ミドル級戦」
人生の目的や生きていく意義がなかなか見つからない。
社会の仕掛けが複雑で、自分という存在が“解りにくい”時代なんだろう。
そこで、若者たちはヒーローを求める。
簡単に捜せるヒーローを。
自分をヒーローに擬えるために(なぞらえ)、さらに“なりきって”感情を移入するには、何といってもスポーツ選手、中でも格闘技の選手が一番である。
この日K1ミドル級に、集まった”ヒーロー探し”の観客は1万人。
今日は、四角いリングに、10000人の人生が燃焼するのだ。
2005.04.28
第5号「渡さんは自転車に乗って天国に出かけた」
「小金井公会堂で追悼コンサートなんて先輩らしいですね」久しぶりに乗り込んだ中央線の窓に、30年前と同じように自分の顔を映している。
少しも変わってないなぁ?
ここ数年、思想も文化も哲学も感じない最近の僕の生活?
昔の仲間がステージで唄うのを、舞台の袖でそっと見ていた。
アンコールの曲が終わるとステージ中央に掲げてあった高田渡さんの遺影が、吊り上げられて・・・天国に昇っていった。
「やぁ久し振り・・・」てな感じで楽屋に行くのも気が引ける。
かといって、このまま帰るには、なんとなく中途半端な気分。
ファンが出て行くのを待って、舞台の最前列に飾ってある高田渡さんの写真に近づいた。
たくさんの花と日本酒の向こうに、“自分のサイズどおりに生きいく事に徹した渡さん”が在る。
2005.04.09
第4号「朝靄の桜島」
心が騒がしい毎日を繰り返していると、不意に先祖の墓参りに行きたくなる。
この日は、早起きをして、午前6時過ぎの垂水行きの船に乗った。
デッキで深呼吸をすると、体中の毛細血管が、何百年も前からの風に癒されてくる。
穏やかな湖のような錦港湾はまだ布団の中。
その時、誰かの声が聞こえたような気がした。
何十人の東家のOBたちが、桜島の麓から手を振っている。
「また帰ってきましたよ」と、僕は“逢いコンタクト”。
2005.03.18
第3号「照屋林賢さん」
沖縄は僕の故郷である。
それは林賢さんがいるから。
彼の北谷(チャタン)のスタジオに顔を出すと、もう一人の僕を引っ張り出してくれる。
それは、“ゆっくりと、おだやかな、バンド・・・・メロディー”を愛する僕。
2005.02.12
第2号「築地場内のPRIDE」
TVや雑誌でたくさん報道・特集されたせいか、この築地の場内にある食堂街は、まるで大晦日の御徒町のように人が群れている。
というより、今日本中で、しかも365日客を並べる商店街だ。
特に、軒を並べた数件の寿司屋の前は何処も20人からの客待ちで、冬の寒風の中30分は待たされる。
日本各地の漁港の風をそのまま蓄えた、新鮮な魚の臭いにそろそろ鼻がなじんだ頃、やっとカウンターに案内される。
仕事のない土曜日の朝、早起きをして僕は築地を訪れる。
ここで季節の焼き魚を食べていると、気のせいだがこの“情け容赦のない今日の日本”に負けない気がするのだ。
今、隣でビールを飲んでいる中年のご夫人なんか、昨夜からの徹夜仕事をさっき終えて・・・とにかく上機嫌。
景気のいいときはそれなりに・・・悪いなら悪い時もそれなりに。
今日一日という相手に、猛然と体一杯のエネルギーをぶっつけて、今その戦いを終えた勇気ある戦士なのだ。
そういえば「プライド」と言う格闘技があるが、プライドとは“完全燃焼”の事を言うんですよ・・・友人の高田君も言っていた。
解るなぁ・・・悩み多き日本。プライドなき日本。
2005.01.31
第1号「動き出す楽天!」
骨太で巨大なクレーンが、この春から宮城仙台野球場を賑わす楽天球団が既に勝ち誇ったかのようにその先端を空に向けている。
湿度も雲も風もない東北の青空は、昨日の豪雪が嘘のような青だ。
このまだ芽の出ない土筆のような匂いとときめきに、僕は1993年の福岡を思い出している。
「まだ工事中で危ないですから、ヘルメットを被ってください。とにかく何から何まで初めてで、野球の勝負も何もありませんよ、出来の悪い子供にピカピカの洋服ですわ」
この球団のオーナーのN氏は鈍く光る金属の円盤状の屋根を、指でさしながらにこりと笑った。
「例え優勝できなくても、阪神のように人が集まるチームが理想ですよね。来年も5位くらいでしょうが・・・」
「そんなチームが出来れば怖いものなしですね・・・それより福岡の人って“祭りが”好きだし、このドームそのものを愛してくれる空間にする方が、かえって事業的に成功しやすいのでは?」
優勝するなんて不可能な夢だとしか思えなかった僕は、この会話から申し訳ない様に遠ざかった。
あれから10年。ダイエー・ホークスは安定した戦力で日本一を争う球団に成長し、何度も中州、天神で“うれし涙”を流し、そして昨年、まるで革命のようにあっと間に所有者が代わり、球団名も変わった。
「何から何まで0から始まるんですよね。4月の開幕に間に合わせないとなぁ・・・・」
まだ作りかけのバックネット裏のベンチで僕はぼおっと座っている。楽天の小澤氏はいつになく複雑な顔。
“胎児がこの世に産まれる瞬間”のエネルギーは、その人生で一番激烈に、強引に放射するのではないだろうか?
頑張れ、ゴールデン・イーグルス・・・・・・僕は自分を応援することをしばらく忘れていたのかもしれない。
2003.09.12
9月12日(金)忘れていた夏が、最後の自己主張をするように連日の激暑。車の室温が80度になっている。相棒と二人で愛宕タワーにある「クリントエグゼ・慈恵医科大」で1年振りに人間ドッグ。(1人では、心細いので・・・・)
電話で予約の確認をしたときに
「胃の中を空っぽにしていてくださいよ。東さんはお酒と晩御飯が我慢できるかしら?今夜食べちゃうと食べものの残影が残って意味がありませんから」
と念を押されたにもかかわらず、空腹で眠れなくなり、しょうがなくボォーット深夜テレビを見ていたら、例の“あの画面”。
いても立ってもいられず・・・・チキン・ラーメンに卵をかけてまだ硬いまままの麺をシュルシュルと音を立てて食べてしまった。
僕は胃カメラも喉が詰まりそうで呼吸困難を起こすし、MRIにおいては密室恐怖症、中でも血液検査は大の苦手で幼児の頃から全くの幼児の恐怖心を持ったまま・・・注射器に吸い取られる血を見ていると、眼前の景色が真っ暗闇になってしまう。
だったら、見なきゃいいだけの話であるが、神経の昂ぶりを押さえるために、反射的に人一倍針の先端を注視してしまうのだ。
一体どこからいつから、こんなに病院が嫌いになったのかは別にして、やがて年老いて色々な病と闘わなければいけなくなるわけだが・・・・と考えるといつも底知れない憂鬱に襲われる。
2003.08.20
8月20日(水)増上寺の木々の枝に隠れて、アブラゼミや、ヒグラシが「秋が来るよ、夏が往くよ」と鳴いている。
仲間から外れた1匹のクマゼミが、鳴くのに飽きたのか冷え冷えしたプールを越えて、ホテルの窓から部屋の中に飛び込んできて、風を入れるために束ねてあったレースのカーテンに停まった。
気象庁の予報があまりに大きく外れるので、誰もが半信半疑で新聞の天気図を見ている。梅雨は明けたのだろうか?ここのところ10月下旬の気候が続き、セーターを羽織っている女性も見かけるほど。
客人から携帯メールが届き、盆明けの5、10日ということで、首都高速の渋谷線も大渋滞と・・・・・いらいら。
さっきの蝉は一服したのか、来たときより涼しげに羽の回転数を上げて、どんよりした雲の向こうの積乱雲を見つけに、勢いよく飛び出していった。
「少し、太ったかなぁ・・・、こんなに冷えるんじゃ、夏痩せする暇もないな」
「実家に帰って、気を使っちゃってさ・・・。おまけに子供が、流行の病に罹っちゃってね、」
今年の夏は、カレンダーだけがただ刻々と日を刻み、「花火大会」「盆休み」と温度や湿度や季節感とは無関係に、暦上の定例イベントだけを静かに消化していった。
「君って、季節外れの蝉みたいだね。」
「何故?いつもノー天気だからかしら」
「違うよ、声はすれども、何処で泣いてるか分からないし、一見元気そうだけど、なんか寂しそうじゃない?」
「そうかしら、もしも私が蝉だったら、あなたは何かしら?」
「僕?増上寺の桜の木の枝だよ。いつ生まれてくるか判らない君を待ってるんだ」
2003.08.15
8月15日(金)夕焼け総合研究所の顧問をお願いしていた福田勝一氏(元警視総監)が他界された(写真参照)。
奥様が洗い立ての白いオープン・シャツにうっすらとかいた汗を、ゆっくりと扇子で扇ぎながら、ホテルの玄関に向かって飄々と歩いてこられるのを僕は懐かしく思い出している。
「僕は、世渡りがへたな、ただの素浪人ですから」
福田先生に、初めてお目にかかった最初の一言が、何度も何度も鮮明に耳の奥でエコーしている。(いいなぁ・・・・・お年寄りって)
「先生、今晩は先生の分も合わせて、二人分の茶蕎麦を頂きますので」
「どうぞどうぞ、私は少食ですから」
・・・鼻声っぽい先生のそんな声が、聞こえた気がした。
本当は、今日、昼食を取りながら、ゆっくり先生とお話をする予定であった。
この夏の増上寺は涼しくて、木陰の下をゆっくり二人で散歩だって、出来たのに・・・・・・。
2003.08.13
8月13日(水)久しぶりに原宿・表参道の交差点に近い中谷 彰宏さん(今や先生と言った方が善いかなぁ)の事務所を尋ねた(写真参照)。
この事務所は以前から何かの縁があって、母の友人だった向田邦子さんのお宅や、格闘技プロデューサーでも有名な百瀬さんの事務所があるマンションだ。
あの夜、僕は頭の中の想像力をフルに使い果たしたのを憶えている。打ち合ったボクシングの試合の後の爽快感を記憶している。
「近く、独立しようと思ってるんですよ。東さんどう思います?」
「賛成だなぁ。中谷さんなら十分食っていけますよ。正直言って、遅いくらいじゃぁないですか」
前から、彼の圧倒的な才能には驚かされる一方で、当時お願いしていた雑誌フロムAのテレビCMのコピーは出色の作品だった。しかも、僕が苦手にしている、代理店のクリエーターによくある、何処か偏屈なイメージもなければ、専門馬鹿に見られる妙なこだわりもない、そして何より引かれていたのは彼のプレゼンテーションのときの色気(・・・そういう意味ではなく男の仕事師が放つオーラ)と一等星のような明るさなのだ。
(随分花のある人だな、色気と、知性と、肉体のバランスが凄くいい・・・・・・)
そんな魅力に惹かれていた彼からの、質問の答えには、迷いもなく一つの”答え”しかない。オフコースである。
赤坂の支社のビル地下の溜まり場になっていたバーで、その夜は映画の話や、男と女の話、広告の話、メディアの話、中谷くんの話の一つ一つが、星の一片の先端のように光、僕は彼の感性のシャワーを浴びていた。心地のよい時間だった。
「東さん、今日は何ですか?相変わらず変わりませんね」
「中谷先生もね」
あれから、10余年。目の前の中谷さんは、メディアを使う魔術師から、日本を代表する“メディアそのもの”に変貌した。ライバルというには、あまりにも先に僕を、走りすぎてしまった彼は、今でも僕の自慢の友人の一人でもある。
2003.08.10
8月10日(日)埼玉の別名格闘技アリーナとも言われる「スーパー・アリーナ」でプライドの第一試合が始まり(PM3時)、そのころ橘君が東京湾花火の準備に追われている(写真は昨年の花火です)。
例年この時期は台風の来襲も在って、花火大会のスタッフと風向きや、雲の量や、東京湾の波の高さが気になって、いつもひやひやするのだが、今年は丁度、昨日関東地方を台風が通過し、ギラギラするような夏の太陽が顔全体に照り付けている。
埼玉アリーナでは、桜庭選手の復活を願うファンの暑い行列が並び、関係者専用の駐車場の入り口には、どこから嗅ぎ付けたのかマニアックなファンが(ありがたいお客様であるが)受付に横付けされる車の中を覗き込んでいる。
「東さん、どうですかねぇ?今日の盛り上がりは?」
アントニオ・猪木さんの側近の伊藤さんが、藤田選手を引き連れて車から降りてきた。
「やっぱり、日本の選手が試合をリードしないと、寂しいですよね。桜庭君の出来が凄く良いらしいですよ」
今までのイベントとしては、一番知的で、芸術的ではないかと思われるような華やかな仕掛けのオープニングで、「プライド27」は始まった。しかし、娯楽的なのはここまで、・・・・・いわゆる本物志向の格闘技ファンは、どちらが食われるか分からない“ガチンコ”に一瞬も目を逸らせない。まるで、闘牛場のように見るだけの者の気楽な余裕を、戦士たちの気迫、狂気がものの何秒かで傍観者の殺気へと変える。
「あと3分で始まります。」
クルーザーのデッキの上で、昨年眺めていたくもりのない肌色の満月と、台風の直後の白く澄んだ今年の蒼い月を比較している。
・・・・・去年はあんなに胸の底がトキメイテイタのに・・・・ツライナァ
橘君が招待客のVIP2回目のアナウンスをしている。
パォオオオオン・・・・・・・・・一つ目の花火が上がると、何秒か後に湾岸で見ている何十万人の見物客の歓声が、芝浦あたりのビルに反射して、こだまのように東京湾の波を揺らした。
年一回、一瞬の内に消える夏の空の思い出と、東京というメガロ・ポリスの高層ビルの無数のネオンの浮遊感が奇妙なバランスに感じられる。
・・・・・とそのとき、浴衣の袖にはさんだ携帯電話がシェイクした。
「東さん、シウバに桜庭がやられちゃいました・・・・????」
埼玉アリーナの観衆の悲愴的な叫び声に混じりながら、リングサイドに陣取った歯科医の飯塚先生の声が、途切れ途切れに聞こえた。
「東さんも打ち上げ花火みたいな人生ね」
フゥット明るくなった波間から、誰かが、そう言ったように聞こえた。
2003.08.01
8月1日(金)飯山コーポレーションの勝山社長のゴルフ・コンペのご招待で軽井沢に来ている。この街を最初に訪れたのは、確か20数年前の冬に近い秋だったように記憶している。
前の会社の同僚と4人で、まだ完全に繋がっていなかった関越自動車道路を抜けて、地図を開きっぱなしにして(ナビゲーションなんてない時代)、迷いながら、しかも深夜に車で何時間もかかって辿り着いた。
霧と、雨で視界が狭くなり、心細い思いで長時間運転したせいですっかり疲れきっていたのだが、あの頃はまだ若くて体力があったせいか、ログハウスで30分仮眠しただけの徹夜に近い状態で,翌朝いきなり24ホールをプレーした。
それから何度か軽井沢を訪れるのだが、この街の記憶はいつも峠の霧のように曖昧で、ぼんやりとした透明感のみが残り、ただの過去の時間の断片になってしまう。
さだまさしさんにしては珍しく、ロック調で書かれた歌の中に「軽井沢ホテル」という僕の好きな歌がある。完璧に軽井沢の情景を表現した詩を、あの澄んだ声でシャウトするサビが、突き刺すような説得力を持っている。
「女は自分が不幸だと思ったときに、別れた男を思い出すと聞いた・・・・
それならばずっと、この恋のことは、思い出さずにいられたらと・・・・
僕は、祈ってる・・・・・・軽井沢ホテルで別れた・・・・」
浅間山を抱く標高1000メートルのこの街は、亡くした恋を完全に葬り去るのになぜか向いている。酷く淋しいのだけれど、さっぱりとした清清しい新しい風が流れている。それが複雑な気分を洗浄してくれるのは何故だろう。
一般的に、失恋(ロストラブ)の場合、女性の方が淡白で、なくした恋をいつまでもくよくよ思い出すのは男性の方である。たんに喪失感だけでなく、プライドが傷つけられたり、独占欲を刺激されたり、ロストの中身が感情的な分だけ尾を引くからである。
軽井沢は、どちらかというとオトコの癒しの場所のような気がする。
2003.07.28
7月28日(月)新国立劇場でオペラ「ノルマ」を鑑賞。E氏にたくさんの友人を招待していただき、皆さんそろってご機嫌ご満悦。僕も鼻が高い(写真参照)。
新国立に来ると決まって館内を1時間ほど散歩する。まず入り口の小物売り場で、Tシャツや人形、キーホルダーなどを手に取りながら必ずお買い物。その後、まだ木の香りが残る館内のレストランで、ミルク・ティーをゆっくりと飲みながらプログラムをフムフム。館内が禁煙のため、屋外の水のオブジェが見えるバルコニーで一服。そうこうするうちに、開幕までの時間を楽しんでいる。
オペラを観劇に来るといつも決まって、1994年のワールドカップの決勝戦の前夜祭で催されたあの「3大テノール・・・ドミンゴ、パパロッティ、カレーラス」の興奮と失態を思い出す。
ロスのサンセット・ヒルズのホテルから、昼ごはんも食べずに、大渋滞の車の列に苛々しながらコンサートの行われるドジャース・スタジアムに向かっていた。
「これは大変、世紀のコンサートの開演に間に合わないかもしれない」
会場ではオペラ・クラシックでは世界的に有名なプロデューサーの寺島さんや、キョドー横浜の藤村社長がやっとたどり着いた僕を笑顔で迎えてくれた。
僕は何故かVIPの扱いと聞いていたので、エスコートの方に、何万人もの観客の中でもなるべく目立つように、バナナ色のスーツに身を包み、手にはチキンの唐揚げと、コーラを抱えていた。
50メートルはあろうかというステージ、そしてその横にはシチリア半島の陽光を思わせる椰子がセットされ、驚いたことにその上から滝が流れていた。
「こんなセットは、見たことないなぁ・・・・絶対日本の興行でも人気を呼ぶだろうなぁ」
帰国してから半年ほど過ぎた頃、そのライブを収めたビデオが発売された。当時の感激を思い出そうと早速購入して腰を抜かした。オープニングのシーンにバナナ色の下品なオトコが写っている。しかもアメリカ国歌が流れている神聖な場面でチキンを食べてる。
それ以来、コンサートでは飲食物を買わないことにしている。
2003.07.16
7月16日(水)サンマーク出版の青木さんとこの秋発売の書籍の打ち合わせ(写真参照)。
このホーム・ページの「夕焼け小学校校訓」のページをコピーして持ち歩いてくれている方々がそこそこいると言う話に勇気づけられて、それならば、恥ずかしながら思い切って簡単な書籍にしようと思っている。
3年ほど前にも、友人の世話になって父の本をプロデュースした。肝付高夫というペンネームでエッセイをまとめた「それぞれの物差し」というその本は、思いのほかたくさんの読者の方から高い評価を頂いた。
しかし、父の本音はやはり文学作品を出来るだけたくさんの方に読んで頂く事であり、小説家としての社会的評価を期待しているのであろうが。
さて最近の本屋さんの店頭は、人生や恋愛や食事、旅行のノウハウ本のオンパレード、それにタレント本、エッセイとまるで数分で読み飛ばす雑誌の企画ページのような書籍ばかりが目立つ。“活字離れ”の時代と言われはや30年。
この国の人材や文化やモラールの底辺を造ってきた書籍は、今や完全にテレビとゲームという新種の雑草に敗北を喫した。さらに、悪いことにこの強力な映像とアミューズメントの群れは、“インドアー・娯楽”として人間の運動能力を劣化させ、特にそれは無防備で影響を受けやすい子供たちのライフスタイルまで変えてしまった感がある。
・・・・・となると、話は戻るが、やはり救いはノウハウ本と質の高い映像を最後の砦にして、しばし防御を固めるしかないのだろうか?
2003.07.14
7月14日(月)夜の10時過ぎ試合を終えたばかりの本田君から丁寧な電話を頂いた。やはりボクシングは後楽園ホールが一番だ。選手の殺気が見るものさえも打ちのめす(写真参照)。
さっきまでリングで血だらけになった若い挑戦者を、咆えながら、追いながら、打ちのめそうとしていた選手とは、とても思えないクールな声で、
「今日は、本当にみっともない試合をお見せしました。本田です」
「ちょっと手を焼いていたねぇ、1R(ラウンド)の左フックで、相手はかなりよろよろだったけどね。終わってみるとタフないい選手だったよね」
「そうじゃないんです。ああいう選手は、最初はもろくても、ラウンドが過ぎて後半になるとかえって、パンチ慣れしちゃって、だんだん元気になってくるんです。」
「解かってるじゃないか・・・・。やっぱり自分の技術に酔ってるんじゃないの?」
「すみません・・・・・まだまだ課題が多くて・・・・・」
本田君と最初に会ってから、そろそろ2年が過ぎようとしている。大阪に住む山口君から唐突に電話があって、凄い選手がいる・・・世界のベルトは間違いなし。前哨戦を一度試合を見にきてほしい・・・という話なので、急遽僕は大阪体育館にむかった。蒸し暑い夏だった。
グリーン・津田ジムは、あのエディ・タウンゼントという名トレーナーを擁し井岡直樹という軽量級の世界チャンプを育てたことで有名だ。本田君はWBC世界ジュニア・フライ級3位という、実力者にもかかわらず関東ではまだまだ知名度が低い。この業界は、どちらかというとTVのキー局が東京に多いこともあって、東京のジムに通うボクサーの方が日が当たりやすいのが現状だ。
辰吉丈一郎くんも、大阪帝拳ジム(これは、言ってみれば帝拳ジムの大阪支社)だったが、その華やかなスター性もあって最初は日本テレビで名前を売った。
本田君の技術やスピードはまさしく世界のレベルだ。そして頭の良さや、品の善さ、知性もボクサーとは思えないほど・・・・。この選手が、日本のボクシング業界を変える気がしてならない。それなのに、後楽園ホールのポスト(リング・ロープを縛る要の支柱)には、スポンサーの名前すら見当たらない。
僕はこんな隠れた日陰の花が大好きだ。久しぶりにやる気になってプロデュースする逸材を見つけた夜だった。
2003.07.09
7月9日(水)このところ梅雨の影響で、過ごしやすい気温が続いている。5月の下旬からオープンしているホテルのプールも閑散としている(写真参照)。
デパートがこんな時期から、夏物のバーゲンを始めている。気の早い店では早くも秋物のスーツを扱い始めた。(まだ、梅雨も明けていないのに・・・・?)きっと、この秋は大変な不況になる。夏に売れるはずの商品が片っ端から在庫になるだろう。水が売れない。クーラーが売れない。冷蔵庫もだめだろう。きっとサザンもチューブも昨年ほどはヒットしない。おまけに冷夏の煽りを受けて米が取れない。野菜も高騰するだろうし、果物もだめ。せいぜい、計算違いに売り上げるのは、夏風邪にかかった人の咳止めぐらいだろう。
売れない?・・・・というより、ここのところの給料では買えない、というのが消費者の本音だろう。
午前5時半、増上寺の鐘が一日の始まりを教えてくれる。芝公園の辺りから明るくなり始めた東京湾の空に向かって、うろこ雲の流れに合わせるようにゴオォォォンと拡がっていく。このところ、自分の力だけではどうにもならない案件が多い。市場の影響、仲介人の能力、商品のあたりはずれ、広告の説得力、お客様の懐・・・・。1000円売り上げるのに、5年前の10倍の努力が必要だ。
早起きをした朝は、増上寺の正門から本堂に続く階段で、柔軟体操をした後、500円玉をお賽銭箱に入れて“お願い事”をする。お願い事をしながら、1週間の仕事の優先順位を決めながら、スケジュールをイメージし整理する。すると、不思議なことに希望レベルの仕事と、実現可能レベルの仕事が明確になる。カレンダーに色をつけるように無駄な時間と、有効な時間が少しずつ見えてくる。永続的、連続的な仕事、単発的な“その場限りの”仕事、そんなことも判断できる。
決して離してはならない人材や、多分この秋には僕の目の前にはいない人たちのことも・・・・。
今日の午前中には、新しいコンピューターが届く。五感を潰さないようにバランスを失わない様に、この機械にも馴染んでいきたい。
駐車場から、今日始めてのお客様がロビーに向かうのを見ている。おや?やはり秋物のセーターをもう着ている。
2003.06.24
6月24日(火)綾小路きみまろさんのライブは、中高年から老人パワーの爆発だ。場所もピッタリ江東区。僕はただ呆然と未来の自分を想像していた(写真参照)。
綾小路きみまろさん。このアーティストのステージには、今までのどんなライブにも流れていなかった、何処か柔らかいペーソスが滲み出ている。
ツー・ビート時代のビート・たけし氏ほどスピードもないし、あっさりと乾燥してもいない。関西の漫才界のH氏の毒舌ほどねっとりとした湿度が感じられない。攻撃的だが、愛がある。批判的だけど包容力がある。嫌味なのだが、受け入れられる。全体の構成も意外に突発的で、その自然なテンポの話法のせいか時間の過ぎるのも忘れてしまう。
会場は、彼の話術を楽しんでいる。喜んで乗せられている。主張のない若者のロック・コンサートよりずっとハードに、心を打つのだ。観衆自身がつねられ、抓まれ、ひねられているのに、喜んで材料になっている。(こんな芸能タレントさんって、かつてイナカッタ・・・・・?!)ひょっとして、愛する息子に少し強めに肩を揉んでもらっているといった風情なのだ。会場に集まった2000人のお客様は居心地が良くて、ずっと聞き入っていたい風情。
この秋、この鹿児島出身のライブ・アーティストの「飴」と「煎餅」の商品を開発する予定。いい人と回り逢った気がする。
2003.06.11
6月11日(水)透明に近い白い海月(くらげ)がゆっくりと水槽の中を漂っている。S化粧品のテレビ制作の現場は、東名高速の川崎インターからほんの数分の住宅街の中にあった(写真参照)。
朝通の大柴局長と、クライアントの田中代表、永野宣伝担当役員と商品の話や、血液型についての冗談話をしている。
「兎に角A型は慎重で神経質ですから、媒体プランは勿論のこと、テレビCMも絵コンテがかなりきっちりしてないと、気分が悪いのですよね」ヒガシ
「そうそう、一方でO型は聞く耳は持ってるけど、我田引水の人が多いですね。いくつかのパターンでプレゼンしてるけど、実はやりたい企画はしっかり決まってるんですよ。」
「それに較べるとB型のクリエィターはフィーリングでしょう?感覚的な表現や、細かいところに妙なこだわりがあって、頑固だよね。」
「うちの家族は全部ABなんですよ。いつも気持ちが揺れてる。家にいるとA型の僕は気を使うんですよ。」
最近、仕事仲間の血液型が妙に気になる。数年前さだまさしさんと徹夜で血液型の話をしたときも、逢う人逢う人全員に血液型を聞いてみた。
当時は、O型がやけに多くて、そう言えばなんだか“のんびり、ゆっくり”仕事が進んでいた気がする。
このところ、プロジェクトの周辺はB型のパートナーが凄く列を成している。
アルファ・オメガの植村君、JSCの野中君、タレントのN氏、JTBの馬場専務、原田君、福島さん、藤村直美さんのとこの木村さん、元ホット・スパーの佐々木代表、キョウドー東京の牛原君、アウト・プットの松田さん、テレビ朝日の皇さん、それに銀座軍団の志乃さん、さつきさん、由紀子さんと枚挙にいとまがない。それにB型属のAB型を加えるともっと大集団になる。戸張さん(ゴルフ・プロデューサー)、T・アライブの橘君、女優のNさん、これはこれはという感じ。
日本人の血液型のシェアーが4:3:2:1の割合でA、O、B、ABと続くらしいが、僕の仕事の殆どはB型群が牽引している。
スタジオに入ってしばらくすると、“神様のハンドメイド”のような妖艶な美しさを持った涼風さんが、メイクを終えてスタンバイした。彼女の後ろには、濃い紫色の海水をたっぷり入れた3メートルほどの水槽が置いてあり、20匹ほどの海月(くらげ)が浮かんでいる。
照明に明かりをつけると、この世のものとは思えないほどの神秘的は空間が演出され、ADの臺(だい、O型)さんの覗くファインダーの向こうには、肉眼よりさらに幻想的な光景が揺れている。
涼風さんは、いったい何型なんだろう・・・・それが妙に気になっていた。
2003.06.08
6月8日(日)「プライド26」横浜アリーナ、ミルコは硬い! S氏とT氏の招待で、リングサイドに陣取って、格闘技を観戦している(写真参照)。
普通のスポーツと違って戦いをまじかで楽しんでいると、体中の血管という血管が小刻みに振動し、静脈と動脈が激しく血液を入れ替え、右心房と左心房が休むまもなく活動し、特に選手が入場する瞬間は口の中に入っているハンバーガーを噛むのさえ忘れてしまう。
古くは自分が演出したボクシングの鬼塚選手の世界戦や、最近では商品を企画化したボブサップ選手などの場合、勝敗はもちろん、試合の内容が選手(コンテンツ)のマーケットに大きく影響を与えるため、この血管の鳴動は逆に冷たく静まり返り、音も聞こえない。
そんな”凍った商人の眼”で、明日のスポーツ新聞の見出しを気にしながら、控え室と、リングサイドと、スタンド席を行ったりきたりする自分を、何処か寂しく感じるのは、あの少年時代の“震える興奮”を唯一味わえるこの戦いの場ですら、仕事場にしてしまったことで、失ってしまった悲しみでもある。
僕に格闘技の面白さを教えてくれたのも、やはり父ではなかったろうか?
もともとどんな男の子(オス)も喧嘩に気を引かれている。戦いの触手は赤子の頃から、いつだって、どこだって、生まれた瞬間から敏感に研ぎ澄まされている。
どんなオスも雌を奪い合い、食い物を取り合い、寝床を占領しあい、その為に、生きるために肉体と肉体が“生存競争”を演じる、そしてそれが希望という名の“怒りや悲しみ”の感情を伴ってぶつかり合うとき・・・そこに格闘が生まれる。これに経験と其処から生まれるノウハウが加わって「技」になる。
男は誰でもその人生の中で、この戦うための「技」を意識して習得しなければならない瞬間が訪れる。その一つに愛する人を得た時、守らなければならない人を見つけた時がある。そのとき今までに感じたこともなかった様な、自分とは異なった”別の動物の鼓動”が自らの体内に聞こえる。
生命力がある限り、僕もこの闘いの本能を持ち続けるであろうし、錆び付いた心の爪をポリッシュ(磨く)し、そのために無理にでも目標という敵を探し、課題という獲物を探し続けるのだろう。
ミルコ・クロコップは、今年結婚したばかり、”ちょうど巣を造ったばかりの”鷲のように激しく強い。
男にとって、それも一旦は幸せなことなのだから。
2003.06.06
6月6日(金)丁度1年前の、この日を思い出している。僕は、蒸し暑いあの夏の夜を、忘れないだろう(写真参照)。
国中が、サーカーの祭典で沸きかえり、その熱に呼応するように、昨年の夏は記録的に蒸せていた。
今晩も雨で濡れたような月がその淡い光線で、僕を魔法のように“記憶”の森に誘い込んだ。
S氏にロシア戦のチケットを依頼されていた僕は、お客様用にVIP用に用意したわずかなチケットの中から、取って置きの1セットを用意した。
春から続いた饒舌なアナウンサーの解説に飽き飽きしていた僕は、この頃になると毎晩モーツァルトを聴きながら、TV画面の国別の組み合わせ表と星取り予想を分析してベットに着くのが習慣になっていた。
月の海に浮かんだように、レクイエムが静かに部屋に流れている。
「こんなに高価なもの頂いていいのかしら」
「もう二度と見られないんだよ。僕たちが生きてるうちに、日本でワールドカップが開催される確率は、もの凄く低いんだよ」
「弟が、きっと感謝するわ・・・・・こんなもの頂いたこと今まで一度もなかったもの」
家族のことなど、口にしたことのないS氏がふいに弟の話をしたのに、僕は驚いていた。
仕舞い込んだはずの残りのチケットが、その後のトルコ戦の不吉な勝敗を予想するかのように、底の破けた紙袋からはみ出していたのに、気がつかなかった。
スポーツで負け癖が着くと、なかなか自信が持てなくなり、本当は実力があるにもかかわらず、自分のことを過小評価してしまい一層勝てなくなる。
同じように、女性の人生も、あまりに深い傷を負ってしまうと、幸せを感じようとする心が希薄になり、本人の知らないうちに“幸福不感症”になってしまうことがあるようだ。
日本代表は、見事に予選突破したことを単にラッキーと思っていたのではなかろうか?(写真参照)
2003.06.04
6月4日(水)京都の長岡京にある三菱電機の工場にお邪魔した。5万坪という広大な敷地に、大学構内のキャンパスに吹き抜けるような初夏の風が流れ、区画ごとに整頓された建物は、技術者の無駄のない思考を反映するようにシンプルだ(写真参照)。
N氏とS氏の招待でこの研究所を訪れたのは、プリンターの説明を受けるためだった。
ブルーの作業服が、彼らの製品作りに対する真摯なハートを一層浮き彫りにし、営業のご担当の方から、技術開発者までのたくさんの方で商品を案内する・・・・その丁寧さは顧客重視の企業マインドを深く感じさせた。
高校時代の寮のそばにも、この会社と同じグループの工場があった。そこは、背丈より高い2メートルほどもある肉厚のコンクリートに囲まれた馬鹿でかい要塞のような建物で
「ベトナムに送る戦車や、弾薬を作っているんだ。よく血にまみれた装甲車や機関銃が運び込まれてくるらしいぜ。」
とその頃はやりの反戦派の同級生の間で噂になっていた。
16歳の時から父の転勤の関係で名古屋に一人残り、古出来町にある名門高校の寮から夜毎、栄町の公園に出かけ反戦歌を唄っていた。この反戦集会は毎週土曜日の夕方から夜にかけてピークを向かえ、何百人もの仲間が集い、声を張り上げてフォークソングを口ずさんだ。僕は、いつの間にかこの輪の真ん中でギターを抱えるようになった。寂しさを紛らわせるだけの、なんとも言えない中途半端な興奮と、人に見られることでの優越感が刺激となって、定まらない足元の震えを誤魔化していた。
この夏リリースしたCDアルバム「記憶」の安藤君や、細井君などこの頃からの友人だ。
将来がまったく見えない不安と、自分の事がさっぱりわからない不透明さは今日になっても続いている。
その日限りの刺激を追い求め、瞬間瞬間の中にある喜怒哀楽の中にやっとの思いで実在感を感じることで、30年も日々を重ねてしまった。
“青い春”と書いて青春というが、誰かが言うように気の持ちようで人生そのものが、もしも青春だとしたら、僕の人生は“薄い青”の絵の具をたっぷりの水で溶かした容器を、無意識のうちに空中に放り投げたような荒唐無稽の時間の雫でしかない。
京都に来ると、いつも決まってこの時間の流れの速さが、他の都市と異なっている何かを感じる。それはこの町の歴史や、建物や、方言や、人々の振る舞いの中にも存在するが、それよりまして僕自身の体内にある時の過ごし方の反省からくるコンプレックスが端を発した“何か”に違いない。
路地の片隅にひっそりと静まる安定感なのか、この街を定期的に吹く風の重厚な自信なのか?
長岡京の三菱電機をあとに市内に向かうタクシーの窓から、黒く山間に浮かぶ三日月をじっと見ていると、東京と同じ月なのに何故か僕自身が逆に覗かれているようで照れくさい。
知らない町にいると、普段見慣れたものでも、まるで買ったばかりの鏡のように今の自分を鮮明に映し出す道具になることが多い。
その度に何もかも鮮明にしようと試みた若いあの日を懐かしむ。
2003.05.31
5月31日(土)徳田虎雄先生の次男 毅氏の結婚式が盛大に行われた。帝国ホテルは、政界のジュニアーの出陣式さながら大物代議士や徳州会関連の業者、文化人で埋め尽くされていた(写真参照)。
それはまるで父親の息子夫婦の為のお披露目のようで、新郎新婦にはさぞかし迷惑なセレモニーかと思いきや、二人が淡々とその役割をこなしているのに驚かされた。結婚式がどんどん簡素化され、イージーになっていく時代にあって、久しぶりにそれらしい粛々たる儀式の始まり。
そしてさらに僕が驚かされたのは、新郎の父の涙であった。
「皆さん、新郎新婦の入場です」という司会者の言葉とともに新しい夫婦が扉を開けて入ってくる。入り口のすぐそばの新郎側の席は大家族の徳田家のテーブル。そのテーブルの真ん中で、主人公の座をを息子に譲った徳田先生が奥様と並んで座っている。1000人もの招待客に祝福の声をかけられながら、ウエディングソングがゆっくりと流れて、媒酌人の亀井静香先生に導かれて、二人がゆっくりと30メートルも在ろうかと思われるステージの方へ手を組みながら歩いていく。
会場には石原都知事をはじめ、塩川財務大臣、野中先生、氏家代表(日本テレビ)など招待客の顔ぶれは日本のVIPが勢ぞろい。
地鳴りのような拍手の中で僕は、徳田先生と、奥様の姿ばかりをじっと見ていた。
あれは、1996年の夏のことだった。当時まだ体が元気な栗本 慎一郎先生から深夜にもかかわらず突然携帯電話を頂いた。
鹿児島からの電話で、どうも父と天文館あたりのクラブで一杯やっているらしかった。その受話器を突然取り上げたのか、徳田先生だった。
「東君か、そろそろ下らん仕事をやめて、政治をやらんか。政治は楽しいぞ。鹿児島の男だったら少しは国のことを考えんか・・・・????」
この素っ頓狂で、直接的な話し方に僕は好感を覚えた。荒々しい中に何処かやさしさを感じた声だった。
その頃まだ、遠慮深い、繊細で知的な会話に何処か憧れていた僕には、その方言交じりの“あったかなだみ声”が“雲一点ない真っ青な薩摩の青空”のように聞こえた。
その冗談とも思えない依頼を、一応お断りして半年後、僕は徳田先生率いる自由連合の選挙本部で、選対の宣伝広報のいっさいを任され、津波のように押し寄せる候補者の写真の撮影や、PRプラン作りに明け暮れていた。
この数字やデータが欺瞞的にすべてを決定してしまう時代の中で、人材の夢や意欲を最優先して、候補者を選別し、信用していく先生の気持ちが好きだった。
選挙は予想をはるかに超えて大敗した。深夜を回る頃、TVが他党の当選者を次々に発表していくのを事務所の片隅で聞きながら、僕は4週間ぶりに荷物をまとめていた。誰一人、先生の”馬鹿でかい希望”に耳を貸してくれないのか?そんな憤りを覚えていた。
良く人は勝ち組についていけ・・・・・。運は強い人の味方をする・・・・・。
とかいうけれど、必ずしもそうとは限らない。性に合わない仕事や人とはどうしても一緒できない・・・・好きか嫌いかという感情を優先しなければならない瞬間もある。それが思想であり、哲学であり、趣味であり、個性なのだ。
新郎が席に着いた瞬間、会場に南の島のスコールのような大きな拍手が鳴り、その瞬間、大きな白いハンカチーフを背広の内ポケットから取り出し、眼鏡を外した徳田先生がうれし泣きをしていた。なんとも先生らしい豪快な、やさしいうれし泣き、男泣きの涙だった。まいったなぁ・・・・。
素敵な医者、・・・・いや親父だなぁと会場の誰もが思っているに違いない。
2003.05.22
5月22日(木)Y氏と新橋の汽車の前で待ち合わせした。14年ぶりの再会である。
わざわざ待ち合わせにこの場所を選んだのも、東京という街の景色がこのところ思いのほか変化し、電話ですぐに何丁目のどこ其処という約束のスポットがすぐに思い付かなかったからだ。
あの頃は、毎晩のように赤坂の「楽屋」というカラオケ・スナックに立ち寄っていた。いつも、リクルートの仲間を連れて午前様。小さな8畳くらいのスナックに深夜になると顔馴染の客が、ひとりふたりと集まり、歌い慣れた持ち歌を唄い、まるで親戚か同級生のようにお互いの身の上まで分かり合っていた。夜毎深夜だけポカリと浮かんでは、消える“幻の村”、そんな店だった。
深夜の2時を過ぎる頃になると、僕はこうした気の置けない仲間の集団から不意にはずれて、いつもカウンターで肘を折り、虚ろに飲むのが好きだった。意外と醒めた酒を飲むのが好きだったし、ポーズでもあった。同じ顔の仲間と、いつもの変わらない話題、安心できる大きな笑い声、それが居心地の良い夜も在ったが、時にひどい焦りと、自己嫌悪の美味くない酒に変わる時間帯であった。
ある夜、その日の自分の仕事に納得していなかったせいもあって、整理できない頭と気持ちを落ち着かせるために、一人で店を出て、すぐ隣の裏手にある神社の欅の下で月を見ていた。遠くに、一ツ木通りを大声で笑いながら家路に着く友人の笑い声が聞こえていた。
「お兄さん、何を寂しそうに白けてるの?」
振り向くと、満月の明かりが古くなったスポットライトように、Y氏の桔梗のような濃い紫のドレスを映し出していた。
「僕の居る場所がよく判ったね?銀座はもう終わったの?」
「楽屋に行ったら、さっきフラフラッて出てっちゃったよ。東さん裏じゃないか」っていうから・・・・・
まだ二十歳そこそこのホステスがクラブの席に着くのは、当時の僕にとって可能性のある人材が金と男に汚されていくのを放置していくようで、ゆっくりと酒を飲める気がしなかった。Y氏はそんな中でも最も傷つきやすいタイプのホステスに見えた。
少し冷たく感じられる神社の石段に座りながら、僕は眠くなりかけていた。
「北海道に帰るんだろう?水商売は長くやる商売じゃないからね」
「銀座って、やっぱり合わないんだなぁ。ママが気にしてくれればくれるほど怖くなってきたの。」
「残念だなぁ。せっかく店の担当が決まったと思ったのに」・・・・と言いながら僕はやれやれという安堵に似た気分に浸っていた。
あれから10数年がたっただろうか?
立派な主婦(大人の女)になった君と、相変わらず明日が見えない僕が汽車の見える喫茶店で、ミルク・ティーを飲んでいる。
「君の方が、余程僕より大人だったねぇ」
あの夜と同じ不思議な安堵心を、憶えていた。
「まさか、銀座に帰ってくるんじゃないだろうね?」
「どうして?・・・・絶対に帰りませんよ・・・・。あの街は足のない女性と、気の抜けた男性がフワフワ浮いているだけでしょう?」
「まるで風船だよね。“人の欲望と失望が膨らんで、たくさんの風船が飛んでるんだよね。」
「風船ほど、しっかりしてないでしょう。“紐は紐でも、頼りにならないでしょう?」
確かに上手い表現だと苦笑してしまった。
新橋の居酒屋のネオンと提灯が、いっせいに付きだし、しっかりとした足取りでY氏は、家路に向かった。
2003.05.19
5月19日(月)何年ぶりのことだろう“昔の人と再会”シリーズ大物編の一人、馬場まこと氏がホテルを訪ねてくれた。
朝から、何か胸がわくわくしていた。最近右脳を交換しながら話をする機会がめっきり少なくなり、納期だの、予算だの、数字が絡んだ言葉のやり取りばかり日々だ。もともと頭の中に隙間が足りない、キャパの足りないせいもあり、最近“イメージを溜め込む余白”がめっきり少なくなったのを感じている。しかも、厚手の本を読まない怠惰な生活。
「こんな状態できちんとした話が出来るかなぁ?」
馬場さんは以前の会社の宣伝部の時代に、2本のテレビ・コマーシャルをお願いして以来、僕の最も気になる、尊敬している広告クリエイターの一人だ。
「最近胸を打つ広告が、CMがまったくありませんねぇ」
「TVというメディアに期待する気持ちを持たないクリエーターばかりだからね。それに、子供っぽい連中の、稚拙なCMばかり目に付くね」
「子供のクリエイターで広告効果が在るってことは、見る方の感性のレベルも子供っぽくて、質が下がっちゃってるんですかねぇ」
「要は、届いてないんだよね・・・。伝わってないんだ。伝えようとする意欲もないからね」
「ただ目立てばいいってもんじゃないですよね。」
1991年の夏、僕と馬場さんはニューヨークのフィルム・スタジオで1枚の写真を探していた。たった1つのシーンを探しに1週間ほど滞在した。それは、アメリカ合衆国の若き英雄、故ケネディ大統領が子供を抱き上げる写真だった。
“この人がいると、周りの人が輝く。この人は、磁石なのかもしれない”
この凄いコピーにあう絵は、笑う大統領と、笑う赤ちゃんのコントラストで表現するのが一番ピッタリ来ると思った。
下町のレストランで、馬鹿でかいステーキと、ソフトクラブ・シェルをつまみに、ワインを飲んでいたとき、無精ひげの馬場さんが
「この町に来ると、いつ来てもどきどきするんだよね。何か主張しようと頑張ってる連中がウヨウヨいるからね」
「自分が見えてないと、何していいか解からなくなりますね」
すっかり気分がよくなって、気が付くと危険な街の、危険な時間帯まで飲んでいた。
「届く、伝わる」馬場節を心地よく、緊張して聞きながら、
「やはり大人のクリエーターは、いいな」・・・・・・
久しぶりに勉強がたりないと思った午後だった。
2003.05.10
5月10日(土)橘君の誕生日で久しぶりの二日酔い。珍しく後頭部に頭痛を伴って、しかもひどい睡眠不足。ロマネ畑の白ワインにやられた。
昨晩は「並木倶楽部」に何人の蝶たちが、集まってくれただろうか?パーティの開始は午前0時、ほんの1時間が経過した辺りから僕の記憶がチグハグになってしまった。主人公の橘君は確かそれより前にご機嫌状態で酩酊していた。
夕方、新橋の酒屋で赤、白合わせて1ダースほどのそこそこ上級のワインを仕込んだ。
「弟のように思っている男が、40歳を迎える・・・・・」などと言い訳にしながら、その頃から何故か二日酔いの予感がしていた。グレ、エム・グランデ、ピロポ、シエール、胡蝶花、ロイヤル・ガーデン、普段行きつけの店から、気の置けない仲間が集まり、カラオケの音に耳が休まる暇がなかった。
30歳を過ぎたあたりから、数歳ほど年下の男性を見ると、決まって亡くした弟を思い浮かべる。幼少の頃の話なので、さしたる鮮明な記憶さえないのに、彼が生きていたらこれぐらいかなぁ、こんな感じかなぁ・・・などと想像してしまう。この世に生きている弟くらいの年頃の男性を見ると、いつもこの幻想にとりつかれるのだ。橘君はたくさんいる弟の中でも、一番頼りになる弟だ。
不思議なことに、康任(やすとう)という名前の弟が、寝かされていた病院のベットの横の白い壁を覚えている。おぼろげで、遠い過去の時間の中でほんの一瞬の光景が静止している。季節は、覚えていない。
小さな木製のベッドで、目を閉じた弟の安らかな顔が妙にピンク色で、その白い壁には何故かその頃人気のあった「七色仮面」の漫画の悪戯書きがしてあった。病魔と闘う、彼へのプレゼントに、絵の下手な兄が、両親の目を盗んで鉛筆で小さく書いたものだ。
「康任ちゃんは、遠くの国に行ったのよ。」母の話があまりにも普通で、自然に聞こえたので、僕はなおさら彼と二度と会えないことを悟った。
久しぶりに池田知之さんと、レイクウッド・ゴルフ・倶楽部でお目にかかった。初夏の陽射しが強く、汗がだらだら流れたにもかかわらず、18ホール、プレイした後も昨夜のアルコールが出きらなかった。大きく笑うと真っ白な歯が印象的な池田さんは、20年来変わっていなかった。僕にとって、太陽のような人がいるとしたら彼そのものだ。
2003.05.03
5月3日(土)雲の上から1通の招待状が届いた。送り主は、茅ヶ崎海岸に住む作家の開高 健先生であった。(写真参照)
茅ヶ崎まで電車で1時間。青く澄み切った空の真下の海岸の近くに、開高 健先生の自宅はあった。久しぶりにお目にかかるので、少々どきどきしながら、門に続く階段を登った。奥様との連名という先生らしくない不似合いな表札(先生はたった一人が似合う)を確認すると玄関の扉をたたいた。
父の影響で開高作品に初めて触れたのは中学生の頃だった。「裸の王様」「流亡記」から「青い月曜日」と無我夢中でどんどん読み漁った。河出書房の作品集をあっという間に読破した。読んでいるうちに、同じような文章が書きたくなった。いわゆる物真似(コピー)のつもりで、日記の文章を先生の語句を拾いながら書いてみたが、当時の僕の能力では当たり前のように限界があった。頭の中に入っている本の量が圧倒的に足りなかった。
大学に入ってからは、まともに先生が僕の生活に影響を与え始めた。19歳のときにヨーロッパに渡ったのも、「ベトナム不慮記」に影響され、平平凡々でのんのんとした現実の生活に嫌気が差したからだ。本田勝一氏の「何でも見てやろう」を読んでローマ行きの片道切符を購入した。
旅行の予定を延長し、スェーデンのストックホルムに辿り着き、ヌード写真の掲載された新聞紙に包まれたフィッシュ・アンド・チップスをかじった時、僕はまだ20歳だった。
ネクサスの藤井社長と蔭山さん(没)とヘミングウェーの特番(TV朝日ヒューマン・スペシァル)を制作した。僕にとっては、この文豪ですら、開高先生のコピーに思えた。
書斎が覗ける庭先で、まだ先生のお尻の温もりの残る椅子と、タバコの煙が悠々と浮遊する机で一服していると、
「そろそろいいやろう」と誰かになだめられたような気がした。
まだ、午後2時すぎなのに・・・・・・・・。
記念館の奥にある杉と松林の向こうで、タータンチェックの先生が、俯きながら消えていった。
2003.04.28
4月28日(月)いつの頃からか出会う女性をいくつかのパターンに分けて、“勝手なイメージ”の引き出し”分類している。
もちろん年齢や、国籍や、職業など関係ない。純粋にその女性から受ける印象や感覚的なイメージをインデックスをつけて、書籍やCDのように分類している。
母のような安堵感に包まれる女性、姉のような気丈な人、未熟な妹のように気が気でない存在、幼年時代からの無邪気な遊び友達、気の抜けない男性のようなライバル、そして心が赤く染まりそうなほどのロマンチックな恋人、企業の経理部長のようなそろばん一本の人、交差点ですれ違っただけのただの人・・・・・女性にとっては迷惑なことに違いないが、出会う女性を勝手に自分の中でジャンル分けしているような気がする。
夜毎、飲み屋に出かけ、人よりは多少いい酒を飲んでいると、変わり者で風采の上がらない僕でも年1回くらいは声をかけられないこともないのだが、どうも最近ロマンチックな雰囲気で女性を感じることが少なくなった。
特に最近目立つのが、その人のイメージを感じられない、個性のない女性たちの登場だ。顔のない女性たちは話しているようで、何も話さない。饒舌なのだが意味がない。そう・・・・・大量生産された上に、着色された造花のようだ。
その一つの要因に、話し言葉の退廃がある。すべての会話の語尾があがり、“チョー(超)”オーバーな形容詞を多用し、省略された動詞、略語化された名詞を無関心に使う。日本語の“やさしさ”を忘れたこうした話法にも原因がある。
シナリオもなく、無理して自分を演出するより、黙って微笑んでいてくれた方が、余程神秘的でましなのにと思う昨今である。
2003.04.16
4月16日(水)教室の都合でいつも昼に定例の会議をしているY氏が、わざわざ車を走らせて10時に訪れる。(写真参照)
おそらく昼食を取る時間もないので、芝公園のレンガ通り沿いの旧ダイエー本社のスーパーで、飲み物や、おにぎりやそばを仕込んだ。Y氏とは、かれこれ7,8年の付き合いになるのだが会うたびにいつも新鮮なのは、職業も、年齢も、生き方も、2人の性格もまるで異なるからだ。そのY氏が急に最近、僕の話に耳を合わせてくれ始めた。ひょっとして、無理をしていなければいいが?
窓から身を乗り出して東京湾の方から品川方面に目を流すと、ホテルからプールを抜けて、増上寺に続く道を、ソメイヨシノが低層雲のように覆っている。
つい3,4日前まで台湾桜と河津桜が先頭を争うように、淡い未熟な早咲きの肌色を匂わしていたのだが、あっという間に今は葉桜に変わってしまった。
早朝に寺まで散歩したときには、朝焼けに染まる淡い花びらが頭上を被い、一面ピンク一色、わずかな隙間から見える春の青空が、まるでおどけたときに垣間見せるY氏の、一瞬の寂しさのように僕の気を引いた。
夜に近い夕方、日比谷通りを新橋に向かって散歩していると、時折、石楠花のなんとも甘い香りと、例年のようにツツジの華やかな赤紫が、車の騒音が気になら無いくらいに一斉に開花し始めている。
今晩は、板橋中央病院の中村先生とN氏を交えた夕食会。中村先生は、花にたとえると向日葵のような人だ。穏やかな眼が大きな顔の表情を作り、スローな声に気持ちのゆとりが滲み出ている。派手な黄色ではないが、ストレートに近い濃黄色。決して無理な説得力は試みないが、かといって人に対して消極的ではない。僕の人生の参考書になる人物だ。
御成門の交差点の横にある公園の道は、東京タワーに向かって45度、放射して直線に伸びている。その両側に港区役所が管理する花壇が続いている。ここでも春を代表するわかりやすい花が植えられている。中でも、マーガレットの群生が素晴らしい。量と数を競い合うなら、花びらの色が多様化してしまうスミレより黄色一色のマーガレット集団にかなうパワーの持ち主はいない。まるで、何の衒いも悩みも無いように見えるのだが、それぞれが一つ一つ必死で咲いている。
こんな明るい一心同体の組織があったら強いだろうな。“春の営業集団”としては、最強だ。
2003.04.13
4月13日(日)太平洋倶楽部成田コースの支配人だった古木さんが茨城の阿見ゴルフ倶楽部に移られて、今日は支配人のご招待でお邪魔することにした。
成田空港方面のゴルフ場に1時間車を走らせるのと比べると、普段余り足を向けないせいか常磐道を使う茨城方面は、感覚的にずっと遠く感じる。おまけに、以前帰り道の三郷インターでひどい渋滞にあった経験から、つい苦手意識を持ってしまう。
阿見ゴルフ倶楽部は、桜土浦のインターから30分ほどの平地に造られた箱庭のようなコース。油断するとグリーンの周辺に砂の難しいバンカーが随所に配置され、旗のポジションによってはパットのラインが難解なために3パットのボギーを数える。
朝の1組でスタートし、前半のハーフは3オーバー、後半は雨に降られたため途中で上がった。ロビーで、ミルク紅茶を飲んでいると、半年振りに古木さんがご挨拶に見えた。何処であっても、いつ会っても慶応ボーイを髣髴とさせる紳士。アメリカではあの名門「べブルビーチGC」の支配人をされていた。
初めてお目にかかったときに、
「ゴルフ場の仕事ですけれど、僕はサッカーが好きなんです。最近はマラソンに凝ってるんですよ」
日本のゴルフ場が、バブル以降売上不振にあえいでいる一つの原因に、その所有者偏重の会員制度に振り回された無理なマネジメント 、つまり日本人に似合わないスノブな運営が挙げられる。会員制度とは本来その場所に、実体的に責任を持てる人が運営すべきなのだ。
地域に溶け込んだマネジメント、地域の住人への特定サービス、地場の青少年の育成、そして馴染み易い支配人とスタッフ。
古木さんの手腕で、阿見ゴルフ場の18番ホールに、秋のお米の収穫祭の“祭囃子”が聞こえてもおかしくない日が来るように。
2003.04.03
4月3日(木)青山のF化粧品に通販番組を提案する機会があって午前中から女性の顔や化粧品の事ばかり考えている。(写真参照)
なぜ女性は化粧をするのだろうか?
“いつの時代も女性は綺麗になりたいから”などという行為から生まれる結果を単に受け入れるのでは、市場の分析が必要な僕の仕事には中途半端な結果になりかねないので苦労している。
女性が鏡を前に、化粧をする態勢を作る時、そこには“ある心のパワー”が動き出すのではないだろうか?
それは、男とは無関係な女性独自の社会構成の変化や、変化する時代の背景にある女性の歴史などの、“女性のチカラ”の発露の加減を、それぞれの個人(女性)がどう自分を表現していくのか?どうもここに答えがあるのではなかろうか?
・・・・・・とすれば今の時代の化粧品ほど・・・・元気になりたい女性に
支持される商品。元気になりたい女性を応援するブランドが要求されている時代はかつて無かっただろう。
美しさの根源はいつも「健康な状態」から始まる。
変化のない日常の生活にメリハリを付けるための変身願望や、“勝負の日“彼氏に決心させたいために“渇”を入れる為、などの内面の個に向かっていくものや、例えば何処かの国の女性政治家の下手なスピーチを彩る“赤いルージュ”や社会的ステイタスを意識したPTAのお母さんの“濃くて長い眉”のような外面の集に重点を置いたものであったとしても、其処には“気力”が働いている。
車や衣類、時計、料理などと同様に化粧品も、ご多分に漏れず“金があったら、これがほしい”という希望レベルのマーケット・ニーズは海外産のブランド物が仕切っている。しかし戦後のコスメ市場をリードし、独占してきた資生堂、カネボウ、コーセーなどの大手の実際の業績は、ここのところ新規参入組に押され気味、戦国時代の様相を呈している。
プレゼンを終えて、T社長の横顔を眺めている。われわれのプロジェクトに対して全面的に信頼を置いてくれている。この夏から。僕が応援する新しいF社の商品は、決してこの戦争に負けられない。
それは、生まれてからずっと女性の元気から“運とツキ”をもらってきた僕の人生の恩返しでもある。
2003.03.23
3月23日(日)ニューヨークに行く前の定岡氏(野球解説者)とグリーンで激戦。久能カントリーに桜咲く・・・。(写真参照)
定岡氏と同郷の鹿児島県人の僕は、彼の太陽のようなやさしいデリカシーがとても気に入っている。特に、ゴルフ・プレイ中のマナーは素晴らしい。一緒にコースを回っていても楽しい。いつもパートナーが気持ちよくプレーできるように配慮している。こんなゴルファーが意外と少ないのだ。
186センチと長身で細身に見えるが、後姿、特に御尻の大きさは元巨人のピッチャーだけあって雄牛のようにがっちりしているし、ショットをする前の構え(アドレス)の時の太ももの筋肉は安定感に満ちている。若い頃から、ゴルフをやっていたらきっとプロ(職業)でも食べていけただろう。タイガー・ウッズと同じくらいの体型だし・・・・。
「来週から、ニューヨーク・ヤンキーズの松井君の取材なんですけど、戦争の影響で飛行機は大丈夫でしょうか?テロとかハイジャックとか」
「ヨーロッパ便やアジア方面も危ないけど、何しろアメリカは完全な当事国だからねぇ」
「そうですよねぇ、いやだなぁ・・・仕事請けなきゃ良かったかも」
自分の内面の不安や、心配事を軽く、明るく、さりげなく口にしながら、童顔のなかの大きな瞳をぱちりっと閉じる。彼の人への思慮深い思いやりを感じのは、僕にも南国の血が流れているせいだろうか?
僕はあの埃っぽい暑い夏を思い出していた。
まだ少年の匂いのする定岡氏は鹿児島の誇りであり、県民の希望を担ってたった一人でマウンドで戦っていたように思えた。
故郷は戸籍上存在するものの、心の故郷をいつも求めていた僕にとって彼は“久しぶりに鹿児島を思い出させるヒーロー”であった。
春を感じながらゴルフ場を歩いていると、時として季節の流れがこのまま止まってしまうのではないかという不安に駆られることがある。全てが満たさて身も心も軽い。雲や風の隙間から聞きなれた鳥の声が聞こえ、茎や葉がおだやかに陽を浴びて欠伸をしている。
あたり一面に幸福が漂っているこの春を、割り切って全身で受け止めるのには、まだまだ少しばかり時間がかかりそうだ。
すべてが満足な空間に居ると、何故か照れてしまうのだ。
2003.03.19
3月19日(水)昼食にホテルで天婦羅を食べることになったが、館内のレストランは全て禁煙。個室を予約してゆっくり食べようということになった。(写真参照)
春の始まりは野菜が甘い。涌きたての風呂の湯のように澄んだ油を見ていると唾液が零れる。アスパラ、葱、茄子、などは大根おろしたっぷりの天汁で、伊勢海老や、雲丹、穴子、白魚は衣の先に3グラム程度の塩をつける。帆立には不思議とカレー粉がピッタリ馴染む。
そんな訳でカロリー・オーバーのたっぷりの過食。部屋に戻ってしばらくの間、ズボンのベルトを緩めてぐったりしていた。
窓からまだ冷たさの残る3月の風を入れて、ベッドに横になっていると、睡眠不足のせいかうつらうつらし始めて、気が付くと3時近くになっていた。
そう言えば、17日の昼食も、食べ過ぎた。S社のバイヤーさんのプロモーション会議に4月から売り出す商品のお披露目と商品説明を兼ねてボブ・サップ氏が招聘された。
舞台上で細かな仕掛けがあるために、昼食前に集合。控え室での事前の打ち合わせに用意されたイタリア料理が美味しかった。気が着くと、身長2m、体重170Kのボブ氏より食べてしまった。ボブ氏はきちんと野菜と肉のバランスを考えながら食べている様子だったが、僕はパンにバターをたっぷり塗っただけでは満足できず、ジャムをさらに上塗りし、さらに炭水化物系のパスタまでお変わりしている。
何かの反動かも知れないが、とにかく食欲優先で胃袋を始めとした臓器の健康を考えようという意思がまったく働かない。おまけにボブ氏の為にせっかく室内禁煙にしてあるのに、トイレに続く廊下の裏に灰皿を見つけ、食後のタバコをあっという間に2,3本吸い込んでしまった。
4月が近づいて桜の季節になってから、凄く腹が減る。少年時代のように目につく物、手に届くものは、タバコと食器以外、何でも際限なく口に入れてしまう。特に事務所にしているホテルのレストランでのブッフェ形式の食事を取ると、食後にはゆうに1、5`は増えている。おまけに、1日中何か飲み物を飲んでいるため、あの恐るべき80`のラインにどんどん近づいている。
年頭に今年は72`を目標にしようと思ったのに。最初の仕事が、“フーズ・プロデュース”だから仕方がないよね・・・・・・・?ボブ?
2003.03.10
3月10日(月)東京国際フォーラムで、1960年代のスーパー・スタークリフ・リチャード(以下クリフ)のコンサート観賞。(写真参照)
三瓶氏のお誘いもあって、実はこの興行には僅かばかり「夕焼け創造研究所」からも出資をしている。というのは、クリフには一昔前に縁(思い)があって、リクルートの宣伝部の時代に「週刊B−ING」のラジオCMで彼の「EARLY IN THE MORNING」をBGMに使わせてもらったことがある。
ウォールト・ディズニー氏や、フォード氏の若い日の挑戦的な仕事への姿勢を文章にしたコピーの向こうに、クリフの透明で説得力のある声、ドラマチックな弦とピアノがよく似合って、抜群の効果を発揮していた。このCMを聞いた人はきっと励まされる。そんな風に自画自賛していた作品で、今考えても僕が今まで携わった広告の中で、一番のお気に入りである。
62歳という高齢のせいではないのだが、コンサートは2部制になっていて、後半に入り鳥肌が立つような往年のヒット曲が続き始めた。「YOUNG MAN」を歌い始めた時は驚いた。会場の何処にいらっしゃったのだろうかクリフと同年代のご婦人方がおのおのの手に花束や、プレゼントを持って舞台に殺到したのだ。この光景はジャニーズも真っ青・・・・・・・だろう。だってキム拓が30年後にこれだけのファンを引っ張っていくなんて奇跡に近いだろうから。
最近の広告を見ていて、自分(会社、宣伝部、CFプランナーなど)の言いたい事ばかり、会社や商品の主張ばかりに工夫して、お金をかけているのは解かるのだが、気分の良くなる作品が少ない。もう一度見たくなる様なCFには殆どお目にかかれない。しかも、BGMや、サウンド・ロゴに至っては騒音に近い“音量の競争”だ。
見る側、聞く側の気持ちが不在のままの一方的なクリエイティブが、制作担当者の直情のままに放映されている。
TVのスポットCFなどのその品のなさには、涙か出てくる。心を打たないばかりか、見ていて不愉快なCMは広告効果も少ないし、その企業や商品に嫌悪感さえもたれる。(署名つきCMなんかも、いいんじゃないかなぁ・・・・・?)
クリフの今回のコンサートはカメラも花束も、プレゼントも持ち込み自由。
したがって、東京国際フォーラムの5000人収容の大ホールは、小さな町のライブハウスという感じで、何処となく暖かく、ステージとの精神的距離も意外なほど近かった。
聞き手(お客様)を大切にしたクリフの“大人のサービス”に若い日の思い出にたっぷりと浸った女性もたくさんいらっしゃった。
2003.03.05
3月5日(水)M氏が確定申告の相談にホテルの部屋を訪ねてきた。3日ほど前に、「1年分の伝票を整理したので・・・・・領収書をゴムでとめて・・・・」
と困り果てて電話があった。こうした相談を受けると、得意でもないのに何とかしなければと思ってしまう。僕がFPをお願いしている田中君に作業を依頼してみることにする。10日後に迫っている自分の作業には一切手をつけていないのに。
窓から琉球さくらや、河津さくらが薄くピンクや白い花をつけ始め、増上寺に続くプールサイドのあたりに春の陽だまりがゆらゆらとゆれて、思わず“本気で散歩”に行きたい気分。
冬はどんなに乾燥していても、冬空の寒さから来るイメージからどうしても気分が湿っぽくなるのに比べ、3月があけた頃に登場し、徐々に暖かくなる春の始まりはあらゆる生命の活力が辺りに立ち込めて清清しい。
写真つきの携帯電話に交換して、植え込みのスミレや沈丁花を撮影しては、あちこちにメールを飛ばしている。
小学校からの季節の流れが体に染み付いているせいか、僕は今でも1年の終わりは3月31日だと思っている。会社の決算期や、プロ野球の開幕、など4月1日から新しい暦を始めるところも多いが、・・・・・・目を閉じるとソメイヨシノの桜並木の下をピカピカの学生服に、まだ形のなじんでいない硬くて大きなランドセルを背負った自分の姿が浮かんでしまう。
「桜って、女性の性格に例えたら最悪ですね」
「一人で盛り上がって、しかも誰よりも派手で目立ちたがり屋。たくさんの男たちの目を釘づけにした挙句、みんなが大騒ぎし始めたとたん、今度は勝手に去っていく」
「私は、梅のような奥ゆかしい女性の方が上品で素敵だと思うの」
「誰にも言わないでひっそりと咲いて、よく見ると一つ一つが可憐で責任感にあふれてる」
確かにその通りなのだが、残念ながら最近のこの国の女性は、「さくらタイプ」が圧倒的に多いような気がする。表面的な美しさと、セックスまでのスピードばかりを男性が追いかけるからなのだろうか。・・・・とすると「梅タイプ」の男の数もどんどん減少していることになる。
2003.03.03
3月3日(月)藤原和博君と久々にお茶を飲んだ。リクルートに入社してから約30年、何時でも彼は僕の心の何処かに存在してくれている。
ある時にはやさしく励まし、あるときは激しく非難し、早合点の僕の思いを遠まわしに修正し、・・・・・・彼と会えたことが、僕の小さな人生の収穫の一つでもある。(本人がこのHPを読んだら一笑するだろうが)。と言うと何か彼が遠くに行ってしまった様でもあるが、今でも毎朝のように電話で話したり、時にはメールでやり取りをしている。
しかしお互い退職をしてからは、顔を合わせて話をする機会は意外と年1,2回の“祭り”のような行事になってしまっている。昔は会社の近所であっという間のランチをしたり、朝が来るまで銀座の飲み屋で歌い話し合い、コンサートに出かけ、映画を見たりと兄弟のようにたくさんの時間を共有していた。
嘘のような本当の話だが、歴史の変わり目にも必ず藤原君が横にいた。ベルリンの壁が壊れた直後に壁の一片を拾いに出かけた。エジプトのサハラの砂漠で凧と駱駝の交換が可能かどうか物々交換の実験に行ったのも彼からの誘いだった。神戸が地震に見舞われた翌日、僕たちは古着を持って関西新空港から埃のためにまだ薄茶色の空に曇る神戸港に向かう船に乗っていた。ワイン・ブームを生んだボルドーで「世界ワイン博覧会」という万博のような催し物にも藤原君の招待で出かけた。
TBSラジオの番組で僕のことを取り上げてくれるというので、ウキウキした気分で彼を待っていた。いつものように僕たちは軽い冗談を交えながら世間話に花を咲かせた。
ふと、彼の右手を見ると40年前のセイコー・オートマチック(腕時計)をはめていた。(素敵だなぁ、本当のアンティックって)。
大量消費社会の仕組みの中で、個人の才能が埋没していくことを一番嘆き、今ある経済の仕組みや其処から生まれた流行に溺れずに、“個性を復活すること”こそ人生の幸福であり、そのための幾つかの“処世訓”を主張する藤原君の言行一致は、今でも僕にとって鏡になっている。
藤原君を送った帰り道、世田谷区のある裏道で車を止めて深呼吸をしていると、窓の外に僕の好きな沈丁花の匂いがした。春が近づくと、いつもこの香りに引かれる。沈丁花は一見花びらのように見える部分が、たくさんの額が膨らんで開いているのだそうだ。
藤原君の頭脳の構成も、一見主張に思える“感性の額”が集合して同時多発的に開花し、あちこちで美しい香りを発散している。
2003.02.26
2月26日(水)ボブ・サップ(以下ボブ)氏のCM撮影のため、青山のT・キッチンに集合。(写真参照)
主に印刷媒体用の写真を中心にラジオCM用の台詞の収録まで、久々に制作現場を訪れたが、何か普段のストレスを感じない楽しい時間だった。物を作る現場はやはり幾つになっても楽しい。カメラ班との絵コンテの確認から、ボブ氏はもちろんスタッフの昼食のセットまでこまごまとタイムマネジメントしているバンローゼの坂口氏がきびきびと無駄のない進行で全体をコントロ−ルしているせいもあり、僕はゆっくり現場を楽しんだ。
以前リクルートの宣伝部時代にいくつかのTVCFの制作に携わったことがあるが一番の想い出は、「週刊ビーイング」に桑田圭佑氏を起用し、その撮影のために江ノ島を訪れたことである。風の強い砂浜の、岩の上にビーイングの旗を持った(何かの逆境に立ち向かうことを想定して)桑田氏を当時のリクルートの環境にも似せて30秒のフィルムで構成した。このCFは「稲村ジェーン」という桑田氏の監督作品の映画のPR的要素もかねており、桑田氏本人はもちろん、夕べから不眠不休で準備していた浜辺のスタッフは凄い集中力で撮影に専念していた。
2時間ほど経っただろうか、風が強く吹き始め、押し寄せる波が少しずつ激しくなり、さらに悪いことに満ち潮の時間が近づいているのが解かった。シュートできる時間が無くなっていく。夏が訪れる前のまだ温度の低い早春の海に、腰まで浸かった桑田氏の唇がやや紫色に変わり始めた頃、たかがTVCF(コマーシャル)じゃあないかと思っていた僕の考えは、いつしか学生時代にメガフォンを握っていた頃の、映像に対する気まじめで不器用で無邪気なハートを取り戻し、ときめいていた。好きなことをしていると時間を忘れる。
最近、胸が躍る機会が少なくなったような気がする。何が起こるかわからないような事態も少なくなった。ある程度のリスクと小さな成功も計算できる。すべてが決められたとおりに動き、シナリオという波の上をすいすいと無難に進んでいる。
懐かしい記憶の中で、ボォーとしていると「ボブ氏と、写真でも撮ってください」と、再び坂口さんが優しく笑った。
2003.02.21
2月21日(金)夕焼けを見に訪れた多摩川沿いの公園に梅がぼちぼち実を膨らませ、気の早い蕾は赤い花を咲かせ始めている。(写真参照)
昨日の前夜祭から、今夜にかけて誕生日にたくさんのケーキを頂いた。中でも東京プリンスが作ってくれたケーキは驚くほど大きく、ゴージャスで、思わずデジカメに納めてしまった。(写真参照)
僕がずうずうしく「今年のプレゼントは、ラコステのポロシャツにしてください・・・・・サイズはDです」などと、誕生日を聞かれる人みんなに注文を出してしまったので、しばらくゴルフ用のポロシャツは買わなくて済みそうだ。
胡蝶花の女性にはデュポン社のライターやペンを頂いた。これらの高級品は持ち歩くと必ず無くすので、箱に入れて机にしまった。
というわけで、2日間の間にあちこちの飲み屋で「ハッピー・バースデー」の唄を歌ってもらった。そのたびに悪い気はしないのだが、凄く照れくさく、しかし礼儀なので椅子から少しだけ腰を浮かせて頭を下げた。ワインやシャンパンを空けてもらいながら、何処か相変わらずみんなの祝福の輪から遠ざかってしまうもう一人の自分がいた。
昔から、そうだった。初めは円の中心になって、たくさんの人々を集めるのだが、そこで“祭り”が始まり、集団の興奮がピークに達する頃、僕はひとり帰路に着くのだ。・・・・・・・へそ曲がりの美学だなぁ・・・・・
3年連続で橘君にムードメーカーをお願いしたせいか、明るい雰囲気の宴が続いた。彼は、いつも円の中心にいて華やかだ。(いいなぁ・・・・そういう性格)
最近、花の名前を覚えようと古本屋で「花暦」の本を買った。1年365日にはそれぞれに花が宛がわれている。ちなみに2月21日の誕生花は「クロトン」。別名「ヘンヨウボク(変葉木)」とも呼ばれるマレーシア原産の常緑樹。
異国、異文化への憧れが強く、エキゾチックな小物を収集するのが好きな人。と書いてある。(確かに当たってる所も有るかなぁ・・・・・?)
トイレの便器に座りながら、20分も「花暦」をめくっていた。知り合いの誕生日をめくっては、本に書いてある「誕生花」と性格分析を読みながら本人を想像していた。
そう言えば、半世紀前に冬から春に向かって生まれた僕は、夏から秋に向かって咲く花を“人生という花瓶”に飾らなければいけないんだ。やはりその場合の花は「菊」なんだろう。
白い菊の花言葉は、「真実の愛」、赤い菊の花言葉は「私は愛する」、黄色い菊の花言葉は「軽んじられた愛」・・・・・・そう書いてあるのだが、僕は赤い菊のドライフラワーを生けてみよう。
2003.02.18
2月18日(火)東京プリンスの3階にある、「ボン・セジュール」で伊勢海老をつつきながらバルコニーの向こうの東京タワーを眺めている。陽気が上向いてきたせいか、早咲きのスミレが黄色い花をつけ始めている。
どこから来たのかグレーと白の横縞の水鳥がはしゃぎまわって、池の淵にある石膏色の水がめから時折、水飛沫が上がる。昼からワインを飲むなんて何年振りのことだろう。アルバムの写真の打ち合わせをしている内に、ご機嫌になり、ほろ酔い加減だ。
部屋に帰ると、2時間ほど転寝をしてしまった。いつの間にかヒーターの温度を28度に設定してしまったので、目が覚めたらおでこと背中にぐっしょり汗を掻いていた。
窓のカーテンを開けると、振りそうで降らない灰色の空の下に、春を迎えるには中途半端な桜並木が、小さな蕾をつけながら増上寺の西門の方に続いている。もう3週間もすると、この部屋の窓からピンクに染まった桜満開の芝公園を眺めることが出来るだろう。
2003.02.13
2月13日(木)名古屋の御園座で公演中の、左とん平師匠がたった1日の休暇(公演の休日)が取れるという事で、午前6時の新幹線「のぞみ」に飛び乗った。
浜松を過ぎたあたりで、太平洋の向こうから車内に朝陽が差し込み、改めてその日差しの強さに春が近いな・・・・・と深呼吸をした。オレンジ色の燭光が浜名湖や水辺のほとりの町を染めているのを見ながら僕は、再び朝の深い眠りについた。
「クロス・クリーク」というジャック・ニクラウス設計のゴルフ場は、名古屋から豊田市を貫けて50キロの位置にある。とん平師匠の友人の車に同乗、赤字必死のイベント「万国博覧会」の会場や、作りかけの高速道路など相変わらずマイペースの中部経済圏で独自のインフラを生み出す“尾張”の底力を見たような気がした。
山間の中に作られた川と、バンカーのトリッキーなレイアウト、昨夜からの不安といやな予感が的中しひどいスコアーになってしまった。やはり、初めてのコースは余程の自信がない限り上手くいかない。おまけに40センチほどのパットがぜんぜん入らない。初めてのコースはその自然と景観に飲み込まれ、いつの間にか気合と力が入りすぎ、リズムが壊れ、フォームがまったくばらばらになり、集中力が切れ、終いにゲームを諦める。
帰りの新幹線は、ひどく脱力し悲しい夜汽車となった。
気分転換に、銀座の酒場に顔を出した。いつもの店のカウンターの端に腰を下ろした。まださっきの惨めなゴルフが吹っ切れない。なぜ勝負所のパットが何発も連続してカップを舐めたのかなぁ?・・・・・・?
Y氏が嬉しそうに「名古屋の出張どうでした?日帰りって大変でしょう」
「そうだね、新幹線って意外と疲れるんだ」
「お芝居はどうでした?」
「うん・・・・少し考えさせられたよ」
12時過ぎに、N君に迎えに来てもらってジョナサンで打ち合わせ。隣のK嬢も久しぶりに僕の顔を見て、懐かしかったのか山ほどの質問を浴びせながらエビフライを食べている。
何?・・・・エビフライ・・・・・名古屋の名物おかずだ。今日は名古屋で始まり、“尾張”も名古屋だ。
2003.02.07
2月7日(金)昨夜、アルバムジャケットの撮影が中止になったこともあって、夕方からホテルにて、再度次回撮影日の打ち合わせ。
CPUの福田君に久しぶりに仕事をお願いして、アルバムのデザインを楽しみにしていたのだが、僕のスタッフのスケジュールが上手く取れず、ギリギリでキャンセル。深夜AM2時の出来事だった。そもそも多少の時間のずれは忍耐強く我慢すればよかったのだが、このところの、仕事過多もあって、イライラしてしまい、自分の顔がとてもカメラの前で作れる気がしなくなってしまい、突然中止宣言をしてしまった。外の温度は4度、寒い中待っていた連中はがっかりしたろうな・・・・・。
海に近い三角州に流れ込んだ川が黒くゆったり流れている。
天王洲アイルに掛る橋の欄干の両側のイルミネーションが闇に浮かび上がり、冷え込んだ明け方の空気を吸いながら、橋の真ん中を一組の恋人らしき男女がゆっくりと向こう岸からやってくる。
寝静まった明け方の街は、今はやりの高層ビルと倉庫を化粧直ししたようなカフェ・バーがあるせいか、週末の夜は人でごった返す。
しかし今の時間帯は彼ら二人しかまったく存在しないかの様だ。
橋を渡り終えるところで男がタバコに火をつけた。ライターの明かりでサンド・ベージュの厚手のコートの生地がくっきりとした時、さっきまで男の横に寄り添っていた女の姿が不意に消えた。
まるで切り絵を貼りあわせたように、男の肩の向こうで女の全身が重ねった。
きっとずっと以前に、この橋で二人は出逢い、この橋で恋をした。男はこの橋を「記憶」の道を辿るためにやってきた。・・・・・・・・
こんな設定のジャケット写真を想定している。よって、結構神経質なのだ。
アルバムの方は、「疑問」、「記憶」の2曲が完成。「伝説」という3曲目がほぼ収録を終えた。来週から、ジャケットのカバーの進行が始まる。5年ぶりの作品だが、今まで制作した中では、一番感じているものの表現に熱が入っている。
パートナーが、昔からの友人だったのがここに来て、僕の救いになっている
2003.01.31
1月31日(金)PM5時、多摩川のほとりで夕焼けを背景にアルバムの仮撮影。といってもオート・シャッターを駆使して、あらかじめ決めておいた地点に猛スピードで駆け寄り、レンズの中に納まる作業。
授業を終えて川沿いを散歩している中学生に妙な目で見られた。晩御飯の前に犬を散歩しているおばさんも、興味本位で僕を見ている。しかし、本当にきれいな茜色の夕焼けなのだ。上手く自分の姿がシルエットが納まればアルバムのジャケットに使用できるかもしれない。
東名高速のムコウに富士山が見える。港区の自宅から見える富士山よりも大きく見えるのは近くに高いビルが存在しないからだ。(写真参照)
銀座に戻る道が、混んでいる。月末の金曜日。三軒茶屋から六本木を抜けて芝公園まで1時間もかかった。いつも年の始めの1月は、他の月より早く過ぎていく。
そう言えば、今年になって気が付いたことがある。どうやら僕は”福の神”になったようなのだ。がらがらに空いたクラブや、たった一人のカウンター・バー、おまけに行きつけのサウナの中まで、僕が席に座ってものの数分で人が来る。それも団体の客が必ずドヤドヤ入ってくる。偶然と言ってしまえばそれまでなのだが、この非科学的な現象は、今日になっても続いている。
何か“安い磁石”のように、自分が思えてならない。人も物も情報も、おまけにスーツの毛玉までことごとく、どんどんいろんなものが集まってくる。
玉石混交の自分の周辺を見つめる眼を、より磨きなさい・・・・・・そう暗示されているのだろうか?
明日から、2003年2つ目の月が始まる。
2003.01.27
1月27日(月)昼の12時30分。部屋にうなぎが着いた。東京プリンスで始めて「うな重」を注文してみた。ホテル生活はシンプルでとても便利だが、このホテルにないものは歯医者と、サウナとうな重。
この3つさえそろえば完璧だ。先週から雑誌や街角のあちこちで「鰻重」の写真を見る機会が多く。今日の昼飯はどうしても「うな重」にと決めていた。お客様と、少し小骨が感じられる「うな重」を食べながら「記憶」(新曲)について色々な意見を聞いていた。2時間も繰り返して曲を何度も聴いた。ELT(エブリ・リトル・シング)のバラードのアルバムを参考にもう少しサビをいじくってみようと考えた。
午後3時過ぎの新幹線で名古屋に向かった。ここのところ通過することが多かった“青春時代の名古屋”で、停泊して友人と会う・・・・・考えてみれば昨年来から続いている“思い出の確認”が今の僕の生きるエネルギーを支えている。今回は、学生時代に一緒に暮らしていた杉浦 誠氏(当時も今もゴアという愛称で呼ばれてる)や、長屋さん、上手くいけば加藤文敏君とも再会できそうだ。
予約しておいた広小路の「ヒルトン」の24階の広い部屋から久しぶりに名古屋の町並みを見下ろしている。駅の周辺に幾つかの高層ビルがたったものの薄く広く扇状に、のんびりと横たわった街のおおよその空気感は昔とさほど変わらない。若い時代にこの街を卒業して東京に向かったのは、豊かであるがゆえに、未来への集中力が感じられない落ち着いた都市に不安を感じたからだったのか?今、ようやく当時の不安定な心持が分析できるような気がする。
最上階にあるレストランで長屋氏と昔話に花を咲かせている。あれから30年が経過した。灰色に近い白と透明に近い黒のモノトーンだった記憶の曖昧な部分が表情や指先を通して少しづつ色を帯びてくる。こんな経験も初めてだ。
30年前の写真のところどころに色がつき始めた頃、レストランのバンドがビージーズの曲を演奏し始めた。思い出を訪ねる道のりにはいつも必ず音楽が流れている。
夜が更けて安藤君がゴアを引き連れて迎えに来た。山本屋の「味噌煮込みうどん」を3人で食べようと街に出た。東京より冷え込むはずの街は、雨上がりのせいか妙に暖かだった。
今夜、徹夜に近い状態で行うミックス・ダウンで織り上げるのは、「今」の自分を探す自分と、「過去」にすがる自分を認める自分を「記憶」をとおして曲にするという贅沢で楽しい作業になりそうだ。
2003.01.22
1月22日(水)信号待ちをしていたら、突然大きな鈍い音がして一瞬、ほんの7秒ほど我を失った。高速道路の橋桁が倒れてきたか、車の下のマンホールが爆発したか・・・・と思った。
気が付くと、買ったばかりのジャガーの窓やドアーが完全に電動ロックされ、車の中に閉じ込められてしまった。首を軽く回してみる、肩を左右に動かしてみる、恐る恐る足を腿から少しだけ上げてみる。手首をぶらぶらと揺らしてみる。幸いにも何処も現在のところは痛まない。
窓の外に、追突してきた運転手の顔があった。左の窓の向こうから、警察官の心配そうな声が聞こえた。
「大丈夫ですか?体は大丈夫ですか」
(かなり激しい速度で追突されたな・・・・・)初めてそう思った。
道路の中央で車が大破したようなので、とにかく車から脱出しようと思ったが、窓も扉もうんともすんとも動かない。天井を見るとタバコの煙を出そうと思ってわずかに開けていた屋根のサンルーフから朝の冷たい空気が入り込んでいた。仕方なく強引に窓をスライドさせて、芋虫のように身を乗り出し、車体から這い出して脱出。ボンネットをクッションにして道に転がった。
我ながら、随分丈夫に生まれたものだと思った。車の後部(ボンネット部分)は完全に姿かたちを変えていた。天井はプレスされたようにひっしゃがり、尾灯は粉々に砕け散って道の上に散乱していた。それほどの事故なのに、僕は生きている。
「良かったですね。大きな車だったら死んでますよ」
(そう言われても、こちらで追突をしてくる車両を選んでる訳じゃないよ?)
不況の影響で、リストラされまいと不眠不休、徹夜で仕事をする人が増えている。道路の上では居眠り運転の運転手が増えている。気が焦っているのか一時停止をしないばかりか、信号すら気にしない無法者が普段でもやたら目に付く。携帯電話でメールを打ちながら川に落ちた車もいたそうだ。
経済にゆとりがないせいで、社会がギクシャクし、軽はずみな犯罪が急増している。
知識はあるが知恵のない人間が、個人的な要求が受け入れられないからと人を傷つける。取り締まる方も、一番当てになるのは警察犬ぐらいのもので、取るに足らない犯罪は、時間が無駄だとばかりに相手にしない。
しばらくの間、車を運転するのが怖いばかりか、道を歩くのでさえ危険な様な気がする。
2003.01.14
1月14日(火)あちこちで在庫切れのモンクレアの白いダウンベストを、BEAMSで発見、大騒ぎで購入、部屋で広げて見たが確かに本物はいい
中に入っている水鳥の良質の羽が、このところ急に冷えこんだ東京の寒気から鉄壁に身を守ってくれるだろう。
本物といえば、この連休を利用して久しぶりに並木通りを歩いてみた。「ブランド・ショップ」が早くも冬物のバーゲンを始めていた。現在のデフレ景気では、商品にいつ見切りをつけるのかが難しい判断であろう。まだ寒さが続きそうだ・・・・・もう少し今の定価でいけるだろう・・・・・などと女々しく迷っていると必ず売れ残る。このような日和見主観的な経営者の店舗営業には、マーケットの動きの素早さが計算されていないばかりでなく、お隣のコンペチターの動向がまったく不在。店頭のポスターの貼り方にもどこか優柔不断な弱気が覗いている。
今のデフレ時代の消費者は、“裏の裏を読んで、買い物をするのを”楽しんでいる。売る側が苦しみながら売価を割り始めた頃に、どこの店が一番弱っているのかをしっかり見極めたうえで、さらに相手のマージンを想定しながら購入する。関西のよう客の様に面と向かって「おじさん、もっとまかるやろ・・・。」
などと健康的に表面からやり取りするのでなく、死を待つ蟻のように静かにウィンドゥの前で値札が赤くなるのを待つのが東京の客なのだ。
銀座通りを4丁目にむかい久しぶりに「天賞堂」に時計を見に行った。この上品で風格に溢れた店は創業123年(1879年)になる。ブレゲ、パティック、ブランパンなどのブランドが並んだショーケースを見ていると、いつになったらこの国の消費者の“外国カブレ”は納まるのだろうと考え込んでしまった。
政府が円安政策を打ち出すことで輸入品が高騰しても“カタカナ生まれ、カタカナ育ちの魅力”は永遠に続くのであろう。この舶来びいきは外国の政治家ファンから、音楽(芸術)、食い物、保険制度、金融システムにまで及んでいる。
「天賞堂」が昨年発表したNEWモデルは複雑な機能といい、精密なフォルムといい、美しいデザインといい、日本人の商品開発力の凄さを感じる。
昼食に鮨を摘まもうと足を築地に向けた。日産本社のショールームに新型のスカイラインとフェアレディZが飾ってある。この商品も戦後の日本人の技術力を結集したようで、誇らしい時代の代表選手だ。しかし・・・・・・そう言えばこの会社の代表もカタカナの外国産であった。
2003.01.01
2003年1月1日(水)いつものように、毎年のことながら“歳の変わり目”の1週間は年末年始のイベントが入り乱れ、東奔西走しているうちに新しい年が明ける。
そして大晦日は眠れない。埼玉アリーナでアントニオ・猪木さんの「猪木ボンバイエ」を最前列で観戦、その後、初詣のラッシュを警戒しながら有楽町まで車を走らせ友人の三瓶氏のプロデュースする「ゴールデン・ライオン」(これは本当に凄い中国サーカスの業師の集まり)のカウントダウン。芝の増上寺で人ごみをチェックし、紅白唄合戦を終えたばかりで、盛岡の安比スキー場でコンサートをお願いしている、さだまさし氏に“よろしく電話”。沖縄のリンケン氏に“どうですか?電話”を入れて・・・・・・・それから名古屋の安藤君に新曲2曲のミックスの状況確認・・・・・・。
気が付いたら冷え冷えの大陸性寒気団があっという間に目の前を雪景色にしていた。数年ぶりにひらひら舞い落ちる初雪が東京の正月を白くすると何か胸騒ぎとともに、この星の異常事態を思わせる。
この時期は昔から苦手で、非常識なことなのだろうが、子供の頃から一度も“新しい年”という実感を持ったことがない。年間のうちで普通の人の気分と一番かけ離れた寂しい1週間になる。
僕にとって“新しい心”“気分一新”を生み出す機会は、門松を飾った元旦の朝よりは、毎朝の散歩で深呼吸をした瞬間に入り込む草のにおいや、サウナで水風呂に浸かってシュワっとくる感覚の奥に生まれる肉体的な刺激を覚える瞬間である。従って、キザな話かもしれないが気分の鮮度からすると「毎日が、お正月」ということになるのだ。
マスコミに勤めていた父の代から東家はこういう祭礼行事にドライであったが(無関心ではないのだが)、そんな僕にも、鹿児島に帰って祖父の家に親族が集まって襟を正して書初めをしたり、池の掃除をしたり、雑煮をつついたり、小学生の頃、お年玉を楽しみにしていた記憶が仄かに残っている。しかしその頃でさえ、(子供心になんで、みんなこんなに“メデタイのかなぁ”と疑問を持ちつつ)親戚の子供たちからも一人置き去りにされてしまうのである。
マスメディアを駆使して、誰かが日本人の精神市場をコントロールし、消費マインドを操るように考えたカレンダーに引きずられ、日本列島が無理やり“お正月ゲーム”をやらされているという欺瞞的な感じすらしてしまう。
こんな“寂しがりやの偏屈なへそ曲がり”にとって、さらに厄介なのは行き付けの店や、茶飲み友達が東京から居なくなってしまうことである。(みんな普通にお正月を過ごしてるんだなぁ)。今年も、銀座組は当然としても、酒飲みの友人までもがスキーや海外旅行に出かけ、しかもスポーツジムは休業、・・・・・新聞も来ない、TV番組は昨年収録した偽造品ということで、疎外された気持ちのままの退屈な年明けになった。
混雑する時間を避けて増上寺に出かけた。今朝の積もらなかった雪に濡れた石段を登り本堂で、手を合わせた。健康のことも、景気のことも、交通安全の事も、すべて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
「今年は、みんな君に、まかせたよ」
こんな風に、仏様に祈ってしまった。新年早々、頼まれごとをされた仏様も、さぞ迷惑そうに苦笑をしているだろう。
2002.12.27
12月27日(金)成田空港から帰る途中の高速でホルダーの中の携帯が激しく揺れた。
あれはちょうど昨年の12月の出来事だった。懐かしい声が手の中で聞こえ、僕は久しぶりに君の笑顔を思い出していた。
思えば2002年は“再会の年”であったように思う。
“青春の名古屋”をともに過ごした安藤君から30年ぶりにメールが届いたのは今年の夏だった。センチメンタルの細井君がレコーディングに参加してくれるとは夢にも思わなかった。考えて見れば春先に四谷で藤原和博氏や福西七重さんとお酒を飲んだのも10年振りのことだ。元世界フライ級チャンピオンのチャコフ・ユーリ氏とも数年ぶりに朝食を食べた。
一方で、予想だにしなかった初めての人との出会いや、「こんな仕事もあったのか」というような新しい仕事とも例年以上に遭遇した。きっと世の中が目まぐるしいスピードで変化しているだけではなく、変化の過程で今までの面や点や線、境界線や壁や器が壊れ、あたかも暖流と寒流が一つの海流に混じりながら“新しい大洋に出発するための渦”を創っているのだろう。
今までのノウハウを自己放棄したことで、久し振りに感を使うことが多い一年だった。いつも手探りをしながら、神経質に過ごした日々だった。そのためのストレスでよく遊んだ年でもあった。引越しが多かった子供のころからの性格でもあるが、環境の変わりはじめは“仮説仮定を一つに絞らず”に絶えずいくつかの選択肢を用意する。今年の特徴は仮説仮定すら立てられずに曖昧な予想と明日は役に立たないかもしれない事実を積み重ねて動いてみた。その結果、どれが来てもいいように、スペアーを準備しておいたことで余分な出費もかさんだ一年だった。
2000年という世紀の変わり目がこれといって驚くほどの個人的事象もなく過ぎただけに、“2年遅れのミレニアム”といった歴史的なステップを感じる年だった。ニュースや人の話、町の変化が情報の洪水のように押し寄せた。
ワールドカップという地球レベルの強力なイベントの磁力なのか、戦後50年間続いたわが国の経済構造が根本的に通用しなくなったせいなのか、自分が年齢的な節目を迎えている焦りなのか、それとも単なる“人生のエネルギーの発散の周期”なのか?落ち着かない一年だった。
宵の中でベッドサイドの目覚ましを見るともう6時30分を指している。東京プリンスから、銀座に向かう日比谷通りは赤いテールランプと赤いブレーキランプの喧騒で目が眩みそうだ。(今年一番の渋滞だな)少しいらいらするのでCDのスイッチをONにした。録音中の「記憶」が一番の途中からおおきなボリュームで流れてきた。並木通りの入り口は、もう商売モードに入っている。
孤独が好きな僕と 寂しがりやの君
偶然であったのは 神様のお陰だね
来年は今年以上に神様の力や想い付きに左右される一年になるだろう。しかし神様はすごく身近に、きっと20センチほどのところに居るような気がする。
あまり力まずに自然に時間を創造していこうと思う。
2002.12.16
12月16日(月)新宿御苑近くのレコーディング・スタジオで「質問」の最終録音。「記憶」のメロディーラインの確認作業。センチメンタル・シティ・ロマンスの細井豊氏を招いてピアノ、ハーモニカを重ねている。
細井氏は30年前から僕の脳裏を離れないピアニスト(音楽家)で、その名前の通り「豊か」で柔和な表情がなんともいえない人間味を感じさせてくれる。
彼の指先から繰り広げられる“鍵盤の世界地図”は、ウエスト・コーストから、ミシシッピーあたりまでカバーしたかと思うと、彼の脳裏を走る“五線譜の世界旅行”は中央アフリカのコンゴあたりから、モロッコの裏町まで拡がっていく。
あれは、まだ成人式を迎えていなかった夏の終わりの頃と記憶している。名古屋の勤労会館で安藤君(今回のプロデューサー)と、杉浦君と、当時名の知れた何人かのバンドのリーダーが集まって“たった1日だけのバンド”でライブ・コンサートを行った。僕たちの出番の1つ後ろが、細井氏がピアノを弾いて居たセンチメンタル・シティ・ロマンスというしゃれた名前のロック・グループだった。
演奏を終えた僕の耳を捉えて離さなかったのは、フェンダー社製の“高音のソリッド”な2本のギターのハーモニーと、若かりし細井氏の薄く跳ねるようなリズムのキーボードの音だった。本音を言えば、この30年間、一緒に組んでみたいアーティストの一人であり、またミーハー的に憧れの音楽家でもある。
今、ピアノ専用の録音室の中で、細井君が「記憶」のメロディー・ラインを軽やかに、ムーディに奏でている。僕の作った、あいまいな曲線がどんどん息を吹き返していく。(青春時代から一度も音楽から離れずに、音楽を愛し続けた人の職人芸だ・・・・・・・)。僕は、ほんの数分間目を閉じて、聞き惚れていた。まぶたの裏に、大好きだったセンチメンタル・シティ・ロマンスのステージがくっきりと浮かび上がり、胸の中には1972年の名古屋の風が流れていた。安藤君も、僕の目を見てにっこり肯いた。
街中のあちこちで“赤”がよく目に付く。クリスマスのサンタの帽子と洋服の赤、ポインセチアの赤、ケーキの赤いリボン、冷気でよく澄んだ夜空の飛行機用の安全灯の赤の点滅も無数にある、それに心なしか雑誌の表紙も赤をふんだんに使っている。
クリスマス・イブの夜には、「記憶」、も「質問」もすっかり仕上がっているだろう。二つの新曲は、今始まったばかりの“新しい恋人たち”(質問)と、こよなく人生を愛してきた“なつかしい恋人たち”(記憶)にきっと、気に入ってもらえると思う。
僕は懐かしいピアノの音を聴きながら、打ち寄せては帰す現実離れした“恋の空想”を描き、そして吸ってはいけないタバコの煙を燻らしている。
このアルバムの制作を終える頃に、名古屋に行こうと思う。少年時代に気がつかなかった僕のこころの一部が、残っているに違いない。
細川豊氏(ピアニスト)
細川豊氏と私
2002.12.13
12月13日(金)陽が落ちて夜の冷たい空気が窓の隙間から少しずつ入り込んでいる。ベッドで、今朝の朝刊の“ふたご座流星群”の記事を読んでいるうちにほんの数分うたた寝をしたらしい。
ホテルの部屋の窓から、忙しくパーティに出たり入ったりする黒塗りの車をぼんやり見ている。正面玄関前のロータリーの中心の植え込みが赤と、緑と、黄色の豆電球でちかちか点滅している。東京プリンス恒例のクリスマスの装飾が今年は例年より美しく見える。(きっと去年より大気が澄んでいる)
ナイフできれいに二分の一に割ったような月が貼り絵に置いたレモン色のサラダボールのように浮かんでいる。携帯電話のメールを何度も読み返していたら、体が急に冷えてきた。バス・タブにぬるいお湯を貯めていると、空けていた扉が開いたので振り返ると夕刊が置いてあった。(もう午後6時なんだ。)
午後3時からシー・アンド・エスの橘高会長と会議。そのてきぱきした話し方やいつもながらの笑顔から“シャープな元気”を頂いたせいか、昨夜徹夜したにもかかわらず僕の体がしゃんとしている。「七面草」でスッポンのスープを飲んだ後一軒だけ顔を出そう。そのあともうひと踏ん張りして、残った体力で小金井の公園に流れ星を探しに行こうと思った。
ふたご座の流星群は、オリオンの南東から天中に向かって宵の口からよく見える・・・・・・と携帯サイトに書いてあった。中央高速でほんの30分。さっきまでホテルの窓から見ていた半月は、ハイウェーの両側の街路灯すれすれのところまで低く下りてきている。三多摩エリアのあちこちで流れ星を見るには“絶好の闇”が拡がっているようだ。調布インターをおりて、天文台通りをぬけ、昔よく訪れた「野川公園」の川べりに車を止めた。予想したより闇は深く、はく息がはっきりと白い。川の流れる音も凍ったように聞こえない。用意していた双眼鏡で星空を見上げ、ふたご座に焦点をあわせた・・・・・・。
学生時代この街で過ごした。ちり紙交換をしたり、塾の先生をしたり、無認可の保育園の経営に携わったり、ありとあらゆるアルバイトをした。付き合いで始めた学生運動が中途半端にたち切れ、今振り返ると何故か取りあえずの仕事を探していたような気がする。この街が“僕の故郷”になると当時は考えていたが、とうとう現在まで僕は帰る街を持てないでいる。
毎晩のようにみんなと酒を飲んだ居酒屋は見当たらず、あのころ君とキャッチボールをした空き地は一戸建ての分譲地、住んでいたアパートもモダンなマンションに変わっていた。
東小金井の駅まで車を走らせて見た。昔と同じようにたくさんの学生たちが、週末の駅前通りを賑やかに歩いていた。(中に入って一緒に歩きたいなぁ)
記憶というイメージのなかで、人や街や道や建物は実際のサイズよりどんどん広がって大きくなっていく。
今夜見た小さな流れ星も、いつのまにか時が過ぎると思いのほか明るい色に輝き、僕の記憶の中に留まるのだろう。
2002.12.09
12月9日(月)夜明け前、まだ薄暗い。午前3時すぎから降り出した雪に増上寺の屋根が、袋文字のように輪郭を縁取られている。
低い空から舞い落ちる霙雪(みぞれゆき)で東京タワーの周辺の大気が蜜柑色にハレーションをおこしている。寒いといえば寒いが、僕は半そでのポロシャツを2枚重ねて着ているだけで、むき出しの腕が初雪をじかに感じながら心地が良い。(いつまで、降り続けるのかなぁ?)東京に雪が降ると必ずいつもそう思う。雨が無制限に広大な天空からに落ちてくるのに比べ、何故か雪は一定の限られた量を少しずつ神様が気ままに調整しながら落としているように感じられるのが不思議だ。
こうして朝の散歩をしていると、体全体が皮膚で呼吸している感覚を捉える瞬間がある。その時は決まって、深く息を吐き出し、空を仰ぐことにしている。
芝公園の黄色く枯れた芝生は雪の下にもぐり、足の指先が冷たい。
太陽が宇宙の向こうから、燦燦と無限の光を注いでいるのと比べ、月は限られた灯火のバッテリーをわずかずつ地上に配分している。この月の儚さ(はかなさ)が、人工的な街の明かりと比べるとたまらないロマンでもある。
散歩の途中、水色の朝の雲に浮かんだ行く宛ての無い白い月を見かけることがある。まるで、最後の言葉を捜しているうちに、引くに引けなくなった恋の終りの様に。この月の場合は意地をはってはいるものの、存在感が微かなのだ。
今朝は、太陽も月も雲も風もない。ただ“白い氷”が薄くゆっくりと瞼に落ちては、溶けて行くだけの朝である。
2002.12.04
12月4日(水)青山のレストラン「シェ松尾」に無理をお願いして、閉店時間にもかかわらず、午後の紅茶とケーキをご馳走になっている。
誰もいない応接椅子に腰掛けてぼぉーとタバコを燻らせる。近所のレストランは昼休みのOLが食後のお茶を楽しんでいるのか、まだ混み合っている。
先週、英国製の新車が納車になった。青山通りの紅葉した街路樹の下に車を止めておくと、青いメタリックのボディーに黄色い銀杏の葉が4枚、5枚とあちこちに向きを変えて落葉し、ボンネットに秋のデザインを施してくれる。さらに目を細めて、それを画用紙の大きさに切り取ったイメージで眺めていると幾何学的なアートが、“瞬間的に誕生する”。銀杏の葉っぱがひらりさらりと舞い落ちるたびにそれが未完成の音楽のようでもあり、目的の定まらない人生の面白さの様でもある。役割を終えたはずの落葉は、12月の風を受けて、新鮮なデザイナーに変身した。
「私は、おっちょこちょいだから今までの人生ってミスばっかりしてきたの」何かを話したかったのか突然、女性は話し始めた。
「そんな風に笑いながら「イママデ」という単語を使われると、何か今までの君の過去の人生全体を否定しているようで、寂しくなるよ。」
「だって、最近自分が今持ってる大切なものすら全部要らないって思ったりもするのよ」
「明日とか、将来とか必要以上に考えすぎると、みんなそういう考えが起きるんだよ。現在から先のことは、みんな空想と冒険の世界だからね。ちょっと体の具合が悪かったり、嫌なことがあったりで精神状態が悪かったりするとね、余ほど元気なとき以外は明日以降のことを考えすぎると、不安の雲がだんだん大きく広がって来るもんだよ」
「ゼロからやり直せないかしら」
「もう君は人生って言う山登りを始めちゃってるんだからね。今ある荷物は、全部役に立つ。いざという時にはプラスに働くものだって考えたほうが自然だよ」
「それって、東さんがあんまり苦労してないから言えちゃうのよ。それに自信家って言うのかなぁ・・・・・・・・」
「違うよ。僕の方が、少しは先に山登りを始めたからね。今6合目あたり。まだ君はやっと2合目あたりって気がするよ」
「苦労ってわかんないなぁ。苦労ってなんなの。それ相対的なもの。個人的な絶対的なもの?気の持ち方でなんとかならないの。それとも2合目の私はまだ苦労を知らないのかなぁ」
「気の持ち方で少しは楽になるかもしれないから、取りあえず頂上に向うんだって決めちゃえばいいよ。苦労ってのは後から気が付くことの方が多いよ。“あれは大変だったなぁ”“よく乗り越えられたよね”って自画自賛するようなものだよ。・・・・・きっと。」
「じゃあ、そろそろ山登りの時間だわ、家に帰らなきゃ。またね」
年の暮れになると、いつもこの様に何か雲の上に居るような酸素不足の会話が多くなる。人はこの時期になると山登りをする旅人が自ら辿ってきたルートを確認するように、一度背負った荷物を路傍に降ろして、今年あったことを振り返りたくなるのだろう。
去って行く女性の白いセーターにはらりと銀杏が舞い落ちた。月並みな表現だが青山通り一帯がルノアールの絵のように滲んでいく。その額縁から突然ふわりと君が消えてしまうような気がした。
新車のエンジンの音が、思ったより静かなことに気が騒いだ。
2002.11.28
11月28日(木)「もう少し待てばよかった」と銀座の「平井」で唇を噛んだ。
結論を出してしまった後に、一番大切な話を言われてももう遅い。年の暮れに、誤解が多くなるのは、いつもより判断が早くなるからだろうか。
昨夜は「馬小屋」(恵比寿)で、一杯やっていた。オーナーの中島さんは、その世界では有名なオカマでTVコマーシャルに登場したり、お店の客も今はやりのタレントが顔を出したりと、この業界では人気者だ。
彼らは、われわれ普通の男性?よりデリケートで、特に人間の心の動きには敏感で繊細、時として驚くほど直感がさえる。従って、普通は誤解を招いたり、いいづらかったりする言葉や会話を、瞬間的に相手の気持ちの隙間を抜いてさらりと言ってのける。言われた方も悪い気がするわけもなく、気持ちよく一本とられた感覚で、思わず微笑んでしまう。どこかにオカマであるが故に許されるぎりぎりの限界線を持ちながら、相手を引き込んでいく卓越したテクニックを持っているのだ。まるで、熟練工が、ミクロの穴に水を流し込むように。
「やはり、男は上の口、女は下の口なのよね」
「心も熱く、請求書も厚く・・・がこのお店の主義なの」
「1回試して御覧なさいよ・・・・??・?・?・」
などの名言はメモを取りたくなるほどである。
以前の会社の上司と阿佐ヶ谷の中央線のガード下のスナックに通っていたことがある。この店も料理が美味しく(馬小屋さんも、物凄くいい味付けなのだ)、特に深夜に食べる玉子焼きが秀逸であった。或る夜、彼女(?)のしゃれた話を聞きたくなって1人でその店を訪ねた。6畳ほどの小さな店に、カウンター席が8席。扉を押して入ってみると、客は誰もいない。萩原健一(ショーケン)の「大阪で生まれた女」が小さなボリュームで流れていた。突然、カウンターの向こうで山羊が鳴くような声がしたので驚いてみると、ママが血を吐いていた。赤いTシャツが黒く染まっていた。
「救急車を呼ぼうか、ママ死んじゃうぞ」これくらいしか言葉が見つからなかった。
「御免なさい。こんなとこお見せしちゃって・・・・。恥ずかしいわ」
店を閉めさせて、ママを横に寝かせるとしばらく血の混じった咳をしていたがアルコールの勢いと、吐きつづけた疲れからすやすや寝てしまった。
普段から濃めのアイシャドーが目の周りをパンダのように黒くしていた。
「わたし、お正月が苦手なのよ。両親ももう年だしさぁ。年に一遍のことなのに静岡に帰らなきゃならないの。そこの親族が私をすごく面白がるの。中でも私がすごい可愛がってる甥がさぁぁ、まだ小さいんだけど不思議そうな目で私を見るのよ。それが、少し苦手なの」
「先日は、御免なさい。静岡のこと考えてたら、つい飲みすぎちゃった」
クリスマスが近づいた忘年会の帰りに、ケーキを持ってママの顔を見に行った。あの夜以来酒を断っているらしく、すっきりした顔で、いつもの様にグループ・サウンズを聞いていた。あの日と同じ赤いTシャツを着ていた。よく見ると、黒い文字(ロゴ)で「WE LOVE PEACE」と書いてあった。
彼らほど人間好きは居ないんだ・・・・僕は今でもそう思っている。
2002.11.22
11月22日(金)時間の束縛がかえって集中力を呼び、夕闇がばたばた夜になるのと競争しながら、ホテルの部屋で45分間の間に今夜のプレゼン用の企画書を書いた。
それはDNAに関連したものだ。今、僕は遺伝子に興味を持っている。
地球人口60億の誰もが、まったく同じものを持たない(双子以外は)この“人間の素に”魅せられている。ホームページの性格上、どなたがお読みになるかも判らない、妙に誤解を受けたり、世間を騒がしたりするのも無責任なので、この企画は改めて2003年の4月辺りに、皆さんにも詳細をお知らせしたいと思っている。
一般的に集中力は、限られた時間の中で何かに取り付かれたように発揮されがちのように思われているが、実はそれは間違いだ。或る程度の自由な枠の中で、自らがコントロールして時間や、精神力や、創造性を束ねた方がいいものが生まれる。物理的に余裕がないと、その時は自画自賛して“輝いて見えたものも”あとでゆっくり確認してみるとただ“時間がない割りに、よくやった”という程度の出来栄えの物が殆んどである。
モーツァルトは森の中を散歩しながらたくさんの傑作を書いた。三冠王の落合選手はベンチで打順を待っている間タバコを吸って、投手の投げる球種をイメージしていた、そうそうあのボンズ選手もガムをクチャクチャ噛んでいる。
ものすごくゆとりがある時に、実は全体のイメージが出来上がるのではないか。モーツァルトがピアノの鍵盤の前に座って「さあ、曲でも書こうか・・・・」と思ったときには、すでに曲の全体の構成も、場合によっては細かなフレーズも、実はほぼスコアーが完成していたのではないだろうか。落合選手の場合も一球目のストレートは見逃し、2球目のカーブはわざと空振りし、3球めのカーブを右中間に打ち返す・・・・なんてところまでピッチャーの心理を読んでいたに違いない。
リクルートを退社してから、約2年。ようやく今のフリーのプロデュース業にも馴染んできた。その間、殆んど人のお世話になりっぱなしだった。いつも何かに追われ、いつも何かを探し、いつも誰かに救われ、いつも誰かを探していた。「気楽な人生にみえるよ」と言ってくれる友人もいる。「好き勝手やってるね」という先輩もいる。
仕事は、想像力の結晶である。元にいい商品かどうか、それから市場(お客様)の動きと、お金の流れ、組織のフォーメーション。
もしこの2年が、人生において余裕ある期間の一部だったとしたら来年の仕事は、すでに頭の中で完成していなければならない。
2002.11.15
11月15日(金)午前3時。誰もいない知らない街の外灯の下で車を止めて「クエッション(新曲)」の仮歌を聴いている。
作曲活動はスムーズだが、作詞の方が一行に進まない。詩を書くために頭の中を、やや感傷的、情緒的になるようにコントロールしているせいか理屈では判っているのに、気持ちの整理が付かないことが多い。中途半端な心の状態でいることが今の僕にとっては一番の“安らぎ”なのだ。
誰も来ない見知らぬ町で、こうして音楽を聴いているとふいに川の音が聞きたくなった。川がゆっくりと流れるのを見たくなった。ただ“海に向かう”ということしか、それ以外は何も行き先もわからない、そんな単純な大きなうねりに心を任せたくなった。“自然な心の動きを”感じたくなった。多摩川の土手に着くと、何故か車のトランクから7番アイアンを取り出し、深いラフから向こう岸に向かって球を打った。闇の中で妙な力身が入らなくて、いいショットだった。
アルファ・オメガの社長の佐々木君が早稲田大の卒業論文で「大脳生理学における右脳の活性化」をテーマにした。どうも彼の実証的な話によると小説や詩などの作家は執筆活動に集中できるような頭脳環境を作るのに10日間を要するらしい。日常の雑事から開放され10日。漸く、創造的なやる気と、“空白の中から空想の元素”が生まれるのだろう。しかし今の僕が10日間も、スケジュールをOFFにするのは不可能に近い。そこが職業にしていないものの辛さでもあり、趣味で音楽をしたものの贅沢な僻み(ひがみ)でも或る。
「クエッション」がほぼ完成したので、2曲目の「記憶」の作詞をしている。愛はいつの間にか普遍化し、やがて日常の中で“給料”や、“買い物”、“食事”や、“掃除、洗濯”に姿をかえる。そうなると愛が芽生えた頃の、誰かに対する心の動きを思い出すのは不可能に近い。当時の面影もない相手も、同じ感覚だろう。二人とも姿形を変えている。そんな乾燥した毎日の生活を「これも人生」と諦めるのか、何か物足りずに再び「恋探し」を始めるのかは、人生に対する個人のエネルギーの量に掛っているように思う。
「記憶」という歌は、少年時代・・・・・・“恋を恋したころの心“を探しに出かけるコツを歌にしようと思っている。
川べりの靄の中に止めた車の室内温度が下がってきた。夜明けが少しずつ近づいている。僕の右脳もようやく動き出してきた。作詞のチャンス到来・・・・と思ったが、同時にすごい睡魔にも襲われている。左脳が睡魔と右脳が活性という妙なバランスの中で、高校生の頃のように深夜ラジオのスイッチをONにしてみた。
2002.11.14
11月14日(木)過去のコンサートの記憶の中で、一番輝いている夢が今目の前にいる。ポール・マッカートニーが「ハロー・グッバイ」をいきなり唄い始めた
この曲をオープニングに選んだのは、この会場にいるファンのすべての記憶の扉を開けて35年前(1965年)から現在に引っ張り込むための“やさしい合鍵”なのでは・・・・・?
今回の日本公演で、最後になるに違いない・・・・ということで会場は、主に50歳代の紳士、淑女で賑わっている。30年ぶりに再会した名古屋の安藤君も東名高速を飛ばしてやってきた。スクウェアーの宮本会長、ステファニー化粧品の一家社長にはたくさんのチケットを購入してもらった。キャッツの大友社長、ぴあの川口常務、YOKOのママ、戸張 捷さんの奥さん・娘さん、アップ・トゥーの松田さんは息子ずれ。B6ブロックは仲間たちでいっぱいだ。
大きなイベントがあると、こうして懐かしい顔や、普段お目にかかれない友人と出会える。
1994年の秋に福岡ドームでポールをプロデュースしたときのことを思い出している。スタッフ用に設置された食堂は菜食主義のポールの為に、ステーキも、ハンバークも、特殊加工の野菜や、大豆を原料にしていた。事前の打ち合わせでは「捕鯨反対運動」や動物好きのポールは“身に着けるものであっても革製品はNO”、システム手帳も革張りの物は持ち歩かないように・・・・こんなことまで徹底していた。
ステージ上で、初老の紳士が「マイ・ウェイ」を歌っているのではなく、未だ若さすら発散してポールがおどけながら、はしゃぎながら、エレキを弾いている。音楽家というより会場に集まった全員の人生に何かしら影響を与えた人。その偉大さに、僕は胸を打たれていた。
いつものように、退場時の混雑を避けるために早めにドームを後にした。まだ会場を出る人は一人もいない。ドームの入り口の本屋さんの店頭は、ポール・マッカートニーを特集した雑誌が棚いっぱいに陳列されている。ドームから溢れ出したポールと観衆の「イエスタデイ」が空いっぱいにこだましている。声というより、“思い出という時間の塊が”無数の風船になって、葡萄の房のようにキラキラと宙に浮いているようだ。
「1966年産のワインでもあけよう」・・・・・・・・・・・
2002.11.08
11月8日(金)このところ急に夜の空が澄んでいる。日比谷通りの三田辺りの上空で三日月がくっきり浮かんでいる。東京の星の数も増えたようだ。
のんびり冬の訪れを待っていたのだが、この2.3日のうちに突然冬が舞い降りてきた。僕の気持ちもなんだか無理な冬支度に慌てている。
折からの不況もあって街を行く人々の表情も例年の冬より神経質で厳しい。商売を営んでいる人は売り上げが上がらず、心細く、寂しく感じられる年末を迎えた。社会全体がいらいらしているせいか、今朝も東京プリンスの前でタクシーとバイク便が接触事故を起こしていた。最近、バイク便の事故が増えているそうだ。タクシーと、バイク便。今のあくせくした世の中を象徴するような乗り物の同士の事故には見物人も慣れっこで少ないようだ。
何かが足りなくて、ストレスが溜まっている。こんな不満を一蹴しようと橘君と朝まで大酒を飲んでしまった。「並木倶楽部」で彼の歌を聴くと家に帰りたくなくなる。気が付くと下したての薄いグレーのフランネルの上着のあちこちに赤いワインの染みが付いていた。彼のバラードの歌いまわしは本物の歌手より上手い。来年あたり、彼のCDでも作ってみよう。
銀座にカラオケ専門のお店が出来たのは今から15年ほど前になると思う。それまではアフター(クラブが閉店後のホステスとの2次会のこと)というと、赤坂あたりのスナックにいき、女性の人生の事情やら、だめな客の噂、店とのやり取りなどホステスと客の領域を超えて話をしていた。
僕のように、会社が銀座のど真ん中にあって、今日は8丁目、明日は7丁目などと毎晩のように出没する客は身内の扱いになってしまいいい残念ながらホステスとは「相談相手」になることが多い。
深夜から朝にかけての時間がゆっくり、まったりながれ、ふと時計は3時を指している。話に疲れてくると、恥ずかしながらそこの店にセットしてあったのがカラオケ機材に目をやる。そっとマイクを握り、他の客の視線を気にしながら小さくなって唄っていた。「そっと、おやすみ」がその夜最後の曲だった。
カラオケ・ルーム専門店が出来てからホステスとの粋な会話より、客同士がお互いに自己主張をバンバンしながら得意の歌を披露するケースが増えてきた・・・・・・と嘆くホステスの声をよく聞く。毎晩のように、客に付き合う(アフター)のは大変な商売(肉体労働)だが、売上目標を掲げ、ましてや不況で客が少なくなってきた繁華街の高級クラブではそう簡単にお誘いを断るわけにも行かない。そしてアフターの一番の苦痛がカラオケ・ルームという名の密室で、酸欠状態となり、耳の鼓膜が麻痺するような大音響で、こってり油の沁み込んだツマミを食べながら、外が白んでくるまで下手な歌を聴くことだろう。
よく考えてみると、この状態でホステスをものに出来ると勘違いする客も見込み違いなのだが・・・・。上手く客を捌けないホステスも会話の技量を問われている気がする。
2002.11.03
11月3日(日)山田洋次監督の「たそがれ静兵衛」を見てきた。日本映画しかも時代劇は何年ぶりだろう。
物語は江戸の後期、現在の山形県で一つの人生を終えた実直な下級武士の愛とライフスタイルがテーマである。
今の自由な時代では考えられないほどの封建的な制約の中で生きた一人の武士(真田博之)。彼を支える生真面目な女を役者として大きく成長した宮沢りえが演じる。山田監督が「寅さん以来作り上げてきた」日本人特有の美しい心の動きを静兵衛に託し、それが東北地方の風景美の中で包みこまれる。物語は子供3人を残して妻に先にいかれた、シャイな武士の貧しい生活(家族愛)と武士道(人情)がベースである。それに、男と女の恋愛感が絡み、更に価値観が大きく変わろうとしている江戸時代後期のドタバタ社会の中でこの武士がヒーローになっていく過程を描く。会話のあちこちに散りばめられた当時の男と女の心の持ち方が、見るもの全員に”純朴“と“純愛”の清さを久し振りに教えてくれた。この映画は、必見のお勧めである。
映画といえば、今年の前半は韓国の映画会社との接触やら、アメリカものの投資の話を随分たくさん検討した。ソウルに足を運んで、空撮用の特殊カメラの売込みやら、バブル・マネーで設立して立ち行かなくなった制作プロダクションの建て直しやら、様々なマター(事実)を確認するために何度も訪韓した。キム・ユンジンさんとも語り合った。あれは、一過性の・・・ワールドカップ熱に犯された単なる思い付きの興味だったのだろうか?それとも、この数ヶ月間の間にさらに悪化した日本経済に映画のスポンサーとしての“期待”すら失われてしまったのだろうか?最近、めっきりこの手の投資話を聞かなくなってしまった。
藩のために、子供3人を残して決闘に出かける「静兵衛」に切ない感動を憶えた自分の姿を思い出すと、最近どうも「いやいやでも決断しなければならないある種の義務」を経験することが少なくなった。逃げ場のない究極の判断、そんな追い詰められた瞬間を“リスク回避”という言葉で消化していくのが、果たしてこの年齢の男にとって、本当に幸せなのだろうか・・・・・・・何処か侘しい、寂しい気がする。
時代劇は背景や人間の姿かたちを変えることで、異なったアングルから使い古された“本物を提案”できる魅力がある。昔からある当たり前のことが僕に“新しい反省”を促してくれる。時代劇ブームが、来年は爆発するするだろう。
2002.10.29
10月29日(火)夕闇の中、茨城・筑波の畑の中で童心に返って神蔵君(イマジニア)とゴルフ。紅葉と冷たい風で二人とも頬っぺたまでモミジ色。
この不況の中、朝から、夜まで1日中ゴルフ場にいると何か遊んでいるように思われる。(僕は本当に足腰強化と肺活量アップ、健康維持のために必死なのだが)生真面目な人には不謹慎と言われるし、会議好きの人には非常識と思われるし、事実ロスタイム、携帯電話がブルブル震えると気分も何か後ろめたく、よってツキが落ちそう、スコアーも・・・・・ということで最近は午後からの“薄暮プレー”によく出かける。
バブル時代の昔から、次のようなパターンの1日には疑問を持っていた。まずは2日酔いの朝6時の起床、うとうとしながら高速道路を飛ばしてコースに7時半到着、ばたばたと朝食を済ませ、パットの練習もせずに8時半から前半のハーフのプレー開始、名門コースの土日だとプレーヤー混雑のため1ラウンド5時間は掛る。しかもスポーツの最中とは思えないような“重たい”昼食時間の1時間を加え、3時過ぎにプレーを終える。慌ただしく風呂を浴び、滅多に時間をさけない偉い客(VIP)に気を使って軽い夕食を取ると、コースを出るころにはもうあっという間に夕闇の中。午後5時を過ぎると東京へ向かう高速道路は倉庫帰りのトラックで大渋滞、結局家に帰ると7時過ぎ・・・・・。あっという間にまるまる12時間を消費する。こんな無駄な時間の消費は不愉快だった。
それに思い出すと、この非効率な1日ゴルフで“泣きっ面にトラブル”の記憶は数限りない。まずは、車の故障がらみのトラブルが意外と多い。ナビが壊れ山梨の田園地帯の畦道で途方もなく方向を見失い心細い思いで闇に浮かび上がる富士山をボーット見ていたことや、夏の暑い盛りの東名高速でのオーバーヒートで汗だくになりJAFを2時間も待ったことや、台風来襲の午後に無理して出かけ、強風でワイパーが壊れて走れなくなってしまったこともあった。この時は、電気系統も同時に故障したのでオープン・カーの屋根が閉まらなくなり車が水浸しになってしまった。
さて、今日は太平洋ゴルフクラブの支配人だった古木氏の転職先の「阿見ゴルフクラブ」ですっかりお世話になった。神蔵君の練習も兼ねていたので、同じ所から2打も3打も納得行くまでグリーンを狙った。気が付くと、夕闇に包まれたコースには僕たち2人しか存在しなくなっていた。
昔、砂場で落とし穴を作っているうちに友達みんなが帰ってしまい慌てて家路を急いだ頃、何処か満足な気持ちになったのを思い出した。
人より余計に遊んだ充実感。時間を忘れ、ルールを忘れ、あらゆる制約を意識せず、思う存分遊ぶ。
そんな夜に空を見上げると、決まって月がやけに明るく見えた。いつもより月が輝いて見えた。今夜は不思議とそんな気分になった。子供のころは、夜という時間帯は存在しなかったように記憶している。月のすぐ裏側に、明日の太陽が隠れていたような気がする。
2002.10.19
10月19日(土)雨が降り始めた。このところ週末はいつも雨降りだ。いつもの様に品川プリンスシネマで映画「ロード トゥ パーディッション」を見てきた。
昼の間に映画を見るのはどうも時間がもったいない。太陽が空にあるうちに何も2時間も暗闇の中に行くことはない。そんな訳で、週末の土曜日は必ずオールナイトに出掛ける。良い席も空いているし、終了後に夜の東京をぶらぶら歩くと映画館の臨場感とストーリーを少しの間引きずっていられる。うまくすると詩が浮かんで来る事さえある。
一方で、お台場や品川に登場したシネコンの椅子はゆったりしすぎて毎回睡魔との闘いも強いられる。よって駄作を見に行ってしまうと殆ど最初の20分で寝てしまう。先日行った「サイン」(メル・ギブソン主演)というB級映画は10分で熟睡してしまった。突然目が覚めて気が付くと、安っぽい宇宙人がスクリーンの中で頭を抑えていた。どうも、地球人のバットで殴られたらしい?
「ROAD TO PARDITION」。この映画は早くも間違いなく今年度のベスト・ワン。ポール・ニューマン氏の燻し銀の役作りは勿論のこと、最近駄作の出演ばかりが目立つトム・ハンクス、その息子を演じるタイラー君は2000人のオーディションから選ばれた天才少年だ。3人はいずれも親子の愛とマフィア組織の義理や宿命との間で心揺れることになるのだが、激しい殺し合いが続く緊張感と1930年代アメリカの美しい風景と巧みな照明、やや青みがかった映像美の中で、それぞれの役者が実に微妙な忍耐と迷いと悲しみの表情を残酷なまでに作り出す。これは、深作欣司監督の「網走番外地」でもあり、コッポラの「ゴッド・ファザー」でもあり、殺戮のシーンにおける音楽と映像のバランスは「2001年宇宙の旅」にも匹敵する。
母と父と弟を失うことになる身寄りのない主人公は、父が以前弾痕に倒れた時、その身を預けたパーディション市への途中の農家を故郷にすることになる。
此処のあたりの田舎の風景が、古きよき時代のアメリカを象徴している。全編血で血を洗うギャング映画のラストに見るものの疲れを癒し、安心させるような「心の故郷」の絵でこの映画は終わる。
「故郷」と言えば、北朝鮮から一時帰国した拉致家族の故里での再開シーンが、テレビで流れている。24年ぶりの再会。羽田空港に帰国したときより、ずっと人間的に解放された表情で、両親や昔の友人と抱き合い泣いている。彼らは、東京で記者会見をしたときより、「故郷」に帰郷したときの方がはるかに自然で素直になっている。
最近のこの国は「両親」、「故郷」や「会社」、「友人」、「国家」、などの個人のアイデンテティを確認する何かが喪失しつつあるように思える。こう考える私自身も、生まれてからずぅっと“根無し草”だ。戸籍があろうが、パスポートが発行されようが、名刺があろうが、メールアドレスがあろうが、精神的に戻れる「故郷」が見つからない。
帰国した人々が見せた“あの涙”が羨ましかったのは、私だけだったのだろうか?
2002.10.17
10月17日(木)秋の深まる芝公園のあたりに、めずらしく海の匂いがしている。東風に乗って時折銀杏のはじける音が聞こえてくる。朝の散歩の途中、自転車につけた買い物籠一杯に銀杏の実を拾った中年の紳士を見ていた。
不況が徐々に庶民の生活を打撃し始めている。99円から始まった在庫処分の店はついに一律66円ショップの誕生を促し、一方人事院の給料が昨年比マイナス、これは戦後始めて「公務員の給料が下がった」というわけだ。マクロ経済というより悪路経済。株価はついに8100円台。
メディアでは評論家が様々な不況の打開策を好き勝手に論じているが、大衆に影響力の或る鋭い意見は少ないし、個人業の限界を感じる人が殆どだ。彼らは、政治的にではなく、もっと固まり、多様化し、メディアを一貫的に駆使して、その声を高く解かり易くし、社会を先導してほしいものだ。ひょっとすると評論家自身が何処かに諦めを感じているのではなかろうか。或は学生時代に体験した組織的な運動で社会的なムーブメントを作り出すことに嫌気をさしているのだろうか?どうも小銭稼ぎの学者ばかりに思えてならない。
勝手な想像だが、今朝、銀杏を集めていた紳士も、つい最近まで勤務してきた会社を解雇されたのではなかろうか?冬の気配の中で、規律美しく櫛をいれ整髪された白髪が風が吹くたびに少し解れた。
スケジュールが密集し、しかも朝まで橘君と深酒したせいで体がだるい。MKタクシーを借り切って、青山のキョードー東京でポール・マッカートニーのチケットを購入、ホテル・ニュー大谷で久しぶりに松島君と30分お茶をした。その後、芝公園のサンクスで高田常務に面談。帝国ホテルに向かった。タワー新館を借りているY氏は、窓際に立って西銀座と皇居が対照的に開けた夕闇の東京を見ていた。この後のパーティ用に着用した上着をクロークにしまい、
「東君、帝国の部屋の方が東プリよりいいだろう」満足気にそう言うと冷蔵庫の野菜ジュースを一気に飲み干した。
「駐車場の便利さはぜんぜん東プリのほうが上ですよ」僕は、贔屓にしているせいか剥きになって反論した。
Y氏とともに「七面草」で簡単な食事をしながら、窓の向こうの銀座8丁目を眺めている。クラブの女性の香水と、仕事帰りのサラリーマンの汗が妙なコントラストを作り、交差点では運転手付きのベンツやジャガーと会社へ向かう商用車が混乱の渋滞をつくり、僕は、スッポンのお粥を掬っている。富めるものと富まないもの。消費せざる得ない人と、浪費する人。この交差点はそんな落差の激しい時代の様子を垣間見る縮図でもある。
安藤君と作っている新曲のタイトルが決まった。「質問」(クエッション)という漢字二文字。出会いを繰り返す男と女に、不意に訪れる「疑問」。恋なのか愛なのか、リスクなのかゲームなのか、こんな現状の迷いを徒然に書き下ろしてみた。
昔読んだマルクスの中に、下部構造(経済)は上部構造(政治、芸術、文化、等)を規定するという説があった。恋愛は社会の上部構造に位置する典型的なイベントである。とするとこんな不況の時代は、男と女の関係もどんどん神経質なものを要求するようになってくるのではなかろうか。
2002.10.07
10月7日(月)リクルート時代の友人と久しぶりに銀座を歩いた。いつも手ぶらの新倉社長(日本計量器)のご招待で「七面草」に集合。
坂本健さん(ぴあの常務)、藤原和博君(教育評論)、柏木君(リクルート常務)、らとゆっくり食事をした。胴元の新倉さんは、僕の憧れの人でもある。学習院時代からゴルフの腕前もシングルなら、銀座の酒も豪快、女性論、人生論も実践的で、こうなると当たり前ながら超弩級の人脈も豊富だ。少しべらんめぇ調の語り口は、何故か安心感があり、説得力もあり、軽快なテンポの話法の中に“少しだけ秘密”のスパイスがあるだけに息を抜けない。何時間聞いていても飽きない人物なのだ。最近の悩みは、入れ歯の接着の度合いだそうで愉快なエピソードを交えて話してくれた。
並木通りを新倉さんと我々が歩く。グレーの良い生地のスーツのポケットに、手を軽く突っ込んで歩くいつものスタイルだ。気軽で身軽で、まるで銀座を流れる風のように歩く。この人の肩の辺りにはいつも自由と仁義の風が吹いている。馴染みのママさんや黒服さんが頭を下げる。リクルート組ものんびり新倉さんの後を付いていく。
そう言えば、最近何処の町でも手ぶらで歩く男を見かけなくなった。少なくなったのではなく滅多に居ないのだ。ポーチといわれる皮製の小さなバッグを抱えた男、強化ビニール製の肩掛けカバンを持った男、多分パソコンに加え付属の関連キットを持ち歩いてるんだろうな。鰐皮か何かの高級そうなアタッシュ・ケースをわざわざ車から持ち出して秘書に持たせる男。女性が喜びそうなお決まりのブランド製の中途半端なサイズの・・・・。
こんなにカバンを持ち歩くようになった男を見かけ始めたのは、いつからだろう。やはり90年前後のバブルの辺りからであろうか?手帳、財布、携帯電話、名刺入れ、タバコ、・・・・。これだけであれば無理すればスーツのポケットに入るはずだ。他に読みかけの本、電卓、彼女へのプレゼント?
友人の男の社会現象評論家のOK氏は、
「男が女っぽくなったんですよ。カバンとか、ポーチとか持ってると安心するから。何かの不安から逃れるためになんとなく持ってるんですよ」
「最初はバブル紳士のファッションだったんでしょけど、その内主体性のない男たちがそれに憧れて真似をしてる内に定着したんですよ」
「最近の若い男の人は化粧道具も持ち歩いてるらしいから・・・・。」
「自信喪失の象徴よ。カードだけじゃ不安なのよ。」
新倉さんは若いころアメリカで過ごした。なんでも随分な貧乏暮らしだったらしい。そういえば、アメリカ人も胸を張って手ぶらで歩く人が、多いような気がする。日本という国家も、“成金というブランド”の大きなバッグを持って以来、すっかり自信を無くしてしまったようだ
2002.10.02
10月2日(水)香港のリッツ・カールトンの窓から建国祭の花火が上がっている。視界をぼやかす霧雨の中で、不透明なアジアの未来を象徴する様に、今にも風に流されそうな花火が揺れている。
日本のあらゆるイベントがあまりにも巨大化し、よってコストが掛かりすぎ、チケットが高価格化している。しかもそれぞれの企画はマンネリ化し、お客様の会場に運ぶ足が急速に鈍くなってきている。あのワールドカップの疲れが市場を冷やしているのか、単純に不況が財布を直撃したのか、見せるものの魅力が無いのか、それとも自宅でのメディアが多様化したのか、いずれにしても原因が複雑に絡み合って、当分の間“マーケットの集客の糸は絡んだままで解けそうに無い”。
デフレ時代でも確実な利益を得るイベントを探しているうちにやはり僕の穂先はアジアの都市に向かった。香港は人口600万人。決してメガ市場ではないが、日本のキャラクター・ブームが起こり、少なくとも日本産という目新しさで集客できるという自身がある。しかもデパートの屋上でよく目にする家族みんなで楽しめるような低単価のイベントを長期間にわたり提供すれば必ずヒットするという確信がある。
今回は11月の初旬から、S社のKキャラクターで、家族を対象にしたイベントをA社と組んで実施する予定である。これが成功するとアジア各国の都市で巡業させ年間ある程度の売り上げが見込める。考えてみれば、今年の初めからソウルを初めワールドカップで養ってきた“都市の感触”が漸く実を結ぶことにもなる。
翌日早起きをして、香港島の裏手に当たる山の手の高級マンションが乱立するエリアに登る全長2キロほどのエスカレーターに乗ってみた。すぐに汗ばんでしまったシャツと、鳥を蒸すにおいと、時たま風に乗って運ばれてくるマンゴー・ジュースの香りが久しぶりの香港気分を高めてくれる。
今にも壊れそうな古いビルと古着の洗濯物が干してある木造アパートの間を縫って作られた金持ちエリア行きのエスカレーター、その横には隣接して幅の不規則な石の階段が続き、好き勝手に自己主張をする看板が眼下に群れる商店街の迷路を一層複雑にしている。
「これだけの店がよくみんな食べていけるなぁ」この町に来るといつも感心する。
華僑に学ばなければならないのは、人々の図太さと、経済の弾力性、奥行きの深さ、さらになにより無駄なプライドを持たないことでの中国商人のエネルギーの濃さであろう。
以前この町で作った「香港フォギーナイト(香港霧物語)」の中に登場するミステリーな恋愛感覚とは程遠く、アジアに広がる不気味な不況の足音が僕のヒストリーな経済感覚を刺激している。
2002.09.26
9月26日(木)銀座という街は、男にとって本能を触発される仕掛けがいっぱいの舞台に似ている。
大道具としての無数の煌びやかなネオンに興奮させられ、わが身を忘れ、1分で10メートルも動かない渋滞に気持ちは焦り、花や蝶の女性軍の香水と白いうなじや少し解れた人生論に同情し、それに何と言っても“銀座という歴史”が内ポケットの札束の金銭感覚を無防備にする。
小道具といったら切りがない。男の競争意欲を煽るようにレイアウトされたクラブのソファー、無制限に高くセットされたワインの定価・・・・まさかメニューの下の方の一番安いのは頼みづらくなっている、ママや従業員たちのシナリオの様に精緻に作りこまれた誉め言葉、御伊達。さらに、8時から12時の4時間という短い営業時間。黒服と言われる男性スタッフの視線と噂。
この街で、平静心を保ちながら、気持ちよく酒や女性と戯れるのには最低でも3年は掛る。
以前、自宅のリビングルームで飲む様にリラックスするためには、「暖簾をくぐる段階から無意識でなければならない。」という訓示を読んだ事がある。確かドイツ文学の翻訳者で、横綱審議委員会の委員長もお勤めになられた高橋義孝先生ではなかったろうか?
今晩は8丁目の日航ホテルの隣の「七面草」で食事をして、問い面にある行きつけのSに出かけた。去年オープンしたばかりで、老舗の「グレ」や、「麻衣子」、などといったオーナー・ママが30年近いノウハウと、人脈(固定客)、に培われた落ち着いた雰囲気はなく、スタッフも女性もただばたばたと客を回転させるのが精一杯の様子。まるで六本木のキャバクラで飲んでいるような慌ただしさだ。
僕自身あまり銀座で不愉快な気分になったことも無いのだが、店中の客のストレスがカウンターのあたりまで充満してきて、おまけに入れ替わり立ち代り横に座る女性からの根掘り葉掘りの質問に答えるのが億劫になって席を立った。
昔は、サービス業の勉強に若い新人を連れ歩いたり、或るいわ人生の先輩として男論をママに教わったりしたものだが・・・・・・・。なんだか寂しいくらい薄っぺらな店が増えてきた。
今や銀座は舞台というより浪費家のコロッセウム(格闘場)と言い直したほうがいいかもしれない。
2002.09.24
9月24日(火)連休明け。心地よい綿雲が、ふらりふらりと秋の空を泳いでいる。日差しがやさしいせいか、街を行く人の気持ちも何処か丸く感じられる。
車のクラクションがいつもより少ないのはきっと秋風が清清しいからだ。日比谷通りの百日紅が無邪気に花を咲かせている、まるで通学途中の女子高生がお喋りをしているように。
昼の12時過ぎに窓辺で、深呼吸をしていると、過ぎた筈の夏の装いをした30過ぎの女性が目に留まった。青い幅広のつばの帽子を深く被って、まだ水の張ってある青いプールの横の通路を足早に玄関に向かっている。50メートルは離れているのに、首のあたりに日焼けした水着の線が細くはっきり見える。秋なのに不思議と夏の太陽を浴びているこの女性を、ボォーと見つめている。
見えるはずのないものが見える。聞こえないはずの声が聞こえる。これは、思い込みだろうか、それともいよいよ白昼夢でも見ているのだろうか?
数字がらみの仕事と空想的な作詞作業が、右脳の中で混じり始め軽い分裂を起こし始めているのだろうか?それとも処理しなければならないことが多すぎるのか?今週も視点の定まらない週になりそうだ。
車で御茶ノ水に向かう。ハナツクバネの赤褐色の花びらが皇居沿いの外堀通りを行列のように咲き乱れている。春から秋にかけて花つきも良く、白く長く無限無数に咲いているせいか、誰も此花に目をとめる人は居ない。いつの日もそよぐ風に名前がないように、ハナツクバネも日常的になりすぎて自己主張が下手な植物なのだ。
人間と同じで、あまりたくさんの才能を持ち合わせたり、財に恵まれすぎたりすると返って結実するのが難しいことになる。此花は、別名ハナゾノツクバネ(花園)ともいわれ、ほとんどの人が別名の通り、たくさんの白い花を目にしているが、悲しいことに、誰にも名は知られていないようだ。
この切ない、忍耐強い”秘密の花園”の季節が終わりに近ずくと、待っていたように冷たい冬が東京に訪れる。
2002.09.22
9月22日(祝日・月)恥ずかしながら、最近東京の地下鉄網の便利さに感激している。
車の鍵を「七面草」に置き忘れてしまい、おまけにもう一台のロリンザーもエンジンが不調でヤナセに入院中。気障に聞こえるかもしれないし、世間知らずと馬鹿にされるかもしれないがこの3日間、久し振りに電車であちこちに移動している。先日は、練馬の江古田駅から新しく出来た大江戸線に乗って大門駅まで30分。車での移動のような渋滞のいらいらもなく、時間通りにしかも、快適に到着。地下鉄だから余所見も出来ないしゆっくりスケジュール帳を確認していると即着いた。この速さは意外だったし、大門駅からどのあたりの地上に顔を出せるのか不慣れなだけにちょっとしたスリルと冒険もあった。
連休の最終日の今日は、三田駅から青物横丁、大井町から田町までJRに乗った。やはり電車の速さに驚いた。ということは、普段の車での移動はいつの間にか時間遅れのストレスとの戦いになっていたのだろう。無意識のうちに、東京のラッシュに脅えていたのかも知れない。
先週の週末は、散財した。何が原因かわからないが木曜日は橘君と、金曜日
は銀座で、土曜日は富里で・・・・。取り付かれたものを払うように発散し、消費し、消耗した。
翌日本屋で「斉藤一人のツキを呼ぶ言葉」を買った。反省の意味もあって。「商人魂」と「客魂」があって、商人魂の創造性は寝ている間に醸成されるそうだ。要は、明確な意識さえあれば人間の頭脳は自動的に意識の方向に作動し、寝ている間にアイデアや企画を練りだすということらしい。マーフィの法則より泥臭い現場よりの成功ノウハウを感じる。
安藤君との音楽制作の作業が進んでいる。今までは、8割くらいのところまでは一人で作詞、作曲を行ってきたが、やはり曲作りは仲間と一緒の協同での作業のほうが楽しいし、能率もいいようだ。しかし、困ったことに。歌いたいイメージがばらけているため詩が書けない。メロディーはまとまってきたのだが、主人公の姿も、自分のポジションも決まらない。何処にいるかも判別できなければ、季節も時間帯もライフスタイルも定まらない。もちろんこの曲で何を言いたいのかも判然としない。
20数年前、ぶらぶら生活していた大学生のころ、JR中央線の東小金井駅を下りると、よくホームを下りる階段からぼんやりと月を眺めていた。武蔵野平野独特の森や林を抜けてきた湿度のない秋の風がアーミー服の襟元を冷やし、これから冬に向かう予感のする季節、僕は訳もなく何かの不安を抱いたまま焦っていた。
目的のない時間は、あとから考えるとエネルギーやそれを蓄える容器を製作する期間でもある。青春時代から使っていた古いバケツから、ついに水がぼれ出し、新しい容器を作る時期が来ているのを感じる。ちょっと、人より遅い気もするが。
2002.09.12
9月12日(木)結論がどんどん出る日と、なにも結論が出ない日があるようだ。しかもそれは自分のその日の性格とコンディションが影響している場合もある。
今日は、結論を出さなければならない、一歩手前の案件が団子のように並んだ一日だった。心さえ一度そう決めてしまえば楽になるのに・・・・・・・。睡眠不足と作詞活動を始めたせいか、右脳が頭全体を支配してしまいボーットした状態で何の判断も出来ずに一日がすぎてしまった。
結論を長引かせるのは慎重派にとって、一見堅牢な保留、一旦気楽で安心な状況を作ることになるのだが、実はこの習慣や性格の欠点は、時間をロスするだけでなく、いつの間にか結論を出すべき対象のペースで物事を判断しているケースが多くなりがちである。こうなると、本来正解だった結論が微妙に違ってきたり、正しいはずの結論もタイミングが合わなくなったりしてくる。やはり物によっては思い切った早目のジャッジが幸運を呼んだり、チャンスを手に出来たり、当方のペースで物事が進み、かえって対象にも良い結果になったり、思わぬ幸福を招くこともある。
ここで素早い判断をする際必要不可欠になってくるのが“読み”である。“つぎのつぎの一手”をイメージする事である。物事を進める上で大切なのは、対象(仕事であろうが、人物であろうが)との反応をキャッチボールの玉の様に的確に想像すること。さらに体調と環境がそんなに悪くなければ勇気を持って勝負に出ることである。後は、運次第。スピードが守りを固め、たとえリスクを犯しても意外と博打にはならない。絶えず、主導権を対象に渡さないようにするには、自分の“読み”を信じて物事を進めることが重要である。
「夕焼け小学校の校訓」が400に届こうとしている。父の原稿がそろそろ書籍にしてもいいくらいの分量になってきた。ピンピン工房の伊藤女史に出版プロデューサーになって頂き、年内にまとまればと思っている。
友人の中谷彰浩君は、毎週のように書籍を刊行し、まるで1人出版社状態のよう、本人も発行点数のギネスを狙っていると以前言っていた。リクルート時代の親友藤原和博君は、最近「リクルートの奇跡」というビジネス書を発行し彼らしいシャープな切り口がマスコミの話題になっている。
名古屋時代の安藤君と久々に新しいCDの制作体制に入った。そろそろ僕も貯めていたものをまとめる時期になってきた。
ますます、優先順位が判断の基準になっている。
2002.09.09
9月9日(月)久しぶりに京都を訪ねた。盆地特有の釜で蒸したような残暑が街全体を被い、サウナで着替えたばかりのワイシャツがもう汗を吸っている。
西本願寺は、法然、親鸞をはじめとした創業者のエネルギーを未だに継承し、日本の歴史の随所に宗教を越えたドラマを演じてきた。建物のところどころにはこの宗教という空気的メディアが発散した痕跡が残り、絵画から柱の隅々には時代の権力者の指紋が息をしている。今回、NHKエンタープライズとラリスの松岡さんの提案で“あるPR”プロジェクトを進行中。これが実施可能になれば日本の世界的立場が大きく変わり、今の日本人の生活や物の考え方にも多少の変化が起こるはずだ。
21世紀の始まりにふさわしい判断が、多々提案されているにもかかわらず政治から経済、文化、宗教に至るまで実行段階に入れずに間誤付いたままで停滞している。それが、企業はもちろん庶民の生活をも混乱させ、迷走させ、加害者と被害者を増加させる。こうして未来への不透明な恐怖感はやがて隣人との信頼関係にひびを入れ、正しかったものや、まともだったものを喪失する。正直者が馬鹿を見る獰猛な支配の論理が優先される。
帰りの新幹線が静岡を通り過ぎるころ、レールを雨が濡らし始めた。雨の粒子が意外と長い時間窓に貼りついている。「のぞみ」はその雨雲を一気に追い越して東京に向かっている。
本願寺の唐門は、豊臣秀吉の贅沢を象徴しているが、あのシーサーのような置物は沖縄と同じように守り神の一つなのだろうか?秀吉は権力を守るためになぜ宗教と組んだのだろうか?南能舞台の庭の石は、音響板の役割をしていたのだが、当時の床を打つ音は今でも同じ音がするだろうか?国境を越えた浄土真宗は世界の人々にどんな風に解釈されているのだろうか?
僕もやがて神様を信じるようになるのだろうか?
もしそうなるとしたら何が切掛けになるのだろうか?
答えは、もう出ているのかもしれない。
2002.09.05
9月5日(木)汐留の開発の一角にあるしゃれたマンションを勉学のために訪問した。
工事中のためヘルメットを被り、煉瓦で出来たローマの住宅風の建物の中に入った。何十人もの工事労働者でエレベーターは満員状態、かれらの日焼けした埃まみれの背中を見ていて、あの日福岡ドームを始めて訪れた緊張感と期待にみちた疲労感を思いだしていた。
1993年の冬、リクルートの選ばれたスタッフとともに福岡に飛んだ。オープン前の福岡ドームの何か手助けをするための取材であった。その時,われわれを出迎えてくれたのは中内正ツインドーム社長。まだ、何が始まるのかも予感できない巨大な建造物の中をヘルメットを被り何時間も歩き回った。それから2年間、僕は福岡と東京の2重生活を始めた。この時から、僕の人生も少し変化を始めた。
東側の窓からわずかに東京湾が見える。反対の窓には東京タワーという抜群のロケーション。室内も緑とレンガ色をベースにした粋な配色。周辺の高層ビル群が安っぽくかえって粗雑な感じを受ける。電通、日本テレビ、松下電器、などの企業が乱立するこの埋立地は、都会の新しい廃墟になるのか、それとも人が山ほど賑わうマーケットを形成した名所になるのか?こんな疑問が浮かんでしまうのも、この先行きの見えない最悪の経済に帰結する。民の自由で思い切った挑戦が国家の力となることが出来るのはいつの日だろう?
ホテルの窓からさっき訪問した開発区域のビルが見え、どの高層ビルも頂上に赤く点滅したクレーンが動いている。少し日が落ちるのが早くなった。シャワーを浴びて、ベッドに横になった。昨日有山 茜先生に誕生日から健康、適職、相性、運命のリズムなど何ページにも及ぶデータの分析をしてもらった。“僕の未来”を読んでいる・・・・・・見えるようで見えない人生がみえる。一瞬の錯覚であろうが、未来と現在が分かったような気分がして面白い。なるべく時間をかけて、ゆっくりと完成させる仕事が僕には向いているそうだ。1日だけの仕事、一生かけてやる仕事、どの道を選択したにせよ不可能を可能にするのは自分の力であろう。
腕時計が6時半を指している。「髪を切りに行こう」と思った。
土橋の床屋のMさんは、「毎晩のように人生が動いている女性の運をセットするのが、楽しくてねぇ」そう言って、笑った。
冷えた車の中で、冷たい飲み物を飲みすぎたせいか、少し下腹部が痛い。占いは、肝臓と呼吸器系が弱いと記してあった。
友人の経営コンサルタントの石川君が紹介している座右の銘が肝にしみる
遠きをはかる者は富み
近くをはかる者は貧す
それ遠きをはかる者は百年のために
杉苗を植う。
まして春まきて秋実る物においておや
故に富有なり。
近くをはかる者は
春植えて秋実る物をも尚通しとして植えず
唯眼前の利に迷うてまかずして取り
植えずして刈り取る事のみ眼につく。
故に貧窮す。
二宮尊徳
2002.08.28
8月28日(火)頭を少しだけ楽にしようと波の音を探しに湘南に向かった。
台風15号の影響で黒紫色の空を滑るように低い雲が流れていく。奥行きのある宇宙の壁紙にピンで貼り付けられたような月が煌煌と輝いている。瞼を細めて無数に存在しているはずの星を探している。金の雫が一滴零れ落ちたと思ったら海面に跳ねて楕円の輪になり、消えては映え、消えては映えを繰り返していた。もう1つの月だった。足元の岩を3メートルほどの白い波飛沫が激情して打ち寄せている。ラベルとスメタナの競演を聞くような激しい三浦湾のコンサートを鑑賞しながら鰈の天麩羅と、白ワインを飲んでいる。
「ペッシェ・グロッソ」(0465−29−1771)は、湯河原に向かう海岸沿いのレストランだ。店長の堀江さんは、いかにも別の業界で鍛えられた仕事師で、立ち振る舞いが柔らかく、接客の応対にもゆとりがあってこちらの心も思わず和んでしまう。テーブルの向こうに(20K位先だろうか)湘南の町々の灯かりが小さく見える。ガラス窓の下では、高気圧に煽られた高波がサイレント映画のようにゆっくりとレストランの壁を叩きつけてくる。テーブルに貝のかけらが飛び込んできそうだ。都心からたった1時間でこんなに気分転換出来るなんて本当に、気分がいい。
1週間ほど前に、神吉君というニューヨークで勉強中の青年アーティストを紹介された。紹介人のモカ氏も、この秋オーストラリアのパースに武者修行に出かける。二人とも、前の組織にいた時代には、お目にかかれなかった感性の持ち主で右脳の一部が心へ真っ直ぐに伸びたままの状態で、自分の未来と相撲を取っている。遠洋漁業に出かける水夫たちは、遠くで光を放つ星の位置に敏感だし、頬をわずかに撫でる風の向きや潮の流れにも敏感に反応する。
僕は彼らにこんなアドバイスを貰った
「もし環境の変化によって、得られるものがあるとしたら・・・・・。それは、環境を変えた自らのエネルギーの根源にある自信という名の希望であろう」
と言う事を。
対向車線が、平塚あたりまで続く大渋滞。何かと思ったら熱海の花火大会が終わり、家路へ急ぐ車の列だそうだ。しばらく、この店で時間のたつのを待とう。
参ったな・・・・・・「台風に花火か・・・・・・・」
今夜も寝られそうに無い。
2002.08.24
8月24日(土)秋雨の精が踊りだして
秋雨の精が踊りだして、夏の祭りがいよいよ幕を閉じようとしている。
睡眠不足・・・というより眠りのリズムが壊れている。明け方のほんの一瞬の3時間程度の“眠り”で一日を動かしている。
本来、夕方ゆっくり静かに聴かなければいけない筈の秋の虫たちの声を、早朝4時に聴いている。この時間帯の方が車のエンジン音にかき消されなくてよく聞こえるのだが。今朝は、夜の延長線上の玉川縁で無数のコオロギの羽音と、せせらぎが重なり合って大きな音の風に変わり、やがて無数の薄を巻き込んだ秋のうねりに変わっているのに耳を奪われていた。
晩秋独特の湿った23度の風の中で、辺り一体は週末の夜明けが来るのを静かに待っている。山梨遼平君の「愛のエンブレム」の詩のように、渋谷あたりのシティライトが遠くに見える。
昔、コオロギを熱帯魚の餌にするために、毎晩採集していた女の子の話を聞いた。その子のあまりの美しさにたくさんのコオロギ達が列を作り身を捧げる童話だった。あのコオロギ達とは、一体何の例えだったのだろうか?
金曜日の午前中、アメリカのルート66の旅から帰国した中内 功会長(僕は永遠に彼をこう呼ぶのだが)にお茶の時間を頂いた。二人で、大声で笑いながら中国の最近の世情やら、アメリカのGPS携帯の利用法の話やら、「夕焼け少年」特製手ぬぐいのデザインの話やら楽しい1時間だった。まるで僕の父親のように。
藤山容子氏(月影写真館参照)は、昔、「有楽町で逢いましょう」をヒットさせたマヒナスターズの女性歌手の松尾和子さんに似ている。こういうとご本人からクレームが付くかもしれないが、なかなかのグラマーでお洒落な母性的美人だ。
藤山さんはコンテンツホルダーつまり、アニメやキャラクターの権利を感覚的に無造作に所有している。このセンスが今の時代に合っている。つまり、これだけメディアが多様化してくると分衆化したニーズに合わせるのは瞬間的なタイミングを数珠のように繋いでいくことが重要。
その意味で、彼女のあたりはずれを見分けるセンスは中々の物だ。今、二人でなんと「梅干」を製作中。
午後の深い時間、飯野ドラッグの卒業生上田氏との会議。とても面白いスキームの誕生だ。日本の薬局が変わるかもしれない。
さらに、夜が近くなって黒に近い灰色の闇が、白いレースのカーテンを通り抜けて部屋のベッドにどんよりと横たわる。きっと睡魔だ。夜明け前の薄明と薄暮の色彩感覚が麻痺し混在した右脳に、水彩の街が黒いタートルネックを被せていく。「もう…少し休んだら。」
突然降り出してきた雨の雫がバルコニーのコンクリートに跳ねて、飛び出してきた10センチほどの雨の精がやさしく耳元で囁いた。
2002.08.20
8月20日(火)秋を思わせる湿度の低い心地よい風
秋を思わせる湿度の低い心地よい風が、ホテルの駐車場のセメントに映った青空すれすれに通り過ぎていく。台風一過の朝、多摩川あたりの川縁を散歩したらどんなに気持ちがいい事だろう。車の窓を開けて、1ヶ月あまり続いた異常な高温に蒸されたレザーのシートや窓際に吊り下げられたサマー・ジャケット、後部トランクのゴルフバッグや汗ばんだ手袋を陰干しにする。車の中に渦巻きがおきて、アート・ガーファンクルの高音の透明度が涼しげで一層シャープに聞こえる。お盆の連休を終えた人々が、今週から街に帰ってきた。余りの過ごし難さで人材の体力すら落ち込んでしまった新橋・汐留の高層ビルの建築工事現場のスピードもそろそろピッチが上がり、何とか帳尻を合わせるに違いない。
日曜日、TVのニュースで盆休みの帰省客のラッシュを伝えていたが、この不況では田舎に帰る予算を取れない家族がたくさんいるだろう。加えて東京という町の土産は金と情報くらいしか無いのにそれが圧倒的に消耗している。一方、海外からの帰国組もリフレッシュして「さあ行くぞ」という雰囲気も無い。成田空港にいやいや着陸した瞬間の空気の重たさや、明日から始まるそれぞれの日常の倦怠が早くもそういう表情にさせているのだろう。
誰も彼もこんな時こそ故郷に帰り、童心に戻り、昔の歌を歌い、夕焼けを見て、旧友と人生や国や地球のことを考えるゆとり、知性ある時間がほしい時期だ。
ホテルのタクシー待ちの客が少ないせいか、タクシーだけが何台も並んでいる。きっとホテルの空室率も6割、7割になっている。アイドリングの音と、秋を感じさせる鈴虫の音が混声し、黄ばんだ満月が増上寺の屋根に架かっている。
細川婦人のスペシャル・オリンピクスの最終日、2000人分の弁当を用意させていただいた。夫人の熱意というよりこの運動に懸ける笑顔と姿勢に惚れて。ボランティアに協力させてもらうと、少しだけ、ストレスと疲れが取れる気がする。自分より悩みが深く大きい人々に中途半端に接するのは、なんだか気が引けるのだけれど。あさっての木曜日は、新国立で「愛の妙薬」のゲネプロがある。これも胸が時めく。きっと朝方に首都高速を家路に急ぐ頃には、ぼやけた頭の中は睡眠不足のシンフォニー、日の出前の秋風に乗って空から舞い降りてきたコオロギや鈴虫の音がにぎやかに聴こえているだろう。
2002.08.10
8月10日(土)東京湾花火大会
東京湾花火大会の日は、いつも南西からの風が強くなるような気がする。そしていつもこの時期になると珍しい人と出会う、しかも何年ぶりに。
昨日もひょんな出会いがあった。福岡ドームのイベントを企画していた時代に銀座に「R‘S CAFE」という店が在った。そこで働いていたM氏と偶然に仕事場のあるマンションの玄関であった。あまり東京駅に人など送ったことなど無いのだが、京都に住む友人に頼まれていたベッカム選手のサイン入りユニフォームを額入りにしたものを渡し、新幹線までお送りし汗まみれになったため一度シャワーを浴びようと戻った瞬間の出来事だった。“分刻みの運命”を感じるな。
考えてみれば、事務所のあるマンションは東京湾が一望できる景観(特に夜景が美しい)評判で、作家や、政治家、音楽家や、芸能人、さらに得体の知らない成金が年がら年中出入りしている。その内に、顔見知りや、仕事のクライアント、ひょっとすると学生時代の同級生なんかとも偶然エレベーターの中で顔を会わせる事があるような予感がしていた。M氏が恵比寿で約束があるのに、タクシーが来ないと困っていたので送っていくことにした。天現寺の交差点を左折するあたりで、昨晩編集したテープは山梨遼平氏の「再会物語」に変わっていた。
花火大会の交通規制の影響で見物客はまだ晴海や芝浦や品川埠頭の辺りをうろうろしているのだろうか?普段の土曜日より閑散としたホテルのロビーを急ぎ足で駆け抜けて、事務所の冷蔵庫の中の冷やした水を一気に飲み干した。備え付けのラジオのチャンネルでBGMを選曲した。館内放送と同じ音楽が部屋の片隅に流れている。詩のついた音楽は好きでもない情景を思い浮かべるし、かといってニュースは煩わしい。無味乾燥で、気楽な音が聴きたかった。部屋の温度を23度に設定すると、川の水が干上がるように、流れていた汗が幾筋もの塩を残しては下着に吸い込まれていく。窓際のパナマ・ハットがふわりふわりと夜空に浮いて、繊細なバナナの様な月の先端にかかった様に見えたのは、心地よい睡魔のせいだった。
橘君に感謝、それとM氏にも。汗みどろのコミュニケーションに感謝。
2002.08.06
8月6日(火)窓から入り込んだ明け方の鋭い太陽光
窓から入り込んだ明け方の鋭い太陽光が無数の粒になって額の上に、じわじわと紫外線を吹きかけている。全身が汗をかき、自分自身の湿度にうなされて目が覚めるなんて何年ぶりだろう。まるで、赤道直下を走るハイウェイの上で夜を明かしたボイルド・サーモンだ。午前6時、生暖かい風の中を散歩、最近見つけた三田通りのパン屋さんのシャッターもまだ閉じている。福田警視総監(1985年退官)、ラリスの松岡さんとNHKから依頼のあった西本願寺1200年の企画の話をしながら、冷やし中華を食べている。このテーマには、饂飩か刺身定食の方が雰囲気なのに。刺身は常温状態の旬で食うと決め付けているのだが、この湿度ではおいしく感じられない。よって体の表面から内臓まで徹底的に冷やすのならやはり冷やし中華だ。
朝着たYシャツがもう一汗もふた汗もかいてくしゃくしゃだ。いつも持ち歩いているバリーのカバンは検討中の企画書で20キロほどの重さになっている。持ち物すべてが汗と倦怠と暑さによる過労を吸い込んでしまっている。今年手がけている仕事は、初めての人との未知の物が多い。仕掛けが大きく、判断してから仕事に取り掛かるまで時間のかかる仕事が多い。しかし、自主制作が少ない。僕はいつから想像力をなくしてしまったんだろう・・・ふとそう考える。音楽でいうと、カラオケの伴奏のような味の無い仕事、右から左へ素通りするような仕事はなるべくお断りするようにしよう。骨と肉のついた結果を生むために。
2002.08.02
8月2日(金)宇宙全体のストレス
宇宙全体のストレスという黒い低層雲の塊に立ち向かい、6000尺の雷刀の鞘をかざし暴れる武将。何年かぶりの激しい雨が芝公園のあたりを叩きつけている。いやになるほど熱かった夏を我慢していただけに、空を破いて地べたに突きさしてくる雷の音もめったに怒らないおとなしい女性が何万人も束になってヒステリーを起こしたように鋭く甲高い。ヒートアイランドも、すこしは冷静さをとり戻し、今夜あたりは、眠れる夜になるだろう。
昨夜は、麻布十番の「がいがい」で焼き鳥をつまんだ。渋谷あたりを首都高で走るころはもう朝の日差しに反射した入道雲が高層ビルの上層階を銀色に白くしていた。仮眠して朝8時に起床、かなりの睡眠不足状態で握力が落ち、やっとの運転で東京プリンスに駆け込んだ。日本住建の梅木さん、T・アライブの橘君、KTVの田中さんJUMPの梶田社長、飯野ドラッグ・飯野代表、大木の松井社長、IEの西沢さん、立て続けに7つの会議、それもそこそこ新企画ものが多いため、頭の中に残っているすべてのエネルギーを使い果たした。
最後の一滴というのは栄養ドリンクの底に沈殿したエキスの固まりと同じで土壇場の爆発力がある。半ば夢遊病に近いので想像力が現実を飛び越えてしまい意外と思い切った言葉が次々と口から流れて舞う。
まだ夕方の4時半だというのに徹夜明けの朝のように脱力し、窓をボーット眺めている。けたたましい閃光が芝浦から東京湾にかけて壊れた三角定規を重ねたように乱射している。そっと窓を開けると、急に温度が下がって爽快だ。プールの水色が張りかえられたタイルのように美しい。一人で泳ぎたいなぁ。
少し眠たくなった瞼を擦ると嵐が遠ざかっていくのが見えた。夕方6時30分。今夜の銀座のネオンは、今年一番澄んで見えるだろう。
2002.07.30
7月30日(火)夏風邪らしい
燃焼微熱状態。車のクーラーが肺を直撃したせいか、それとも睡眠時に部屋の温度調節を低温全快にして体温が下がり過ぎたのか、体がだるく鼻水が止まらない。ズルズル垂れるのを紙で拭くために、右の鼻の穴の入り口が赤い。咳が出るので目が充血して微熱。時たま激しいクシャミが立て続けに3回でる。煙草が無臭で、味が無い。煙がのどを通り抜ける実感が無い。
いずれにしても睡眠時間が不規則で、疲れがたまって抵抗力が落ちているのだろうか。この2ヶ月の減量で体内の何かバランスが壊れたのか?それとも定まらない人生の方向にイラついてのストレスが原因で病に立ち向かう体内の戦士の気合が不足しているのだろうか?
2日前の日曜日、安藤君が東京プリンスにやって来た。
約20年ぶりに友人と会う。こんな新鮮な緊張感も珍しい。彼があの頃のままの姿でやってくるなんて有り得ないのだが、それにしても記憶の扉の1枚目はギターを持ってロングヘヤーをなびかせて登場するシーンにしかならないのだ。最初の言葉を想像するとぞくぞくする。昔の距離感で会うことへの不安と、現在の適正距離が見えない楽しみ。どちらが20年間の会話のブランクの後の第一声を発するのか?
「いやぁ、元気?」(これは健康の確認)「安藤君?」(これは本人確認)「やってる?」(得体の知れない確認)「少し太った?」(無理に昔に戻すパターン)こんなことを考えることそのものが実にハッピーな事なのだ。結局、僕たちは「よぉ」・・・・・という挨拶で簡単にあの日のリズムを取り戻した。
東京プリンスの喫茶店で3時間ほど最近の音楽シーンの話や、名古屋時代の友人たちの現況、これからの仕事についてとめどなく言葉を交わした。安藤君の後ろにあの栄公園の風がふいに幾つもの渦巻きを作っていた。
場所を移そうということで、海岸の事務所に移動、何故か二人でソーメンを啜った。
TV(BS)をつけると、珍しくポール・マッカートニーがステージに立っていた。クラプトンもいる。ブライアン・メイ、エルトン、キンクス、・・・・不思議なくらいの偶然・・・・まるで僕たちの再会を祝福しているかのような番組だ。
そう言えば、20年前の暑い夏の日、広小路の「すがきや」でラーメンを啜る安藤君の指が妙に細かったのを思い出した。僕の知る限り、1番ナイーブなギタリストの指だった。
2002.07.24
7月24日(水)あの日のままで時計は止まっていた。
それが突然あの頃のままに動き出した。この「夕焼け少年」サイトの「陽だまりの黒板」に1通のメールが飛び込んできた。送り主は不明。「私は誰だ?」(誰かが僕を探してる・・・・。)僕は彼のメールの中での質問に答えようと、必死で該当しそうな過去の友人たちを追いかけた。ものの1分でタイムマシンのフラッシュが光るように、回答が出た。30年間の記憶のトンネルは名古屋に辿り着いた。1971年、ヘルメットが散らばった初夏の栄公園の芝生の上に。ビートルズが食事より大切だった頃に。メールの主は安藤こうじ君だった。
考えてみれば僕は父の仕事の都合で、転校生となることが多かった。
一般的に出て行くほうより、送り出す方の記憶が薄いのではなかろうか。出て行くほうは、その瞬間からその土地や吹いていた風、そこで暮らした人々、流れた時間、過ごした日々を現像し半永久的な記憶として定着させるが、一方送り出した方は翌日からすぐに日常の続きが始まり、何時の間にか日々の暮らしの中で彼の映像は過去のものとして風化していくのだ。
僕は、あれから殆ど毎日のように名古屋の栄公園で見たあの青空や妙に乾燥した芝生の感触、テレビ塔に架かった満月や図書館の表玄関の階段の冷たいコンクリートの地肌を思い出していた。大袈裟ではなく、毎日この作業を行なわないと自らの根源のエネルギーの残量が解からなくなるのだ。
今、携帯電話の向こうには、ギターを抱えながら原色のシャツを着てパンタロン姿で岡林信康を唄う安藤君の声が聞こえる。話のトーンや、声の高さは以前とは異なって大人びた気もするが、冗談めいて自分を主張する辺りはむかしと変わらない。ゴアがコンサルをしている話。文敏が旭丘の先生をしている事、それぞれの仲間達が当時の井出達で僕の想像の世界を走りまわっている。1時間もの間、お互いの現況を確認しあった。まるで長い間のギャップを埋めるための会話の慣らし運転、コミュニケーションの手法をチェックしているかのように。
気が付くと、現在という時間に無理に適応するのをしばらく拒んでいる18歳の自分がいた。
2002.07.22
7月22日(月)赤坂のペントハウスでスティーブン・セガール氏(*月影写真館)と会議。
赤絨毯を基調にした店の雰囲気がレトロなせいもあって、マフィアが出てきそうな華やかな緊張感が漂っている。僕も何だか紺のストライプのスーツに身を包み、葉巻を咥えてみたいような心模様。今晩の席をプロデュースしているマイケルはこの店のオーナーの甥後さんでアメリカンスクール育ちの日本人の顔をしたハリウッド育ち。ブライトン・ホテルを始めとしたホテル・チェーンのコンセプトも担当していた。そう言えば以前、キム・ユンジンさんとの会議でも通訳をお願いした。隣の席のロシア人の女性が赤いルージュでにこやかに話し掛ける。「東さんは、何の商売をしているの?」・・・・・考えてみると僕って自己紹介が難しいよなぁ・・・国際的に正体不明って変だ?
ステージではフィリピン女性がゴッドファザーのテーマソング。左隣のジュリアンはモータウン系のアーティストのマネジメントにかけては全米で1番の男、不味い事に極度なノンスモーカーで、僕の燻らす煙の行方を鼻息で変えてしまう。いやはやミステリーな夜を迎えてしまった。
今年は、出費もかさむが新種の情報や新しい仲間も続々と現れる年だ。このところのネットワークや、ここ数年のプロジェクトとは明らかに異なる空間の中で神経質な出会いと繊細な呼吸を繰り返している。夜毎夜毎、知り合ったばかりの人たちと語り合い、食事をし、酒を飲み、探りあい、何かを求め合っている。僕は一体、何を探しているのかなぁ。何処に向かっているのかなぁ。こんなことを考えているのは、ひょっとして第二の青春の兆しかしら。
「東さん、起きてください・・・・」
何時の間にか不覚にも深い睡眠に入ってしまったらしく、目をあけるとシャンデリアの真下で、猛暑にやつれた夕焼け少年が茫然と照れ笑いを浮かべていた。30分前にお願いしたクラブハウス・サンドイッチが手付かずのまま少し乾いてしまっている。サンドイッチも疲れている。
2002.07.18
7月18日(木)久しぶりにあの中島八臣氏(※月影写真館3p)と面会。
10年振りに遇ったというより突然目の前に現れた。太陽の様な性格、陽に焼けた頭、べらんめぇ調のトーク、大胆な笑顔、そしてちょっとした隙に見せるナイーブさ、何処から見てもあの「八臣さん(はっしん)さん」の登場だ。リクルートの宣伝部時代に大変お世話になった中島さんは待ったなしの勝負師だ。ぎりぎりのアウトローで勝負する。得意なフレーズは「ぶっちゃけた話し・・・・」。大丈夫かなぁというような大きな企画を底抜けのユーモラスな話法で紹介する。
当時「稲村ジェーン」という映画を初監督した桑田啓佑(サザンオールスターズ)氏のCM登用もそうだった。寝技でスーパースターとの契約を実現させた。また、スケールのデカイ仕事ができそうだ。
遅いディナーでご迷惑をおかけしたが山縣かほりさん(*月影写真館)のご自宅にお邪魔して豪華な手創り料理を頂いた。豚の角煮、餃子、鮎の塩焼き、豆腐、もずく、それに彼女の18番のカレーライス、デザートに白玉あずき・・・・・。多分日本中で一番贅沢な食卓なんじゃないかな。病み上がりのバージン・シネマの高橋君、発熱39度の野中君と病人を2人も連れて行ったのが申し訳なかった。山縣さんは浜崎あゆみさんのステージ衣装をデザインしている。特に竜をモチーフにした帯に見られるように、抜群のセンスでぎりぎりのクリエイティブと1ミリも狂わない完全主義で傑出した作品を創造する。僕も、地球でたった1枚の「夕焼け少年」を素材にした浴衣をお願いしている。減量中にもかかわらず目一杯胃袋を膨らませた。車から後ろを振り向くとかほりさんが、腰を折って見送っている。薄っぺらな雑誌広告ようなイージーな女性が増えていく中でこれほど礼節を感じる女性がいるだろうか?街全体が大正時代に戻ったような不思議な空気に包まれているように感じた。
マッサージをしながら、まだ昼間の熱が漂っている東京プリンスの駐車場をボーっと眺めている。肩や、首や、喉の奥が熱風の通り過ぎた後の砂漠のように汗と疲れが交じり合ってねっとりとした湿度を含んでいる。部屋を暗くして冷蔵庫から冷えた水のカンを出して後頭部に当てた。窓枠に仕切られた空の景色が早くも朝の気配に変わり、今日もまた異常なほどの高温が街を包みそうだ。
2002.07.15
7月15日(月)これは異常気象だ。
速度の速い台風が次々に誕生している。東京全体がサウナの様。あまりの暑さに、ホテルから一歩も出たくない。仕事は夕方から夜にかけてまとめよう。浜松町までラダックの足立君の車で送ってもらったのだが、外気の温度が41度を指している。しかも、黒いオペルのワゴンなのだ。午後2時のフェイスの平沢代表とのアポを昼間の最後の仕事にした。10冊近い雑誌を買い貯めて目を通している。昨晩、逆上していたせいか、友人に誤った内容の携帯メールを発信していまい夕方から謝罪のミーティングがある。熱さのせいで、窓から見る限り日比谷通りは大渋滞。オーバーヒートの車でも続出しているのだろうか。遅れること1時間、わりと涼しい顔でM氏が登場。しどろもどろになって、誤りメールについて説明した。3時間もかかって。“雨降って地固まる”という諺もあるが、それよりも僕の心がやっと晴れた。
2002.07.12
7月12日(木)台風6号はまだ北海道の先端の辺りの海を激しく揺さぶっているらしい
東京は今年一番の澄みきった青空だ。台風が湿った雲を取っ払ったせいで、このところの蒸し暑さより少し湿度が下がり、ただ温度は35度と急上昇、シアサッカーの下のYシャツが汗を含んでいる。アクセスの荒川氏とお中元の挨拶も兼ねて中内会長を訪ねた。年齢を考えたら驚異的な若さで、頭脳明晰、動きもキビキビしているし、昨年骨折した足も完全に完治している。久しぶりに1994年辺りの思い出話をした。福岡ドームの事、上海のローソン出店、ホテル・シーホークのこと。来月はアメリカへの旅行を計画中といきいき話してくれた。僕は、この年齢まで果たして体力が残っているのだろうか?
場所を変えて、東京プリンスで松岡名誉会長と冷やし中華。すっかり余裕の表情で人生の余暇を楽しんでいる。夕方近く、城山ヒルズで今日一日の汗を流して、久しぶりに「YOKKO」に顔を出した。MY氏と寿司を待っていると日刊現代の川鍋社長が登場。たった今まで陽に焼けたばかりの様な赤い顔に、絹の白いYシャツが元気一杯を物語る。乾杯をしているとママが何時に無く早い出勤。僕の顔を見に来てくれたらしい。「シエール」を出て、天現寺の「ラ・バー」の特別室でダイキリを飲む。夏のせいか、午前4時すぎだというのに空が静かに白んできた。夕焼けとも、朝焼けともどちらとも言えない橙色の空が、俄かに明かりの消えた東京タワーを黒く浮き彫りにしている。
2002.06.30
6月30日(日)梅雨の合間であるがかろうじての曇り空。
首都高速の羽田線から第三京浜の港北インターを降りると、ワールドカップの決勝戦を行う横浜国際競技場の周辺は意外なほど静かだ。道路の両側の電信柱には何千本もの黄色い旗がすっかりお馴染みになったコリア・ジャパンのロゴタイプの文字を揺らしながら揺れている。今朝のニュースで沖縄に台風3号が発生したと伝えているのだが、考えてみるとこの30日間、季節さえ止まったように感じられる。連休も無ければ、梅雨も無かった。裏庭でそろそろ始まる蝉のテナーも聞かなかったし、増上寺の石段を彩っているはずの咲きかけの紫陽花の花びらの色の記憶も無い。感性というものは、目の前に展開される超現実、特に勝者と敗者、白と黒が鮮明に分れてしまう様な光景には脆いのだ。
スタジアムの駐車場横に特設されたプレステージ・ゴールドのゲスト用テントの中で、アントニオ猪木さんや、ラモス氏、昨夜のモナコ皇太子のパーティでも会った石田純一氏らに挨拶。今日のパートナーの三柴氏も初めての経験にご機嫌だ。3時間も前に着いたので、今大会初めてゆっくり白ワインを飲んだ。過去の試合は落ち着いて試合を見ることも無かったし、客としてスタジアムを後にしたことは一度も無かった。今日で全てが終わる。そんな安心感と一抹の寂しさを感じながら十分に食事もとった。ローストビーフ、うな丼、そば、節操なく食べた。キックオフ40分前、テントから競技場まで数分、今にも降り出しそうな雨空を気にしながらゆっくり歩いた。最後の試合が行われるスタジアムまでの道のりを噛み締めながら徐々に増えていく人並みと喧騒を新鮮に感じていた。埼玉の6月4日のベルギー戦から、雨の仙台で18日のトルコ戦、静岡のイングランド対ブラジル戦、それぞれの勝敗はもう過去のものになっていた。この競技場に戻って来る事はないような気がした。入り口付近ではオリンピックでも良く見かける松明がこの大会の最後の燃焼を予期するように燃えている。ブラジル対ドイツ、どちら勝っても暖簾を賭けた老舗同士の戦いで悔いは無いだろう。スタジアムに着くと最前列の席に腰を下ろした。目の前で、ロナウドが、ロナウジーニョが、リバウドが体温を暖めるために、ピッチを確認しながら玉を廻している。右のコーナーの前では、ヨーロッパ屈指のキーパー・カーンがキャッチングの練習をしている。今大会何度も見た光景であるが、これが最後のシーンでもある。空から、雨が降り出している。土砂降りになっ
てずぶ濡れになるのも悪くないなと思った。
2002.06.29
6月29日(土)モナコの王子を乗せて麻布十番の「オアシス」の歓迎パーティ
モナコの王子を乗せて麻布十番の「オアシス」の歓迎パーティをプロデュース・・・と言ってもかなり気楽な飲み会を開いた。お泊りになっているホテル西洋はFIFAのVIPで占有されているためパスカードがないと入館できない。そんな中でも特に警備の厳しい2階のロビーで王子を待っていると濃く普通の紳士が現れた。グレース・ケリーの息子さんで、近々国王になられるというのに王子は随分気さくでニコニコ顔を絶やさない。今日も横浜の某所でサッカーの練習試合をしてきたらしい。来年、モナコに招待されたので、楽しみが1つ増えた。パーティには大友さん(キャッツ)、電通の清水勝男さん(WCの総責任者)、TV朝日サービスの皇さん、神蔵君、内閣官房の檜木君など懐かしい顔をお呼びした。明日はいよいよ決勝だ。
2002.06.18
6月18日(火)霧のように細かいが、じっとり柔らかく絡みつくような雨が仙台の宮城サッカー・スタジアムの周辺を濡らしている
まるでこの辺りだけを濡らす涙雨のようだ。今日、日本代表が負けた。誰も信じたくないだろうが事件はスローモーションのように試合開始直後10分に起った。パスミスからのコーナーキックに長身の選手の額に合わせられたボールが見事にゴールネットを揺らす。その瞬間だけ日本選手は何故か氷細工のように固まっていた。あのドーハの悲劇を再現したように。その後たんたんとだらだらとゲームが進み、トルコ・チームの速攻に1点を取られたままで、いつのまにか90分が過ぎた。最後の30秒まで点が入ると思っていた。おそらく5万人のサポーター全員がそう思っていたに違いない。しかし、根拠の無い安心感が勝負には一番よくない。こんな時、勝敗の神様は味方もしなければ奇跡も起こさせない。神を味方にする為には、恥も外聞もなくボールと敵を追い掛け回し、最後の1秒まで執念を燃やす根気が必要なのだ。神様は命を燃やす根性が好きなのだ。
行きに新幹線の仙台駅から貸切でお願いしたタクシーで、中途半端に火照った体を休ませながら福島駅まで高速を飛ばした。気障に聞こえるかもしれないが、早く仙台を去りたかったし、あの無数の青い応援のシャツの集団や、暗く重たい雰囲気の人の海を見たくなかった。ましてやため息満載の新幹線に乗ると運が落ちそうでいやだった。車の中で橘君と中尾さん(JAL)と妙に無理な冗談を言いながらも、どうしても励ましあってしまうのだ。
東北の田園地帯の闇の中にぽつぽつと農家の居間の明かりがともっている。今、終わったばかりのサッカーの結果をきっとニュースが流している。濃紺の奥羽山脈が巨大な枕のようにハイウェーの先を寝そべるように覆っている。まるで、負けた瞬間ピッチに倒れこんでしまった選手達の塊のように。
2002.06.09
6月9日(日)7万人を越す観衆の喜びの声が津波のように何度も聞こえてくる
「ニッポン・チャチャチャ・・・・・・・」。試合終了を待たずに横浜国際競技場を後にしてタクシーに飛び乗った。良くタクシーが拾えたものだと思う。
運転手が「良くやりましたね。後半は攻められっぱなしで、ヒヤヒヤしましたよ。何だっけ、あの選手やりますよね」「稲本選手でしょう。運がありますね」
第三京浜が奇跡的に空いていて芝公園のホテルまで40分で着いた。部屋に帰ってTVをつけると、右腕を天に掲げた稲本君のゴールシーンを何度も流している。さっきまで試合会場にいてどきどきしながら観戦していたのが嘘の様だ。何故僕はこんなに冷めているんだろう。シャワーを浴びて、窓を開けると生ぬるい風とともに1匹の蚊が舞い込んだ。いつのまにか日本列島の温度が上がり始めている。夏は確かに来ているのだが、そんな季節感など感じられないほど現実的な時間を1億人が過ごしている。勝つか負けるかという明確な結果の前にこれほど一喜一憂するパワーがこの国に残っていたなんて。
2002.06.06
6月6日(木)東京プリンスの窓から白いレースのカーテンを揺らしながら夜明けの風が吹き込んでいる
朝の4時前だが東京湾の方向の工事中の高層ビルのクレーンの注意灯が赤く点滅している。さっきまで銀座の「シエール」で野中君たちと飲んでいた。芝浦のあたりに「モーニング・ムーン」社の名刺と同じような薄く赤い三日月が浮かんでいる。何年ぶりだろう・・・小さな音でギターを鳴らした。
昨夜から殆ど寝ていない状態で「スペシャルオリンピック」のコンペに参加した。細川総理夫人の主催なので横浜の戸塚カントリーまで少し早めに出発した。昼間は今年一番の暑さだろう、グリーン場は40度近い。おまけにこの所5キロぐらい減量したせいかドライバーが曲がって、しかも距離が落ちた。フェアウェイを走ってみると体はやけに軽いのだが。ゴルフを終了して顔の汗を拭ったら鏡の中に別人の僕がいた。目が充血して、顔全体が日焼けした上にどす黒い。パーティを失礼して大急ぎでホテルに帰ってきた。1時間ほど仮眠をして日本・ロシアのチケットを届けに「シエール」に出かけた。M・S氏とはかれこれ10年近い付き合いになる。昔は六本木を仕事場にしていたが昨年暮れから銀座に再び突然現れた。この何年間の間にどんな人生を刻んだのだろう。チケットを片手に喜んでいる横顔に、忙しい生活から解放された様な、ほっと安堵の表情が浮かんでいた。
2002.06.04
6月4日(火)何が起こるか解らないので3時間前に芝のホテルを出て埼玉の日本、ベルギー戦に向かっている
高速のアクセスが良くなって東北自動車道の浦和までものの40分。埼玉サッカースタジアムまで多少渋滞したものすんなり到着。プレステージ・ゴールドのVIPテントで試合開始を待っている。さすがに食事をサービスするスタッフは手馴れているが、それ以外の受付や場口のアルバイトは緊張しているせいか表情が硬い。冷淡で機械的で乱暴にすら感じる。6万人という観戦客の数は別に特別多いわけでもないだろうがなんといってもそれぞれのサポーターの胸にある巨大な勝利への期待感が異常な殺気となってぞろぞろとゲートに向かっている。こんな熱気を受け止めるのは経験でしかないだろう。
ほんの数年前まで農村地帯だったようなエリアに突然WC用の競技場が作られたようで、先程までスタジアムの上空を田園風景の方がマッチしそうな薄い朱の夕焼けが頬紅のように染めていたが、試合開始が近づくにつれ、少しずつ群青色にかわり、美しいスタジアムのスポットライトが大きな蛍のように宙を照らしている。
満腹になって、どきどきしながら早足で、テントからゲートまでそれなりの何重ものチェックを受け数百メートル歩いただろうか、席につくと日本代表、ベルギー代表各選手がウォームアップの為の練習をしている。或る者はリフティングをしたり、2人でキャッチボールをしたり、突然走り出したりしているのだが、日本代表の青いユニフォームと反対のピッチで練習するベルギー代表の赤が緑の芝生に鮮やかに生え、スタジアムライトの燭光の中でまるでゲームの中に入り込んだような錯覚を覚える。この現象は目の前の現実を脳が理解できないでいるのだ。いわゆるバーチャル・リアリティが全ての感情を押さえ込んでしまった状態だ。
ゲームの話はさておいてとなりの岡田氏と君が代を聞くのは何回目なんだろう。そして、このワールドカップで最後に国家を聞くのは何処の国なんだろう。僕は、試合開始までにすっかり疲れてしまったせいか、途中でうつらうつらやってしまった。不謹慎であるが。
2002.05.24
5月24日(金)WC直前、日韓共にお祭り前夜
今世紀最初で最後と言うマスコミがいる、アジアの夜明けと言う人がいる、日本初戦敗退と冷淡な評論家がいる。阪神戦の成績が一番と言う人がいる。東京で試合が行われないせいか開催地の方が熱い。新聞やTVは、お祭り前夜の緊迫感と大衆を煽るのに必死の形相になってきた。FIFAの不手際でチケットの到着が遅れ、お客さまようにVIP席を買い込んだ僕は、やや放心状態。イタリア人の仕事は時間が大雑把だ。
東京プリンスを根城にしている日本代表がいよいよ明日の7時、最後の調整のためスウェーデン代表と戦う。そのころ窓の向こうの東京タワーは日本代表のチームカラーの青に輝く。
2002.05.15
5月15日(水)UA881便の機内の丸い窓の向こうに夕焼けの朱が溶け出したように雲の海が拡がっている。
まるで大陸がその下にあるとは思えないほどの量感、悲しくなるほど切ない朱色だ。ソウルの仁川空港が近づくにつれて、何だかセンチメンタルな気分になるのは、多分韓国を何回か訪れて、この国の人や文化を知れば知るほど自分の薄学が身に抓まされて来るからに違いない。
2階席のキムさんに挨拶をし、チョー社長の車に乗り込んだ。さっきの夕焼けの下はおそらく何重もの厚い雨雲だったのだろうか。ソウルでは初めて経験する土砂降りの雨。その為、空港から市内までいつもの倍の時間を要した。チョー社長は僕に気を使って桑田啓佑の「ホワイトラブ」をかけてくれている。睡眠不足のせいか車のエンジン音と雨音とがサザン・サウンドに上手くミックスして僕は、「ゼックス東京」から見下ろす東京の夜景の夢を見ていた。
2002.05.12
5月12日(日)久能カントリーは五月晴れ。駐車場のツツジが眩しいくらいにすがすがしい空気だ
携帯電話がなってキム・ユンジンさんと夕食をする事になった。東京湾に船でも出して夜景を楽しんでもらおうと思ったが、ゴルフのスタートが迫っているので急いで玄関に飛び込んだ。このコースは「一家さんの誕生日コンペ」で30台でまわり、昼食に日本酒を飲んだら後半ハーフは50台を乱打してしまった因縁のコース。全体的にフェアウェイが狭くて距離が短かく、グリーンの周りの罠がある。3番アイアンで220ヤード、5番アイアンで190ヤードの繰り返しが一番の攻略法だ。館ひろしさんと、福崎さんの一騎打ちになって漁夫の利を得たいと思っていたが、利は久しぶりに一家さんに採られてしまい、僕は撒餌の役になってしまった。
愛宕ヒルズのゼックス東京のフレンチを摘みながら、エリック・クラプトンの「ワンダフル・ナイト」を聞いている。社長とマネージャーがワインを美味しそうに飲んでいる。これでソウルのお返しが出来た。・・・・・・キムさんが、横で「例の歌がまた流れてるわね・・・・」微笑みながらそう言った。
2002.05.09
5月9日(木)新宿ヒルトンの窓の下にボランティアをしている新宿西口公園の闇が拡がっている。
ホームレスの連中は今ごろ何の夢を見ているのだろう。キム・ユンジンさんと日本のコンテンツ業界の話や、お互いの生い立ちの話、彼女と僕のの人生論など意見交換している。藤原紀香さんとカネボウのCMが進み、ワールドカップの日韓親善大使としての活動も忙しくなり、あれやこれやで今後大きな彼女は飛躍をしていくことだろう。それにしても英会話をもっと勉強しなきゃ、ニューヨーク育ちの彼女に表現したい事が山ほどあるのに、微妙なニュアンスの半分も表現出来ない。帰り際に彼女ともう一度ゆっくり議論をする機会も持った上で、韓国のコンテンツビジネスのビジョンを企画化する事になった。
ワールドカップに関しては、賛否両論あるものの今世紀最大のイベントがいきなりアジアで開催されて、正直なところ政治からマスコミまでどう対応していいか解からない無い状況。あらゆる関連マーケットも様子見を決め込んでいる。僕の経験では、こんなストレスを溜め込んだイベントは始まった瞬間手の付けようも無いほど大爆発するものだ。まるで堪えていた恋の炎が祭りの夜に凄い温度で燃え始めるように。
何年かしてアジアの交流がもっとスムーズになった頃、ひょっとしてこのイベントがきっかけになったと総括する日がくるに違いない。このところ数回ソウルに足を運んだが確かに日韓はいい関係になってきている。
そういう意味でWCは、何年か後の僕にとっても思いで深い行事なるだろう。
2002.04.30
4月30日(火)ワールドカップが目前に迫り、久しぶりの人たちとよく会う日だ。
こういう大きな祭りがあると、まるで雨上がりの校庭のように一気に人が一箇所に集まる。東京プリンスのロビーで以前「3大テノール」を一緒に興行した加藤さんと再会。今や、Jリーグの強化部長としてマスコミに引っ張りだこ。当然のようにトルシエ日本代表監督とご一緒。昨日から、スロバキア戦のためこのホテルに滞在中。戦いの為両名ともやや疲労気味。HP用の写真を撮影し昔話に花を咲かせた。加藤氏は、日商岩井時代は社長室長を務めたエリートで、ソフトな語りで当時から品のいい、人格者。考えてみれば、こんな上品な、しかも素敵な紳士は最近滅多にお目にかかれない。久しぶりに“飲みたい先輩”に逢ったようで嬉しかった。
午後、電通本社の3階でリクルートの宣伝部の時にお世話になった清水勝男サッカー事業局長と会議。局長室の壁に壮大なスケジュール表が貼ってある。2000年から3年間のワールドカップ閉会までのこと細かな計画表だ。お台場の東京博覧会やオリンピックなど世界相手のプロジェクトでは第一人者。10数年前六本木で夜を明かして、カラオケを歌ったこの先輩は、未だにセクシーで少し白髪が増えたところが一段と素敵だ。・・・・・・ある件で99%のお墨付きをもらい胸をなでおろした。
2002.04.25
4月25日(木)ソウルのコンテンツ界は複雑に絡み合い、まるで日本と同じ模様。
夕方5時のインターコンチネンタルホテルのロビーは、結婚式で大賑わい。日本語の上手なコンセルジュが部屋に案内してくれた。2部屋の続き部屋の向こうで高橋君がネットの接続をしている。ADSLが普及して、ネットカフェが人を集めているが、そこから各家庭への回線の普及状態はわが国の方が進んでいる。FTTHに至っては世界で一番のネット網になるのは間違いない。
今回は、「パワーM」のチョー社長、キムユンジンさんの勉強会が目的。意外とシンプルな日本の芸能界の状況を、部屋のリビングに黒板を用意してまるで教室の講義のように説明した。シンプルな構造ほど、その中の人間関係や利権が複雑に絡み合う。此処のところは、韓国も同じで“生徒さん”はよく理解できたようだ。3時間ほど熱弁を振るった後、通訳が本当にお腹が空いていたらしく、回りも気を使い始め、プルコギの有名な店でご馳走になる話になった。このあたりからいわゆる韓国風接待になり、カラオケから今流行の深夜カフェまで浴びるように深酒の夜。エルトン・ジョンの「YOUR SONG」が翌朝まで耳に残り、通訳の高橋くんは気を使いすぎて乾杯をくりかえし、隣の部屋で酩酊している。
空港に向かうタクシーの両側に再び錆色の入り江が拡がっている。今夜の銀座は、体力勝負になりそうだ・・・。
2002.04.16
4月16日(火)代々木の越智病院のロビー。
人生には3人の医者と、3人の弁護士、3人の宗教家が必要。その意味で、越智先生は僕にとって大切な医者の一人だ。一般的に医者のネットワークは、学校の先生や、弁護士などある権利を持った免許団体の個人的集合体である。つまり、特権意識をもって同業界の中で情報のやり取りを行っているといわれている。しかし、越智先生はその中でも社会的に多いな窓口を持ったネットワーカーで、患者の顔ぶれも野球選手から、歌手、政治家から実業家まで多岐に至っている。
代々木の山手通りから裏に入った、一見一戸建て風の「コウジン・クリニック」が先生の拠点。患者同士の関わりを病院以外でも広げて行きたいと言う先生の夢を企画化する事にした。病と言う切符を持った入場者が、越智遊園地村に入ると、いろいろな健康に関するテーマ・パークが点々と設置してある。やがて、この村の住民となった入場者は楽しみな企画に参加し、本来持っていた重い病も消えうせる。こんな設定かしらん。
2002.04.11
4月11日(木)今朝のソウルの空は、いつもよりレンガ色の茶が強い
中国から流れてきた黄砂の影響だな。夜9時過ぎからキムユンジンさん等スタッフとリッツ・カールトンで会議。通訳のマイカル君が居るので、僕の韓国とのコンテンツ・ビジネスに対する考え方はよく伝わったように思う。車を飛ばしてウォーカー・ヒルのカジノへ。この賭博場は何か勝てる気がしない。しかも、ラスベガスのように、ディーラーに愛嬌があるわけでなく、冷酷なカード捌きの中にも冷酷な眼光。野中くんと徹夜でやってしまった。考えてみれば、徹夜なんて本当に久しぶりだ。ポーカー・フェイスのお姉さん達の顔は、同じアジア人としても驚くぐらい無表情だ。通勤ラッシュの車を避けながらホテルに戻った。1泊10万円以上もするスウィートに滞在したのはわずか3時間くらい、贅沢と言うより非常識な消費と反省するのだが・・・。
2002.04.10
4月10日(水)ホテル・オークラで猪木弁当の記者会見
来週から発売する「“1億人の舌”作戦」のアントニオ猪木さんと、安田選手、藤田選手の闘魂弁当の発表の部屋は、やはり高橋尚子選手、小出監督の時とは異なり格闘技の熱気に溢れている。机の上には今回発売予定のカレーや、蕎麦、幕の内がプレス用に並び、プロレスの控え室のような熱いスポットライトが安田選手を照らしている。12時過ぎから、アントニオ猪木さんもスケジュールうを調整して参席、やはりこの役者の登場で場内は異様な集中力に包まれた。サンクスの高橋さん、岩沢さんなど控えめな感じでてきぱきと記者に対応している。僕も昼飯の変わりに試食。3種類ともたいらげたせいで、今夜の晩飯のころもまだまだ腹は減らないのであろう。
2002.04.07
4月7日(日)雨の路上で車上泥棒に遭った。
海岸の事務所で、ボクシングのVTRに集中していたら、玄関の前に駐車していた車の助手席の窓を割られブィトンのショルダーと、アタッシュケースを盗まれた。薄暗い夕刻7時ころ、生暖かい細かな雨が海沿いのエリア独特の汐風に舞っていた。不思議なもので、車をとめる時に何かいやな予感はあったのだが、駐車違反のステッカーが貼られるか、風で飛んでくる葉っぱがフロントガラスに纏わりつく位の事だと想像していた。明らかに、僕の車を標的に狙っていた計画的犯罪で、しかもこの手口は外国人。大胆で、素早く、巧妙で、鋭い。
印鑑証明発行用のカードや、デジカメ、手帳、アドレス帳など盗まれた。僕は諦めの早い方で、助手席の散乱したガラスを見た瞬間、これらのものとは永遠にお別れだと観念した。
一番ショックなのは、デジカメの中の写真だ。あとのものは、また買えばいい・・・・そう諦めるしか方法がないくらい鮮やかな窃盗団だった。
翌朝、雨に濡れた近所の駐車場から、壊されたアタッシュ・ケースとショルダーの中身が発見された。車をヤナセにとどける途中、こんな時代でも派出所にものを届ける良心を持った人が居てくれるんだなぁと嬉しかった。
2002.04.03
4月3日(水)代官山の宮本邸(スクウェアー)にて寿司会議
長沢純さん、田岡さん、それに何人かを加えて宮本氏の豪邸のリビングで寿司を頂いている。50坪くらいの応接間の半分に5レーンのプールが流れている。カウンターに純さんなじみの職人がオーソドックスな寿司ねたを並べ、ワインと日本酒でマライヤ・キャリーの映画の話。其の後、カラオケの歌いあいになった。考えてみれば、カラオケハウスではよく歌うものの、人様の応接間でマイクを持つのは江副邸以来久しぶりの事。気恥ずかしいのだが、ゲストの義務でもあろうかと諦めて、ビリージョエルの「NEWYORK STATE ON
MY MIND」を歌った。宮本氏の奥様が、買い物から帰宅、ご挨拶の後・・・・今度はステファニー化粧品の一家社長が参加。酒席は一段と盛り上がりはじめた。
ホストサービスの一環で、寿司職人の服に着替えた宮本君がカウンターの向こうで寿司を再び握り始めた。今度は、飲食業界にでも乗り出すのだろうか?
2002.04.02
4月2日(火)四谷の裏通りで、日本酒を飲んでいる。
このメンバーは10年ぶりかなぁ。リクルート時代(この会社は時代と言う表現がなぜかふさわしくない・・・いつの日も今でも昔のままなのだが)のままに、「かもめ」の福西さん、秋に民間人第1号で公立中学校の校長先生に就任する藤原くん、思索家の横山くんと(ナナ・コーポレーション)に集合。なんとなくテーマもなく、世間話に話を弾ませた。「人形焼・元気村」という北海道の旬を材料にした皿料理に、日本酒でいい気分。同じ感性、同じくらいの知性、同じ思い出・・・この3つが揃った酒席はなにより安心感がある。一杯やって、店を出ると妙に暖かい春の風が、裏通りを走り、多分過ぎた日々の満足感で今夜はゆっくり休める気がする。組織を離れて、久々の連帯感を感じているのかも知れない。少なくとも僕は。
2002.03.30
3月30日(土)昨夜の雨で
昨夜の雨で、スモッグを含んだ雲がすっかり東京湾に流れ込んだせいか、沖縄の珊瑚に染まった海のような青い空。思いっきり春の風を吸い込んでセゴビアG・Cに出かけた。このゴルフ場には思い出がある。まず戸張捷氏の手がけたコースでも屈指の難易度、デズモンド・ミュアヘッドという白髪の名設計家がご自慢の腕を振るい、ちょっとやそっとのシングルでは対応できないホールの連続。何処かで集中力を失うとボギーやダボはあっという間に叩いてしまう。支配人の計らいで、レストランでは僕の作ったこのコースのテーマソングが流れていた。館さんも、福崎さんも、一家さんも作戦通り大叩きをしてくれた。今夜はおいしいワインが頂けそうだ。そう言えば、クラブハウスをプロデュースしたC・U・チェン君は元気でいるだろうか?
顔が紫外線で黒くなっている。左手はグローブをしていたので白いのだが腕も日焼けした。そんな“夕焼け少年”はヒルトン・ホテルの3301号で韓国映画の打ち合わせ。「シュリ」の主演女優のキム・ユン・ジンさんと色々語り合った。仕草や、表情を見ているとその自然な表現力は洗練された才女を感じるが、そうした美しさよりむしろアメリカ育ち特有の自由奔放なキャリアの方が魅力的に思える。ワールドカップをあと2ヵ月後に控えて、日韓の関係は今後大きく発展していくだろうし、このタイミングで彼女とどんなビジネスを出来るか楽しみだ。
2002.03.26
3月26日(火)桂小金治師匠の話・久能C・C
富里のインターチェンジを降りて、ゴルフ場に向かう道の両側は、桜が満開。気の早い柳の芽も吹き出して沿道の農家の垣根の薔薇が赤く開いている。
プレーが終了したパーティで久しぶりに桂小金治師匠から楽しいスピーチを2話聞かせて頂いた。
@或るコンペで2年連続の優勝候補A氏がプレーを終えて風呂に入ってきた。湯舟でA氏の噂話をしていたB氏はいつもの茶目っ気で“男らしい祝福”をしようと、洗顔中のA氏の後ろから両足の間(つまり股間)にぶら下がっている袋を思いっきり握り締めた。「おめでとう、連続優勝だって・・・・・?」
ところが後姿は似ていたものの祝福したのはA氏ではなく垢の他人。横でそれを見ていたC君曰く「おいおい“誤球」だよ。A氏、怒ったように「2ペナルティだぜ」・・・・・・。B氏「いや正確には2個だから4ペナですね」A仲の悪い兄弟が母親の乳を毎晩奪い合っていた。或る夜、兄は弟の寝ている間に母親の乳首に毒を塗った。翌朝母親の横に倒れていたのは、弟ではなく隣のおじさんだった。
久しぶりに39というスコア−。4メートル位のパットが2、3回入り満足。一家さんの誕生日コンペという事で、スクウェァーの宮本氏、キャッツの大友氏、日宅の西村氏、泉川ピート(ゴルファー)氏など懐かしい面々が勢ぞろいした。ところで、一家さんは何歳だったけなぁ。
2002.03.23
3月23日(土)徳山くんの世界戦
春雷が鳴って、海岸道りを打ち続けていた雨がやんだ。飛び石連休のせいか首都高速がひどく混雑して試合開始に間に合うかヒヤヒヤしながら第三京浜・港北インターを降りた。アルファ・オメガ・ソフトの小林くん、高橋君をも時間を気にしている。「TVの中継は7時30分からですよ」小林くんが時計を見ながらそう言った。
右手の闇の中にワールドカップの決勝戦が開催される予定の横浜スタジアムが見える。きっと2002年6月30日当日は大渋滞で車を使えないだろう。
先日ソウルを案内してくれた徳山君の弟はWBC世界スーパー・フライ級のチャンピオンだ。在日朝鮮人という自らの立場を誇りに、今日も横浜アリーナで挑戦者の柳光君を倒しにかかる。時間ぎりぎりになってしまったわれわれ3人を入り口でリングサイドのチケットを握り締めた徳山くんが迎えてくれた。ソウルで朝まであれだけ酒を飲んだ後だけに“戦友”が港に迎えにきてくれたようだ。席につくと安川(TAO)くんや(虎の穴)の辛君と挨拶。なんとTV朝日の皇氏も観戦にきている。試合は圧倒的に徳山くんの勝利。前半から一方的にスピードど手数で優勢だったチャンピオンが、ついに9R得意の右ストレートで挑戦者の顎を打ち砕いた。過去の戦績(KO率)から分析するよりかなり腕力がついて、久しぶりの痛快な一発KO劇だった。此処数試合の彼のパンチ力は充分に世界レベルの選手でもKOができるハード・パンチャーに育ってきた。WBAとの統一戦を平壌あたりでやれれば、ボクシングの歴史に彼の名前は永遠に刻まれる。
表に出ると、韓国のチョゴリを着た若い女性がたくさん輪になって踊っている。日本人も一昔前のようにこんな風に国の踊りと、英雄を誇れたらいいなぁ。
ファイティング・原田氏が今でもリングで拍手を浴びているのは、きっと日本人の記憶の熱かった時代のコンテンツだからなぁ。今は、きっと記憶より削除の時代なのだ。
2002.03.21
3月21日(木)さだまさし氏3000回コンサート
有楽町の東京国際フォーラムは、久々の満員御礼。さすがにまっさん(佐田さんのことを仲間内ではこういう)40代から60代の女性が全体の80%を占める。橘君と連れ添って入り口のさだ企画のスタッフに挨拶をすませ席に着いた。ちょっとした偶然の出会いがあってダスキンの千葉社長のご令嬢(JALの搭乗員)とも挨拶。頂いた本日興行記念のンフレットを読んで感動した。ふだんは身近過ぎて感じなかった彼の存在もこうして時系列に整理された写真や活字をしみじみ読んでみると改めて驚くもので、この3000回というのは年間100回のコンサートを30年も行ったという偉大な事業の足跡だ。これは多分ポップス界では世界記録だなぁ。例によって気の利いた話が情緒たっぷりの詩の盛り込まれ楽しいコンサートだった。
春一番なのか台風のような激しい風が吹いている。桜が今年は短命だなぁ。週末は花見でもしよう。さださんの歌を聞いたあとなのかもしれないが、増上寺の境内に無数に開いたソメイヨシノの花がいつもの春よりゆっくり揺れている気がする。
2002.03.19
3月19日(火)一家社長と「グレ」
銀座はいったい何件のクラブで「さくら祭り」と称する売上キャンペーンを展開中だろうか?ピンクの便箋や、色っぽい和服姿の写真付DM,など何通も会社に舞い込む。マンネリ化している手紙が殆どだが、中には懐かしい顔のママの写真に桜の枝が張ってあったりして思わず気持ちが傾くのだが、新年早々から今年は派手にやりすぎた。早くも接待費の枠をはるかに飛び越え、あと10ヶ月先の期末までどうしてやりくりしようか?
週末にこんな反省をしながら今週は少し控えようと強く思っていたが、夕方近く一家さん(ステファニー化粧品)から携帯の留守電に声が残っている。「どうしても聞いてほしい話が・・・・」といういつものパターンだがここのところ学生時代のように連れ化している事もあり11時に(グレ)に集合ということになった。この店はいつ来ても満席でデフレ経済何処吹く風、シャンパンが空いて、ブランデーが空いておまけに2次会開催となった。日本流通産業新聞の成田利明代表も引き連れて、(並木倶楽部)へ。明日生きていけるだろうか?の午前5時。
2002.03.16
3月16日(土)桜1分咲きの桜ヶ丘カントリー
ゴルフパートナーの館ひろし氏と多摩の桜ヶ丘カントリーで戦闘中。役者としての肉体的節制もたいした物だが、それにしても先天的に運動神経が優れている。しなる様な長身細身の体で強力なドロー・ボールを打ち、アンチックに近い“かまぼこ型”のパターが「集中できていい」とパーを拾う。本日は完全にやられた。何が原因かわからないが、途中で携帯電話が鳴ってからリズムがばらばらになった。訓示にもしているが、初めてのコースは力の半分で楽に打たないといけない。良く着慣れたズボンと履きなれた靴、見慣れたボール、始める前の練習。「いい友達だなぁ・・・・」なんて肩を組まれてしまった。がっくり。
2002.03.15
3月15日(金)ラジオ録音
春の陽気な風が麻布十番の街をぬけて、三田に向かう信号の横のスタジオで急遽アントニオ猪木氏のラジオ録音。こじんまりしたスタジオに大柄な猪木さんがいるとなおさら全員に緊張感が張っている。(月影写真館写真有)「サンクス弁当の発売開始日まであと1ヶ月。時間が無い。昨年ヒットした橋本真也くんの弁当より“破壊力”がありそうだ。今回は安田選手と、藤田選手の2人も登場する。
2002.03.14
3月14日(木)このエリアには縁があるなぁ
このエリアには縁があるなぁ。高層街を車で走っているといつも決まって空虚になる。人の気配を感じさせないビルの乱立が不気味なのだ。深夜11時に新宿のヒルトン・ホテルにキム・ユンジン氏を迎えに行く。カネボウのモデル(写真撮影)の仕事で来日。藤原紀香氏とのワールドカップ企画の延長らしい。少しでも僕の判り難い仕事の理解を深めようとイマジニアにお連れした。自慢の商品キティちゃんグッズをプレゼントした。高速を飛ばして溜池のスウィットに出かけた。照屋林賢さんも合流して深夜3時まで意見交換。アメリカ育ちのキムさんとの会話は、改めて英語の必要を感じさせる。
2002.03.13
3月13日(水)カナダ大使館横
カナダ大使館横の草月ホールに細川総理夫人が活動している映画の試写会「ABLE(エイブル)」に出かけた。スペシャル・オリンピクス運動は人口の1%は確実に存在する子供達のオリンピックだ。この世界大会を日本で実施し彼らの地位を高め、社会の理解を深めようという企画。長沢純さんや三井夫人に簡単に挨拶をすませ熱気ある会場を後にした。コンビニエンスから弁当を寄付してほしいお願いされた。1000食でわずか55万円だ。何とかなるだろう。今日は珍しくリクルートのアメリカン・フット・ボールの監督並河くんに合った。懐かしいずんぐりむっくりの笑顔を見ていると、重たいカメラを抱えて広報室で活躍していた彼の新入社員時代を思い出す。リクルートの友人に逢うと、不思議な安心感に包まれる。
2002.03.12
3月12日(火)霞ヶ関にある
霞ヶ関にある憲政記念館の周辺の桜はまだ細い枝の冬着のままで、ここ2,3日冷え込んだせいか心細いシルエットで皇居周辺の桜とともに春を待っている。ローソン名誉会長・松岡康夫氏の誕生日前夜祭、元通産省の西村君を励ます会が重なった。いつかこの2人の顔合わせを・・・と思っていたので松岡会長を西村君の会にお連れした。エイベックスの依田会長やHISの澤田さん、それに今夜食事を伴にするアクセスの荒川さん(ほか友人多数・・・・)と西村君らしく多士済々の面々。銀座の「はずき」で魚料理、そのあと久しぶりに「姫」の顔を出した。銀座は客が少なく、並木道りも黒服のほうが多く目に付く。まだまだ景気は良くならない。夜10時過ぎ「こうじんクリニック」の越智先生に無理をお願いして慈恵医大のVIP室をご紹介いただいた。相変わらず先生は陽気でテンポが速い。
2002.03.09
3月9日(土)勝負は
館ひろし氏とゴルフ。読売カントリー。ニッカ・ポッカにハンチングで全体を黒の基調にまとめたダンディーなスタイル。年を取ってもこれだけ粋なのは俳優という職業であろうが無かろうが素敵なことだ。ER2のしなる様なスイングに見とれていたらやられた。ここの最終ホールは本当に鬼門だ。193ヤードのショートで7打。何故、5番ではなく1番アイアンを持ってしまったのだろう?「勝負は慣れたクラブと、なれた場所・・・。」また一つ「夕焼け小校訓」のノウハウができた。
2002.03.08
3月8日(金)キム・ユンジンさん
午後の便で東京に帰ってきて城山ヒルズのサウナで昨夜の酒を汗にしている。ソウルでは会えなかったキム・ユンジンさんからTEL。今、横浜のパン・パシフィックに滞在しているというので誕生日のお返しを渡しに行った。日本語とハングルではなく英語でのやり取りをしかも携帯電話でしていると不思議で、別の要素を共有した関係のように思える。ベンツのロリンザーのエンジンの調整が終わって首都高速を快調に「みなとみらい」まで走らせた。
2002.03.07
3月7日(木)ソウル
朝11時のJALでソウル入り。ウォーカーヒル以来2年ぶりのソウル。サッカー・ワールド・カップ2002の準備の為なのだろう・・・空港が新しくなって、市内に続く干潟沿いの高速道路も工事が進んでいる。「シュリ」という映画の主演を務めたキム・ユンジンさんと夕食を食べる予定だったが撮影の為こちらを待てず。さらに何処に往っても車の渋滞で、サイクロン社、ICBN、I・COM・MEDIA社などの社長との会議も分刻み。8時からのディナーの中華料理と60度の酒で交互に何度も乾杯を繰り返しているうちに完全に激しく酔った。宿のリッツ・カールトンの200uのスウィートで2次会。アルファ・オメガ社の小林くんは此処でダウン。I・COMのクォン社長もソファーで倒れ、それでも僕は4次会へ。気がついたら、ホテルのジャグジーに浸かっていた。町を囲む丘の向こうから朝陽が登るのをボーと見ている。ソウルの空は茶色の埃を吸い上げたようで、どこかカイロやカサブランカの空気の色合いと似ている。「エッグ」の社長とモーニング・ミーティング。有名な映画監督を6人も抱えて投資ビジネスを展開している若手社長だ。頑張ってやっと椅子に座っていた。オムレツがおいしい。
2002.03.06
3月6日(水)猪木氏の弁当
アントニオ・猪木氏の弁当の契約で、恵比寿の事務所にお邪魔している。社長の倍賞氏は、ロマンス・グレーに髭を蓄えた硬派の紳士だ。彼の様にスポーツ・コンテンツを長い間仕事にしている人々は何処か共通点が在る。勘が鋭く、男の哀愁を漂わせ、その割に決断力が早く、奥深く寛大な雰囲気をかもし出している。民主的な横組織で左右に気を使いながら・・・よりは、縦社会ばりばりの組織で育った人の方が僕の憧れだ。どんな仕事も最後は勝つか負けるかしかないのだから。
2002.03.02
3月2日(土)高橋尚子弁当
サンケイホールで「高橋尚子弁当」の記者会見。小出監督にも登場してもらい酒を交えてのPR.思えば羽田空港にまで押しかけてこの企画が誕生してからまだ2ヶ月。リクルートの宣伝部時代の縁が無かったら、この仕事は在りえなかった。出会いって不思議だな。出会いって大切だな。
2002.03.01
3月1日(金)正式オープン
東正任WEBサイト「夕焼け少年」本日オープンしました。
みなさま、ご愛顧のほど宜しくお願いします。
2002.02.28
2月28日(木)誕生会
東京湾に船を出して誕生会。普段毎日顔を合わせている仲間と冬の海に浮かびながら北風の名残を惜しんでいる。
2002.02.27
2月27日(水)新会社設立飲み会
アクセス・クロッシングの新会社設立飲み会。荒川社長、金子くん、小田島君など水道橋のスペイン居酒屋で飲んでいる。考えてみればアクセスのコンテンツ系の子会社の中枢はほとんど僕の友人で構成されている。荒川氏の世話で飯を食っているとも言える。みな一応のキャリアの持ち主なので見ていて安心だ。リクルート時代は学生達のようにこうして居酒屋でメンバーと語り合った。懐かしい気分の夜だった。
2002.02.21
2月21日(木)49回目の誕生日
川奈ホテルの窓の向こうに、橙色の伊豆の海が輝いて見える。東京より地面の温度が高いせいかプールサイドの薄いピンクの桜が咲き始めている。河津桜は桜仲間の中で一番先に春を感じるのだろう。朝陽が上るのを風呂上りのバスタオル姿で眺めている。何だか想像力が働きそうな(距離感や風向きやショットのイメージだが・・・)ゴルフになりそうだ。一日分の元気エネルギーを昇っていく太陽からもらって朝食にありついた。焼きたての鯵がおいしい。この一週間はステファニー化粧品の一家社長さんとよく飲んでいる。
ロマンチック中年同士気が合うのだ。川奈は久しぶりでひどいスコア−になると思ったが意外とまとまった。それらしく海風も吹いて、グリーンも速く難易度が高いのだが満足なプレーだった。銀座にもどり「シエール」に立ち寄った。店が引けてから再び一家氏と三柴氏と「福留」でそばを食べる。深夜4時体がだるい。なんだかポイントの無い誕生日だった。
2001.09.01
協栄ジムの金平会長は、天国でもチャレンジャーを探しているのかなぁー
協栄ジムの金平会長は、天国でもチャレンジャーを探しているのかなぁー
横浜アリーナに向かう首都高速道路は、土曜日だと言うのにガラガラ。自宅からわずか30分で港北インターに着いた。いつも格闘技の会場に向かう時は、右脳が動く。試合の展開を予想しながら“思い出のマッチ”になるよう、心の何処かが番狂わせを期待している。
今日は、日本では珍しく、ダブル世界タイトルマッチだ。いつものように、近くのコンビにエンスの前に車を止め(会場内の駐車場は退場の時にものすごく混雑する)、意外と閑散としたロビーを抜け、リングサイドの席についた。
PandSの横井社長が相変わらずダブルのスーツに薄いサングラスをかけて観戦中。リング上では、日本フェザー級タイトルマッチが行われ、番狂わせでハードパンチャーのユージ・ゴメスがKO負け。カシアス内藤以来続く黒人系のハーフボクサーはなかなか完成しない。彼らは共通して、何処か甘えん坊が多い気がする。自我確認がボクサーに一番必要な要素・・・・・・つまり、『俺は、チャンピオンだ。俺は誰にも負けない。俺しかいない』といった、つまりコンクリートのような自身がかけている気がするのだ。
僕が、多分ボクシング業界に始めて持ち込んだ派手な演出。音響・照明、吹奏による音楽コンサートのような雰囲気の中で、世界バンタム級タイトルマッチ「西岡 VS ウィラポン」と、世界スーパーフライ級タイトルマッチ「小林 VS ロハス」が行われた。2つとも凡戦で、特に日本人のパンチ力の低下が試合をダメにしている。それに輪をかけたように何か“負けん気”が感じられない。「自分が壊れても、相手をこなごなに破壊してやる・・・」といった“殺気”が感じられない。やはりこの国は、豊になってしまったのだろうか?少なくとも、食べるのに苦労するような若者は何処にも居ない。2つの試合は、予想した通り判定で、しかも引き分けとなる結果であった。
7.8年前、故金平会長と、鬼塚選手が世界タイトルを奪取した夜、二人で新宿で祝い酒を飲んだ。『世の中が変わっても、ボクシングは変わりゃせんよ・・・。結局、死ぬか生きるかしかありゃせんから・・・』世界チャンピオン作りのプロは、淡々とそう言っていた。
天国では、格闘技があるのだろうか?
天国にも、貧富の差はあるのだろうか?
天国にも、ハングリー精神はあるのだろうか?<
2001.08.30
築地の「宮川本店」は、20坪ぐらいの土地に建てられた、筆のように細長いビルだ。
築地の「宮川本店」は、20坪ぐらいの土地に建てられた、筆のように細長いビルだ。並木通りの加藤氏と、この夏最後の「うなぎ」を食べている。この近辺は電通村とも言われ、あちこちの曲がり角に電通の看板が目に付く。今日の株価は10,000円を割れそうな勢いで、我が国の不況を反映している。このままだと、間違いなく円高に向かい、一定の時期に急反発するだろう。
武道館は、昨年のエリック・クラプトン以来だ。北の丸公園は秋の気配に変わり、闇の中、あちらこちらから虫の声が聞こえてくる。橋本真也選手の試合は多分9時ごろからだ。プロレスファンは、試合数から簡単に、お目当ての選手の出向時間を割り出し、それまで煙草を吸ったり、弁当を食べたり、またある人は館内に入らずに表で携帯電話のメールを楽しんでいる。この光景はボクシングも同じで、メインイベンターの時の席は満杯に埋まるのだが、前座の時はパRと空席が目立つ。本当は前座の試合の方が面白い。ハプニングが起きやすいので・・・。
ホットスパーの佐々木社長、中谷彰宏事務所の浅野氏、それにイキ共栄ジムの金平会長、久し振りにユーリ(元世界フライ級チャンピオン)も来ている。相変わらずの仲間たちにひと安心。リングサイドは僕の第三の故郷だ。
大仁田厚志氏は、参議院議員とは思えない凄み・姿で、ZERO・ONEの太田に選手を血祭りにしてしまった。役者だねー。
昨晩、TAKUMIの近藤社長や、SIN CORPORATIONの深澤社長と朝方まで飲んだせいか、後頭部が痛い。考えて見れば、その前も晩もRのS社長と「小泉総理弁当」の打ち合わせで朝帰り。この3日間で、5時間程度しか寝ていない。頭全体に血液がキチンと流れていない。
今日、中谷彰宏氏と橋本真也氏の対談集「破壊から始めよう」の発売日。冒頭にシンガーソング・プロレスラーとして、僕のことが紹介されている。中谷君も、出版業界のライター・プロレスラーとして載っている。
武道館のロビーの人ごみを避けて、北の丸公園から銀座に向かった。本当に盆明けから並木通りも不況風が吹いている。タクシーがすいすい走っているのが、気味悪い。
加藤氏は「東さんって、変な人ですね。訳がわからない人ですね。」と言った。そりゃそうだ、メイン・イベントの前に銀座に帰ってきたのだから・・・。
八丁目の木屋のうどんのビルの真上に、満月が浮かんでいる。
2001.08.24
昨夜は天文館(鹿児島)の文化通りを往来していた。
昨夜は天文館(鹿児島)の文化通りを往来していた。多分大学生らしい二人組みの、ギターの路上ライブをボーっと聞いていた。僕も十代の終わり、こんな風に仲間とギターを弾いていた。
少し前、名古屋の栄公園の芝生で、当時僕が座っていたあたりの小さなベンチを、出張の合間に探しに出かけた。図書館も、テレビ塔も、中日タウンも当時のままで、このまま夜になると、あの頃のように無数の聞き手が集まり、反戦歌を唄い、ベトナムを語り、警察に囲まれ・・・ 公園の芝生は、30年経った今も夏の湿度を含み、僕は居心地のいい開放感を思い出した。
ヴィトンの財布の中に、小銭が無かったので、近所の花屋で両替をし、ギターの二人組みにチップを渡した。若人、特に芸術を志している二人にお札を渡すのは気が引ける。路上の芸術家にもプライドと見栄があるはずだ。過去という思い出へのチケットを買わせてもらったお礼に、500円玉をギターケースの中に入れさせてもらった。
リヒテンシュタイン銀行日本代表の奥山君と、東田君。それに十勝大福の駒野君、コムサの田村君の4人が2つの班に分かれて、天文館を飲み歩いている。僕はそれぞれに顔を出して、行きつけの『マリー』に顔を出したのは、午前0時を回っていた。
父は猛暑のゴルフ場でも快調で、特にアプローチが上達していた。78歳にもなるのに、49でまわった。こちら若者?3人組は汗でグシャグシャになりながら、息を切らして毎ホールのグリーンに辿り着いた。それもそのはず、父はキャディーさんのゴルフバッグ運搬用のバイクを借りて、少年のようにフェアウェイを移動しているのだから。
シャンクが出始めたのは、昨夜、天文館で飲みすぎたせいだ。
2001.08.12
何処か一ヶ所でも居心地のいい場所があれば、人生はなんとかやっていける。
何処か一ヶ所でも居心地のいい場所があれば、人生はなんとかやっていける。
東京プリンスの「ピカケ」で、こうして原稿を書いている。今の僕は、この喫茶店で、増上寺の緑を見ながら、スポーツ新聞を読んでいるのがとても好きだ。
ホテルの機能は上手くお願いできれば、気を使うオフィスよりずっと素晴らしい。
@まず疲れたらすぐに寝れる。
Aコーヒー、紅茶の類いは勿論OK。
B気がつくと、朝・昼・晩と3食ともホテルで飯を食べている。(和・洋・中・仏・そばまで・・・)
Cマネジメントの必要がない。みんな優しい。
DFAXサービス。宅配サービス。
Eシークレット・バンクがあり、多少の現金はその箱の中へ。
F駐車場付き、タクシーもいつでもOK。
G冷暖房完備、おまけにプールまで。
ところで、昨夜の花火大会は、みんな満足しただろうか?<
2001.08.03
『一の宮さんは、相変わらず素敵ですよ。特に今でも長靴でお見えになります。』
『一の宮さんは、相変わらず素敵ですよ。特に今でも長靴でお見えになります。』
安比高原ゴルフクラブのキャディーさんが、岩手山の方を見ながら目を細めて言った。
今日は、色々な意味で自分を確認する日だ。
安比高原ゴルフクラブは、今から20年前にデビュー。当時は素人娘のようなはじらいを、コースのあちこちでに見せていた。早朝、八幡平の連山から迷って出てきたツキノワグマが足跡を残している横にボールが落ちて、びっくりしたりもした。
サラリーマンの新人時代、リクルート・グループで最も僕が憧れていたのが一の宮さんだ。岩手県出身で、知的バーバリアンと自らを呼び、その通り百姓とビジネスマンの2つの局を、大きくゆれながら色んな話をしてくれた。飲みすぎて、深夜の小山屋の扉を開けると、宮沢賢治の愛した夜空が森林を飲み込み、コオロギと鈴虫に合わせるようにあちこちで星が流れたいた。
----- 「まっとうな感性」を持ち合わせた先輩と、それ以来会っていないかもしれない-----。
東京という巨大なスケールに飲み込まれないようにと、必要以上に身構えているうちに、僕は何時の間にか人生の目盛を細かくし過ぎたのかもしれない。
27ホールプレーしたあと、十勝大福の駒野君とコムサの田村君がJR安比高原から帰っていった。
赤とんぼが無数のカップルになって交尾している。
あの頃も、夕焼けの中で、赤とんぼが異常発生し、グリーンの上でパットができない位だった。
僕はいぜんよりゴルフの腕を上げたようで、クラブの進化のせいか飛距離も20ヤード位伸びている。
一の宮さんと久々にプレーをしたいなぁ・・・。
赤とんぼを見ると、一の宮さんを思い出す。
2001.07.20
日航アリビラから船を出して、残波岬のみえる沖合いでイカ釣りをしている。
日航アリビラから船を出して、残波岬のみえる沖合いでイカ釣りをしている。
東京を始め、日本列島を猛暑が被い、例年並なのはここ沖縄だけのようだ。入道雲は、坊さんの歌のような高層雲を、誰かがその形になぞらえてネーミングしたものだが、東シナ海の今日の雲は、まるでティッシュペーパーのように薄く、形にならない雲が、ゆっくりと日本海の方に流れている。
傍らの祖祖父は、趣味でイカ釣りの名人だったらしく、松の木を削り、エビの形そっくりにして、ガラス製の眼を取り付け、それをルアーにして釣っていた。それぞれのエビ(ルアー)には、「半月」「十五夜」など、良く釣れた夜の月の名前を付けていて、それが鹿児島の実家の倉庫に何百も残っている。
いわゆる小麦色に焼けた少年が、透色度70%の海に飛び込んで、”ヒトデ”を取ってきてくれた。
イカは皿に飾られた状態を想像する方が多いいと思うが、船の上からは、まるで黒い藻のように見える。それがルアーを狙ってすばやく左右に揺れながら船を追いかける。しかも頭脳的。一度危険を察すると、グループはしばらく船の周りには近づかない。
小麦色の船頭と、残波岬の磯釣り仲間の話をしているうちに、体全体が軽い火傷。今夜は水風呂になりそうだ。
2001.07.15
今朝も暑い!!歩道の照り返しで、車の中がサウナの様だ。
今朝も暑い!!歩道の照り返しで、車の中がサウナの様だ。
テレビ東京の裏側の城山ヒルズの横のこじんまりした公園で、上半身裸になって、煙草を吸っている。午前中、自転車に乗って200カロリー、ベンチ・プレスなどジムで汗を流した。このジムは、小田和正氏や、白石氏(テレビ東京)、などマスコミ系の友人が多い。ジムの裏側には、昔、神蔵君が間借りしていた。まだ2年前の話だ。
世紀末を迎えた1999年には、僕自身にも色々なことが起こった。それと同時に僕の友人にも大きな変化を味わった連中が多い。その中でも、実は一番大きな変化の波を受けたのは僕自身だったのかもしれない。
煙草の吸殻を捨てに、灰皿を探しながら、付近を歩いた。日曜日の昼下がり、誰一人とも会わない。太陽が頭上にあり、たまにビルの間を吹きぬける熱風で、人工的に創られた池の水もなまぬるい。
ジムに戻って、風呂を浴びるまで、1時間近くも炎天下でボォーッとしていた。こんな重たい休日も、かえって右脳が動いていいかもしれない。
2001.07.11
この年になっても、新しい経験は楽しい。初めて常磐線に揺られ取手駅に着いた。
この年になっても、新しい経験は楽しい。初めて常磐線に揺られ取手駅に着いた。
柏カントリーには横井プロと昨年何度もお邪魔した。その隣町の取手駅は、高速で降りるとゴルフ銀座の谷和原の近くに位置するらしい。水戸街道の宿場で、駅の周辺は、まるで昔住んでいた小金井駅に似ていて、こじんまりとしたショッピングセンターや、銀行がお行儀良く、コンパクトに立ち並んでいる。
ポロシャツが汗でぐっしょりぬれていたが,上野駅からの冷房車ですっかり乾いた。考えて見れば、電車通勤をしなくなってもう20年を越える。その間に乗り換えた車の数は何種類になるだろう。オレンジ色のカペラ、茶色のベンツのワゴン、赤いベンツE320、アウディ、バンデンプラス・プリンセス(これは三田通りで炎上した)、ムスタングのSL、白いジャガー、トヨタのエスティマ、そして、ベンツのワン・ボックス。ざぁーっと価格を合計すると、楽に”家”が何軒分。こぼれたミルクを泣く訳ではないが、金銭感覚は消費費感覚。どこかで、消費することの楽しみを卒業したい心境だ。
取手からタクシーで10分のところにY氏の自宅はある。競輪場が開催中で、年をとった姉妹らしい老女が、予想屋をやっていた。幹線道路(6号線)が町を分断しているせいか、ファーストフードがやたら目立つ。
いやに高温の夏が似合う街だ。
2001.07.10
どうやら今年は、「ダイ・ポールモード現象」、つまりインド洋の海水の変化で日本の猛暑、少雨が記録的となるらしい。
どうやら今年は、「ダイ・ポールモード現象」、つまりインド洋の海水の変化で日本の猛暑、少雨が記録的となるらしい。連日35℃の風が吹く。
何年かぶりに訪れた銀座の日航ホテルで、午後の紅茶を楽しんでいる。K−1の石井館長と、世間話。考えてみれば、スポーツ・コンテンツを材料に、これだけの短期間に大衆の眼を釘付けにしたプロデューサーは、彼と力道山ぐらいかも知れない。
プロデューサーに必要なのは、"勘”と”感”だ。”勘”とはつまり勘定だ。マーケットの流れを認識できる本能と、マーケットのニーズに合わせた事業規模の把握だ。もう一つの”感”は、お客様が何を求めているかを感じ取るデリカシーだ。
日に焼けた筋肉質の肉体、白い健康的な歯の笑顔。動物の様に集中力を持った眼。今年の12月に向けて、着々と石井氏の壮大な計画は進んでいる。
今夜の銀座での再会が楽しみだ。
2001.07.05
銀座の花椿通りを歩いている。懐かしい空気が僕を包んでいる。
銀座の花椿通りを歩いている。懐かしい空気が僕を包んでいる。午前零時過ぎの散歩は、並木通りが面白い。 「A to Zが開店15周年を迎えた。」というメールが届いていた。しばらく、会社の売 却の関係で、パソコンを開けていなかったせいか、メールが大量に貯まっていたが、 その中の一通に三留さんからの招待状があった。この店に通い始めてから10年がすぎたことになる。あの当時、僕は高輪に住んでいた。桜田通りは、通りの両側に生えている沿木が少ないせいが、何処か味気ない。麻布十番から白金に向かう坂道の途中に、三留さんのマンションがあった。電通の須永氏(昇格して、今や局長に)、石川晴久氏、そう言えばこの店を案内したのは一体誰だっけ?
花椿通りという名前がついているのに、連夜の暑さで花の匂いがしない。午前2時『BARRY』のウィンドーの横で、汗だくになって家路を急ぐ銀座のOLを見てい る。
2001.07.02
朝はすがすがしいのに、今日も猛暑らしい。
朝はすがすがしいのに、今日も猛暑らしい。昨日は、36.7度。今年は必ず断水する。
昔担当していた「おはよう中年探偵団(ニッポン放送)」を毎朝聴いている。人間の姿形は年齢や環境とともに激しく変化するのだが、声(のど)は意外と激変はしないものだ。僕が、この番組を週に1回担当していたのは、今から15〜16年前のことだ。それから、パーソナリティの高島秀武さんは、この長寿番組をずーっと続けている。そして、一環しての庶民派のポジションは今も変わらない。
いつもの様に、新橋駅の手前、7時20分。ラジオをこの番組にONすると、今朝はあの幻燈社の見城氏がパーソナリティーをやっていた。
見城氏とは縁があり、昨年、K-1の石井館長の紹介で、小金井カントリーでゴルフをした。今年に入ると、さだまさし氏の「?」の編集発行を幻燈社が行なうということでニュー・オータニで面会。一方的ではあるが、一段と親しみを覚えたところだ。あの、何か大正ロマンを思わせる眼鏡と田舎臭いダンディズム、人なつっこさは気にかかる。彼は角川出版が産み出した、最大のプロデューサーではなかろうか。”飾らない重さ””とりつくろはない人”意外とこの裸の人間性が、相手にとって、受け入れてもらえる最大の材料・・・つまり人間はみんな彼のようになりたいのかもしれない。
自分を解放しながら、人を巻き込んでいく。人はみな、こんな風に自分に正直にありたいのだ。
2001.07.01
ベンツの中がビニールハウス状態。多分、車内の温度は50度ぐらいになっている。
ベンツの中がビニールハウス状態。多分、車内の温度は50度ぐらいになっている。
「畑山VSロルシー」世界ライトタイトルマッチに向かう。本日の会場は、埼玉スーパーアリーナ。電車で行くと上野駅から25分。・・・・ということで、東京プリンスホテルからMKで首都高速を走った。埼玉新都心という降り口に下りると、横浜アリーナ同様、”出来たての町”。さっきまで畑や沼だったのかと思わせるような新都心そのもの。伊東氏も僕もこの新しい会場に不安を覚える。何か砂漠の中の”危険なオアシス”のようだ。
試合まで2時間以上あるので、スーパーアリーナから駅まで続く、50mほどのスロープの地下にあるレストラン街で一服。試合を見に来ている、、「まり花」のママ、村松先生(作家)ご夫妻の弁当を仕込んだ。(と言ってもロッテリアのチーズバーガーだが)。
試合は、ここ何試合かでは最高の”動き”のある面白さ。ロープに追い込む畑山と、ロープを背にしたロルシの左ジャブ、つまり”突進力”と”技術”の勝負。結果は、畑山が防衛に失敗。大差の判定で破れた。
いよいよ本格的な夏を迎える埼玉での”思い出のイベント”だった。
会場で久し振りに山本君とP&Sの横井社長に会った。相変わらずWのスーツが似合っていた。
2001.06.16
札幌の夜。すすき野の寿司屋にて、長沢純氏の60歳(還暦記念のパーティ)。
札幌の夜。すすき野の寿司屋にて、長沢純氏の60歳(還暦記念のパーティ)。
本来は根っからの東京人なのに、何故か札幌で、還暦パーティーを実施するとの相談。しかも、翌日のコンペは帯広のユニ・東武ゴルフ。さすがに”日帰りの付き合い”も辛いので、前日から札幌にいる。クラッセというこじんまりとしたホテルで、桂小金治氏に会い、行方を聞くと、「今ごろ、ビールをやっていたけど、純ちゃんはすすき野に出かけた」との情報。・・・・・・・・桂小金治氏の草笛は抜群で、絶対にヒーリング・ブームの中、レコーディングして、残しておきたいと決心・・・・・・・
十勝大福の駒野君という地元のスター(?)に案内されて、みんなの集まっている寿司屋「仲寿司」を発見。黒沢年男氏(俳優)、ステファニー化粧品の一家氏と談笑。ウニとイクラはこの街だ。
時計台どおりと軸に、昔の記憶を辿ってみたが、夜が深くて辿り着かない。
2001.06.09
久し振りの山中湖。何か人工的で漫画的なアヒルのボートに若い恋人たちが揺られている。
久し振りの山中湖。何か人工的で漫画的なアヒルのボートに若い恋人たちが揺られている。あまりオシャレなデート・スポットとは言い難い。あいかわらず。
昨日、TV朝日の皇氏と全日空ホテルで会食。思えば皇さんとも永い付き合いだ。この度、TV朝日映像の社長に就任される。日本の高度経済成長と共にマス・メディア界で活躍し、特にエンターテイメントのTV番組化のインフラ人脈は凄い。雑誌・新聞・ラジオと媒体は多いが、やはりTVの影響力は他を圧倒している。「近々一緒に仕事をしよう」と別れた。
昨夜、と言っても、今朝の午前3時に御殿場のビジネスホテルに小園君とチェック・イン。富士山の裾野の御殿場駅は人気も無い。やはり、こんな時間帯にも活躍するのはコンビニエンスだ。牛乳とパンと弁当を買って、男2人で深夜の食事。
午前7時に起床。富士山の9合目あたりを走るスカイラインで「富士ゴルフコース」に到着。
水町クリニックの周年行事といういことで、久々にコンペに顔を出した。昔の常連は無く、顔見知りは江本参議院議員、今村節子(一針時計)氏、といった面々。最近、少しは腕を磨いたはずなのに、このコースは厄介だ。特に、グリーンの芝目が、富士山から流れ出る水と風で駿河湾に向かっている。1メートル程のパットが入らない。悩んでいると、ドライバーが曲がり始めた。250メートル地点で大きく林の中へ・・・。
2001.05.25
沖縄1泊2日の”大人の修学旅行”。
沖縄1泊2日の”大人の修学旅行”。
橋本真也君(ZERO ONE)を連れて、十勝大福の駒野君、コムサの田村君、バース・プレイスの寿さんと慰安を兼ねての沖縄。北谷のリンケン君のスタジオを訪れた。米軍兵士が多数集まった1階のレストランでは、ハワイアン・ショーが開かれてる。このエリアを、ゼロ・ワンの合宿先にし、心も体もリフレッシュしては・・・・との発想で現地確認に来たのだが、果たしてアイランド・テラピー効果のせいか、ビジネス・マインドは愚か、何となく目的も無くなり、全員がゆったりとただダラリと過ごしている。
実に驚いた。生まれて初めてパック旅行に申し込み、飛行機代、宿泊代、それにゴルフのプレーフィーまで込みで55,000円。但し、夜のホテルは男3人でトリプル。窓を開けると海ではなく、駐車場が広がるという、チープ、トリップ。色気も無く、ただゴルフを楽しむのなら、こんな旅行も楽しい。しかし、タクシー代が50,000円近く掛かってしまった。
初体験は何でも新鮮だ。
2001.05.18
朝食をとった後、13年ぶりかでスーツの色を迷った。
朝食をとった後、13年ぶりかでスーツの色を迷った。紺かな、それともダンヒルのグレーのダブルか?
Gの売却の話もあり、携帯電話のアクセスの役員会で自己紹介をして欲しいと荒川社長に依頼された。と言っても、自己紹介をするのが思えば、中学時代以来。リクルート時代も考えてみれは、人事異動も無かったし、あるとしても、結婚式のスピーチで5秒程度の自己紹介の記憶しかない。僕は僕なりに緊張し、どうせならと簡単なプロフィールに、CDを3枚持って、神保町に出かけた。
普通もそうであろうが、リクルートの役員会しか経験の無い僕は、”技術系企業”の固い役員会は当然初めての事。誰も何も話さない。時折笑顔を作る人が2.3人。こうなったら、僕自身のためでなく、金子や小田島やGのスタッフのためにと貢献心に徹し、しゃべりまくった。
新しい会社が出来ればいい・・・・・一流の皿とおいしい料理のベストマッチだ。
2001.03.30
東京プリンスの桜はカワズサクラを皮切りに、満開に向かってまるでオリンピックの水泳選手のようにゴールを急いでいる。ソメイヨシノの順番はどんなに急いでも所詮は出産日のようなもので一番最後になる。
東京プリンスの桜はカワズサクラを皮切りに、満開に向かってまるでオリンピックの水泳選手のようにゴールを急いでいる。ソメイヨシノの順番はどんなに急いでも所詮は出産日のようなもので一番最後になる。そのかわり今週の日曜日あたりは増正寺の空は薄いピンクで覆われ、”正直者の幸福”を一人占めする。
さだまさし氏が鹿児島のコンサートを満席にした。その客のなかに母がいた。足の具合が少し良くなって、さださんのコンサートを久し振りに観に行った。楽屋に挨拶に行くというので得意の卵焼きと焼酎を持たせた。翌日、宮崎のフェニックスに行くゴルフの車中からTELがあって「卵焼き、本当においしかったよ」とのお礼。さだ氏らしい気配りに感動した。あの映画のような家族の風景描写は、こんな神経の繊細さがエネルギーの源泉だろう。
2001.03.26
実のところ、今日は4月20日。芝公園の桜は今年も1万人に”花見客”を集め、日本は本当に不況なのかと思わせる。
実のところ、今日は4月20日。芝公園の桜は今年も1万人に”花見客”を集め、日本は本当に不況なのかと思わせる。さだ まさしさんからお礼のTeLを頂いた。・・・・というのは、3月26日は久し振りの鹿児島コンサート。母は、足の具合を跳ね除けていそいそと会場へ足を運んだ。「楽屋を尋ねて何か差し入れをって考えてるんだけど、あなた何がいいかしら・・・・?」そんな相談を当日の朝受けた。
母の得意は卵焼き(上品な甘さと酒の香りのバランスがいい)とハンバーグ(僕は30年間これを食べつづけている)。それを是非まさし氏に味わって欲しかったので、鹿児島の焼酎と一緒に土産に届けてもらった。宮崎に向かう、おそらく日南海岸沿いの高速から「お母さんの卵焼き・・・本当においしかったよ」・・・・・わざわざこんな言葉の為にTeLしてくれたさだ氏にかえって恐縮。彼の、”詩”のテーマの心に何か久し振りに心が揺さぶられた。
数年前、加世田(鹿児島の日本海よりの海岸)で「砂の祭典」というイベントの仕事を手伝った。あの日は、大きな台風が薩南地方に上陸し、日本海に面した海岸線は冬の嵐のように黒い群青色に変わり、砂をあしらったビルのような巨大な作品はいずれも今にも作品ごと海の底に引きずりこまれそうになっていた。”向かい風をうけたライオン”は、僕のリクエストの為にマイクに入る強い砂交じりの風を両手で避けながら熱唱していた。あの日も、さださんの心に感動した。横にいる父が、誇り高そうにサングラスを拭いていたのを思い出した。
2001.03.16
あっという間に、春欄間。
あっという間に、春欄間。東京プリンスから増正寺に繋がる側道のトウキョウハザクラを筆頭に、2週間後に境内の空の上を覆うソメイヨシノまで僕の一番ドキドキする瞬間がやってきた。冬をやっとの体力で乗り越えてきた老人たちが、この時期ゆっくりこの場所で花見をし、生をかみ締める。
コスモスライフの入村社長(さん)に久し振りに会った。リクルートの時代からそのジェントルで、クールなキャラは尊敬していたが、4年ぶりに目の前で穏やかに金子君の”Gの会社案内”に耳を傾けるその姿が懐かしかった。「東・・・、まっとうにやれよ・・・・。」帰り際にオフイスの奥から僕に叫んでくれたのが有り難い。・・・・まっとうとは、きっと飲みすぎるな・・・という事じゃないだろうなぁ・・・・。もっと、僕に対する経営的な注文かしら・・・。
アミューズ・ピクチャーの宮下社長と、第一パンの柳井常務と打ち合わせ。映画は金融業である。との宮下さんの話にアメリカの映画娯楽ビジネスと我が国の映画市場とのスケールの違いを感じ、また台本一つで投資する”感・勘”の勝負に”コンテンツ・ビジネスの本質を垣間見た。
アントニオ猪木さんからお誘いのTEL.アメリカから帰国されると必ずワインをやる。朝まで。カストロ首相直伝の葉巻の香りに、南米育ちの”永遠少年”は静かにゆっくり夢を語る。僕は、その圧倒的な包容力と男らしさに”自分の幼さ”を痛感している。
2001.03.12
サントリー・ホールの前をワインでほろ酔い乍ら、全日空ホテルに向かっていくと、この冬一番の北風に向かって1組の中年夫婦があるいてくる。
サントリー・ホールの前をワインでほろ酔い乍ら、全日空ホテルに向かっていくと、この冬一番の北風に向かって1組の中年夫婦があるいてくる。いかにも品のあるウインター・ファションをよくよく眺めながらすれ違うと「よぉ、寒いね・・・。東君どちらへ」森ビルの森 稔社長だ。スウィットの広瀬君は頭を下げながら「こんにちは」を連発。あまりに偉い大家さんに恐縮している。この瞬間、風がとまった気がした。
東京プリンスの松田さんと、銀座の「並木倶楽部」へ、喉の調子が生まれては初めてここ3週間悪い。一説によると花粉症が声帯を壊していく過程で、風邪と扁桃腺炎を併発したのかもしれない。首都圏中こんな症状の人が一杯。僕は、通勤電車のラッシュもないし、感染するとしたらサウナか、イマジニアの役員会のメンバーか、ホテルのラウンジしかない。それとも、銀座の「ながよ」か?・・・・・・・。
アミューズの映画「C」の販促策で、第一パンの柳井常務と秘策を練っている。もともと松岡会長との柏ゴルフがきっかけで橋本真也君のサンクス「格闘技」弁当に企画が発展し、それがいまやビジネス・モデルとして、あるいはコンビニ弁当媒体作戦として楽しみになってきた。
昨日の鹿児島は満月、完璧な円形ではなかったが桜島の右肩に黄橙の堂々とした存在感。鹿児島空港は、ラスベガスで見た夕焼けのようにオレンジ色に染まり、砂漠の灰塵のかわりにセメント色の滑走路がひろがっている。天文館の「マリー」で吉見君と一杯。翌日父と一緒に「湯の浦カントリー」で16H。父も僕のドライバー(横井さんに創ってもらった)があっているらしく飛距離も60代の頃を取り戻し180Y平均で上機嫌。78歳とは思えないショットを連発。僕は、驚くなかれ前半40.特に最終18番は547ヤードを2オン。午後の16番でも、池越え260Yを超えてグリーンまで70Yまで白球豪打。1ヶ月ぶりにクラブを持ったにしては上出来。
母のハンバーグを6個たいらげ、薩摩に浸った。
2001.03.06
夕方、1週間ぶりに”歩く時間”ができたので芝公園から、神谷町の「G」まで10分。
夕方、1週間ぶりに”歩く時間”ができたので芝公園から、神谷町の「G」まで10分。この1年の間に、慈恵医大が高層化し、桜田通りの寺院が60階急のビルになり、聞く所によると13階から墓地にする予定だという。一体このマンションの13階以下に誰が住みたいと思うのか?森ビルは、どんどん街をオフィスに変えていく。住む人のスタイルも否応なくIT化し、高層ビルの上から景色として日常を眺めているような”あいまいな判断”が都市に溢れている。
昨日久しぶりに大兄貴の戸張捷さんからTel。
「日本は戦後の役割は終わったんだよ。これから、20年はダメだね。東京タワーも役割を終え、その周辺のビルも老巧化し、立て直すパワーも将来はなくなるよ。」歯切れのいい声が、TVのゴルフ解説同様に客観的なだけに説得力を増し心地よかった。僕が最初に憧れた先輩でもあり、日本人ばなれした地球的価値観に圧倒される。会いたいので、来週一杯やる事になった。
久しぶりに「金田中」(築地)に呼ばれた。諏訪さんの演奏でE氏と2人コンサート。さだまさし氏の歌シリーズ。京都からの千代里さんもこれまた久しぶりの美形。上方言葉に三味の音。林 真理子さんお勧めの芸者さんらしく知性的。同志社大卒の彼女の価値観もこれまた興味あり。
夜、中丸 美千絵さんからTEL.。実家が強盗に遭って宝石類からパスポートまで”やられた”と元気が無い。茨城の実家にかえる常磐道で突然僕の携帯番号を思い出したらしい。オペラ人生そのものの彼女はいつも誰かに見られているのか・・・。
2001.03.01
すっかり春の風が吹き始め、東京プリンスの玄関の女性のユニフォームも重たいコートから普通のスーツだけに変わった。
すっかり春の風が吹き始め、東京プリンスの玄関の女性のユニフォームも重たいコートから普通のスーツだけに変わった。
吉行淳之介の「驟雨」にもあったが、この次期の雨は短時間に荒らしのように降る雨と、1日中だらだら降る雨の2種類あるそうだ。温帯性低気圧の卵が日本列島を北上し、丁度関東地方に停滞し、暖かい雨が終末この駐車場にも現れる。
進退の判断の醜い人間は、それまでのどんな業績も、勲章もすべて台無しにする。今の、政治家はそんな連中で一杯。人生の美学よりも、経済つまり利権にしがみついて祖先にまで迷惑を掛ける。
3月に入り、ガマ号は再び嵐の中へ。そして、例年のように僕は種まきの種を探している。橋本真也君のゼロワンが明日国技館で”旗揚げだ。細川総理夫人のスペシャル ・オリンピクスもローソンのい松岡会長の暖かい配慮を頂けそうだ。
2001.02.21
誕生日。春の風が吹き始め、今ごろ、沖縄のリンケン君の庭にはそろそろ桜だよりが到着する。
誕生日。春の風が吹き始め、今ごろ、沖縄のリンケン君の庭にはそろそろ桜だよりが到着する。
本日は、朝から大騒ぎ・・。免許証の期限が本日で切れる。鮫洲の試験場にTELして
まずは免許証の更新手続きの確認、講習の有無、そして来週へと延期の申請。
青い空に、12度と言う温度、散歩日和にもかかわらずばたばたしている。誕生日と言う意識は殆ど無く、僕の周辺がお祝いムードなのに、いつものように僕は今日も3年先をみて夢遊病状態。従って、体全体で”お祝いの声”にお答えできない。天の邪鬼は少年時代からの事で、昔から誕生日は照れくさいか、ピンとこないかのどちらかだ。
夕方に掛けてなんと橘君と木更津の「竜宮城」なる温泉スパへ・・・。といっても車で30分、アクアラインを抜けてあっという間のドライブ。東京湾は横からの西風が12Mも吹いていて、露天風呂は震えるほどに寒い。体全身に塩を塗りたくり、ついでに顔も白くなるぐらい岩塩を塗ったせいで流れ出る汗が濃度80パーセントの塩水とかし、目が開けられない。しかい浸透圧のおかげで全身がツルツルになり、楊貴妃のようだ。
昔、よく通っていた東京温泉のオーナーと会食。久しぶりに三井アーバンホテルの棟方にお邪魔した。スポーツ選手をたくさん契約しているサイトがあるというので来週紹介して頂く事になった。1日が慌ただしく過ぎた事もあり、銀座の喧燥を逃げるように東京プリンスのウィンザーでグリーン茶を一杯。「NTT対KDDI」なる本を突然開いている。ほんの20分の休息の後さだまさし君と打ち合わせ。「精霊ながし」という本を執筆中、そのあたりの周辺の事業を”脳みそあらし”。さださんとの夜は長くて、楽しい、右脳が全開の午前4時。
2001.02.16
カナダ大使館のパーティ会場にて細川総理夫人主催のスペシャル・オリンピクスの日本招聘会議。
カナダ大使館のパーティ会場にて細川総理夫人主催のスペシャル・オリンピクスの日本招聘会議。人口の1%は出現するという彼らのオリンピクスを、2005年にどうしても長野で実施したい。国際的にも”やさしさ、豊かさ”などの社会共存性が低く、加えて文化のレベルも劣り始めた日本が少しでも、グローバル・スタンダード(経済的な意味ではなく)の刺激を受けるチャンスになる。長沢純さん風に味付けされた進行は、アントニオ猪木氏、大リーグ第1号の村上氏らの参加もありとても暖かい雰囲気。これ位の規模のパーティは、アメリカ留学時代もあちらこちらで開かれていた。考えてみれば、ホテルで何千人なんて形だけのイベントが異常なんだ。日本は“質から、数の時代”を卒業し、”血の通った個人”の時代に早急に移らなければ・・・。
朝の新宿は津田さんを始め、味噌汁を作る人の活気に溢れている。ダイエーで買ったうどんと賞味期限の切れたコーン・フレークスをもってみんなの輪の中にいる。向こうに見える東京都庁のビルはせっかくの日光を完全に遮り、職を失った人々は甲州街道の冷たい排気ガスと、昨晩の汚物の匂いを混入させたような路地裏の空気が充満している。耳たぶが寒い。
公園にわずかに残った日だまりで、猫が3匹遊んでいる。少しだけ柔らかな気分でいられるのは、そんな動物にも”分け前”の魚の骨が残っているからなのか。
2001.02.06
朝の冷え込みが一段と厳しく、TVや週刊誌ではこのところ富士山の低周波地震が頻発し、270年ぶりの大噴火が近いと騒いでいる。
朝の冷え込みが一段と厳しく、TVや週刊誌ではこのところ富士山の低周波地震が頻発し、270年ぶりの大噴火が近いと騒いでいる。人間というには、解っちゃいるけど今どうする?という答えが不正確な場合、決して動かない。僕の煙草がガンの確率を高くし、あまり感じないストレスがホルモンのバランスを怖し、夜の酒が睡眠不足を招き、それが内臓やら血管やらの清浄化をいたく遅らせ、記憶力を鈍らせ、イマジネーションを奪い、・・・そんな事は分かっているのに繰り返す。
1月末のロ・セイコーさんの新年会で西村会長(日拓)と隣り合わせた。西村会長はあちらこちら集会で良くお目にかかる。その無駄の無い、”芯”を捉えた事業ノウハウは20代の頃から抜群で、例の東映フライヤーズ球団を購入したのが26歳の時だったらしい。
「東君、成功の秘訣はバリューだよ。珍しい、他に無い商品(unique value)、それから継続してある事(value system)、value identitiyによる価格定・・・・この3点。」
「論語の思いやり、思助。孫子の自然でぶれない姿勢。韓非子の対応力・・・・・それから宮本武蔵の”戦わずして勝つ”のもいいね・・・・・」 今年は、会長にいろいろ教えてもらおう。やはり、先輩はたくさんの知恵をお持ちだ。針木先生、今村 節子さん(一針時計)、なかにし 礼氏、「春節晩餐会」はノウハウと刺激に溢れていた。
2001.02.01
最近の東京の空は、週末になると雪を含むそうだ。
最近の東京の空は、週末になると雪を含むそうだ。平日の、オフィス街が吐き出す暖房機の排気や、走りまわる車のガスが少なくなるため上空の温度が冷えるそうだ。凄いというより、ここまで人間や、都市の影響が自らの生活に及び始めている。
新子安のマリノスのグランドは、冷え込んでいる。サッカー教室の子供たちの声はあの夏の海岸や、蝉取りをした公園のはしゃぎ声とさほど変わらず、いつでもどこでも突き抜けて高い、鋭い。
久しぶりに、HISの沢田さんと会議。相変わらず、テンポ早く、歯切れ良く、無駄が無い。この大柄な経営者の内側のマグマは、世界旅行の価格破壊から、日本の旧構造の革新へと繋がっていくのか。楽しみなトップだ。
2001.01.27
こんな記憶は30年ぶり、1日に2回、母の創る食事を食べた。
こんな記憶は30年ぶり、1日に2回、母の創る食事を食べた。鹿児島の”めし”は何かうまい。シラス台地が育んだ水のせいか、武士と農民の味の葛藤がその微妙な塩気を作り出したのか、はたまた胃が体中にひろがって、校庭から食卓に駆け込んだ少年時代の記憶が中年の舌を懐かしくさせているのか・・・。夕方食べた、薩摩の黒豚のしゃぶしゃぶは思わず父の分までたいらげてしまった。
鹿児島カントリーで、薄暮プレー。9ホール風の中で、父のセットを借り手て43。まあまあの出来。東京の羽田は何年ぶりの雪で、飛行機は全便欠航。こんなことは、過去の僕の記憶の中でも珍しい。関西空港に降りて、笹岡社長と一杯やるか、福岡に飛んで小園君とラーメンを食うか、名古屋の小牧空港から”味噌カツ”担いで新幹線で帰京するか、頭の中で友人と、名産物の大葛藤。要は、ラジオの気象情報を聞きながらまだ見ぬ東京の”雪嵐”を不思議な気持ちで想像していた。鹿児島は近くて、やはり遠い街遠い街なんだぁ・・・。
2001.01.26
最終便で鹿児島へ。
最終便で鹿児島へ。サン・ロイヤルHにCI.。13階のラウンジのカウンターごしに窓の向こうの桜島を探した。隣では、加世田から吉見君と、元さんがいつもの穏やかな表情でビールを飲んでいる。天文館にでようと、タクシーに乗り込むと窓から南国の冬の風が心地よい。
「鳥を食べよう」という話になって、宮崎の地鶏で有名な「丸万」でもも1羽分たいらげた。300グラムはあるなぁ。天文館の路地は範囲が狭いわりに複雑猥雑。区画は整理されているのに店の場所は分かりずらい。多分、高層ビルがなく、5階6階の小さなビルがひしめいているからに違いない。
飛び込みで入った「マリー099・226・3317」には、”父の痕跡”がここにもあった。西島さんというママがわざわざ挨拶に・・・父とはかれがマスコミ時代から30年もの付き合いだったそうで。
翌日、ホテルの風呂で正面の桜島にうっとり。父が創ったホテルなので自宅の風呂に入って、たくさんの客を招待しているようだ。塩泉濃度の温泉で、一枚ガラスの向こうには桜島が窓の90パーセントを覆うように張り付いている。目の回りの疲れがゆっくりと遠のいていくのを感じながら、錦江湾の右手に広がる大隈半島を眺めている。今から、母の朝食にありつける。
2001.01.24
冬らしい日々が続いている。
冬らしい日々が続いている。愛車のベンツV280はスペイン製造らしく、走行距離15、000kなのに、ハンドルがギシギシいい始め、加えてバッテリー・ランプが点きっぱなしだ。冬は苦手の”国”だから?SLの方は、倉庫に冬眠中、春になったらルーフを開けて解放する予定。ということで、車のエンジンをつけたまま駐車し、片方の鍵でロック。ゴルフ道具やら、喪服やらでロッカーにしているため故障すると大変な事になる。やはり日本車が一番気を使わないという当たり前の結論。女もそんなものかもしれない。
”生まれてくるのは難解で、・・・生きていくのは苦痛だし、・・・かといって死ぬのはもっと厄介だ”
なんて句を聴いた事があるがたんたんと生きていくのが大変に難しい。日本のあちらこちらで滅びるものと、生まれるものの同時多発現象。だからなおさら変化を感じない。秋山先生(気能法)が新年会でそう言っていた。感じすぎると、考えすぎて、迷いすぎては、自分の場所が見えなくなる・・・・そんな”砂丘の旅人”たちが増えている。
そう言えば、昨晩久しぶりに松永 真理氏(I・モードのプロデューサー)と食事。リクルートの凄さ、愉快さ、歴史感などで数時間に及ぶ大企画会議。途中から藤原 和博君も合流、くわえて、橘 茂昌氏の4人。母校の思い出を話しながら、僕はこの4人でロック・バンドを作ったらいいなどと考えていた。
迷わなかった時代の”よき日々”をツマミにして。
2001.01.20
深夜にかけて雪。
深夜にかけて雪。目黒の宮本邸でアントニオ猪木氏やら、長沢氏やら、大友氏らとパーティ。リビングにプールがある豪邸の披露も兼ねての会で、加えてジャイアンツの鹿取コーチのアメリカ壮行会でもある。流行のオープン形式のキッチンで宮本氏が肉を焼き、気ままに猪木氏と泳いでいたら表は、大雪になった。ステファニーの一家氏と僕だけが背広で飛び込んこんだので、帰りの空気が冷たい。
それにしても、宮本氏の商才には感嘆。
最近、年明けから飛ばしたせいか疲れが出てきた。東京プリンスの駐車場には積もりたての白い雪がもう解け始めている。弱くなったガス焜炉のように、点火用のマッチを使わないと詩が書けない。だんだんいわゆるロマンチックな心情風景が、造りずらくなっている。
2001.01.14
4度、カメリア・ヒルズ・カントリーはマイナス2度。
4度、カメリア・ヒルズ・カントリーはマイナス2度。長沢純氏、ステファニー化粧品・一家社長、キャッツ・大友社長、今年の初打ち。木更津まで、アクアラインを使って小一時間。東京湾の挟んで風向きはまともに北風。寒さの為、集中力が自足しない、いくつかバーディのチャンス、それもことごとく1メートル程度のパットが入らない。
E・ゲートの和泉社長が新年の挨拶で来社。衛星DTVに賭けているという。所詮、ビジネスの勝利は3つ。
@ いいものを安く、販売する。
A ブランド力で売る。
B 商品情報の徹底 と教えてくれた。
Y倉庫のK君と、ゼロ・ワン企画の件で頻繁に会合。お弁当のキャラクター戦略についての“格闘技版”商品化。コムサの田村代表、DパンのY常務とのスキーム、それに才能爆発クリエイターの寿嬢、元女子プロレスのリング・アナウンサーの沖田君…・楽しみな事になってきた。
先週から、橘君との銀座放浪のため睡眠時間が極貧。3時間ペース。冬の芝ゴルフの空は済みきっている。駐車場の車も今晩は少ない。1週間が1日の様に早く過ぎていく。今年は、何が起きるか判らない…・・なんて新年気分が少しは残っている。
2001.01.08
昨晩、今世紀始めての雪。2cm程度のミゾレ雪。東京プリンスでてんぷら。
昨晩、今世紀始めての雪。2cm程度のミゾレ雪。東京プリンスでてんぷら。雪と、てんぷらは何故かお似合いなのである。
開高 健先生が、何かのエッセイで「知者は、海を愛し、賢者は山を愛する」と書いていた。解る様でなかなか深い例えである。「賑やかな鬱。淋しげな躁。」二つの相反の真中で、どちらか一つをチョイスするのは難しい。
芝のサウナが3月一杯で閉鎖される。ゴルフ場も8月末でクローズ。2005年にオープンする芝プリンスホテルの工事がいよいよ始まるそうだ。東尾監督、加藤茶、目黒さん(80歳の画商)、稲葉さん(寿司)、杉山会長〈旅行〉、新谷氏(寺)九連山さん(金融)、朝霞さん、みんな一体何処に行くのかなぁ。世代を超えて、裸で世間話をしてきた言ってみれば“灼熱の暇つぶし仲間”は、ボクの日常の一角を形成していたのに。屋外に気軽に駐車して、風呂の後に満月や、星を仰げるあのホットした瞬間が、どれだけ大切だったことか。残念なニュースだ。
2001.01.01
2001年元旦、青く澄みきった空を見ていると、IT時代とは一体なんだろうと考える。
2001年元旦、青く澄みきった空を見ていると、IT時代とは一体なんだろうと考える。今年は、全体の構造を探求してみよう。僕の今ある全てについて。
時代の遅れを取り戻そうと、懸命になってIT関連の人脈をもがく様にひろげ、新しい会社を起こし、書籍や雑誌を読み漁り、少ないながらの現在のインフラとそれらの“新しい予兆”をミックスさせた。そんな2000年が新聞のコピー同様まさしく“ドッグ・イヤー”として僕の中を過ぎて行った。しかし、このわずか1年を振り返って見ると、このITと言う波は果たしてどんな経過を経てこの国を変えていくのか、この先にこの日本と言う国家はどんな変貌を遂げるのか誰も計り知れない。
秀才だった父の兄は海軍士官学校に進学し、エリートという軍事的評価を勲章に戦艦「陸奥」とともに南方洋で戦死したと聞いた。あれは中学生の頃だった様に記憶している。今ボクがあるのは、その第2次世界大戦で粉々に散ったこの国が、自然現象の如く立ち直った甚く簡単な復興の成長過程の中での“甘え”と“欧米化”と“興廃”の産物の様にも思える。
ヤカンが沸点に達し、暴発した。再び、国民はヤカンに水を満たし火を炒れた。それほどの苦労もなく水は100度に達した。ここから、コーヒーにするか、お茶にするか…・・それがボクたちの責任と生き甲斐なのかもしれない。だって、ゼロからの出発、白紙の画用紙、種のない畑、何の規則もルールも無かったのだから。
2000.12.29
沖縄で恒例の年末挨拶。
沖縄で恒例の年末挨拶。リンケン氏のアジマァ・スタジオを仮の宿に“感性の取り戻し”。温度24度、快晴。半ズボンにTシャツで海岸線を朝の散歩。
夕べは、「マリブハウス」の砂浜のすぐ横にテント小屋をかまえライブハウス(ココナッツ・ムーン、965−3601)を営む比嘉 清正氏、リンケンとアトランチック系のブラコン・ライブを聴いた。比嘉氏は、「紫」という伝説のロック・バンドのギタリスト。一見、ブラジル人風、あのサンタナに似た色男。リンケン氏と中学時代の同級生。こんな夜更けにわいわい一杯やってる所が、なんとなく沖縄時間を感じて嬉しい、羨ましい。僕の若い時間を分け合った友人たちは、別の空間で暮らし、二度と会えないのだろう。外に出ると、東京では9月あたりの夏の終わりの風が吹いている。海鳴りを背中にレンタカーのキーを回した。誤って動き出した
ワイパーを止めると、フロントガラス一杯に南国の星空が広がった。
2000.11.09
航空会社のマイル・ポイントが貯まったまま消化できない。
航空会社のマイル・ポイントが貯まったまま消化できない。今のままだと、ざっと世界一周分が今年の末で、無くなってしまう。そんな事を考えているうちに、あのロバート・ケネディJRが来日。アップリカの葛西氏と夜の東京は、渋谷に出かけた。
久しぶりのミーハー気分。イベントを長くやっていると、新鮮な“ドキドキ”が無くなり不感症になる。生きていく、年齢を重ねていくという事は不感症が重たくなっていく事かなぁ。以前は、メデイァの虚構を現実の場面に置き換える瞬間の“緊張”のような心の動きが、胸の鼓動を激しくしたものだが・・・。このR・K・JRは、2008年あたりのアメリカ大統領候補という事も有り、加えて、ファミリーのドラマ性、歴史などを考えても、今までのタレント?の中でも群を抜いてスターだ。
浅草ロイアル・パーク・ホテルは、アップリカ主催の「子供たちの未来を・・・」のパーティで一杯。JRの講演を目当てに中国から、アメリカまでざっと1000人の聞き手。あのJOHN・F・KENEDDY(叔父さん)を彷彿とさせる講演。僕自身の勉強にもなるが、あるテーマを主張しては、具体的な例を挙げる・・という解り易い弁論。
身振り手振りを織り交ぜた“舞台の振り”はさすがDNAか大衆を釘付けにする。
10時に帝国ホテルに集合。そこにはなんと25年ぶりに民主党の管さんも登場。小池ゆりこ、樽床君らと談話。翌日は森総理など日本の政治家もミーハー気分というのもさすがJR。さておいて、われわれは、手配の渋谷のORへ。JRは疲れから、タクシーで寝付いてしまう。歴史の一角を担う確率のあるな男が東京の首都高速の、しかもタクシーの中でうたた寝をしている。なんとも不思議な風景。非現実的な時間と東京という都会のもつ幻想が僕にとってはあの初めてマイケル・ジャクソンを呼んだ福岡の夜のように新鮮な“イベント”鼓動を打った。
2000.10.09
神谷町森ビルの周辺はツツジが多く植えられている。
神谷町森ビルの周辺はツツジが多く植えられている。
午後城山ヒルズのジムにサウナ。久留米ツツジ、を始め九州を舞台にしたツツジが冬の訪れさえ感じる秋のオフィスガ街に肌寒く植え込まれている。
3日程前、持ち歩いていたノート・パソコンの電源と共に中の「巡り会う人びと」が消えた。幸いにも、2、3日分の日記が消滅しただけで済んだが、定期的に本体に貯えないと事故に弱い。
この1週間、小山田君と六本木のゴルフに通い、3勝1敗とついている。橘君に言わせると博打は"負け方が大切"。負けが込むとつい掛け金が大きくなる。止め時が解らなくなる。との事。確かに、ついてないときは、何をやってもつかない。人に便乗しても勝てない。その内に、短期が起こる。"しょせんは博打だ・・・イチカバチカだ・・こうなると負ける。しかも悪い打ち方が身についていく。香港のステファン君は勝負に強い。咥え煙草で冷静にしかも思い切り打ち込む。そんな彼は∞億円の株式を売却した。日本の未来は悪くなるそうだ。
2000.09.27
小金井カントリー51・49・46。ドライバーを余ほど練習しないとこんな風になる。
小金井カントリー51・49・46。ドライバーを余ほど練習しないとこんな風になる。今日は、まるで暴落にあった株式の用に220点の負け。特にバンカーとドライバーに泣かされた。海外旅行や、スーツ、同じ道楽でもこの敗北は最低。取り戻そう等と思っては行けない。こんなときは"身にしみて、反省し、同じ過ちを2度と犯さないようにしなければ"。鞭の様にたたかれ、高い授業料を払ったのだ。つまり金銭感覚の(とくにここの所の、ITカブレの・・・)麻痺を神様が戒めた。
2000.09.25
それなりに、自主的に責任をこなしている。
それなりに、自主的に責任をこなしている。
さて「狸の葉っぱ、狐の行灯」・・・・いい加減で、先のわからない人と、慎重な人
「亀の、引越し」・・・・安全で、仕事が遅すぎる人
「猫のお見合い、イタチに肉団子」・・・・・好物を目の前にすると、騒々しい様
などという諺を造って見ようと思っている。頭の体操代わりに。芝のゴルフ場で、日記を書いている。温度が徐々に下がってきて入るものの湿度が高く、過ごしにくい。久しぶりに「焼きそば」をつくった。
2000.09.24
高橋 尚子選手が女子マラソンで金メダル。日本の陸上史上64年振りの快挙。
高橋 尚子選手が女子マラソンで金メダル。日本の陸上史上64年振りの快挙。この選手も、昔有森さん等とともにリクルートに在籍していた。朝、6時に上野のスカイライナーまでFwを送る。本日から、3泊4日のマレーシアの旅。ある意味では、重要な期間だ。
2000.09.20
桃太郎運輸の和佐美社長・千葉カントリー47・44。グリーンが小さくて難しい。
桃太郎運輸の和佐美社長・千葉カントリー47・44。グリーンが小さくて難しい。川越カントリーのクラチャンの小山田君も横井プロにあおられたのか39・42と乱れた。
いちいち、挫折したり、嘆いたりしないで、大きく構えたほうがかえって成功の確立がたかい。
2000.09.17
激しい雨で、東海地方で被害続出。名古屋の天白あたりでは、家や車が満ち潮に飲みこまれた貝のように沈んでいる。
激しい雨で、東海地方で被害続出。名古屋の天白あたりでは、家や車が満ち潮に飲みこまれた貝のように沈んでいる。
昨日、今年一番の大雨のなか、横浜スタジアムまでコンサート。しかも2往復。ワイパーが効かなくなる寸前の大雨で、首都高速もさすがに危険地帯。やはり、安心感のあるベンツで良かった。クライスラーだったら、どこかに不安感があり、気分が悪いし、実際危ない。"善は急げ"というのを行動の柱にしたい。TVでは、シドニー・オリンピックで女子柔道の田村、男子の野村が金メダルを獲得。雨の東京とは正反対に折り紙のような青空を映し出している。
2000.09.15
朝から、雨。湿度が重い。東京湾の水面が、雲の奥の陽光に光りながら、シャワーのような雨に打たれ揺れている。
朝から、雨。湿度が重い。東京湾の水面が、雲の奥の陽光に光りながら、シャワーのような雨に打たれ揺れている。「誤差動の確率」は、性格に帰する。・・・とすれば、私を含めて経営スタッフも"癖の経営"
で運営される。成功もミステイクもこの"個人の癖"によって左右され、"癖の集合体"が組織の判断能力となる。となると、私の"癖"は、短気で臆病な気質、良く言えば、慎重すぎて商機を逃す傾向がある。こんな場合も行け行けで行くべきなのかもしれない。
2000.09.13
曇りの小金井カントリー。44、43。
曇りの小金井カントリー。44、43。
今夜も小山田君と「徒然茶僚」。そんな訳で、久しぶりのKー1の石井館長と、芸能界のドン周防さんとのゴルフもいま一つスコアーができない。睡眠不足に加え、右の肩の裏側の筋肉が伸びてしまったの飛距離も20ヤードくらい落ち込んでいる。横井プロの車に便乗して新宿のパークハイアットのサウナで汗を流したあと食事。周防さんと裸の付き合いができた。1ヶ月振りの中内会長は、マスコミの報道とは別に元気そう。88円コーナーの設置を嬉しそうに披露してくれた。なるべく長く現役でがんばってほしい。
2000.09.11
台風14号来襲。久々の雨。
台風14号来襲。久々の雨。
朝から、芝のゴルフ場でドライバーの訓練。毎日、少しづつ打つこと。そのうち何か掴むものもあるだろう・・・・・と先輩の言葉。左手の振り子の正確な軌道と、玉の位置、フォローの軌道(左に思い切って引くとドロー、高いフィ二ッシュの場合フェード。)賭けゴルフで僕の負けづ嫌いに火がついた。絶対、取り戻すぞ・・・。
昨晩、グレの京さんと東京プリンスで果実のデザート。東陽町まで送る。木場、月島、枝川のあたりは、入り組んだ東京湾の三角州にできたのか真に分かり難い。台風の影響で幾分澄んだ空に7分目の月が浮かんで、不合理な行動を取っている僕を癒してくれた。
2000.09.07
徳田虎夫先生が言っていたように「日記をつけながら自分で一日を評価してみる。
徳田虎夫先生が言っていたように「日記をつけながら自分で一日を評価してみる。評価のポイントは1・お金がたまったか 2・何か一つでも技術を身につけたか 3・人にたった一つでもいいから気をくばってあげたか。」
「人にものを頼むのが上手な人は、人の依頼を断るのも上手い。」
人間通と言うのはこの微妙な相手とのやり取りが実に多彩達者な人のことを言う。
年齢の上下には関係なく、この人間通という様な人材はどんな環境から育成されるのであろうか?橘君のように3歳の頃から肉屋の店頭で物売りをしていた営業マン、中谷君のように天才的に仕事量を積極的にこなして来た評論家(マーケッター)、物静かで横にいるだけでリラックスする笹岡さん。いずれに共通しているのは、嫌みが無い
事、爽やかな事、明るい事、聞き手上図、"合いの手"達者ということ。
2000.09.06
若洲ゴルフ・45.42、福崎、水上▲31
若洲ゴルフ・45.42、福崎、水上▲31
2000.09.04
またあのゴルフの熱病が発熱。小山田君と六本木に行くと昔の顔ぶれが相変わらず屯している。これも、病気の集団だ。
またあのゴルフの熱病が発熱。小山田君と六本木に行くと昔の顔ぶれが相変わらず屯している。これも、病気の集団だ。
2000.08.15
Gは夏期休暇につき、静か。東京も、日比谷通りも、第一京浜も車が普段の20%。
Gは夏期休暇につき、静か。東京も、日比谷通りも、第一京浜も車が普段の20%。
妊婦を見ると、気が重たくなるのはいつの頃からだろう。東京プリンスの玄関に向かう広い駐車場の出口から30歳半ばの夫婦が見える。白いYシャツに汗をかいた旦那らしき人がしきりに荷持をもってホテルのなかに入っていった。そう言えば、ずうっと昔からこの妊婦の丸い腹には、期待感と不安感が交錯して何か戸惑いつつ
嫌悪感をもっていたような気がする。この年になって、未だに、女と暮らし、家庭を持ち、子供を育てるのは納得がいかない。一人前の男になっていないのかもしれない。それとも"DNAは記憶するか?"じゃないが、鹿児島の男の我が侭のか?
気がつくと、昼間の暑さをたっぷりと含んだ夏の夜空に月が懸かっている。その下に、中途半端に刷毛で触ったような雲が白く浮かんでいる。そう言えば、20歳の頃から、女性に対して同じような恐怖感で接しているような気がする。このまま子供のままで、"この未知なる生物"を探しつづけるのだろうか?そしてこれも"一つの旅"なのだろうか?
2000.08.12
恒例の、東京湾花火大会。去年同様、今年も、集客が大変だった。PRをするのが遅すぎるのと、定価が3万円、ちょっと高すぎるんだろう。
恒例の、東京湾花火大会。去年同様、今年も、集客が大変だった。PRをするのが遅すぎるのと、定価が3万円、ちょっと高すぎるんだろう。
今年は、ETIの木村君組、デジタルの小山田君、IRIの宮川君、そしてGのスタッフ。清水ジェイさん。他37名。一応、今世紀最後の"花火"なのだ。三河屋さんの、波止場をpm5時に出港。隣の住吉の福田さんの屋台には、福田会長やら、石井館長やら、小林正幸さんやらがごっそり。
2000.08.03
先月の暮れに来襲した台風は期待も空しく九州の福岡から
先月の暮れに来襲した台風は期待も空しく九州の福岡から
韓国方面に雲散霧消し、今年の東京は暑い。ひどく暑い。生まれてから一番暑い夏ではないかしら。
芝のレストランからガラス越しに見るプールにいつもの風景。銀座の水のにおいのする女性達が白い肌を曝している。レストランではさすがにこの暑さでゴルフコースを辞退したのかゴムのマットで練習を済ませたゴルファーが汗をポロシャツに沁み込ませて昼食中。最近、夜は、東京プリンス、駐車場はホテル前、サウナは芝ゴルフ。西武グループの施設で一日中過ごしている。
父の「それぞれの物差し」の第2巻が納品。200万円の作品。今回も画家の山形先生にお世話になって表紙を使わせてもらった。腰巻きは藤原君に書いてもらった。こんな感じで、人のために仕事をするとリラックスしていい仕事が出来る。自分のCDを作るより気が楽なせいか、ストレスも溜まらない。450冊を鹿児島に送り、250冊を書店に、そして残りをはしたないが友人、および関係者に僕のPRも含めて送る事にする。
2000.06.22
久しぶりに右脳動く。影家君、沼田君と10月発売予定のCDの打ち合わせ。といっても、頭は左に引っ張られる。
久しぶりに右脳動く。影家君、沼田君と10月発売予定のCDの打ち合わせ。といっても、頭は左に引っ張られる。
M君と、銀座周回。麻衣子からまりはな・・そしてクラブD.週の後半に朝帰りを持ってこないと、週の後半がボーットしたまま終わってしまう、そればかりか"怒り易くなるのは何故か?
2000.06.19
梅雨入り。夏の予感がしている。湿度が高い。車のバック・ミラーに映る手がぎょっとするくらい、父の中指に似ている。
梅雨入り。夏の予感がしている。湿度が高い。車のバック・ミラーに映る手がぎょっとするくらい、父の中指に似ている。
2000.06.12
梅雨に入りそう。沖縄のリンケン君は今ごろ雨の中。マレーシアから田原氏が帰国。ある意味では平穏な日々。
梅雨に入りそう。沖縄のリンケン君は今ごろ雨の中。マレーシアから田原氏が帰国。ある意味では平穏な日々。
国家とは、誰かが便宜上創作したもので、もともと日本人はナショナリズなど持ち合わせてはいなかった。「情熱のゆくえ」堀田 善衛氏の著作にあるとおりこのGという会社も本来、個人のI・P・Oを前提とした欲望の固まりで、帰属意識などを期待したり、管理教育したりなど、おこがましいのかもしれない。
もともと日本人は日本人でもなんでもなく、むしろ個人の中にある故郷や、お国自慢、を柱とした"莫"とした農業人。よって強力な独裁者でも出現しない限りデモクラシーも存在しなければ、革命も起こらない。同様に、会社組織というものも、あのリクルートですら、賃金と"居心地の良い環境"、若者の刺激策をEさんが構築した広告収集システムで上手に能力発揮させているだけで愛社精神のようなものは、あまり感じなかったように思うのだ。人間の心の中に「故郷」に近い"らしさ"を持つことが一番なのかもしれない。
夜、Eさんの65歳の誕生日。レコーディングの最中のさだまさし氏を氷川に連行。まずい事に「天までとどけ」を作曲者の前で歌う事になってしまった。
さらにまずい事に、疲れたさださんに「フレディ、もしくわ・・・」「コスモス」まで歌ってもらった。いやいや冷や汗の夜。その後、センチュリーのシラノで西澤さんと、荒川さんと一緒。
2000.05.31
考えてみれば、やはり"日の当たる"人の横には、太陽が注ぐ。
考えてみれば、やはり"日の当たる"人の横には、太陽が注ぐ。
Eさんの人脈、オーラが今も僕を助けてくれている。
細川夫人と、西村会長(日拓)、キャッツの大友社長を長沢純さんが引き連れ、K1の石井館長が、長島 一茂、幻燈社の見城社長を連れ出した。恒例の小金井カントリー。僕は、横井さんと9ホールで37.久々のスコアー。
睡眠不足を反省しながら、結局毎晩4時間ペース。中村 天風氏の本を読んでいる。"口に出す事は、その人の行動を支配する」そんな"気"の強い力を僕も信じ始めている。
2000.05.18
雨。ゴルフは本当に難しい。先週86で回った小金井カントリー、昨日は
雨。ゴルフは本当に難しい。先週86で回った小金井カントリー、昨日は
106.朝食の悔い過ぎか?
K1の石井館長と、シニア・ゴルファーの横井ジョージ氏、それにACHの角屋、浦川、日本TVの今村さんを引き連れて恒例の小金井。考えてみれば、27年前小金井カントリークラブで毎週の様にプレイするとは、思想的にも、経済的にも考えても見なかった。人生というのは、何が"その先に"あるのか解らない。ゴルフを通し人間の距離感を久しぶりに、無意識的に、忘れ、この2ヶ月のうちに急激に接近。30年来の友人のようだ。出来れば、このまま、仕事を忘れて御付き合いしたいのだが・・・。積極的に、ビジネスを展開しようと思っている。
神藏君は、相変わらず怒涛の人生の渦中。西澤さんは、採用とWBTへその情熱を傾け、金子新社長はビジネス・モデルの作らされすぎで"鼻血"を吹いた。
そんな感じでGは、7月にAMAからいよいよGAMAへ、ステップを急いでいる。
2000.03.23
風雲急を告げ、G号出港を前に乗組員のルール・チェック
風雲急を告げ、G号出港を前に乗組員のルール・チェック
アクセスの荒川社長と、中内会長の初デート。携帯電話のOSの開発技術集団100人を従えたアクセスを、流通王に紹介する事で自分自身のスタンスもあがる。久し振りの中内会長は顔色も良く、機嫌上々。ピンクの肌が風呂上がりのように健康そうだ。少なくとも、僕よりしっかりした体調が良さそう。机の上に広げられたアクセスの会社案内を見て、紹介して良かったなぁ・・。夜、ザックの…徹底のつもりで神蔵君と、木村君と神田うのさんと「クラブD」でワイン・ディナー。それにしても、個性的な女性だ。上昇志向と、そのエネルギーが何人の男性を圧倒してきたのだろうか?ちょっと、僕なんか構えてしまう。
2000.03.18
東京は晴れ、鹿児島も晴れ。
東京は晴れ、鹿児島も晴れ。
久しぶりに、母の顔を見に帰郷。空港から、バスで天文館へ50分。「のぼるや」のラーメンを楽しみに、モヤシいっぱいの豚骨スープで腹一杯。今回もショート・ステイなので、夜は寿司の予定。サンロイヤル・ホテルにチェック・インして紫原の自宅へ。心なしか、母さんの状態が良くなっている気がする。でも、出きる限り、時間のある限り"いい思い出を作ってあげたい"。いつもの事ながら、東京の話から、最近の出来事まで気合が入りすぎる。子供に帰って誉めてもらおうとでもしているのか?それとも自慢をすることで故郷に錦でも飾ろうというにか?いずれにせよ、聞き手にまわるべきなのに自分の話をしてばかり。それも落ち着かないインターネットで世の中が変わるなんて、年寄りには脅迫めいたトレンド話。
2000.02.28
ここ2,3日寒さが厳しい、春一番が吹いたというのに、今日。
ここ2,3日寒さが厳しい、春一番が吹いたというのに、今日。
昨日の、日曜日夜、イマジニアに集合して役員会。来年の6月あたりを目途に、いよいよI・P・Oの準備に・・。去年から、リクルートを退職し、僕の人生が急速に違うレールに走り始めた。何かの、分かれ道?違う社会への遭遇。I・T革命という訳の分からない時代の真ん中、暗中模索。
岡田氏曰く「1993年の福岡ドームから、あなたの人生が変わったのよ」
僕は、宣伝部に配属されてから以来、地べたに足がついてないような、浮いた気分が始まったような気がする。「確かに、そうかもしれないけどスケールが、大きくなったというか、ジャンプさせたのは絶対、ダイエーの仕事を始めてからよ」
この変化が事実だとして、僕は何のために"あの規則正しかった、販売部のサラリーマン気質を捨ててしまったのだろう?"それはそれで、安定的な精神があの頃の静かな日常には、在ったような気がする。金なのか、知名度なのか、自己主張のコンプレックスだったのか?
朝、久しぶりに石川 好先生にあった。パレス・ホテルの「和田倉」。E・BANKの設立の話。
2000.02.04
のどかな冬の日。
のどかな冬の日。
久しぶりに、人生の先輩、戸張さんに会う。アメリカンクラブのレストランで、奥さんと、アメリカ人夫婦と談笑している風景に何かほっとした気分を取り戻した。"あぁ、昔彼に会ったときの憧れと、羨望に、どきどきしたっけなぁ"
こんな風に、ある種のオーラが出ている人は、それ以来お目にかかっていない。TVの効果なのか、積み重ねられた実績のせいか、または男らしい存在感なのか?・・・きっと自身、あふれる自信に裏打ちされた雰囲気全体なのだろう。
午後、これまた久しぶり、7年ぶり?もっとかなぁ、"ぴあ"川口君に面会。
29代のころ、彼とは書店さんの新年会や、各種会合で販売マンのラオバルとして良くあった。青春時代の思う¥意での一人だ。きっと彼も同じ印象を感じたろうが、ずいぶん老けたよなぁ。
2月22日(火)誕生日47歳。意識しない、意識しない。"クラブE"でパーティ。
芝のレストランでI・R・Iの藤原氏と、今後の話。Rの人材を何とか採用したいとの話。午後の日差しが窓の向こうの、冬の森を照らしている。ビールにやや赤らんだ顔の藤原氏と相変わらずのらりくらりと、話の話題があちこち散歩しながら2時間。新会社(新日本プロレス、徳洲会、デザインF)やら。同じ年という事も在り何か話が解り易い。
夜、神藏氏、M氏、橘君にクラブEで誕生会を開いてもらった。目の前のケーキでなんと歌を歌ってもらった。ちょっと、恥ずかしいのだが、久しぶりのシーン。シャンペン、ワインを浴びるように飲んで、二日酔い確実。
2000.02.03
神藏氏の渡米が近い。ソノセイカ会議が多い。
神藏氏の渡米が近い。ソノセイカ会議が多い。
2000.02.02
暖かい冬の日、星が転々と小さく見える
暖かい冬の日、星が転々と小さく見える
昨日、橘君と笹岡社長と打ち上げのつもり?で銀座。気がつくと朝方になってしまい海岸の制作室のベットに転がり込んだ。睡眠不足もあり10時すぎ(といってもまだ早い)に飛び起きる。久しぶりにEさんとの会食。藤原さん(IRI)の紹介も兼ねて「七面草」に向かう。時間があれば会議の目的などを整理すべきであったろうが、ちょっと乱暴だったかなぁ。2時にホテルオークラの本館で何年ぶりだろう?福田氏と世間話会議。例のGに絡む取材。物腰の柔らかさ、聞き方のうまさにうーんと感心。話術の巧みさには感心。思わず逆に取材されないように注意注意。品川の「デニーズ」で夕食。久しぶりに一人で3時間ほどの空間が生まれた。やはり一人の時間は大切だなぁ。この日記も一週間も溜まってしまった。
2000.02.01
昨日から今度は前歯がグラグラ。疲れが顎に来ている。
昨日から今度は前歯がグラグラ。疲れが顎に来ている。
昨夜、深夜に湯河原から帰京。午前1時に「あしかり」を出発、1時間で赤坂到着。あしかりで割り箸を爪楊枝がわりに使っていたのが大失敗。前歯に接着したあった隙間を埋めるための義歯が割れてしまった。前歯が痛むと何のやる気もおきない。特に、性欲に支障をきたす事で生命力がグーンと落ちる。小学生のころに母があれほどうるさく言ったのが、今でも耳に残っている。40年たって身に沁みるなんて、本当に人の言う事に耳を貸さない我が性格は痛い目に合いやすい。そういう意味で、神藏君は上手に人の話を自分のものにする能力が高いなぁ。
さて、とはいうもの朝からなんとなく気分がうきうき。久しぶりの3者連合の新年会があるからだ。夕べ「あしかり」からアポを取ってあった飯塚歯科で前歯の補強。新宿で役員会、全体会議の後、ヒルトンで連絡会議の後パーテイ。橘君のスーパー・プロデュースでパーティは、みるみる最高の盛り上がった。ゲストの深川氏、西川りゅうじん氏、秋山先生、藤原和博氏もイマジニア・グループの大変貌にびっくり。特に、若いパワーの自由な気分とそれを見つめる神藏君の嬉しそうな顔が一番うれしかった。「ゴールデン・キー・クラブ」でいっぱいやった後、銀座へ。「E」は深夜までさらに"きれきれ"に盛り上がり。笹岡氏の雰囲気ずくりに、僕もハッピーな二日酔い100%状態。ひさしぶりの、午前様。
2000.01.24
年明けの疲れ、Gの疲れ、風邪の疲れ、3拍子。
年明けの疲れ、Gの疲れ、風邪の疲れ、3拍子。
今日のトピックスは飯塚歯科。前歯の左裏側がしみる。左の奥歯が、虫歯と睡眠不足でグラグラしている。午前中、イマジニアで役員会をこなし、タクシーで神保町へ。あのクールで、人懐っこい、飯塚先生のところへ"安心"を治療してもらいに走る。ここの所の、睡眠不足とストレスで体のメンテナンスが悪い。行き届かない。加えて、スーツを着る機会が多くて肩が凝る。
そう言えばサウナに行く時間も機会も少なくなってきている。と行った具合で、いずれにしても歯にきた。夕方、ローソン・チケットの坂本氏と芝で会議。考えてみれば、こんな事も知らなかったのかと今更「確認する事を、億劫がっては行けない」と反省。その後「和岸」にて長沢純氏、ステファニー化粧品の一家氏、キャッツの大友氏とおいちょかぶを2時間。4万円儲けた。IRIの宮川氏が合流しアントニオ猪木氏との新会社のいついての打ち合わせ。今日も人にあった。そして疲れた。
2000.01.21
またも風邪気味。冬の寒さが、緩い。1時間の睡眠。
またも風邪気味。冬の寒さが、緩い。1時間の睡眠。
今週は、反省するところが多い。月曜日から、睡眠時間が3時間ペース。なかでも、昨日の午前様は朝になった。そんな朝の鍵って、普段あまり電話のかからないEさんから電話。IRIの件で、赤坂の物件の会議。衛星放送の関係で六時おき。なんの責任感か布団から這い出して、タクシーに乗り込んだ。昨日の、アルコールが、まだ残っている。たばこの吸い過ぎで、茶色の痰が風邪の咳と一緒に固まりで吹き出る。今日は、スケジュールを調整してゆっくり過ごしたい。
午後、セゾン生命の田中君が来社。この様に、全身倦怠の一日は田中君のような人物と会うのが気楽。もう直始まる年末調整や、個人のライフ・マネーに関わる仕事も一括して彼に任せようと思っている。夜9時、越智先生と桑原さんと全日空ホテルでお茶。その後、RのS君とクラージュへ。並木通りのラーメン屋で焼き蕎麦のウィンドーを見ていると何と今夜もM君とバッタリ。お互いに相当疲れていて、ATOZに行くことになり、ある意味で"銀座病"の二人、戦友気分で再び7丁目へ。A TO Zには、電通の石川、伊地知、飛世君(この人、ジャニーズに強いらしい)の三人が陣どっている。伊地知君は黒木瞳さんの旦那で、体重50キロの細身の弱々しい感じ。しかし、何故か魅力的男の奥行きを、ユウーモアに包み込んでいる。僕にとっては、勉強の材料として興味がある。「葉月」で寝る前の、"しじみ汁"を2杯。こんな事をしていても睡眠時間の少なさは、補填できそうにない。お休み。反省。
2000.01.20
神藏君と久しぶりに午前様。睡眠不足の満月。
神藏君と久しぶりに午前様。睡眠不足の満月。
Gは新しい局面を迎えている。今後、教訓"一番大きな絨毯を持っている人が勝負の鍵を手に入れる"。右脳を絶えず新鮮にして、しかもスピードと、勝負に対する粘り強さが、問われることになるだろう。
そんな事もあって、芝ゴルフで落合君と昼食。相変わらずのんびりした様子。
招聘業者、個人のプロモーターを育てることで、Gの位置が有利になるはず。神藏君が京都の任天堂に出張。笹岡さんと、橘君をつれて「E」に出かける。何が起こったかはさておいて、意外と普段にはない面子なのか、とにかく終わってみたら朝の5時。珍しく、飲みすぎた。ストレスが溜まった各々3人組みはそれぞれに"いわゆる切れた"のだろうか?瀬名氏も酔っていた。
2000.01.16
平和島の温泉に限らず、風呂はやはり慣れたところが一番。
平和島の温泉に限らず、風呂はやはり慣れたところが一番。
2000.01.15
浅草橋の問屋街に、アウト・レットの新発見。
浅草橋の問屋街に、アウト・レットの新発見。ダンヒルが安い。
2000.01.14
プライス・ウォーターの前田氏と「七面草」へ。
プライス・ウォーターの前田氏と「七面草」へ。何かの期待を感じたのだが連日の疲れで気力が出ない。年を取るというにはこういう現象をいうのかなぁ。
2000.01.13
種まきで正月早々忙しい
種まきで正月早々忙しい
何が起こるかわからないが、徳洲会のIT化を進めることで、仕事ができそうだ。徳田先生の長女、能宗さんとIRI宮川、西澤氏の会議。この巨大なシステムに取り組む事は5年がかりの大仕事。選挙と医療の一体化作戦スタート。
2000.01.12
日高君と兄弟仁義の大酒により頭痛
日高君と兄弟仁義の大酒により頭痛
ワインと、シャンパンで大騒ぎは良いのだが、考えてみれば僕が一番長老。もう少し違うのみ方を提案していれば良かったが、後の祭り。教訓「若い人に会わせて飲むと、足元を取られるぞ。加えて、ただのおっさんに評価もなってしまう」。
さておいて、今夜もJAND Cのメンバーと新年会が入っている。楽しみだが、体が持つかなぁ・・・と不安。夕方には中内会長と会議。
2000.01.11
"ちょい"いい日
"ちょい"いい日
羅漢寺へ。貫主の日高宗敏氏も健在。あいかわずの迫力、雰囲気に安心。このブローカー的なムードと、豪華な和服がマッチして難とも言えないような重量感。
5ヶ月間も仕込んできた案件の結論が今日。いろいろ心配事もあったが、とにかく結果的には良かった。このプロジェクトの反省、総括は是非のちほど・・・とくに仕事の初めに係わり合いの部分でやるべきこと、チェックすべき事、確認すべき事も一度自分に叩き込んでおきたい。
「こすが」は新年のこの種の目的には場所だ。おかみさんも、じゅんこさんも元気で何より。そういえば、この場所はEさんと数々の思う出を作った場所。こんな所でお酒をのめるのもEさんのお陰、感謝をしなければならない。
2000.01.10
成人の日。晴れ。風が冷たい銀座。
成人の日。晴れ。風が冷たい銀座。
東京タワーの展望台のあたりに、"2000"の文字がくっきり浮かび上がって、何時もの柚子色のデコレーションとは違い、なにか商店街のアーケイドのような庶民的な雰囲気をかもし出している。サウナから出て、いつものように深く深呼吸をする、芝公園の木々の呼吸から生成された酸素を感じながら夜の空を眺める。振り向いて仰ぐ東京タワーいつもの静かな安定感とは異なり、なにかから騒ぎの日本を象徴しているようだ。バブルが崩壊して10年、庶民の不安とあせりと政治家の嘘と、事業家の誇張がこの国を一層混迷の闇に陥れ、正直のところ成人式などという行事を人生の大切な区切りとして位置ずけている家庭や青年などいないだろう。そう言えば、僕は20歳の誕生日を、スイスのベルンで迎えた。エルトン・ジョンの「グッバイ・イエロー・ブリックロード」をゆーす・ほステルのジュ^ク・ボックスで流しながら、全く先の見えない人生をどうして生きていくのか毎日、とめどない不安の中で考えていた。今思うと、その時間が長すぎたようにも思えるし、ただのモラトリアムだった気がしてならない。つまり、"なんでも、かんでも、やってやる"ことの気が付いたのはつい最近、失敗を恐れるのも若さの特徴かもしれない。<
2000.01.09
◎鹿児島へ。
◎鹿児島へ。
YWBの人ごみの中で、読書。伊集院静氏の「水の器」文庫版。昔から、人の喧騒の中に身をおいて周辺の人の会話や、歩く姿、衣服の様子から何となくその人の生活を想像するのが好きだった。この習慣は、いつから始まったのだろうと考えると多分子供の頃からだったように思う。今でも鹿児島の祖父の家に集まった親戚の様子を遠くから神経質に観察していた自分自身の光景が写真のように記憶されている。この性格を発展的に濃くしたのは、父の都合で転勤が多かったせいだろう。転校生は、新しい学校に移るたびにクラスの様子や、同級生の力関係を一歩引いた所から観察する。状況を理解しないで安易に自分を主張すると、とんでもない"村八分"になり、とり返そうとして倍の苦労しても一旦孤立した生徒はなかなか浮け入れられないのが、面倒だった。
家族から離れてねている主人、3人の子供の手を取って日頃のイメージ・アップの回復に努めるパパ、初めてのデートなのであろう二人の歩き方に何処となく初々しさのあるアベック。正月休暇がYtoKの影響で1週間伸びているのか集団として不慣れを感じさせる人の群れに、騒々しさを感じながら昼寝をしてしまった。
2000.01.08
晴れ。初七日を終え、そろそろ今年の目標を立てよう。
晴れ。初七日を終え、そろそろ今年の目標を立てよう。
馬喰町の紳士呉服店の広告に目を惹かれた。もう何年も前から一度尋ねてみようと思っていた「坂善」に車を走らせた。新聞広告の地図によると浅草の東3キロ地点。江戸川沿いの街だったはずだが、実は浅草橋から徒歩3分。江戸時代は浅草の一体が随分広かったんだろう。ウエストとヒップがまた一回り緩んだのだろう、狙い目のダンヒルのスーツはサイズが無くアクアスキュータムとダックスの2着を購入した。Gの今年の仕事を考えると、きっとスーツを着る機会が増え、しかもある程度は格好を良くした方が新しい会社だし評価も上がるだろうとの考え。12時の約束でANAホテルに竪山と、センコウシャの小林JRと宮田君を呼んである。春のフィランソロピーの打ち合わせ。竪山くんとは彼が新入社員時代からの関係でそろそろ20年近くになる。以前文春を賑わした「ロス疑獄」の三浦さんにの2枚目に男の色気が加わり本当に色男になった。ビールを静に飲んでいたあの懐かしい販売部の時代が蘇る。I・R・Iの藤原さんと新会社の打ち合わせ、豊田君とTBSのラジオの打ち合わせをこなし、成田空港に品田先生のお迎え。夕方のAゲートは、厳つい顔の若い衆が数人、見たことのある顔だと思ったら福田(銀座)さんのお迎えらしい。東京は狭いなぁ、というより、ここでも友達の多さを我ながら感心した。
2000.01.07
睡眠不足の朝。晴れ。
睡眠不足の朝。晴れ。
新年会でダイエー・グループの松岡会長、宮島氏常務、情報センターの佐野専務と東京プリンスの「清水」で会合。9時からの打ち合わせを、IRIでやっていた成果のとうり、R株、L株の話もスムーズ。考えてみれば、藤原さんのような技術者とのプロジェクトも初めてだし、IT革命のような時代だからこその取り合わせなのかもしれない。ひょっとして大変なことが起きるかもしれない。
今日からアライアンスを急ぎたいこともあり、午前中久しぶりにインデックスの落合君が来社、HIPの林社長、サッカーのチケットの件で打ち合わせ。マライヤ・キャリーの利権をHIPが獲得したと聞いて驚いた。一方格闘技も落合君の経験を生かしてGにメリットが期待できそうだ。ポニー・キャニオンの稲葉社長に新年のご挨拶。日比谷のスケートリンクで、衛星放送との会合。岡田氏と「鉄五郎」(虎ノ門)でうなぎ。昼間サラリーマンでごった返すこの店も、夜の7時を過ぎると居酒屋らしくメニューが様様。芝ゴルフに行くと、セクストン氏が黙々と7番アイアンの練習。声優の彼は年が同じせいもあって、しかも元大リーガーというスポーツマン気質。とてもいい関係。男友達として長く付きおあうようになるだろう。去年から、そんな風に感じる男友達が増えている。「この年になると、女より男のほうが気楽でいいよねぇ」離婚暦4回の彼は、ゴルフ場230ヤード先のネットを見つめて明るく笑った。9時にホテル大蔵の「ハイランダ-・バー」でアントニオ猪木氏と、長沢純氏にIRIの藤原氏以下でミーティング。新日本プロレスのナスダックの話。その後、RのS氏と「クラージュ」。奄美大島の石堂氏を紹介される。その後「はずき」で豪華日本料理。この瞬間も男二人のいい酒になった。S氏少し寂しそうに見える、何かあったのかなぁ。<
2000.01.06
晴れ。
晴れ。
新宿のイマジニアで、役員会。いよいよ街は、動き出した。東和の件で朝からばたばた、首都高速をとばしてぎりぎりで到着。1月の目標の確認をし、全体会議。午後から、デザイン"F"の長期プラン。大谷社長、大滝さん両美人に、金山社長を加え、インターネットの業務に話は集中した。今日までが正念場、台風が漸く過ぎて行きそうだ。
久しぶりに、ゆっくりサウナに入り、疲れているせいか30分ほど仮眠。ANAホテルに置いてあるベンツのSLが気になるにので、夕食をかねてチェックに行った。しかし、晩飯の蟹定食はひどくまずかった。蟹の身が、甲羅について離れない。神蔵君からプッシュの電話が入って、銀座の「麻衣子」にYちゃんの店移転の記念に顔を出す。麻衣子ママと久しぶりに話したが、申し訳ないが年を取ったなぁ。口元の皺が気になった。僕の歯の掃除も急がなくては。天井の低さと、席の密度と、客の数で酸素が薄い。12時を過ぎた頃に、予定どうりに「エルザ」へ。笹岡社長と、Mさんが合流して午前3時。神蔵さんを見送って床についたのは4時30分。帝国ホテルの前で1時間ほどミーティング、笹岡さんとは感性のレベルが近いな。瀬名氏と久しぶりに会った。東京に久しぶりに雨が降った。小降りだったが、クライスラーのフロントのワイパーを1ヶ月ぶりに動かした。
2000.01.05
暖かい冬の一日、スーツを一応着込んだ。初日らしいので。
暖かい冬の一日、スーツを一応着込んだ。初日らしいので。
朝、新宿のイマジニアの会議室で役員会。神蔵君とも久しぶり。去年毎日のように会っていてので、4日も会わないと新鮮で、思わず握手をしてしまった。
本日から、役員会様に簡単な企画書を渡すことにした。宣伝部の鈴木君を何故か思い出した。ワープロが珍しかった頃、彼は毎回企画書を打ってきた。まめな男だったが今考えてみると、(いい練習をしていたな。)それが羨ましかったのを、思い出した。
横浜アリーナで、ジャニーズのV6のコンサートあり、その近所で夕飯を食べるため店探しの散歩した。新横浜の駅周辺は、新しいオフィス街なので見るべきもには何も無い。コンビにと、紳士服の青木と、ビジネス・ホテルと大きな幅の道路が走っているだけの街。東京よりも温度も寒く感じられる。ラーメン博物館と言うのが名所ぐらいで、そのせいかラーメンが食べたくなった。人の流れも無い大きな交差点の角に屋台のラーメン屋があったので、暖簾をくぐった。柱に「マリモ」と言うスナックのチラシ張ってあったので、
「この店、美人が多そうですね。友達の経営ですか?」
「私がやってるんですが、女房が癌で死んじまったモンでね。大変なんっす
よ。」
いきなりまずい事を聞いてしまった。のだが、客の質問には達観したように、麺を茹で始めた。おじさんの後ろのベニヤの壁に"網走刑務所"記念の小さな暖簾が画鋲でとめてある。
「この網走の暖簾なんですか?」聞くほうも聞くほうだが、
「女房が、北海道なんです。「マリモ」ってのも女房がつけたんですよ。」期待に反して、昔の勇壮な過去や、武勇伝はさらさら関係なく愛妻家の屋台のおじさんだった。何でも、韓国の人が多く住む町に、内装の高くついた居酒屋をだして、"つけだおし"に会ったそうだ。その後、長距離の運転手で800万近い借金を返し、この屋台を開いたらしい。いろんな人生の局面で、きっと彼の北海道産の奥さんは屋台骨になっていたんだろうなぁ。麺の量がやや多く、スープは甘く感じたが、足元の風が冷たかったせいか一気にたいらげた。横浜アリーナに来る時の楽しみが増えたのが嬉しかった。見知らぬ街で、知り合いや、もう一度寄ってみたい店が出来ると、犬が柱に小便をつけるように嬉しくなるのかもしれない。衛星放送@も満足そうだったし、
2000.01.04
何かいやな予感、台風来襲。晴れ。AM5時起床。
何かいやな予感、台風来襲。晴れ。AM5時起床。
午前4時起床。冬の朝の清々しさで、さほど睡眠不足は感じない。まだ薄暗いので、何か其のほうがうしろめたさを感じる。習慣的罪悪感と言うのか、すっかり酔ってしまい時間を忘れてしまって、朝帰りをしてしまった空の明度に似ている。左斜めに傾いた下弦の月が東の星を支えるように、群青に敷き詰められた夜明けの空にアップリケのように浮かんでいる。
モーニング・ムーンの制作室に戻ると、昇りかけの太陽の照射に東京湾はオレンジ色に輝いている。得意の染め物屋が18番の帯を、海に流しているようだ。成田空港に向かい車を走らせる。いつものグレンモア・カントリーに行く時間とほとんど同じ、このままゴルフをしてしまいそうだ。帰り道の混雑を気にしながら、空港内の食堂で朝の洋定食を食べた。窓の向こうに客人が乗るであろうJAL947便がタラップに横ずけされ、眩しいくらいの朝日がレストランのテーブルにあたっている。右手の指輪が、睡眠不足のせいできつく感じる。
帰りの高速は、仕事始めの日にしては全くガラガラ、1時間でGに帰社。貯まってしまった日記をゆっくりタタイタ。銀行で残高のチェックをする。株がやられているせいか、随分減ってるなぁ。
芝のレストランで円卓を囲む、その後は、早朝の予感的中で台風来襲。本当に信じられないほどの罵詈雑言が部屋中を竜巻のように引っ掻き回し、僕は、今晩も歯と歯の間に楽観的ネガティブな結論を秘めている。誰にも迷惑が掛からない方法で、将来を見据えながら、ここは辛抱しか無いのだから・・・・。
2000.01.03
徐々に街に人が帰ってきた。晴れ。
徐々に街に人が帰ってきた。晴れ。
「亀有派出所・・・・」のアニメ、ゆっくり芝ゴルフ。夜、ガG会議。
2000.01.02
ゆっくり運動。のんびり。健康に感謝。晴れ。よる雨1時間。
ゆっくり運動。のんびり。健康に感謝。晴れ。よる雨1時間。
2000.01.01
10?歩いた。晴れ。◎安比
10?歩いた。晴れ。◎安比
問題のY2Kも何も起こらなかった。いつもより長い紅白歌合戦、と世界各地のミレニアムの模様がテレビで放送されている。なんと言ってもロンドンが、凄い。日本は不況色がありありで、本当に地味な大晦日だった。
1999.12.31
大晦日、例年この辺りはスケジュールの調整が大変。
大晦日、例年この辺りはスケジュールの調整が大変。
◎安比へ
今年は大きな変化の年だった。判断の分かれ目がいくつかあった。その一つ一つが、人生の後半に幾らかは影響するだろう・・そんな気がするのも呑気な話だが25年ぶりぐらいかな?後になってみると"運命の分かれ道"の付け根であったには在ったのだろうが、岡田さんが常ずね言うように「おっとりしすぎよね」。若い頃はポイントもわからずに無意識のうちに過ぎていった。基本的には浮世離れも甚だしい、これは自らの性格の変革をして今年(1999年)限りにするよ・・宣誓。取り返しのつかないことは無いが、時間が無駄だから。
ということで、今年のポイントは、
@ やはりリクルートを退社したこと。但し、92年の春のダイエー・プロジェクト以来精神的には徐々に離陸してきたので、転職ショックは無い。坂本健さんに感謝をしている。
A 神蔵君とガマG立。長年の親友と事業を始めるのは、もしものことを考えると友情と業績の天秤になりそうで躊躇したのだが、我が身の上昇とIT革命を視野に入れるとGOなのだろう。
B 母の病気と父の献身。正確には昨年から続いていたのだが、正直今年は覚悟をさせられた。一方あの小さな部屋で寝泊りを繰り返す父には、共に老いた夫婦の"やりきれない助け合い"と、やはり何処かで家の事はそっちのけで出歩いていた父が懐かしかった。
C 音楽から文学へ、僕のサブカルチャーが変わってきている。自分自身の年齢の変化もあるだろうが、文学界に身を置く人の安心感、厚味に、深さに体が流れていく。といってもそれほど音楽漬けになってた訳でもないのだが。ガマG学の接点も在るしな。
D 宣弘社の小林副社長、協栄ジムの金平会長、ネクサスの景山さんみんな積極的なネットワーカーだった。合掌・・・・・・・・
1999.12.30
今日も晴れ。神谷町の周辺もさすがに人が減ってきた。
今日も晴れ。神谷町の周辺もさすがに人が減ってきた。
大井町の、イトーヨーカ堂は凄い賑わい。ビジネス街と商店街の違いを、まざまざと肌で感じている。芝のゴルフ場のレストランで、グレッグ・ノーマンのワインを仕込んで、城山ヒルズで忘年会。M君と3人、やはりこの人は素晴らしいと品田先生も直感のいいところで分析。鴨鍋、海老、でワインを5本。昼間の酒は良く回る。珍しく、僕も寝てしまった、それにひとさまのお家で風呂まで浴びて・・・。ギターを弾いて、今年の総決算。
その後六本木で、JANDCの忘年会。ぎな君と、大森君、金山氏にタレント3人。清水さん、菊地さんが当面の商品価値。品田さんとの契約を前提に僕はこの会社と動いている。来年、4月から何とか契約を結びたい。昼間のワインが寝る前まで、残っている。◎安比へ
1999.12.29
年末のチケットの件でバタバタ。晴れ。
年末のチケットの件でバタバタ。晴れ。
年末の、ユーミンとラルクのコンサートチケットの余りの販売で本当に、いやになっている。手間がかかる割に、信用を失うし、儲からない。計画的に仕入、必要以上には受けない。これが、絶対のルール。誓う誓う。
ローソン・チケットに挨拶。中山社長、岡田常務と神蔵、西澤、今村。坂本氏のセット。以前より、岡田氏とは、組みやすいと思った。少なくとも、"裏"が無いので、ストレスが溜まらない。関西弁で、歯切れ良く、頭脳明晰、回転速い、岡田氏。やるなぁ。しかし、このグループと何を共有し、どう組んで行くのか・・・。よーく、仕組みを検討したい。やはり坂本氏の力を借りて、取材をしてみたい。
和気藹々の中で、ここでも色々な思惑が動いている。要は、来年の始めに持ち越された。
9時、さだまさし氏と、ニュウ大谷の「カプリ」で打ち合わせ。Gの進行報告と、新しい企画の話。小林 幸子、都 はるみとのユニットでLPを作り、着信システムでの販売と、ローソンでの限定販売をやろうか?途中で、日高君が参席、これも来年に持ち越した。外堀通りの虎ノ門の信号のてまえに車をとめて、日高君と2時間も話をした。業界の話、裏の絡み・・・。師走の静けさが、街じゅうに"居直り"、時々パトカーの音が近くで聞こえる。不況で、犯罪、自殺、結局経済の破綻は庶民に負担を強いるのだろう。<
1999.12.28
本当に雨が降らない。体内乾燥注意報。
本当に雨が降らない。体内乾燥注意報。
つらい。やはり、夕べの日本酒が頭を重くしている。憧れとしては酒で酩酊し、文学的に沈思している姿は良いのだが、僕の体やライフスタイルとは本質的に違う。たぶん青年時代の文学ミーハーの残党が伊集院氏のエッセイで、蘇ってたに違いない。すこし生活を立て直そう。
1999.12.27
朝から軽快。冷たい冷気が青空を透かしている。
朝から軽快。冷たい冷気が青空を透かしている。
神蔵君は、まだ沖縄に滞在中。街は、年の瀬の仕事納めで大渋滞。夕方、「菊川」のうなぎ。その後、向井さんと中田君を連れて忘年会。赤坂の神社の境内にある「うさぎ」から鮨辰へ。"竹"という僕が命名した冷酒を八号、久しぶりの酔い。
その後今年初めての「キャロンドール」。ママもマスターも元気だ。マスターの気が完全にグレーになっていた。この商売はストレスが貯まるのかなぁ。それとも体質なのか?明日は、まず確実に二日酔いだろう。日本酒はとにかく体を重たくする。午前3時。ガG駐車場、といっても玄関口で仮眠。外気が冷たいので、クライスラーのヒーターをつけて、喉がからから。
1999.12.26
ブセナの入り江の朝。よく寝た。今年一番深く寝た。深呼吸をすると、海の香りが部屋中に入り込んでくる。晴れ。
ブセナの入り江の朝。よく寝た。今年一番深く寝た。深呼吸をすると、海の香りが部屋中に入り込んでくる。晴れ。
高級リゾートなので、60?位の部屋に6畳位のバス・ルームがついて一泊5万円也。クラブメンバーのフロア-なのでサービスは行き届いているが、それにしても高い。夕べは、今年隋分銀座で奢って貰ったので鉄板焼きをご馳走した。
朝の、レストランはどこも満員でやむなくクラブのラウンジで簡単なコンチネンタルを取った。出発の際、入り口にたくさんのマスコミ。サミットの下見をするために稲峰知事がホテルを訪れているところに丁度我々が出くはした。ドキッ。空港まで2時間位の所要時間を計算すると、10時にホテルを発たなくては。思ったより、早く新装の那覇空港に到着。飛行機の中の昼食が期待できないので4階のレストランでハンバーグ定食をたいらげた。この空港はなんだか馬鹿にひろい。窓の向こうに、青い海と白いリーフが静に波を立てている。ゴルフ・バッグをホテルに預けてきたのに、もうしばらくこの島に帰ってくる気がしない。鹿児島の母親のところにお見舞いに行ってあげなければ・・・。
いつもより強く感じた。
1999.12.25
海岸の制作室から今上がったばかりの朝日が眩しい。
海岸の制作室から今上がったばかりの朝日が眩しい。
神蔵君と沖縄に癒しの旅に行くことになった。今年の8月もそんな話があったが、予定していた彼の相棒が行けなくなって今回に流れたのだ。海岸の制作室から朝日が差し込んでいる。雲が早く、頭の上を通り過ぎていく。飛行機が揺れなければいいが。8時過ぎの早朝便は、年末の休暇を南国で過ごす人たちで随分混んでいる。満席のスーパー・シートでゆっくり寝込んでしまった。沖縄に出向くと、いつも故郷の鹿児島の空の上をとばしてしまう身勝手に、やや胸が痛い。まして母親の具合が、良くないし父も看病に疲れてストレスがたまっているのに・・・。
沖縄は、やはり暖かい。5度から10度くらい違うかな?近距離と、遠距離のタクシー乗り場でいつも迷うのだがリンケン・スタジオのある読谷(ヨミタン)は遠距離にあたるらしい。小型車は事故に遭ったときに悲惨なので大型車を選びたかったが又もや希望が叶わない。時間があるので、国際通りに立ち寄って、地理の確認をしてみたくなった。
三越前にタクシーを待たせ、牧志の公営市場を覗いてみた。年の瀬で活気がある。ハリセンボン、うつぼ、青ぐだい、名物のグルクン。一階の魚市場で魚を買い、二階の食堂で料理をしてもらえる。まるでシンガ・ポールのニュートン・サーカスと同じシステムだ。イセエビの大きなやつを味噌ラーメンに入れて食べている人がいた。
リンケン君は、事業家としても優れているのか仕事が速い。良くこんな合間に作曲ができるなぁ。昔、ただのコンクリートの空間だった一階のスペースにハワイアン・レストランが誕生していた。しかもにぎわっている。昼食を取りながら1便遅れの神蔵君たちと合流。ブセナ・テラス・リゾートへ向かう。沖縄はたてにひょろりと長い島なのでうっかりすると、東京から静岡くらいの距離を走ってしまう。来年の6月のサミットの会場にも指定されたホテルだけあってちょっとした御伽噺の入り江にあるホテル。僕にとっても3回目だ。
到着したのが夕方の5時過ぎ、入り江の向こうのリーフの空が夕焼けでオレンジ色に敷き詰められている。ゴルフ・バッグをえいこら担いで来たこともあって、名護ゴルフ・カントリーという4000ヤード位のショート・コースでナイター・プレイをする事になった。昼の温度と、夜の風の関係で僕は半袖で心地よかったが他の3人が寒い寒いを連発するので、途中で中止。ホテルの鉄板焼きを食べ、ほろ酔い加減で敷地内のカラオケへ。今年最後の「旅姿6人衆」を唄った。1999年はいったい何回この歌を唄ったかなぁ・・・・・・・・。
1999.12.24
バリッとダンヒルのスーツ。晴れ、VIPシリーズ。
バリッとダンヒルのスーツ。晴れ、VIPシリーズ。
I・R・Iの藤原氏を中内会長にセット。8時40分に神谷町集合。西澤氏、中田氏、クリス氏と大人数で芝のダイエー本社へ。藤原氏のインターネット総研が、マザーズ市場に上場した勢いを借りて、"時の人"という話題性に乗って中内会長に面談。会長も、比較的機嫌がよく、また昨日のデータに目を通していたのかVIP扱いでわれわれと接してくれた。藤原氏の学者的カリスマ性と、僕の細かい人間洞察力が上手く噛み合えば今後この企画は上手くいくかも知れない。記念写真を何故か取って、芝浦のローソンへ。
時間が詰まっているはずの、藤原社長も無理して同行。多分勝負の予感がしているのだろう。予定より25分も早く着いたが、広報室の鈴木室長の手配で藤原社長と、藤原社長の(わかりにくいなぁ)名刺交換。なんとCEOと、松岡専務理事が電話でフォローしてくれている。虎ノ門パストラルで簡単な朝食兼時間調整。今度は実行部隊との昼食。常務会長室長の宮島氏と、ダイエー情報サービスの佐野専務との昼食。「鮨貴(3433)2418」という宣弘社の裏の道。この辺りにこんな美味い寿司屋があったとは。話はとんとん拍子で、来年の一月は勝負になりそう。今度は、1時の約束でK−1の石井館長が来社。Gは、神蔵君の奥様、お嬢様に、秋山氏と大賑わい。石井館長曰く、「仕事には、陰と陽がある。どんな成功者もそれを上手く使いこなしてきた」これは凄い名言だ。
2時からリクルートで高木専務に近況報告。
高木専務元気が無いな・・・?年明けに坂本 健さんの所にも行く予定。
須川君とタクシーでタカラ本社へ。佐藤社長にプレゼン。須川君の素早い、わかり易い説明で社長感激、思ったより成功しそう。大阪の山口君のブブ・チャチャのおもちゃ商品の開発と、リカチャンの携帯モバイル。須川プロジェクトとして別の売上で計上したい。
長い一日が、やっと終わろうとしている。小菅のタカラからタクシーで大混雑の神谷町へ。江戸川の橋を渡る途中、富士山がシルエットに見える。夕焼けの川岸の向こうに、出来たばかりの高層マンションが煙突のように伸びて、それが太い額縁になって橙の空を切り取っている。こんなところから、富士山が見える・・・、江戸時代に夕焼け空の河原道から遊びを終えた子供たちが釣り竿を背中の乗せて家に急ぐ姿がイメージできる。そう言えば、銀座の「G」のママだったAさんがあのマンションの辺りに住んでいた。「昨日、オウムの信者に国松長官が撃たれちゃったの、マスコミが凄くたくさん来て大変よ」
あれはいつ頃のことだったろう。クリスマス・イブでタクシーはますます動かない。こんなときに限って、"水漏れ"なんかがおきてしまう。
一日の疲れを取ったサウナの後、芝の駐車場の上にクリスマス・バージョンの東京タワー。青、緑、黄色の順番にライトがつけられ、雰囲気をかもし出している。寒い。この駐車場で、缶の緑茶を飲みながらクライスラーの中から何回東京タワーを眺めただろうか・・・?右脳はこの場所が一番休みを取れる。
1999.12.23
天皇誕生日。晴れの日が続く
天皇誕生日。晴れの日が続く
1999.12.22
海岸の制作室から東京湾が美しい。冬の青が澄んでいる。
海岸の制作室から東京湾が美しい。冬の青が澄んでいる。
五反田の職安は、おそらく前代未聞の人で一杯。小渕内閣の国債の乱発で日本丸は沈没寸前。失業者と、失業者のふりをした手当て稼ぎの列が、流行のインフルエンザを巻き散らしている。お茶ノ水でJCBの重森君とクラフトマックスの江頭君と回転寿司。
1月のコンサートの仕入れについて確認。御茶ノ水の人並みは、同じ不況感でも"色合い"が違う。学生の街だけに深刻な気がする。今日もまた懐かしい友人が二人Gに来社。PandS横井さんと、加えは葉巻のキョウドウ東京の三瓶さんだ。その間羅漢寺の日高君がずうっと席でユーミンのチケットの営業。
今宵もまた忘年会2発。M君のセットした日経ストラテジーの上里編集長。
フォトロンの長瀬社長、と何年ぶりかで「西の木」。この2人は VIPだ。話の内容もインターネットの話題が中心。その後、神蔵君、ステファン、パトリックと銀座の「みどり」で合流、クラブ「E」へ向かう。
1999.12.21
結局の所、日曜日に睡眠取らないと、週の始めは辛い
結局の所、日曜日に睡眠取らないと、週の始めは辛い。
この寒いのに、品田先生が芝でゴルフのレッスン。今日も"友、遠方より来たり"で、電通の石川さんがG来社。考えてみれば、石川君とも10年来の付き合い。リ クルートを退職してからも良くしてくれるので本当に感謝している。
ドリ・カムのチケットを入手。Gのスタッフと、中華(天下一の出前は×)を囲む。タクシーでイマジニアへ、役員会と全体会議。今晩もハードな夜。イマジニアとIandE研究所、Gの3社合同の連絡会議及び忘年会。嬉しい事に今晩は、金子 豊君、橘 繁昌君、重森君と新しい仲間が顔を揃えてくれる。それにキョウドウ大阪の関岡君も偶然に東京にいる。さすがに橘君がリードすると雰囲気が、リズムが、テンポが良くなる。なによりその明るさは誰にもまして輝くのだ。貴重な奴メ。香港から、ステファンとパトリックも参席。「シラノ」で2次会。その後、明日上場予定のI・R・Iの藤原社長と西澤氏の待つ神谷町へ。そして「まり花」で午前3時。僕にとっても、とても印象的な夜になりそうだ。特に、藤原さんは明日に朝にシンデレラ・ボーイに変身。吉祥寺の公団住宅から引っ越しをして・・・。隣で、ゆっくり笑う西澤さんの"ゆとり"が何故か不思議な満足感と緊張感を感じさせる。そうだ笹岡さんが「E」で待っているんだ。
1999.12.20
この文章を木曜日に書いている位、多忙。
この文章を木曜日に書いている位、多忙。
実は、朝から楽しみにしていたJandCの忘年会。六本木は、大賑わい。金山代表以下タレントさんとカラオケ。プロダクションは何処もそうであろうが、光る人材はほんの一握り。その人材で、どう全体をPRするかだ。金山代表と、長沢 純さんの和眼へ。アントニオ猪木氏、ステファニー化粧品の一家社長と団欒。疲れて、酒が美味くない。さらに、急に外が冷え込んできた。
1999.12.19
睡眠不足、こんな日は、ゆっくり寝なきゃ。
睡眠不足、こんな日は、ゆっくり寝なきゃ。
クライスラーの中で時間があり、伊集院 静の「金曜日の女神」を読んでいる。なんで昼寝出来ないのか?頭が軽い興奮状態で、だらだら眠れない。Gのせいか、年の瀬か?本日、スピードの解散コンサート、東京ドームは大騒ぎ。◎鹿児島へ。
1999.12.18
又もや、目が充血。眠い。晴れた、そして寒い。
又もや、目が充血。眠い。晴れた、そして寒い。
香港の山下社長の紹介で鹿島建設の小野さんが来社。個性的、男性的、のびのびタイプ。驚く無かれ鹿児島の港を開発するプロジェクト。午後ライジングで年始のダ・パンプの販促コンサートのお誘い。そのころ豊田君と、品田氏はTBSのラジオの打ち合わせ。夕刻、Gにて西澤さんと会議。
風邪の具合が、徐々によくなっている。深夜GでLDの試写会。
1999.12.16
今日も晴れ。睡眠時間3時間。やれやれ。
今日も晴れ。睡眠時間3時間。やれやれ。
朝から、ミーティングの連続。FOREIGN TVのCEOと、ポニー・キャニオンの稲葉社長のセット。先方の大会議室で大掛かりな感じ。いずれにせよ我が顔は何となく評価が上がったようだ。その後、シニア・ゴルフの横井 ジョージ氏の紹介でタカラの佐藤会長と東京プリンスで初顔合せ。とにかく、はなしので早い人で、さすが創業者。リカチャン人形のタレント版、携帯電話、など来週企画を立てる話になった。自身と、社長の長男を次男に人事したことを、随分気にしている様子。
午後、ホテルニュー・大谷に戻り、F/TVのコンテンツ関連業者のプレゼン。
オメガ・グループの()氏、山口氏にあった。何か、弱弱しい、若すぎる経営陣、インフラの未整備なこの国で、ストリーミング(動画)が流せるインフラがいつ出来るのか?
恒例の、マリノス。大切な会話の時間。普段は車の中でゆっくりと読書や、仮眠をとる待ち時間なのに。海岸で風呂を浴び、神蔵君の京都日帰り出張のあとくらぶ「E」。AM3時。参った睡眠不足。
1999.12.15
本当に晴れた日が続く。風邪治りかけ。
本当に晴れた日が続く。風邪治りかけ。
朝から気合を入れる。中内会長とのGの"仲間入れ"会議。30分待たされて現れた会長、やや機嫌悪そう。技術面のスタッフの充実や、コンテンツ(仕入れ)、の話、そして難所の流通、納品。宅配のトラブルを指摘された。ローソンの藤原社長に会ってくれとの指示。今年、たくさんの先輩たちが旅立った。金平会長、ネクサスの影山さん。1999年は、僕にとって、一番の変化の一年だった。そう言えば、僕自身も仕事を変えた。
馬場さん(JTB)のご紹介の、鈴木君来社。長身の美少年。水球の全日本代表選手だそうだ。好青年、体育系の素直な31歳。採用したいのだが、Gの中でどう活躍してもらうかイメージ出来ない。江頭君と芝のレストランで「一番」の打ち合わせ。その後、I・R・Iの藤原社長と打ち合わせ。この人は本当に人物だ。スケールの大きさ、学歴、風貌、技術者として能力、それぞれが各々にバランスを取りながら独立している。タクシーで赤坂東急に移動。神蔵君から午後のKT社との合弁会社の打ち合わせ。ダイエー・グループに近いせいで、このテーマの会議に出ていない。その後、「ユウクン」で再び、I・R・Iの藤原社長、大和田氏、西澤氏、神蔵君と夕食。いよいよマザーズ市場上場まで、秒読み。羨ましいことに、ニコニコしてていいなぁ。「うさぎ」で、プライス・ウォーター・ハウスの前田氏と打ち合わせ。手品を3つほど仕入れた。
再び、クラブEで神蔵君と松下政経塾の友人、国会議員と久しぶりに馬鹿騒ぎ。
また風邪がぶり返してきたかな。品田氏と打ち合わせ。朝まで。
1999.12.14
空気が乾いている。風邪が激しく体を駆けている。晴れ。
空気が乾いている。風邪が激しく体を駆けている。晴れ。
友人の藤原和博君と、ローソンの松岡会長と顔合わせの昼食。風邪はひどいが食欲がある。「こうぷり」で4人前食べた。新しい本を出版したばかりで、すっきりした顔をしている。こうして、新しい人と人を繋ぐのは神経が疲れる。
藤原は、完全に教育問題をテーマにしている。これほど、的を絞れればいいな。品田先生の会社の件で「オークラの山里」の別室で会議。M君に代表を勤めてもらおうと、定款関係の印鑑・・・・。
風邪の具合いは、まるで停滞した台風のよう。海岸でスーツに着替え、と言っても顔のやつれは隠せない。特に、"目"の周りが熊模様。会場に、着くと如何にも技術のアクセス、紺色のスーツに、髪などかまっちゃいられないといった集団がごっそり。荒川社長や、山上さんの顔を発見。西澤、神蔵両名とパーティ会場をぐるぐる。何か、僕の風邪の菌が会場に広がっていきそうで、体内でも急速に増殖中。インサイダーの()さんと、世間話。会場を後にして、全日空ホテルへ。越智先生の相談で、掲載拒否を受けた会社の依頼。面倒な仕事。風邪は良好になってきた。
1999.12.13
空気が乾いている。昨夜の暖房で喉も乾燥、鼻水がたらり。
空気が乾いている。昨夜の暖房で喉も乾燥、鼻水がたらり。
衛星放送で6時起き。M社の11月の経理処理。橘君の高校時代の同級生の小倉先生が海岸の制作室に来社。
「消費税の5%部分が、大損になるねぇ」。萩原健一(ショーケン)のLDを見ていた。午後2時より、麻布のK.M.君と会議。生ごみの処理の機械をどう売るか? K.M.君、この手の世界ではきっと出世し、将来は部下が万単位になるような貫禄。僕と同世代という事もあり気が合うのだ。どこかで、役に立ってはいけないのだが。
風邪が、だんだんひどくなっている。いつものことだが咳を主人公にした鼻風邪。夜、サウナでビールスを吹き飛ばそうと思ったが、小園君に止められ久しぶりに早く布団にはいった。伊集院 静氏のエッセイを読んでいる。同じ銀座組だし、同じ感性、それに友人の性格も・・、人への眼差しも。
1999.12.12
よく晴れた東京湾を、眺めながら制作室のベランダで深呼吸を1つ。
よく晴れた東京湾を、眺めながら制作室のベランダで深呼吸を1つ。
衛星放送@キムラヤ、、衛星放送A白金ブックセンター
神蔵氏、西澤氏と採用のためセンチュリー・ハイアットの「シラノ」。
その後、深川氏にガマGジネス・モデルの確認。収益構造、オペレーション、経営コア、の3点をもう一度確認する必要あり。今夜は、よく冷える。深夜、品田氏と赤坂で会議。時間の都合もあり、また深夜にやってる喫茶店も無い。車の中で、小一時間ミーティング。寒い寒い、冬の夜がやって来た。
1999.12.10
朝から散歩。Gの辺りは、たくさんの種類の椿が開花を待っている。
朝から散歩。Gの辺りは、たくさんの種類の椿が開花を待っている。その中で、石楠花の葉が美しい。暖かい冬の朝。
Kさんが、天国にいかれてずいぶんたった気がする。ご長男のと、全日空で、昼食。不思議だなぁ、「目」がとても似ている。Kさんも若い頃はこんな感じだったんだろう。肩の辺りの肉ずきや、小柄だが威厳が出てきそうな歩き方はまるでKさんが生き返ったみたいだ。
1999.12.10
東京タワーの空は紫、星がきれい、芝の駐車場
東京タワーの空は紫、星がきれい、芝の駐車場
勝負の第一ラウンドの鐘が鳴った。僕は演劇的に表現し、いかに相手を驚かせ、感動させるか、準備段階の資料や組織のまとまりも含めて、プレゼン全体が戦いでもあり、勝利へのドラマだとおもっている。
これは多分リクルートの宣伝部の時代、数多くの"売り込み"を電通、博報堂から、プレゼンされたからだ。今日のプレゼンの前の打ち合わせは、そういう意味でやや事前の刷りあわせが足りない。役者は揃ったものの、シナリオ、ストーリーに吟味が足りない。そんな不安があったが、いざ始まってみるといやいやこの軍団の人材は中々の適応性、柔軟性があり、加えて先方がテクノロジーがさっぱしと来ていて上出来であった。
僕がイヴェント業界の中身を多少知っていることもあり、その後の別会社やもろもろの件は神蔵君の任せることにしてGに帰社した。新宿のパーク・ハイアットに戻り、スクウェアのN氏(現在、採用中のため内緒)と西澤氏、神蔵君で念の入った将来をかたった。とにかく、とんでもない時代の中でI・Tというビジネスを初め、ひょっとすると僕の人生の"サビ"のメロディーを作曲し始めているのかも知れない。久しぶりの西澤節に、僕の未来も面白くなっている。
AtoZからM君のお誘い、着いてみると大福さまのように安らかな笑顔で寝ていた。合わせた両手がふっくらとしていかにも金運が良さそう。そういう僕も指は中太だ。何件か回って疲れているのか、起こさないように横でそっと由美子ママと世間話。そうこうしているうちに、ロートレックのYちゃんが登場、これで僕の役割は本日終了。長い一日が毎日訪れている。
1999.12.08
ここ一番の寒さ、今夜も星がきれい。
ここ一番の寒さ、今夜も星がきれい。
アクセスの山上俊彦氏にお手伝いを頂きKT社のプレゼンの会議のための、
勉強会。理解度60%。
朝から神蔵君とサウナ会議。自宅まで迎えに行って、裏道をとおりパークハイアットのスパ。ここの髭剃りはよく切れる。芝ゴルフの髭剃りは皮膚がよく切れる。富士山が高層ビルから美しい。昔は、東京の何処からでも見えたんだろうなぁ。さだ まさし氏がいつか河口湖のゴルフ場で真直の富士山に手を合わせているのを思い出した。
「うさぎ」が満員で入り口の所で、テーブルをセットしてもらい、例の手品を披露されていると、なんとランダムの神谷さんと、橋本君が現れた。挨拶をしようと思ったが、久しぶりだし、場所も場所なので遠慮した。
1999.12.08
夜星見えず、半袖でも元気。 昼晴れ
夜星見えず、半袖でも元気。 昼晴れ
今日は、ガマに来客が多い。クラフトマックスの江頭君、ボクシングのマック金平氏、シナリオ・ライターの豊田君、山崎さん、JTBの原田君 珍しく机にいる時間が多かった。ガマのサイトのオープンまで、あまり
仕入れ業者にも積極的に会えないし、KT社との契約を終えるまで仕入れ関係の連中にも情報が出せない。品田君から札幌よりTEL。日本もせまい。
Gのある、神谷町。昼飯の店が少ない。駐車場がない。声をあげて、挨拶をする人が少ない。しかし、町並みがトレンディー。マックが近い。銀杏の葉っぱが木の枝にへばり付いている。暖冬のせいか、コートを着ている女性があまりいない。そういえば、銀座の、酔客が道で立ち話をしていても平気だ。
神蔵君が、嵐田さんと新宿で新会社の調整中。僕の友人と、僕のビジネス・パートナーが僕抜きで"僕の未来にも、関わる話"をしている。昨年の今頃は、予想しなかった事。やはりインターネットが僕の生活に影響を与えている。
1999.12.07
晴れ、ゴルフには絶好の青空、でも会議と交渉の一日
晴れ、ゴルフには絶好の青空、でも会議と交渉の一日
昨晩、笹岡薬品の笹岡社長と深夜まで、多分3時過ぎまで、"少年時代"をやっていた。黒のスーツに赤いタイと、いわゆる関西風のお洒落をきめ、クラブEでの決意を感じさる。ちょっと、今後の展開が楽しいなぁ と、いうことで、再び今夜もエルザだが、朝から体調悪し。昨日の疲れで、体がかなりきつい。ワインのせいか、睡眠不足のせいか、それともガマのせいか、「今晩一晩、やってけるかなぁ。」瀬名氏の件もあるので、芝サウナで1時間の休息のち、ポニー・でF・TVのプレ。稲葉社長もメモしながら勉強の姿勢。朝、ポケモンをローソンの松岡会長から頂いたので、翔に渡し、銀座へ。朝の状態より、不思議と体調がいい。アルコールを消化したのか、VIPをたくさん招待したからか、それともネオンの吸引力か、体が持ちなおしちゃってる。
Eは、いわゆる今をときめく友人、知人、VIPが勢ぞろい。伊藤 元重(東大経済学者、経済再生会議)、自称パンツ屋とおっしゃってるアングルの河野社長、大蔵省・香川氏、通産・樋口氏、中谷 章弘君(文章家)、西川 劉仁(トレンド分析)、ブルー・ノートの伊藤社長(ライカ)、NHKの大島さん、全日空の小川氏、秋山 眞人氏(占い)、M&Aコンサル」村上氏、M君(S社)、それに、神蔵君、西澤さん。お店の売上げは、おおいに貢献できたんじゃないでしょうか。年末がきたなぁ、と初めて感じた夜でした。
1999.12.06
だんだん冬の寒さが気になるが、暖かい晴れ。14度
だんだん冬の寒さが気になるが、暖かい晴れ。14度
小園君が来京。ガマで働きたいとの希望。サウナの中で、例の痩身に懐かしさをおぼえる。何とかしたいのだが、金子君次第で、空席待ち。E-FITの会社のポストもあるかなぁ。
ポニー・キャニオンの稲葉社長を尋ね、FOREIGN-TVのプレゼン。僕の知恵不足と、直感の内部分裂。
PM8時からアクセスの荒川社長、山上氏と打ち合わせ。IP(インターネット・プロバイダー)は、携帯が入り口になり有利。という話。この二人の、ヘヤー・スタイルが何とも技術者風で珍しかった。考えてみれば、もっと早くこの手の技術者達と話をしていればよかった。つまり人脈が、結局文化系によりすぎていたのか?人間の"仲間サークル"は意外と嗜好性によって決まってしまい、情報も偏ってしまっているのではないか?しかし、彼らも、僕のソフトを欲しがっている。技術と、文化の交差路、まるで、東シナ海の貿易商が塩と銃を交換しているみたいだ。
1999.12.05
晴天。夕方から雨の予報なのに、降らず。夜ポツリ。
晴天。夕方から雨の予報なのに、降らず。夜ポツリ。
大阪から、舞台芸能の品田 昭夫氏が帰京。東京駅にお迎えに。皮のコートのポケットがやたら複雑な構造になっているため、手で持っていたのが大失敗。
何故か帰り道で、携帯電話を無くしたことに気がついた。・・「悪いことに、丁寧にも携帯の中には、N会長を初め、E会長、など財界を代表する諸先輩の番号やらタレントさんの情報がずらりとメモされている。」
慌てて、NTTの落し物係に電話。のほほんとした初老の声の担当者が
「むずかしいかもしれませんねぇ。」
「とにかく、メモリーだけでも消してもらえませんか」
「いやぁ、むずかしいかもしれませんねぇ」
しばらく混乱しているところで、NTTから吉報。携帯をもう一本も持っていて良かった。というのは、拾い主が現在"落とし主"を探しあぐねて困惑されているとの事。自分用の携帯からすかさずお詫びの電話を入れると、本当に困った声で、
「どこにいきましょうか・・?」
「何処でも、参りますので」平身低頭、汗だくの"声"だ。
拾い主は二人連れで、理科系の大学生風、横に添っている女性が本当に可憐な美人であった(話の流れとは違うが)。5千円札を咄嗟に男性の紙袋に入れ、もう一度頭を下げた。
「助かりました。」
日本にはまだ心ある人が、残っていると久しぶりに驚いた夜でした。
加えて、ちょっと、時間が詰まりすぎてるのかなぁ。
1999.12.04
やはり晴天。17度、暖冬のいい天気。
やはり晴天。17度、暖冬のいい天気。
ローソン会長、松岡 康夫氏のご長男の結婚式。気が重い。本当はゆっくり散歩でもして本屋で時間を潰したかった。ところが、式場のニュウー・大谷に30分前に着いて席順を確認して見ると隣席がローソンの藤原 謙次社長。コンサルの山口先生が向かい。とても途中でFADE/OUTは難しい、場合によってはGの今後の件もあり、神様がくれたチャンスかも知れないと気合を入れた。式は3時間30分にも及び、さすが新郎が博報堂に勤務しているだけあって若者の招待客向けのイベントもあり、主賓の中・高年用の工夫にと"人生の先輩"も自然に奉りながら、終わってみると楽しかった。
中でも、二人が老人になったつもりで、メイキャップまでして作り上げたVTRが何となく笑えて、しかも目尻に涙が溜まった。右手の博報堂、宮川常務はなんとテーブル・クロスで頬を拭いている。礼服が見当たらないので、バレンチノの黒スーツにシルバーの蝶タイで誤魔化してしまった。松岡会長が小さく見えさすがに貫禄が震えて肩を揺らしていました。
2017.09.30
美楽百念選集『羅針盤のない島(2)』を発刊しました
美楽百念選集『羅針盤のない島(2)』を発刊しました。