DIARY:夕焼け少年漂流記

 

2003.03.03

3月3日(月)藤原和博君と久々にお茶を飲んだ。リクルートに入社してから約30年、何時でも彼は僕の心の何処かに存在してくれている。

 ある時にはやさしく励まし、あるときは激しく非難し、早合点の僕の思いを遠まわしに修正し、・・・・・・彼と会えたことが、僕の小さな人生の収穫の一つでもある。(本人がこのHPを読んだら一笑するだろうが)。と言うと何か彼が遠くに行ってしまった様でもあるが、今でも毎朝のように電話で話したり、時にはメールでやり取りをしている。
しかしお互い退職をしてからは、顔を合わせて話をする機会は意外と年1,2回の“祭り”のような行事になってしまっている。昔は会社の近所であっという間のランチをしたり、朝が来るまで銀座の飲み屋で歌い話し合い、コンサートに出かけ、映画を見たりと兄弟のようにたくさんの時間を共有していた。


 嘘のような本当の話だが、歴史の変わり目にも必ず藤原君が横にいた。ベルリンの壁が壊れた直後に壁の一片を拾いに出かけた。エジプトのサハラの砂漠で凧と駱駝の交換が可能かどうか物々交換の実験に行ったのも彼からの誘いだった。神戸が地震に見舞われた翌日、僕たちは古着を持って関西新空港から埃のためにまだ薄茶色の空に曇る神戸港に向かう船に乗っていた。ワイン・ブームを生んだボルドーで「世界ワイン博覧会」という万博のような催し物にも藤原君の招待で出かけた。


 TBSラジオの番組で僕のことを取り上げてくれるというので、ウキウキした気分で彼を待っていた。いつものように僕たちは軽い冗談を交えながら世間話に花を咲かせた。
ふと、彼の右手を見ると40年前のセイコー・オートマチック(腕時計)をはめていた。(素敵だなぁ、本当のアンティックって)。


 大量消費社会の仕組みの中で、個人の才能が埋没していくことを一番嘆き、今ある経済の仕組みや其処から生まれた流行に溺れずに、“個性を復活すること”こそ人生の幸福であり、そのための幾つかの“処世訓”を主張する藤原君の言行一致は、今でも僕にとって鏡になっている。


 藤原君を送った帰り道、世田谷区のある裏道で車を止めて深呼吸をしていると、窓の外に僕の好きな沈丁花の匂いがした。春が近づくと、いつもこの香りに引かれる。沈丁花は一見花びらのように見える部分が、たくさんの額が膨らんで開いているのだそうだ。
藤原君の頭脳の構成も、一見主張に思える“感性の額”が集合して同時多発的に開花し、あちこちで美しい香りを発散している。